◎土岐善麿の国語表音化論に対する太田青丘の批判
今月二二・二三日に、土岐善麿の国語表音化についての文章を紹介した。この文章は、読売新聞一九五九年一一月二四日の読売新聞に掲載されたものだが、その後、一二月一日の同紙夕刊に、太田青丘〈オオタ・セイキュウ〉法政大学教授の「国語表音化への疑問―土岐善麿氏の所論を読んで―」という文章が掲載された。
本日はその文章の前半部分を紹介しよう。
国語表音化への疑問―土岐善麿氏の所論を読んで―
太田青丘
本紙文化欄にのった土岐善麿氏の「国語表音化の必然性」と題する所論は「国語審議会の会長という立場をはなれて、ぼく自身の見解」として述べられたものであると断ってあるが、やはり影響するところが大きいので、筆者の所見を述べて世の批判を仰ぎたい。
土岐氏は明治維新前後よりの国語表記の歴史上の注目すべき論文の名を幾つかあげた後「日本における国語表記は、漢字、かな、ローマ字の利害得失が、すでにつぶさに比較され、考究されたことが知られよう」と言って、あたかも国語問題はこれで解決ずみだといわんばかりの印象を与えようとしている。しかし国語問題は、決して土岐氏があげたいくつかの「かな採用論」「漢字制限論」「ローマ字採用論」で解決したものではなく、明治においても、三宅雪嶺の「漢字利導法」(明治二十八年八月、太陽)以下、重野安繹〈シゲノ・ヤスツグ〉の「常用漢字文」、井上円了の「漢字不可廃論」「国語改良論の三大誤」、杉浦重剛〈スギウラ・ジュウゴウ〉の「国字問題に関する意見」、市村瓉次郎の「日本国民と漢字」等の異論があって、そのなかには傾聴に価するものも少くない。その後も幾多の論議がくり返され、ことに大正年間、臨時国語調査会会長であった森鴎外が急進的国語改革論に対して大きなブレーキの役割を果したことは、あまねく人の知るところである。
そればかりではない。現在の国語審議会の国語表音化への志向に密接につながっている明治三十五年七月の国語調査委員会公示の第一条「文字ハ音韻文字ヲ採用スルコトトシ仮名羅馬字等ノ得失ヲ調査スルコト」そのものについても、この表音化の大前提からして、もっと慎重に検討調査さるべきであるとの強い主張がある。やや遠くは、当時その委員会の一員であり、その後国語言語学界に幾多の業績を残された新村出〈シンムラ・イズル〉博士(国語問題正義、昭和十六年)近くは東大国語科の主任教授である時枝誠記〈トキエダ・モトキ〉博士(国語問題と国語教育、昭和二十四年)等はその代表者であろう。
さて本題にはいるが、筆者はわが国の現状から見て、性急な国語表音化はあくまで避くべきこと、表意文字たる漢字には、わが国の歴史伝統(これも重大であるが、今はふれない)のことを外にしても、表音文字には見られぬ大きな利点があるので、当分かな漢字を併用すべきはもちろんであって、国語表音化という大前提も、根本から改めて検討されるべきであるという、きわめて平凡な主張を改めて提起したい。【以下は明日】
以上が前半である。「国語問題は、決して土岐氏があげたいくつかの『かな採用論』『漢字制限論』『ローマ字採用論』で解決したものではなく」という指摘はよくわかるのだが、だとすると、国語調査委員会公示の第一条の「文字ハ音韻文字ヲ採用スルコトトシ仮名羅馬〈ローマ〉字等ノ得失ヲ調査スルコト」という方針は、どういう位置づけになるのだろうか。むしろこの資料は、国語表音化論に立つ土岐善麿が、援用すべき資料だったのではないだろうか。
今日のクイズ 2013・1・25
◎コラムで引用した文章に井上円了という学者の名前が出てきます。この人は、1887年(明治20)に「哲学館」という学校を作ったことで知られています。次の大学のうち、この哲学館の後身であるのは、どれでしょうか。
1 上智大学 2 専修大学 3 東洋大学
【昨日のクイズの正解】 2 東京府荏原郡品川町 ■1932年(昭和7)、東京府荏原郡の品川町、大井町、大崎町、荏原町が東京市に編入された。この際、品川町、大井町、大崎町の3町域が品川区となり、荏原町が荏原区となる。1943年(昭和18)、東京府は東京都となる。1947年(昭和22)、荏原区が品川区に編入され、今にいたっている。
今日の名言 2013・1・25
◎文字ハ音韻文字ヲ採用スルコトトシ仮名羅馬字等ノ得失ヲ調査スルコト
1902年(明治35)の国語調査委員会公示の第1条にこうあるという。上記コラム参照。国語表音化への動きは、その是非は別として、少なくとも「戦後」に始まったものではないということはたしかなようだ。