ある団体の研修で、この現地に行ってきた。
工場のある広い土地を少し高いところから見渡してみたりもした。
ここは、今から60年ほど前、悲惨な被害を生み出した場所。
山あいの川沿いにあった、大きな工場が問題を引き起こした。
そこまで言えば、想像できると思うが、ここは新潟水俣病を生み出した工場があった土地。
現在は、その流れをつぐ会社の工場があり、製品の製造を行っている。
今回の研修では、今も3,700名近い被害者がいるこの公害病がなぜ発生するに至ったのか、ということを中心として、学んできた。
被害者の苦しみを二度と繰り返さないために、環境団体の方から、新潟水俣病が生まれるに至った社会的背景や関係当事者の事情などを教えていただいた。
そもそものきっかけは、昭和3年に巨大な鹿瀬ダムが完成し、大きな発電所ができたことであった。
昭和4年に、その余剰電力を使う鹿瀬工場ができた。
当初は肥料を作っていたが、やがて慢性的な経営赤字の解消のために、昭和30年代にはプラスチックなど有機化学製品の生産に移っていく。
その過程で、様々な影響に対する長期的な視点を持たないまま、有機水銀を生む有害な工場排水を流すことになっていった。
そのようなことから、川に流された有害物質が、川の恵みをいただく人々の健康をむしばんでいったというわけだ。
冒頭の写真の工場では、現在も操業していて、ビル等で用いる排水管を製造しているということだった。
歴史的に見ると大きなきっかけとなった鹿瀬ダムを改めて見に行ってみると、非常に大きなダムだった。
これを、重機等を使わずに、人力だけでわずか3年で造ったものだから、完成までにずいぶんたくさんの事故死者が出たようだ。
そのために、近くには慰霊碑も建っている。
最後には、工場から川に注ぐ排水口も見に行った。
現在は、排水処理もしっかりしているし、検査も定期的に、公的なものも会社の私的なものもしっかり行われているとのことだった。
この辺りから、排水が川に注がれたのだった。
3,000人もの労働者がいた同工場。
「ハーモニカ長屋」と呼ばれた社宅に住んでいた労働者と家族、
プール、百貨店、映画館まであった当時の工場敷地、
あの時代でひと学年100人をゆうに超える人数がいた幼稚園、
会社の出退勤時刻に合わせた時刻表に従い、最寄りの鹿瀬駅に乗降する多くの労働者…。
そんな多くの人の生活を支えていた会社だから、社会や人々が欲しがる製品を多く作って利益を上げ、慢性的な赤字から脱却しようとしていた。
会社で働く人々のため、社会の人々が欲しがる製品づくりのため。
つまり、本来は人々の幸福のためにがんばっていたはずのことが、とんでもなく悲惨な被害をもたらしてしまった。
幸福を求め、健康安全に対する意識を希薄にしていたということ。
そして、公害の悲劇につながった。
今まで知らなかった、公害発生の裏事情をいろいろと知ることができた。
人間は過ちを犯すこともある。
だからこそ、その原因や背景を知り二度と大きな過ちを繰り返さないようにしていくことが大切なのだ、と改めて思わされた。
それとは別な話だが、この工場が立地するのは、東蒲原郡阿賀町。
15年余り前には勤めていた町。
ここの場所や風景も、何度か通った所であり、見たものであった。
雨模様の中、非常に懐かしい思いに包まれながら研修に参加していた私であった。
【阿賀町役場鹿瀬支所と何度か登った赤崎山】