礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

橋本凝胤師から「仏罰じゃ」と言われた鈴木治

2018-05-21 01:17:43 | コラムと名言

◎橋本凝胤師から「仏罰じゃ」と言われた鈴木治

 鈴木治の美術史研究、ないし古代史研究の出発点になったのは、薬師寺金堂三尊との出会いであった。鈴木の『白村江』(学生社、初版一九七二、新装版一九九五)には、その「出会い」について述べている部分がある。第四章「薬師寺の諸仏」の中の、「薬師寺の思い出」という項である。本日は、これを紹介してみよう。

 薬師寺の思い出 奈良西ノ京の薬師寺は、大和の寺々の中でもっとも明るい感じのする寺である。私がはじめてこの寺を訪れたのは、今をさる約四十年前、昭和五年〔一九三〇〕の夏だった。夏休みというのに、まだ卒業論文の題目が決らず弱っている私をみるにみかねたか、大阪高校時代の同級生で柔道部の主将だった、後の天理教真柱〈シンバシラ〉の中山正善〈ショウゼン〉氏が、私を大和につれていってくれた。ちょうど新築の図書館が開館準備中のごったがえす中で、私は『国華〈コッカ〉』や『東瀛珠光〈トウエイシュコウ〉』や『釈老志〈シャクロウシ〉』を見せてもらっていた。
 するとある日、薬師寺につれて行ってやろうという。相棒はやはり大阪高校ラグビー部の主将だった石橋君で、彼の生家が薬師寺の大檀家〈オオダンカ〉だった。
 真夏のカンカン照りの中を寺にたどりつくと、襖をとり払って簾〈スダレ〉をかけた本坊の夏座敷は涼風がふきぬけて、庭一面の蓮池にはお羽黒トンボが飛び交い、ここばかりはさすがに別天地だった。はじめてお目にかかる〔橋本〕凝胤師は談論風発、四川省探険談をきいた。やがて師はさきに立って、われわれを境内あちこちと案内された。ラグビーの負傷で歩行困難の私が、巨漢の石橋君に負われて石壇を上るのを見て、師は「仏罰〈ブツバチ〉じゃ」といわれた。面と向って人のことを「仏罰じゃ」という凝胤師を私は好きになった。後年師が天動説をぶって徳川夢声を怒らせたのは有名な話である。
 はじめて拝した薬師三尊には、その華麗玫瑰〈マイカイ〉な姿に眩惑されて、とうてい卒論どころではなく、ぜんぜん歯が立たずに引き下った。老師の話によると、その数日前に東伏見の若宮〔東伏見慈洽〕が見えて、仏像の文様がどうとかいわれたので、「宮様はそんなことはどうでもええのじゃと、わしはいうたんじゃ」ということだった。私はとうていそこまでゆきかねていた。
 大戦中、あの黒光りした仏像には多量の金が含まれているといって供出論が起った。私も、本尊が便々として台座上にあるよりも、自から捨身供出して、空【から】の台座を拝んだ方が、見るものをして感奮昂起せしめるものがあるだろうと思って、賛成した。まもなくあの黒光りは、金ではなくて砒素のためだとなって、この暴論も消失したが、今にして思えばザンキに堪えない。
 大戦末期の一日、いつが最後になるかわからぬと思い、急に西ノ京で途中下車してお別れに行った。境内は人影もなく、路傍から土壇の上までサツマ薯が一杯に干してあって、近所の陸軍病院の白衣の勇士が二三人で「押切り」で薯を切っていた。案内を乞うと婆さんが鍵をたくさんぶらさげて、たった一人の私を、嫌な顔もせずに案内してくれた。金堂の三尊はひとしおあでやかだった。聖観音〈ショウカンノン〉を拝観して東院堂を下りたトタンに黒翼のグラマンが一機突如として松の梢をかすめんばかりの低空で飛来した。一瞬胆〈キモ〉を冷やしたが、たちまち囂音〈ゴウオン〉をのこして三重塔の彼方に飛び去った。婆さんは「ホンマニ、いやらしいなア」とつぶやいた。その翌々日に玉音放送があったことを思えば、それは八月十三日のことだった。

 一九三〇年(昭和五)にラグビーの試合で負傷した鈴木治は、そのまま一生、歩行困難になったわけではないようだ。少なくとも、一九四五年(昭和二〇)の八月には、単身で薬師寺を訪れている。戦後になってから、負傷したことによる後遺症があらわれたのであろう。

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