◎景教が帝王崇拝主義であることに不思議はない
佐伯好郎の『支那の景教に就いて』(初出、1931)を紹介している。本日は、その十一回目。
それからもう一つの景教衰亡の原因は、支那思想の強力性であつたと思ひます。支那人の景教徒で回教になり切れなかつた者は支那の三教の一に帰したに相違ないのです。就中〈ナカンズク〉、道教に吸収せられたに相違ないと思ひます。当時既に支那に発達して居た支那の宗教思想と、景教僧侶の説きました基督教の理論とを比較して見ますと景教の方が比較的幼稚であつた様に思れます。従つて十分に支那人を感服さすことが出来なかつたのではないかと思ふのであります。少なくとも景教は実践倫理的宗教であつて神秘的、虚無的の哲学ではなかつた。これがキリスト教が希臘で失敗し支那で成功しなかつた所以です。それから先程申上げました高楠〔順次郎〕先生御所蔵の序聴迷詩所経などで明瞭です。此の序聴迷詩所経といふのは之を平たく申さば耶蘇彌詩訶経即ちイエスはメシヤであるといふお経文であります。イエス、キリスト経と言つた方が宜いかも知れませぬ。之を熟読して見ますと、其中に⑴神を尊ぶこと、⑵聖上(皇帝)を尊ぶこと、⑶父母に孝養をなすことが説いてあります。此の三者をひどくこの経文中に力説してあるのであります。そして神を尊び皇帝を尊ばなければならぬといふ理由として、現世に我々が存在して居るのは父母があるからである。併し仮令〈タトイ〉、父母があつても聖上陛下の保護がなかつたならば我々は安穏にこの世に存在し得ないのである。かゝるが故に我等は神の命令に従はなければならぬけれども、それと同時に皇帝及び父母の命令にも従はなければならぬ。否、皇帝は寧ろ現世の中に於ては神様である。『聖上は寧ろ現世の神ならずや』といふ様な文句さへも使はれて居ります。これ位景教は皇帝崇拝説を主張したのであります。
併し支那の景教が其経文に於て帝王崇拝主義を力説してもそれには何の不思議はありませぬ。帝王崇拝主義は希臘に生長し羅馬帝国に大成しローマの国教となつたキリスト教に於て強調せられたのです。景教もキリスト教としては確に帝王崇拝主義であつたのです。従つて景教は欧陽修が『帰田録』に現はして居る帝王崇拝主義や宋代の釈道成が有名なる釈民要覧に表示して居る『四恩主義』に反対するものではなかつたのです。されば此等の支那の思想とキリスト教が合致してそれで一層帝王崇拝思想は成長したのであります。故に、此の景教の書物などから見ますると、キリスト教が夙く〈ハヤク〉から支那の思想、就中道教に吸収されて仕舞ふべきものであると云ふ運命を示してはいないかと思はれるのであります。それが私が支那景教の一部は道教の方に行つて回教徒と合併して今日も回教徒として存在し、他の部分は道教の方に吸収されたのではないかと考へて居るのです。支那の道教各派の中の一部には景教の『レムナント』があるのではないかと思ひます。さういふ想像を致しますとき、この碑文の終りにあります書家の『呂秀巌』といふ人のことが出て来るのであります。即ち此の人は景教僧の最浄の為にこの景教碑の文字を書いた支那人です『朝議郎前行台州司士参軍 呂秀巌書』とあります。朝議郞と云ふのは今日の言葉で云へば『従六位下』と云ふ位を享有せる台州司士参軍であつたけ呂秀巌の書と云ふことです。書体としては唐の欧陽詢褚遂良等の字を習つた書家と思ひます。
台州司士参軍と申しますのは文官であります。『大唐六典』を調べて見ますと、西洋人の翻訳を致して居ります様な軍人ではないのです。司士参軍といふのは『掌管河津営造橋梁及廟宇之事』とあります。現代語で云へば『台州の土木局長』であります。橋梁とか道路とか、船津とか廟宇とかを掌る文官であります。そして「呂秀巌」と申す姓名を漢魏以来の慣例である姓名割裂の原則に依つて割裂して見ますと「呂巌」となります。姓名割裂の法と云ふは例へば『遽迫玉』は通常は『遽玉』とせられ『蘇子胆』は『蘇胆』と呼ばれ『董其昌』のことを『董昌』と云ふことです。それと同様に『呂秀巌』最中のも『秀』と云ふ字が落ちた『呂巌』といふ人として後世に残つで居るのぢやないかと云ふことになります。それは何故かといふと是だけの立派な字を書いて居るのであるにも拘はらず。金石華編其他の金石文を見ましても『呂秀巌』といふ名前が景教碑以外には一度として出て来ないのであります。これは不思議なことです。そこで私の考では姓名割裂の原則に依つて『秀』の字が除かれて、後世には『呂巌』として残つて居るのぢやないか『呂巌』と『呂秀巌』とは同一人ではないか。呂秀巌が『呂巌』であるとなりますと「呂祖」であります。唐以来道教の方では大事な人物であります。北京の『白雲観』にも呂祖の廟があります。若しこの『呂秀巌』が私の想像して届ります通りに『呂巌』即ち『呂祖』でありますならば、今の支那の道教の中の一部分には景教徒が吸収されて居るのではないかと云ふことになります。而してこれが『呂祖全書』の中に新約聖書中の記事に類似した記事があり又た景教の礼拝式の変体と思はるゝ礼拝文がある理由ではないかと考へます。私は道教のことはよく存じませぬ。併し北京で申しますと『東嶽廟』の方と『白雲観』の方とがあります。そして此の『白雲観』の属する全真教の方に此の景教の『エレメント』が入つて居やしないかといふのが私の憶測であります。就中、私がこの憶測を下しますのはこの『白雲観』の一派が景教と同じやうに菜食主義であると云ふことです。申遅れましたが景教は旧仏教と同じく菜食主義です。肉食を致さないのです。景教の坊主は野菜を食べることになつて居ります。道教の中の全真教も菜食主義であるといふのです。かれこれのことからして『呂秀巌』は即ち『呂巌』ぢやないかと思ひます。私はこれを多年主張して居るのですが、今日までどなたからも未だ承認して貰ひませぬ、依然として私一個の愚見になつて居るのであります。〈附録39~42ページ〉【以下、次回】
景教が「帝王崇拝主義」の宗教であったことは、よく理解できた。しかし、最後の段落にある「呂秀巌」=「呂祖」説は、説得力に乏しいと言わざるをえない。
佐伯好郎の『支那の景教に就いて』(初出、1931)を紹介している。本日は、その十一回目。
それからもう一つの景教衰亡の原因は、支那思想の強力性であつたと思ひます。支那人の景教徒で回教になり切れなかつた者は支那の三教の一に帰したに相違ないのです。就中〈ナカンズク〉、道教に吸収せられたに相違ないと思ひます。当時既に支那に発達して居た支那の宗教思想と、景教僧侶の説きました基督教の理論とを比較して見ますと景教の方が比較的幼稚であつた様に思れます。従つて十分に支那人を感服さすことが出来なかつたのではないかと思ふのであります。少なくとも景教は実践倫理的宗教であつて神秘的、虚無的の哲学ではなかつた。これがキリスト教が希臘で失敗し支那で成功しなかつた所以です。それから先程申上げました高楠〔順次郎〕先生御所蔵の序聴迷詩所経などで明瞭です。此の序聴迷詩所経といふのは之を平たく申さば耶蘇彌詩訶経即ちイエスはメシヤであるといふお経文であります。イエス、キリスト経と言つた方が宜いかも知れませぬ。之を熟読して見ますと、其中に⑴神を尊ぶこと、⑵聖上(皇帝)を尊ぶこと、⑶父母に孝養をなすことが説いてあります。此の三者をひどくこの経文中に力説してあるのであります。そして神を尊び皇帝を尊ばなければならぬといふ理由として、現世に我々が存在して居るのは父母があるからである。併し仮令〈タトイ〉、父母があつても聖上陛下の保護がなかつたならば我々は安穏にこの世に存在し得ないのである。かゝるが故に我等は神の命令に従はなければならぬけれども、それと同時に皇帝及び父母の命令にも従はなければならぬ。否、皇帝は寧ろ現世の中に於ては神様である。『聖上は寧ろ現世の神ならずや』といふ様な文句さへも使はれて居ります。これ位景教は皇帝崇拝説を主張したのであります。
併し支那の景教が其経文に於て帝王崇拝主義を力説してもそれには何の不思議はありませぬ。帝王崇拝主義は希臘に生長し羅馬帝国に大成しローマの国教となつたキリスト教に於て強調せられたのです。景教もキリスト教としては確に帝王崇拝主義であつたのです。従つて景教は欧陽修が『帰田録』に現はして居る帝王崇拝主義や宋代の釈道成が有名なる釈民要覧に表示して居る『四恩主義』に反対するものではなかつたのです。されば此等の支那の思想とキリスト教が合致してそれで一層帝王崇拝思想は成長したのであります。故に、此の景教の書物などから見ますると、キリスト教が夙く〈ハヤク〉から支那の思想、就中道教に吸収されて仕舞ふべきものであると云ふ運命を示してはいないかと思はれるのであります。それが私が支那景教の一部は道教の方に行つて回教徒と合併して今日も回教徒として存在し、他の部分は道教の方に吸収されたのではないかと考へて居るのです。支那の道教各派の中の一部には景教の『レムナント』があるのではないかと思ひます。さういふ想像を致しますとき、この碑文の終りにあります書家の『呂秀巌』といふ人のことが出て来るのであります。即ち此の人は景教僧の最浄の為にこの景教碑の文字を書いた支那人です『朝議郎前行台州司士参軍 呂秀巌書』とあります。朝議郞と云ふのは今日の言葉で云へば『従六位下』と云ふ位を享有せる台州司士参軍であつたけ呂秀巌の書と云ふことです。書体としては唐の欧陽詢褚遂良等の字を習つた書家と思ひます。
台州司士参軍と申しますのは文官であります。『大唐六典』を調べて見ますと、西洋人の翻訳を致して居ります様な軍人ではないのです。司士参軍といふのは『掌管河津営造橋梁及廟宇之事』とあります。現代語で云へば『台州の土木局長』であります。橋梁とか道路とか、船津とか廟宇とかを掌る文官であります。そして「呂秀巌」と申す姓名を漢魏以来の慣例である姓名割裂の原則に依つて割裂して見ますと「呂巌」となります。姓名割裂の法と云ふは例へば『遽迫玉』は通常は『遽玉』とせられ『蘇子胆』は『蘇胆』と呼ばれ『董其昌』のことを『董昌』と云ふことです。それと同様に『呂秀巌』最中のも『秀』と云ふ字が落ちた『呂巌』といふ人として後世に残つで居るのぢやないかと云ふことになります。それは何故かといふと是だけの立派な字を書いて居るのであるにも拘はらず。金石華編其他の金石文を見ましても『呂秀巌』といふ名前が景教碑以外には一度として出て来ないのであります。これは不思議なことです。そこで私の考では姓名割裂の原則に依つて『秀』の字が除かれて、後世には『呂巌』として残つて居るのぢやないか『呂巌』と『呂秀巌』とは同一人ではないか。呂秀巌が『呂巌』であるとなりますと「呂祖」であります。唐以来道教の方では大事な人物であります。北京の『白雲観』にも呂祖の廟があります。若しこの『呂秀巌』が私の想像して届ります通りに『呂巌』即ち『呂祖』でありますならば、今の支那の道教の中の一部分には景教徒が吸収されて居るのではないかと云ふことになります。而してこれが『呂祖全書』の中に新約聖書中の記事に類似した記事があり又た景教の礼拝式の変体と思はるゝ礼拝文がある理由ではないかと考へます。私は道教のことはよく存じませぬ。併し北京で申しますと『東嶽廟』の方と『白雲観』の方とがあります。そして此の『白雲観』の属する全真教の方に此の景教の『エレメント』が入つて居やしないかといふのが私の憶測であります。就中、私がこの憶測を下しますのはこの『白雲観』の一派が景教と同じやうに菜食主義であると云ふことです。申遅れましたが景教は旧仏教と同じく菜食主義です。肉食を致さないのです。景教の坊主は野菜を食べることになつて居ります。道教の中の全真教も菜食主義であるといふのです。かれこれのことからして『呂秀巌』は即ち『呂巌』ぢやないかと思ひます。私はこれを多年主張して居るのですが、今日までどなたからも未だ承認して貰ひませぬ、依然として私一個の愚見になつて居るのであります。〈附録39~42ページ〉【以下、次回】
景教が「帝王崇拝主義」の宗教であったことは、よく理解できた。しかし、最後の段落にある「呂秀巌」=「呂祖」説は、説得力に乏しいと言わざるをえない。
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