礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

土岐善麿の国語表音化論に対する太田青丘の批判

2013-01-26 07:46:58 | 日記

◎土岐善麿の国語表音化論に対する太田青丘の批判


 今月二二・二三日に、土岐善麿の国語表音化についての文章を紹介した。この文章は、読売新聞一九五九年一一月二四日の読売新聞に掲載されたものだが、その後、一二月一日の同紙夕刊に、太田青丘〈オオタ・セイキュウ〉法政大学教授の「国語表音化への疑問―土岐善麿氏の所論を読んで―」という文章が掲載された。
 本日はその文章の前半部分を紹介しよう。

 国語表音化への疑問―土岐善麿氏の所論を読んで―
  太田青丘
 本紙文化欄にのった土岐善麿氏の「国語表音化の必然性」と題する所論は「国語審議会の会長という立場をはなれて、ぼく自身の見解」として述べられたものであると断ってあるが、やはり影響するところが大きいので、筆者の所見を述べて世の批判を仰ぎたい。
 土岐氏は明治維新前後よりの国語表記の歴史上の注目すべき論文の名を幾つかあげた後「日本における国語表記は、漢字、かな、ローマ字の利害得失が、すでにつぶさに比較され、考究されたことが知られよう」と言って、あたかも国語問題はこれで解決ずみだといわんばかりの印象を与えようとしている。しかし国語問題は、決して土岐氏があげたいくつかの「かな採用論」「漢字制限論」「ローマ字採用論」で解決したものではなく、明治においても、三宅雪嶺の「漢字利導法」(明治二十八年八月、太陽)以下、重野安繹〈シゲノ・ヤスツグ〉の「常用漢字文」、井上円了の「漢字不可廃論」「国語改良論の三大誤」、杉浦重剛〈スギウラ・ジュウゴウ〉の「国字問題に関する意見」、市村瓉次郎の「日本国民と漢字」等の異論があって、そのなかには傾聴に価するものも少くない。その後も幾多の論議がくり返され、ことに大正年間、臨時国語調査会会長であった森鴎外が急進的国語改革論に対して大きなブレーキの役割を果したことは、あまねく人の知るところである。
 そればかりではない。現在の国語審議会の国語表音化への志向に密接につながっている明治三十五年七月の国語調査委員会公示の第一条「文字ハ音韻文字ヲ採用スルコトトシ仮名羅馬字等ノ得失ヲ調査スルコト」そのものについても、この表音化の大前提からして、もっと慎重に検討調査さるべきであるとの強い主張がある。やや遠くは、当時その委員会の一員であり、その後国語言語学界に幾多の業績を残された新村出〈シンムラ・イズル〉博士(国語問題正義、昭和十六年)近くは東大国語科の主任教授である時枝誠記〈トキエダ・モトキ〉博士(国語問題と国語教育、昭和二十四年)等はその代表者であろう。
 さて本題にはいるが、筆者はわが国の現状から見て、性急な国語表音化はあくまで避くべきこと、表意文字たる漢字には、わが国の歴史伝統(これも重大であるが、今はふれない)のことを外にしても、表音文字には見られぬ大きな利点があるので、当分かな漢字を併用すべきはもちろんであって、国語表音化という大前提も、根本から改めて検討されるべきであるという、きわめて平凡な主張を改めて提起したい。【以下は明日】


 以上が前半である。「国語問題は、決して土岐氏があげたいくつかの『かな採用論』『漢字制限論』『ローマ字採用論』で解決したものではなく」という指摘はよくわかるのだが、だとすると、国語調査委員会公示の第一条の「文字ハ音韻文字ヲ採用スルコトトシ仮名羅馬〈ローマ〉字等ノ得失ヲ調査スルコト」という方針は、どういう位置づけになるのだろうか。むしろこの資料は、国語表音化論に立つ土岐善麿が、援用すべき資料だったのではないだろうか。

今日のクイズ 2013・1・25

◎コラムで引用した文章に井上円了という学者の名前が出てきます。この人は、1887年(明治20)に「哲学館」という学校を作ったことで知られています。次の大学のうち、この哲学館の後身であるのは、どれでしょうか。

1 上智大学  2 専修大学  3 東洋大学

【昨日のクイズの正解】 2 東京府荏原郡品川町 ■1932年(昭和7)、東京府荏原郡の品川町、大井町、大崎町、荏原町が東京市に編入された。この際、品川町、大井町、大崎町の3町域が品川区となり、荏原町が荏原区となる。1943年(昭和18)、東京府は東京都となる。1947年(昭和22)、荏原区が品川区に編入され、今にいたっている。

今日の名言 2013・1・25

◎文字ハ音韻文字ヲ採用スルコトトシ仮名羅馬字等ノ得失ヲ調査スルコト

 1902年(明治35)の国語調査委員会公示の第1条にこうあるという。上記コラム参照。国語表音化への動きは、その是非は別として、少なくとも「戦後」に始まったものではないということはたしかなようだ。

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品川の侠客・芳賀利輔がおこなった炊き出しの顛末

2013-01-25 08:12:38 | 日記

◎品川の侠客・芳賀利輔がおこなった炊き出しの顛末

 昨日の続きである。芳賀利輔『暴力団』(飯高書房、一九五六)の後半にある「やくざの世界」(インタビュー)より。ここでは、震災の直後、義侠心から始めた「炊き出し」の顛末が語られる。

芳賀〔続き〕 九月の二日三日となりますと、米もなくなり金もなくなり、腹をへらして通る人や焼け出された女、子供、病人などを見ると、米を積んでいることは、野宿はして居ても良心が咎めて仕方がありません、決心致しました。大きな釜を借りて来まして焚出し〈タキダシ〉を始めたのが四日の日からと思います。まだ地震は止みません。十五俵の米は忽ちなくなりました。勿論無料配付ですが、中には金を置いて行く人もありますが、十円以下の金は頂きません。当時は十円以上の金は普通人には出せませんから。
 集まった金は必ず米を買って来て配付します。毎日のことですからとうとう米屋にも米がなくなりました。最後に米を品川の役場、(当時は未だ区政ではなく町政でした)へ米を買いにまいりました。当時の町長は漆昌巌〈ウルシ・ショウガン〉という人でしたが、売らずに漆昌巌個人として何俵か寄付をしてくれました。町長が個人として米を寄付をしたというので、品川の三業組合からも寄付をうけました。品川御殿山の金持連中からも寄付を受けました。益田孝、原邦造、日比谷平左衛門等多数の寄付が届きましたが、金ばかりで米が来なくなりました。毎日当〈アテ〉にして配給の時間が来ると、二三百人の人が行列して待って居ります。また米がなくなりました。まだ町会では配給をして居りません。役場でも配給しません。対策町会も開きません。ある時政府米が三千俵役場に届きました。たしか九月の十五日頃だと思います。聞きつけた私は早速役場へ米を買いにまいりました。
 その時の収入役が小池友吉という人で、町長は政友会の人ですが、小池さんは民政党系の人であったものですから、当時は政争の烈しい時代なもので事毎に〈コトゴトニ〉対立するのです。
 どうしても米を売ってくれません。理由は町会を開いてからでないと米を出せないというのです。然らば「いつ町会を開くか」と聞いたがその期日はわからんというのです。
「それではわれわれが、米の配給を止めるから町会で米の配給をせよ」と迫ったが、それもならぬとのことです。とうとう感情の衝突する段階に達してしまいました。
 米は山に積んであります。家へ帰れば沢山の人が待って居ります。
「エイッままよ」
と覚悟しました。
 若い者、子分の奴等に車を持って来させて、米を積ませました。小池収入役はこれを止めようとするのですが、私は小池氏を押えてはなさない。
 若いものはドンドン米を積んでしまいました。
 さて代金を計算して払いましたが、どうしても小池氏は受取りません。已むを得ず役場の吏員を立合わせて金を置いて、凱歌を上げて帰りました。
 私が小池氏を押えて居る時、小池氏が暴れるので二つ三つくらわしたことは事実あったようです。
 うちへ帰って、相変らず焚出しをして居りますと、東京府から査察員とかいう人が来て、非常にわれわれの行為を感謝し、いづれ東京府知事から感謝状が来るように致しますとのことでした。
 今日は働いてくれた人を労う為に、大いに祝盃を上げて休みました。
 その間いろいろと面白い話がありますが余り永くなりますから後日にまた何か書くときに御話するとして、それから二三日たちました。
ききて まるで義民伝みたいですね。
芳賀 夜、疲れたので、野宿ばかりではと考え北品川の芸妓屋町に(今の京浜北品川駅の付近)建かけ〈タテカケ〉の家で畳も入って居ない家を借りまして、畳と蒲団を持込まして、そこに寝ることにしました。まだ蚊帳〈カヤ〉を吊って居ました。相変らず、子分共と酒を呑んで寝たのが夜中の一時頃でした、そこで一同に寝て居たのは十二三人であったと思います。
 だれかおこすものがあります。私が一番先に眼を醒ましますと、警察官が五六名と、兵隊さんが憲兵の腕章をつけて三少隊くらい小銃に着剣で警戒して居ります。
「どうか警察へ同行して下さい」とのことです。
 已むを得ず仕度をしました。手錠はかけられませんが、沢山の兵隊につき添われて町中を徒歩で警察まで行きました。それは大正十二年九月十九日だと思って居ります。
ききて 随分ものものしいので、さすがに驚いたでしょうね。
芳賀 警察ではなんの取調べはありませんでしたが、品川の二日五日市〈フツカイツカイチ〉、広町(その当時は貧家が多かつた)辺の私の配給を受けた人達が五六百人警察へ事情を聞きに押かけました。その故か何の取調べもなく次の朝検事局へ送られ、すぐに市ケ谷の未決監に収容されました。罪名は強盗及び騒擾罪〈ソウジョウザイ〉です。
 その後全然取調べがありません。その年の暮れの二十九日に突然呼出されまして免訴になったから釈放するというのです。強盗、騒擾罪は無理ということは解って居りましたが、帰されるとは思いませんでした。ところが町民の有志が毎日五人十人と警察へ助命運動に来たり、事情を聞きに来るので多忙を極めたとのことでしたが、直接の原因は、町会の収入役小池友吉氏の告訴によって、私がやられたので、当時の品川署長が福原芳という人で非常に正義感の強い人でしたから今の警察官のような自分の手柄の為に、検挙するようなことはやらない人でしたね。それから品川三業組合長の浅井幸三郎という人は元自由党以来の人で非常に心配してくれまして小池氏を説伏せること三十回に及んだ為小池氏は根敗けしたと、後に小池氏から聞かされました。即ち小池氏の告訴取下げが直接釈放となったたのが原因です。それは暴行と強迫はたしか申告罪であったと思いますから。
ききて そうしますと、昔のそういう弱いものを助けるような、広くいうといわゆる侠客は先生のお若いころにはあったわけなんですね。
芳賀 あったんですよ。

 文中に、「三業組合」という言葉が出てくる。今ではあまり聞かない言葉だが、これは、三業、すなわち、料理屋、待合茶屋、芸者屋という三つの業者による同業組合のことである。

今日のクイズ 2013・1・25

◎上記のコラムに、品川は「当時は未だ区政ではなく町政でした」とあります。当時の「品川町」の位置づけについて、次の1~3から正しいものをひとつ選んでください。【正解は明日】

1 東京府東京市荏原町
2 東京府荏原郡品川町
3 東京都大井郡品川町

【昨日のクイズの正解】 1 関東大震災当時は、まだ「一円タクシー」は登場していなかった。■「一円タクシー」は、1924年に大阪ではじまり、1926年に東京にもあらわれた。その後、「円タク」は、タクシーの呼称となった。ここで芳賀は、「円タク」をタクシーの呼称として使っているのである(過去に遡ってしまってはいるが)。

今日の名言 2013・1・25

◎まるで義民伝みたいですね

 芳賀利輔の「炊き出し」の話を聞いた「ききて」の感想。『暴力団』(飯高書房、1956)の122ページに出てくる。上記コラム参照。

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品川の侠客が体験した関東大震災

2013-01-24 08:04:04 | 日記

◎品川の侠客が体験した関東大震災

 ここで話を戻し、「関東大震災」の体験談をもうひとつ紹介する。
 体験談を語るのは、芳賀利輔〈ハガ・トシスケ〉という「壮士系」の侠客である。出典は、芳賀利輔『暴力団』(飯高書房、一九五六)の後半にある「やくざの世界」(インタビュー)。 なお、ここで「壮士系」の侠客というのは、博徒系でも街商系でもない、政財界に関与する近代型のアウトローのことである。

ききて つまり昔はヤクザ者同志の喧嘩には寛大なんですね。
芳賀 それでいいんだと思います。もっとも場合にもよりますが、一つ東京府知事から感謝状を貰うことになり、警視庁から逮捕されたという前代未聞の実実をお話ししましょう。大正十二年九月一日東京の大震災の日には銀座に用事がありまして子分を三人つれまして丁度昼食時になりましたので数寄屋橋の今の日劇〔日本劇場〕の前、いまでもありますが、更科〈サラシナ〉のそばやの二階に居りました。
 なんだか蒸し暑い日でしたが急に揺れ出しました。大変な揺れかたです。その当時は今の更科と違い良く家庭にある吊るし電気でした。その電球が瀬戸の傘と共に天井にぶつかるのです。電球と傘が破れて頭上に落ちてきますので、手拭いでそばやの御膳を頭に縛りつけて呑んで居ました。余りひどいのでそばやの二階から外を見ますと既に電車が止まったきり動きません。並びの今の国際会館の前の幸楽という牛肉屋の二階だけがどうしたのか、電車の路線まで崩れて居ります。警視庁はその頃はいまの堀端〔馬場先門〕、帝劇のならびにありましたが一番さきに火が出て居ました。まだ揺れております。これは容易ならぬことだと考えました。座敷の上も無事には歩けません。人は右方左方に走って居ります。流石に〈サスガニ〉若い頃の呑気者も、こうしては居られません。階下に降りましたところが、客も、雇人も、御主人方も居りません。菰〈コモ〉かぶりの酒四斗樽〈シトダル〉が倒れて、栓がとれており、酒が流れて居ります。口をつけて呑もうかと冗談をいいながら勘定を払らうことができず外へ出ました。とにかく、家へ帰る自動車を拾おうと、若い者が円タクを何台も何台も止めるのですが、皆断わられます。箱根の雲助のように慾の深い円タク屋さんも、この日ばかりは金では動きません。漸く一台の車と話が成立して乗ることができました。この車は渋谷の方へ帰るのだそうですから麻布まで行きましょうとのことで約束をしました。麻布に私の母親が居りましたので、そこで母親を見舞い、心を残して品川の東海寺という寺の横丁で品川税務署の前の東広町〈ヒガシヒロマチ〉という所にありました。家に帰ってみて驚嘆しました。二階建の私の家は煎餅のように崩潰されて居ります。家族の者も一人も居りません。近所の人に聞いてもだれも知っては居りません。他人どころの騒ぎではないのでしょう。潰れた〈ツブレタ〉家を堀り出しました。中から二人の人間が出て来ました。一人は私の内妻で、一人は高山という男です。私達が帰らなければ、だれも堀り出してくれる者がなく死んで居たことでしょうね。
 みんなほうにくれてしまいました。金はなく、食物はなく、家がないのですから、最後に考えついたのが、家主を訪問することです。
 当時私の家は二階六畳、下六畳、四畳半、三畳の家で家賃はいくらだか忘れましたが、保証金を家主に金三百円預けて居りました。まだ越して来てから十日程しか経たなかったので当然保証金は家かなくなったので、返るものと解釈したのです。
ききて それは当然でしょうが、ちょっと難かしい問題ですね。
芳賀 ところが家主は至極話の解る人でしたものですから、それだけにかえって大きな問題を引起してしまったのです。
 米屋の主人の話では、「家が潰れたのは天災ですが、お困りでしようから、保証金は返したいが、ムラトリューム〔モラトリアム〕の為銀行が駄目です。故に私の家は米屋ですから米を計算して差上ましょう」というのです。
ききて 随分話の解った家主ですね。(笑)
芳賀 二十五六俵の米を貰ってきました。一応崩れた家の前へ米を積んでおきましたが、それが飛んだ間違いの種になったのです。【以下は明日】

 原文では、促音・拗音が、大きいままになっていたが、小さくした。これを除いては、漢字・送りがな・かなづかいは原文のままである。
 ここまでのところでは、語られる体験に、特にアウトローらしいところはないが、このあとは、アウトローらしい逸話が聞ける。

今日のクイズ 2013・1・24

◎突然ですが、クイズを出したいと思います。上のコラムで引用した文章の中に、「円タク」という言葉が出てきました。これは、「一円タクシー」の略で、すなわち、一円均一の料金で走るタクシーのことですが、関東大震災当時の「円タク」について、次の1~3から正しい文章をひとつ選んでください【正解は明日】。

1 関東大震災当時は、まだ「一円タクシー」は登場していなかった。
2 関東大震災当時、大阪ではすでに「一円タクシー」が登場していたが、東京ではまだ、「一円タクシー」はあらわれていなかった。
3 関東大震災当時、大阪でも東京でも、「一円タクシー」が活躍していた。

今日の名言 2013・1・24

◎金はなく、食物はなく、家がない

 芳賀利輔が関東大震災の直後の状況について述べた言葉。『暴力団』(飯高書房、1956)の119ページに出てくる。

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国語審議委員会会長・土岐善麿の国語表音化論(1959)

2013-01-23 08:04:51 | 日記

◎国語審議委員会会長・土岐善麿の国語表音化論(1959)

 昨日の続きである。土岐善麿が一九五九年一一月二四日の読売新聞に載せた「国語表音化の必然性」という文章の後半を紹介する。

 そもそも漢字かなによる国語表記が国語問題として考えられはじめたのは、戦後突然のことではない。試みに、その提説の代表的なものを挙げてみれば、遠く明治の維新前後にさかのぼる。その中で、前島密〈マエジマ・ヒソカ〉の「漢字御廃止之儀」(慶応二年、徳川慶喜へ上申)、国文教育の儀(明治二年、集議院へ建議)、「興国文廃漢字議」(同六年)は「かな採用論」であり、福沢諭吉の「文字の教」(明治六年十一月刊)は「かな採用論」に対する「漢字制限論」であり、さらに、南部義籌〈ナンブ・ヨシカズ〉の「文字を改換する議」(同年)、「脩国語論」(同八年)は、西周〈ニシ・アマネ〉の「洋字を以て国語を書するの議」(同七年)とともに、「ローマ字採用論」である。そのほかにも挙げるべき文献は少なくないし、先覚者の名も多いが、以上、三つの体系による論議だけについてみても、日本における国語表記は、漢字、かな、ローマ字の利害得失が、すでにつぶさに比較され、考究されたことが知られよう。そしてこれらの三つの系列は、その後の歴史を顧みても、現在までたどることができる。すなわち、それらは、われわれの国語問題そのもののうちに存在する三つの要因なのである。
 福沢諭吉が「時節を待つとてただ手を空しく待つべきにもあらざれば、今より次第に漢字を廃するの用意専一なるべし」と説いて、むずかしい漢字をさえ使わなければ、その数は二千か三千で足りるとしたのは、漢字からの解放を意図したものであった。前島密のかな論の中に、漢字を廃してすぐローマ字にすることは「たとえば万里の路を往く」ようなものであるが、これを国字(かな)に写してから口ーマ字に代えることは「あたかも隣に遷るがごとし」といってあるのは、いわゆる国語表記が表音的なものになる過程、段階を述べたものとみられる。それは「世界進歩、日一日と速か」であるから、一気にローマ字を用いるがいいという論があり「この論もとより然り」、しかし事には緩急があり、難易を伴うから「全国三千百万人の人員」(現在は約三倍)のうち、かなを知らないものは百分の一に過ぎない当時の実情において、まずかなを国字とするがいいというのである。しかもこれらは、いずれも今から八十余年も前の提説なのであった。そして明治三十三年七月、前島密は文部省国語調査委員会で発言し、持論の実現を準備時代、必要書書き換え時代、旧文参照時代、慣熟時代の四期にわけ、六歳から七十歳にいたる年齢の対応をくわしく表示したものを提出している。この文献も現在に残っており、今日からもまことに興味が深い。
 今回の新しい送りがなの整理から、国語表記のいわゆる表音化が導き出されるとすれば、それは国語問題そのものに、内的に、また外的に、存在するものであることを知らなければならない。正しい国語は本来ことばの表音的機能をもつはずであり、その表記が現代語音に即して表音的になることは国語問題の必然性であり、当然な進展である。それを集団的に阻止しようとすることこそ小ざかしき時代逆行の「謀略」ではないか。「暴力機関」とか「暴力革命」とかいう語を国語問題ないし国語政策について用いることは、その社会性を思わないもののハッタリに過ぎない。
 序〈ツイデ〉ながら、林健太郎東大教授の「随想」について一言する。ご専攻の西洋史研究でも、文献や資料が必要と思います。ご入用ならば若干はおみせできますし、直接おめにかかる機会があれば、ぼくにとっても有益でしょう。一人や二人の文章から「推定」して「正しい仮定」などをつくられることは、学者の態度として危険ではありませんか。「おひま」もありますまいが、いずれ拝顔方々。

 ここで、土岐善麿は、明治以降の国語改革論を紹介しながら、国語表記の「表音化」は必然的であるとしたのである。
 国語保守派は、国語審議委員会会長である土岐が、その持論によって、国語表記の「表音化」を推進していると見て、これに危機感を抱き、具体的な行動に出た。それが、一九五九年の「国語問題協議会」結成であった(昨日のコラム参照)。
なお、福沢諭吉の「時節を待つとてただ手を空しく待つべきにもあらざれば、今より次第に漢字を廃するの用意専一なるべし」という言葉は、『文字之教』(文字の教〈オシエ〉)の「端書」〈ハシガキ〉にある。この本については、今月七日のコラムで紹介した。

今日の名言 2013・1・23

◎正しい国語は本来ことばの表音的機能をもつ

 土岐善麿の言葉。「国語表音化の必然性」(読売新聞1959年11月24日)より。歌人にしてローマ字論者であった土岐は、国語表記の「表音化」は必然的であるという立場に立って、戦後の国語改革を推進した。上記コラム参照。

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1959年の「送りがな」論争(1961年の「国語紛争」の序章)

2013-01-22 09:49:43 | 日記

◎1959年の「送りがな」論争(1961年の「国語紛争」の序章)

 今から半世紀以上前の一九六一年(昭和三六)、国語国字のあり方をめぐって、「国語紛争」と呼ばれる紛争があった。その背景となったのは、一九五九年(昭和三四)以来続いていた「送りがな」論争であった。あるいは、そのさらに大きな背景として、戦後から進行してきた一連の国語国字改革を指摘することができるだろう。すなわち、それまでの国語国字改革に対して国語保守派が抱いていた不満が、一九六一年にいたって、一気に噴出したのである。
 この国語紛争や、その背景としての国語国字問題については、今後、このコラムで、積極的に採りあげていきたいと思っている。
 本日は、一九五九年一一月二四日の読売新聞紙上に、土岐善麿〈トキ・ゼンマロ〉が発表した「国語表音化の必然性―それを阻止することこそ時代逆行の『謀略』―」という文章の前半を紹介したい。
 土岐善麿は、歌人として著名だが、同時にローマ字論者であった。戦前は、長く新聞社に勤めていたという(読売新聞・朝日新聞)。土岐は、戦後の一九四九年(昭和二四)から一九六一年まで、国語審議委員会の会長を務めている。この文章を発表した当時も、当然ながら、国語審議委員会の会長であった。

 国語表音化の必然性 それを阻止することこそ時代逆行の「謀略」
  土岐善麿
 ちかごろ「国語問題協議会」というものがつくられ、新聞の伝えるところによると、知名の文芸家、学者、財界人などが参加したということである。それはそれぞれの方面のごく一部ではあるにしろ、平生あまり国語問題などについて発言されたこともきかず、したがってどういう態度、見解をもっていられるのか、よくわからなかった向きもあり、それがある程度あきらかになる機会ともなれば、けっこうなことであるとぼくは思った。しかもそのことが、こんどの送りがなに反対する目的で発起され、新しいつけ方を実施することにした内閣と、すでに実行へと進んだ全国の各新聞社の方針に向って、集団的に、何等かの行動をとるということであるから「送りがなというものの性質上、急速に整理統合することはきわめて困難なこと」と認めながらも「よりどころ」を示すための建議をおこなった国語審議会としては「社会の各方面」にあらわれた「効果」のいわば両面と考えてよかろう。
 あの建議に「適当な」修正を加えて採用した政府・文部省の立場、日本新聞協会の立場、各新聞社の立場、それに支持を声明した「国語政策を話し合う会」の立場ないし一般支持者の立場は、おのおのまた独自なものがあるはずだと思うが、国語審議会が送りがなを扱った立場については、最近の毎日新聞紙上「私の意見」欄にすこしく述べておいたから、ここにはあらためて書く必要はあるまい。いったい送りがなに関しては、古いところで中根淑〈ナカネ・キヨシ〉の「日本文典」にそえられた最初の文献をはじめ、明治二十二年につくられた官報局の「送仮名法」があり、同四十年にまとめられた国語調査委員会の「送仮名法」は、まず画期的なものとされているが、戦後にも、すでに総理庁・文部省編集の「公文用語の手びき」文部省の「国語の書き表わし方」があり、国立国語研究所が現在における十七種の資料から抄出分類したものをみても、歴史的、実務的、社会的に、まちまちなものとなっている。その「現状整理」のために二年がかりでまとめたのが建議に示した「つけ方」のよりどころで、それが実施・実行に運ばれるまでには、更に半年以上、一年近くかかっている。これで建議機関としての国語審議会の「所掌事務」の一つは、いちおう果たされたことになる。あとは社会の動向・帰向〈キコウ〉を観察すればいいのである。
 ところが「国語問題協議会」を発起し結成した中心的存在と見られるものの反対には、国語審議会が送りがなを扱った意図を「漢字を追放して全部ひらがな、あるいはローマ字にしてしまう謀略だ」とし「新送りがなのおしつけに成功すれば、漢字の駆逐は半ば成功したようなもの。かれらの宿願たるかな文字なりローマ字へは、あとひと息ということになる」という理由がある。これらは福田恒存君、臼井吉見君あたりの談話や文章にみられるが、そうなれば、国語問題一般の上から、国語審議会の会長という立場をはなれて、ぼく自身の見解を述べておかなければならない。【以下は明日】

 国語問題協議会というのは、一九五九年七月に、政府が内閣告示として「送りがなのつけ方」を発表したのをキッカケとして、同年一一月、国語国字改革の動向に異議を唱えるために組織された会である(今日でも活動中)。
 一一月四日、東京・麻布の国際文化会館で開かれた発起人総会には、小汀利得〈オバマ・トシエ〉(準備委員会代表)、長谷川如是閑〈ハセガワ・ニョゼカン〉、山田義見、福田恒存、田辺万平、臼井吉見、山本健吉、宇野静一、小田嶋定吉、木内信胤、本間久雄、大西雅雄、犬養道子らの諸氏が参集したという。

今日の名言 2013・1・22

◎政府が国語に干渉するのは野蛮きわまる

 ジャーナリストの長谷川如是閑の言葉。1959年11月4日、東京・麻布の国際文化会館で開かれた「国語問題協議会」の発起人総会に、わざわざ小田原から出席した長谷川翁は、「私は右翼でも左翼でもなく、“無欲”だが、政府が国語に干渉するのは野蛮きわまる」と発言したという。同月5日の朝日新聞記事による。

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