礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

景教碑が埋められたのは、朱泚の乱(783)の際か

2024-10-07 00:25:34 | コラムと名言
◎景教碑が埋められたのは、朱泚の乱(783)の際か

 佐伯好郎の『支那の景教に就いて』(初出、1931)を紹介している。本日は、その七回目。

 そこで此の景教碑の埋没の時期並に事情に関して色々の想像がされるのであります。その中で二つの最も有力な説があります。一は武宗皇帝の会昌四年、西暦八百四十五年説であります。それは此の年に武宗皇帝が廃仏毀釈を断行しお寺を皆毀してしまつたのであります。支那で仏教を虐めた〈イジメタ〉皇帝としては『三武一宗の難』と申して、『武』の字のつく皇帝と『宗』の字のつく皇帝があつた。いつもお寺を虐めた『武帝』「武宗」が三人〔ママ〕あつたのでありますが。唐の武宗皇帝はその一人です。その武宗皇帝が会昌四年に廃仏毀釈を断行したのであります。この時に景教徒がこの景教碑を保存せんとして、之を壊されてはならぬと思つて之を地中に埋めたのではなからうかといふ説が一つあるのであります。この説に依りますと景教碑は建中二年から会昌五年まで約六十余年程地上に顕はれてあつた訳であります。この説が正しと致しますとどうしても弘法大師は御覧になつたのぢやないかといふ推定が出来ないでもないのです。是が先づ多数説であります。前述の舒元輿の文章の如きは確にこの説を強めるものです。併し私はこの景教碑はもう少し前に埋められたのぢやないかと考へて居るのであります。私の説は、是が西暦七百八十一年に建立せられてから、二年程経つて建中四年〔783〕に朱泚〈シュ・セイ〉といふ者が乱を起し長安に拠つたことがありました、そして自ら『大泰皇帝』と称したと云ふことがあります。朱泚は勿論、兵を挙げて敗北しました。或は景教徒はこの兵乱に際して『大泰寺』を保護する積りか、或は朱泚が自ら大秦皇帝と号した為に太秦寺もその捲添〈マキゾエ〉、其他の迷惑を避ける為に埋没したのではないか。或は又た景教徒が大秦運動に関係して居つたのではなかつたらうか。何れにしてもこの時即ち朱泚の大秦皇帝の騒ぎのときに埋められたのぢやないかといふのが私の推測であります。それで、若し会昌四年の武宗皇帝の廃仏毀釈の時に埋められたものと致しますと、それまでの間が六十余年あります。明治元年〔1868〕から昭和六年〔1931〕までの時間があります。何か唐代の文献に此景教碑文のことが出て居なければならねと思つて居るのであります。併し如何に唐時代のものを探しても今日までまだ何等の證拠が見付かりませぬのです。故にどうも朱泚が乱を起して大秦皇帝と称した時が、この景教碑の埋められた時ではないかと考へて居る次第です。そうすると景教碑文が出来てから僅か二年位しか地上になかつたのですから,他の文献に残つて居ないのも無理はないと思ふのであります。それからまたこの武宗皇帝の時には、支那には仏教のお寺ばかりが四万程没収されたのでありますが、仏教僧尼の還俗は二十万人を超えております。それから景教の方は、二三千人の景教僧等が放逐せられたのです。この数には二説があります。一つの書物に拠ると回教と大秦景教等の僧侶が、僧籍を剝奪されて還俗された者が二千人とあります。然るに他の一種の書物には三千人とあります。何れにしても二三千人の景教や回教の坊主が還俗を強制せられたのは事実であります。これを仏教のお寺の数四万、僧侶の二十万人に較べますと、当時の景教の支那に於ける勢力が仏教の勢力より非常に僅かのものであつたと思はれるのです。人数から言つても約百分の一位強のものであつたとしか思へないのであります。かくの如く武宗皇帝の会昌四年に埋められたと云ふ説と、徳宗皇帝の建中二年から二年後の建中四年に埋められたといふ説との二つの推測がこの景教碑の埋没に付てある訳であります。併し、これは全くの想像です。以上申上げました通の訳でこの景教碑が本物である偽造でないといふことが確定的に打建てられませぬと、この碑文を土台として之れに歴史上の文献を加へて依つて以て景教そのものゝ研究を迆めて行く訳には参りませぬ。併し、唯今申しますやうに我が高楠博士や桑原博士などの御発見に依りまして、私はあくまでも景教碑は西洋人等が言ふやうな後世の偽作ではなくして立派な本物であると確信して居るのであります。
 そして此の碑分の中に書いてある事柄は、唐の太宗の貞観九年、即ち西暦六百三十五年に景教が支那に伝来して、それから建中二年までに亘る約百五十年間の支那景教の歴史を書いたものであります。即ち此処にも書いて居るやうに、貞観九祀(六百三十五年)に景教のミツシヨンが正々堂々と長安に乗込んだといふのであります。『貞観九祀、至於長安、帝使宰臣房公玄齢惣伏西郊、賓迎入内』とあるのです。それから唐の歴代(百五十年間)の帝王が如何に景教の為に尽して呉れたかといふことが書いてあります。この景教のミツシヨンが長安に公式的に乗込んだのが貞観九年、即ち西暦六百三十五年であります。併し私は是より前に確に景教といふものが支那に入つて居つたと思ふのであります。この点に関して私はもう一遍高楠博士のことを申上げることを光栄と存じます。それは高楠博士御蔵書の序聴迷詩所経の原本のことであります。本年〔1931〕十月東方文化研究院教徒研究所の方でお出しになつた景教経典の本に収めてあるのがそれです。是の景教の経典は敦煌から出た景教の経文です。その写真版であります。この高楠博士の御蔵書であります『序聴迷詩【ヤソメシヤ】所経一巻』と申しますものは高楠先生の御手に入つてから約十年になるのです。私も過去約十年程之を研究して居る訳であります。私はこの経典を段々研究して行きました。而して私の研究したところに依ればこの高楠博士御所蔵の文献といふものは貞観十二年即ち六百三十八年以前に書かれたものと断定せざるを得ないのであります。而して貞観九年即ち六百三十五年に初めて支那に景教が伝つてから僅に三四年にして(六百三十八年に)これだけのものが書けるといふことは一寸想像が付きませぬ。外国人が五年や六年支那に居てもこれだけのものは書けるものでないと思はれます。それから第二に疑問となるのは通訳の問題です。六百三十五年に公式的に景教ミツシヨンが長安に乗込んで来る時どうしても通訳といふ者が居なくてはならないのです。景教徒が支那の言葉に通じないで如何にして交渉しましたか。支那人で景教になつて居つた人が居つたか、或は景教の宣教師で永い間支那に居つて支那語に通じた者かゞ居つて、それが通訳の労を取つたのではないか。斯の如き支那通の景教徒が居たが景教通の支那人が居た為に此等の人々が運動した為にその時の皇帝唐の太宗が房玄齢をして、「総仗西郊賓迎入内翻経書」といふやうなことが出来たのではないでしょうか。どうしてもそれより以前に非公式的に景教のミツシヨンといふ者が来て居つたか。又は支那の人で景教になつて居つた人があつたか、景教の人で支那の言葉に通じた人があつたかに違いはありません。兎に角、外国人で支那の書物が読めるやうになるには一二年では出来ませぬから、貞観九年以前から景教といふものが支那にあつたものと私は思ふのであります。〈附録28~31ページ〉【以下、次回】

『三武一宗の難』は、一般に「三武一宗の法難」という。中国仏教史における四度の大きな仏教弾圧のことである。これに関わった皇帝は、年代順に、北魏の太武帝、北周の武帝、唐の武宗、後周の世宗である。

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