◎死なむと戦えば必ず勝つ(静岡地区憲兵隊長)
上原文雄『ある憲兵の一生』(三崎書房、1972)の第三章「戦渦」から、「浜松市大空襲」の節を紹介している。本日は、その二回目。
空襲は延べ百数十機で一時間余に亘って行なわれ市の全域を焼失せしめた。まず、市役所と警察署に連絡をとるため、焔と煙の中を徒歩で市役所に向った。途中の路上に焼死体が転ろがっているのをよけつつ市役所に着くと、庁舎は全焼していたが、公会堂は半焼で残っていた。
公会堂の玄関で市長と会った。市長も顔を黒くしていた。市役所から坂を下って警察署に行くと、ここはコンクリート建〈ダテ〉で、隣の中部配電と共に焼失を免れていた。
警察署長は「隊長さん御無事でしたか、只今のところどうしようもない」との一言だった。
それから市内の主要道路を通って、分隊跡に帰る頃、ようやく夜が明けた。再び全員を集め点呼したところ、前田軍曹一名のほか全員が揃っていた。
被害状況は判明次第、第二報、第三報と、静岡地区隊に報告した。
庁舎前の魚松食堂は全焼してしまったが、従業員は全員無事であった。朝食に非常食の乾パンを開いたが、一先ず炊き出しをうけることになり、赤井伍長が白羽〈シロワ〉の生家に走って、五十食余りの握り飯を運んで来てくれ八時頃には全員の朝食が行き渡った。
妻が私を呼んで「お父さん、市内の人達を一度帰えして、家族の安否を確かめさせたら」と注意してくれたので、それぞれ一度自宅に帰って家挨の安否を確かめ、併せて付近の被害状況を調査して来るように命じた。
昼頃になると静岡地区隊長角田〔忠七郎〕大佐が部下数名を連れて来援し、焼け残った馬繫所を本部として、被害情報の蒐集、被害地域の取締、救護活動の援助などを指揮された。
角田大佐は〝民心安定のために、宣伝ポスターを書いて、焼残りの電柱に貼れ〟といわれて、自ら筆を取り〝死なむと戦えば必ず勝つ、静岡地区憲兵隊長〟と数十枚のビラを要所に掲示した。
分隊庁舎の焼跡は、飛行部隊から一ヶ小隊程の応援兵が来てくれて、灰片付をしてくれた。私はまず炊事場を開設することにした。三浦軍曹の指揮で、赤井伍長以下の補助憲兵諸君が前の炊事場の焼跡を整理して、焼木や焼トタンを集め、木材の一部を〔陸軍〕建設部から貰って来て炊事場を復活させた。幸いガスも水道も通じるので、赤井伍長が市物資課長であった顔をきかして、米や調味料、副食材料を集め、夕方には大釜で握り飯を作ることができた。
隊員に給食した余りは、握り飯として正門前に板棚を作りそれに並べて道路を通る人達に食べてもらった。朝から食事をしていない罹災者は、始めて食事にあり付いたと、涙を流してよろこんでくれ、炊事係りはほとんど徹夜で握り飯造りをした。この炊出しは三日程続け、近隣の罹災者にも配給した。
陸軍建設部がバラック庁舎を建ててくれることになり、焼跡の旧本館の基礎に、檜皮葺き〈ヒワダブキ〉の屋根だけのような庁舎を建てた。これも徹夜作業で翌日には完成した。
十八日午後になって、浜松駅停車場司令部に派遣していた大阪出身の後藤兵長が、所在不明であるという報告があり心配していたが、駅操車場に造られた防空壕に入っていて、駅前詰所と離れていて連絡が断えていたことが判明して安堵した。
ところが、朝の点呼以来不在であった前田軍曹が、午後になっても連絡がないというので、派遣先である飛行隊司令部に連絡しても、そちらにも姿を見せないことが確かめられた。戸塚曹長以下数名を、上町の借家先付近に派逭して、焼跡を捜索することにした。
隣家の人が焼跡に戻って来ての話しでは、「確かに、奥さんを連れて、煙の中を広沢観音の方へ行くのを見た」というので、いづれかに避難したものと、やや安堵してみたものの、遂に翌朝になっても分隊に現われず何の連絡もなかった。【以下、次回】
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