礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

空海は日本の新興宗教の開祖です(橋本凝胤)

2021-05-08 01:59:07 | コラムと名言

◎空海は日本の新興宗教の開祖です(橋本凝胤)

 以前、このブログで、美術史家の鈴木治(一九〇五~一九七七)が、学生時代、奈良の薬師寺を訪ねた話を紹介したことがある(2018・5・21)。
 そのころ鈴木は、ラグビー中の負傷で歩行困難となっていた。友人に背負われて石段を上がる鈴木を見た管主の橋本凝胤(ぎょういん)は、鈴木に向って、「仏罰(ぶつばち)じゃ」と言ったという。〝面と向って人のことを「仏罰じゃ」という凝胤師を私は好きになった〟と、鈴木は書いている(鈴木治『白村江』一九七二)。
 この橋本凝胤という仏教者のことは、よく知らなかった。しかし、連休中に、丸山照雄の『日本人の心をダメにした名僧・悪僧・愚僧』(山手書房、一九七七)を読んだところ、そこには橋本凝胤も採り上げられていた。
 ちなみにこの本は、採り上げた仏教者すべてを批判した本というわけではなく、名僧は名僧として、悪僧・愚僧は悪僧・愚僧として、しかるべく書き分けている。
 橋本凝胤の章を、少し引いてみたい。

一生の不作たる弟子・好胤をもった大長老
橋本凝胤 (はしもと・ぎょういん)      (法相宗薬師寺長老)

 仏教界の天然記念物的存在
 現代には珍僧・奇僧が見あたらなくなった。それは仏教の衰微を示すものだと、はじめに記したが、橋本凝胤といえば、仏教界の天然記念物的存在であり、数少ない奇僧伝説をもった人である。
 その名を世間に高からしめたのは、『週刊朝日』に掲載された故徳川夢声老との対談であり、その中で夢声とわたりあった天動説と地動説の論争は、奇僧凝胤の面目躍如たるものがあった。
 今では薬師寺も弟子〔高田〕好胤に譲り、隠居の身の上ゆえか凝胤の名をあまり聞くことがない。師と弟子の説法(?)では月とスッポンのひらきがあり、夢声を相手にした自在な話法など好胤には望むべくもないだろう。
 老齢でもあり健康もすぐれないと聞くので、いまさら世間の目にふれるところへ出て皮肉な語りぶりを披露することもないだろうが、残念なことである。
 出家が独身を保つことのなくなった現代で、橘本凝胤は終生家庭をもたなかった。彼の言によれば、妻帯することによって僧侶が家族や子供への愛に執着することとなり、ひいては民衆への愛を失うというのである。
「宗教家が独身でないといかんちゅうのも、妻帯すると必ず子供がでけますわ。そうすると民衆に対する愛がだんだん薄らいでいきますわ。子供の愛とか家族の愛とかいうつまらんことに拘泥しますからな。……いいたいこともいえんようになりますがな」
 徳川夢声との対談(一九五一年)からの引用である。少々古くはなっているが、凝胤のイメージはこれによって定着した。活達な発想がいきいきとしていていて、いま読んでも十分に面白い。後『日本の宗教』誌(創刊号で終わった)に加藤登紀子のインタビュー記事が載ったが、聞き手が若すぎたこともあり、凝胤の発言もさえていない。公害などというものは、この世に存在しないという説も、天動説の場合と違って皮肉にも逆説にもなっておらず、いささか陳腐であった。
 しかし、天動説のときは、世間の常識や通説の暗示にかかり、幾重にも重なった前提の上で、ものを考えている現代人に、頭から冷や水をかけるようなさわやかな一撃があった。
『変らざるもの』という凝胤法話集の解説で梅原猛が書いていていることであるが、NHKの対談でたいへんなお叱りを受けたことがあるそうである。凝胤老師は唯識(ゆいしき)の学僧でもあるのだが、現代人にわかるようにフロイドの学説を使って唯識の解説をし、学僧としての老師の一面をひきだそうとした。ところがそれが凝胤の逆鱗にふれるところとなった。
「梅原さん、何ということを云うのですか。あなたは西洋の哲学によって仏教が分るとお考えですか、それは大変な間違いです」
 言葉を改めて厳然といったのだそうである。さらに奈良平安の仏教の再評価を考えていた梅原が、「奈良平安の仏教」と発言したのが、またまたかんにさわって、
「梅原さん、奈良平安仏教とは何事です。法相宗〈ホッソウシュウ〉は、インド直伝の、釈迦の正真正銘の仏教であります。それは、仏教であるとともに哲学でもあります。そして仏教というものはこれ以外にありません。弘法大師という人が、唐から伝えたものはあれは、仏教ではありません、あれは新興宗教なのです。現在でもいかがわしい新興宗教がはびこっていますが、空海という人は、日本のはじめの新興宗教の開祖なのです。おそらく、ずるい人だったでしょうな。それに最澄という人、あれは物を知らない人です。現在、鈴木大拙という人が、禅をさかんに宣伝していますが、禅などというものは、新興宗教のうちの新興宗教で、はなはだ根のないものです。それを真の仏教のようなことをいっているのは、大拙という人は何にも分っちやいませんよ」 
 さすがの梅原猛もただ忍の一字でお叱りを一方的に聞いて、ひきさがったそうである。
 だが梅原対談で凝胤が述べていることは一種の正論であって、いっこうに奇ではない。西洋哲学で仏教がわかるのか、という設問は的を射た指摘である。
 禅でも密教でもすぐさまヨーロッパ思想で解説したり、分析したりするが、ヨーロッパ的思惟方法と仏教的思惟方法の間には、まだまともな橋が架かっているわけではない。その間の交通は恣意的でご都合主義的にやっているにすぎない。そのことを一発で指摘するあたりの見識はさすがである。
 また、平安仏教への批判、鈴木大拙の禅学批判も、一方的なドグマだとはいいきれない。もろもろの「新興宗教」は仏教ではない、といういい方は、法相宗の立場からすれば正当な主張であるだろう。この言葉を批判していくためには大変な手続きが必要である。
 その手続きをはぶいて、仏教は釈迦の教えだからみなひとつ、などと気楽なことをいっている常識的な現代仏教の立場と較べてどちらに真実性があるかといったら、やはり橋本凝胤の説のほうにあるだろう。先に奇僧だと書いたが、奇でも何でもない、まともすぎるほどまともな正論派なのである。

 橋本凝胤を丸山は、明らかに「名僧」として描いている。この本では、このほか、臨済宗の市川白弦が、高く評価されている。
 丸山の本が出た一九七七年当時、凝胤師は健在だったが、その翌年に亡くなっている(一八九七~一九七八)。その後、市川白弦が亡くなり(一九〇二~一九八六)、凝胤の弟子の高田好胤が亡くなり(一九二四~一九九八)、この本の著者・丸山照雄も亡くなった(一九三二~二〇一一)。一昨年、梅原猛も亡くなっている(一九二五~二〇一九)。

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