私のつれづれ草子

書き手はいささかネガティブです。
夢や希望、癒し、活力を求められる方の深入りはお薦めしません。

形の残るもの

2009-10-27 | 雑観
昔から、形の残るものが好きだ。

そのくせ、古い写真などはバッサリ廃棄する機会をうかがっているので、おかしなものだが。

ニュースは新聞で読むよりもテレビやインターネットに頼ることの方が増えたが、あとあと証拠が残るという意味で、新聞のデータが信頼できそうな気がするのは変わらない。

ゼネコンなどといった、後世に永く残るものを、目に見える形でつくりあげてゆく企業が好きで、どうしてもそんな会社に肩入れしたくなる。

テレビで心にとまった番組があると、DVDや関連書籍を購入したくなる。
手にすると、それで安心して、意外と見直すことはなかったりするのだが。

最近では、NHKのトラッドジャパンがそのパターンにぴったりはまった。

日本の文化が、美しい映像とともに簡潔に(簡潔過ぎたりもするが)語られる。
英語は正統派英国式らしい。

バックナンバーを取り寄せて、それだけで結構満足している。

伝統あるものについて考察し、自分も生き残りたい…と案外思っているのかもしれない。
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ズレている

2009-10-19 | 雑観
もともとその予感はあったのだが、期待の方が大きかった。

でも、やっぱり大幅にズレているらしいという事実が顕わになるに従って、失望感に包まれる。

その数字は何なのだ?
無い袖が振れないのは常識。
それでも振るの?ノースリーブで。
グルグル肩関節まわして、関節包のなかで潤いを失った関節がギコギコいっているよ。
そのうちに20~30°の角度での移動も無理になるかもしれない。

それが妥当な論理ならば、飴が岩塩に変わったって文句を言う我々ではないはずなのだ。
それを、飴のあとに待っているのは瞬間冷凍…フリーズ状態だったりして。
フリーズドライのドライフードになって、お隣の大国に食われちまうかな。

あぁ、駄目なのかなぁ…やっぱり。
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感覚が鋭敏だということ

2009-10-10 | 雑観
最近、妙に鼻がきくようになった。

もともと、臭いには敏感で「犬のような奴だ」といわれたこともあるのだが、車に乗ってエアコンのスイッチを入れると、少し前まで何ともなかったのに、しばらく異様な臭いを感じて顔をゆがめることになる。
同乗者は、決まって何も感じていない。

バルコニーに出ると、お隣さんの小型犬の小物を消毒するクレゾールの臭いに出くわすことはあったのだが、おそらく階下のバルコニーからたちのぼる猫のトイレ臭に出くわすようになった。

そういえば、最近、子猫の鳴き声が聞こえているような。

子供たちのピアノのレッスンの音も、赤ん坊の泣き声もほとんど気にならないのだが、猫のトイレ臭にはげんなりする。

私自身も猫好きで、猫を飼った経験もあるのだが、姿を見たこともない猫のトイレ臭は許容し難い。
さわやかな秋風にのってやってくるその臭いに出くわすと、消臭スプレーを無闇やたらと噴射せずにはいられない自分がいる。

感覚というものは、それで身を立てる時以外には、下手に鋭いと苦しいことばかりのような気がする。

視力は良すぎると頭痛の誘因となるし、絶対音感のある人にとって街に溢れる騒音は公害以外の何物でもないだろう。

倫理観に長けていると、社会道徳の低下に憤りを覚えることになり、頭脳明晰であれば、周囲に散在するくだらない事象が許しがたいだろう。

鋭いことが尊ばれる局面はごくわずかで、苦しきことのみ多かりき…といったところか。

老いてゆくと、あらゆる感覚が鈍くなり、そうした苦しみから少しずつ遠ざかることが出来るような気もする。

それがある意味、救いかもしれない。
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二代目 桂枝雀師匠

2009-09-26 | 雑観
連休中、敬老の日を挟むこともあってか、時代劇や落語などのプログラムが目白押しで、何番組かをぼんやりと楽しんだ。

桂枝雀生誕70年とかで、亡くなった桂枝雀師匠の特番を懐かしく観たりした。

米朝一門会の落語会で一度、生の枝雀師匠の落語を聞いたことがあるが、既に病を得ておられたころで、笑いを仕掛けるエネルギーが低下していたのだろう、弟弟子のざこば師匠の破天荒な笑いに飲まれてしまっていた。

テレビの中の枝雀師匠は、まったりと艶のある上方落語を披露していらした。
何度観ても飽きない味わいを感じる。
ひたむきで、余りに笑いに対して真摯でありすぎていらっしゃったような。

他者の反応に自身の評価をゆだねる業は、苦行だと思う。

十年来の友人が、退職をし、新たな事業を自身で立ち上げるという。
固い職場で、通常なら定年までとどまられることが多い。

友人はエネルギーのあるうちに、人に喜んでいただける夢を現実にしたいと言っていた。

もちろん、自己満足では終われない人であるから、自分が関わることで相手が得るものがあったと喜んでくれて初めて満ち足りるのだ。

今夜のゴールデンタイムのワイド枠で、関西の人気もの宮根アナとTBSの安住アナの大阪ブラリ旅といった企画が放送されていたが、宮根アナも自己満足では終われないタイプだった。

見えないところで悪夢をみたりっていうのは、わかるような気がした。

キャラクターとして面白いのは、やっぱり自己満足では終わらない宮根アナ。
安住アナが自己満足の人という訳ではないけれど、関西の美学は、関東の粋(イキ)では語れない苦行を伴っているような気がする。
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巳年の人たち

2009-09-22 | 雑観
巳年の人たちと縁がある。

人生を共に歩むことはないが、要所要所に必ず巳年の人が立っている。

感覚的には全く異なる人たちなのだが、同じ船で航海しないので許容しうる。
同じ船に乗ってしまうと、どうしても譲れない部分が生じてしまうだろうが。

80歳、68歳、56歳、44歳。
あの人もこの人も、気がつけば巳年の人たちだった。

どの人も皆、一見穏やかな人柄だが、とてもとても頑固で、決して自分の認識やスタイルを変えることはない。

わがままな私は、彼・彼女らの人生観に同調することは出来ない。
衝突しない距離を保って付き合う。
安全間隔を保って付き合い、私の領域に土足で踏み込んで来ない限り、程よい付き合いが出来るのだ。

「君子の交わりは水のごとく淡く清し」といったところか!?
なんてことをほざきつつ、巳年の人たちを、わずかな経験則から導いた個人的統計学で決してしまった秋である。
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ニュースが怖い

2009-09-18 | 雑観
最近、ニュースを見るのが何だか怖い。

変革の条件は揃った訳で、この先我が国がどう変化してゆくのか、おっかなびっくりだ。

新与党の歴史的勝利はよいとして、そのマニフェストがそのまま全部実行されることを望んでいる訳ではないと思うのだけれど。

膨大な額の手当てに、高速道路無料化?
少し風穴のあいた感じの郵便局を(確かに今の郵便局は明らかに変だけど)またまた役所の出先機関に引き戻す?
果ては「日本は日本人だけのものではない」なんて言われて、法改正なんてされた日には…それこそ騒乱でしょう。

あのマニフェストを全部実現してしまっては、本当に我が国は崩壊してしまうのでは?
一般家庭だったらとっくに破産している大借金財政なのだから。

一般的国民は、縮み志向だなんだといわれながら、何とか身の丈にあった経済状況にしようと家計を切り詰め、超緊縮を実行してきている訳で、その世帯毎の必死の改善努力を国家戦略で水泡に帰することになるのではないかなんて…凡庸な頭で恐怖を覚える。

堅実で、安全志向の国民性が、国家の在り様にまるで反映されていないのではないか。

リアルタイムの民意を、誠実に汲み取ることを試みてほしい。
そうでなければ、方向性が変わるだけで、本当の意味での国民主権なんて結局ほど遠い。
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季節性インフルエンザの記憶

2009-08-28 | 雑観
最後にインフルエンザにかかったのはもう5~6年前だろうか。

十年来、インフルエンザの予防接種は欠かさず受けてきていたのだが…。

その頃の私は、パソコンと電卓相手に数字やよくわからない経済用語と格闘する日々で、オフィスにパテーションが組まれる前の一時期、一人の有能な女性と頭を突き合わせて仕事に励んでいた。

面倒で大掛かりな案件の整理を手伝うことになり、その有能な女性の下で作業にまみれていたのだが、数日間彼女が咳込みながら業務にあたる日が続き、ある日それがインフルエンザだと判明した。

不思議なもので、その情報を得て数時間後、私は急に発熱を覚えた。
帰宅途中のクリニックで簡易検査を受けると、まさしく陽性。

タミフルをもらい、直ぐ「インフルエンザだったのでしばらく休む」と職場に伝える。

その職場のナンバー2は非常にデリケートな方で、あれこれ厄介なことを言い始める気配が見えていた。
私がインフルエンザの感染を告げると、感染源であったに違いない女性が悪い…といった方向で攻撃が始まり、その女性が職を辞する一つのきっかけとなってしまったような記憶がある。

私に比べ、発症から時間がたっていた彼女は、回復にも時間がかかった。
結局長期間お休みすることになってしまったのだが、もちろん彼女に罪がある訳ではない。

私が復帰する時にも、その妙な職場のムードは伝わっていたので「もう誰にも感染させない」という確約がほしかった。

「熱が下がれば大丈夫…」
と楽天的におっしゃる医師に、
「本当に大丈夫ですよね、もう誰にもうつしませんよね」
と念押しし、呆れられた記憶がある。

今になってみれば、明らかに妙な患者の訳だが、渦中にいる時にはその異常さを認識できず、奇妙な行動にはしってしまう。

新型インフルエンザの流行で、奇々怪々なドラマが、日本のいたるところで繰り広げられているのだろう…と医療現場の惨状を嘆く医師のブログを読みながら、思い出していた。
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言葉にしてはならないこと

2009-08-24 | 雑観
言葉にしてはならないこと。
声に出してはならないこと。

そういうことってあると思う。

しかし、常識や理性といったものが健全に機能していれば決して口にしないことを、敢えて言ってしまいたいことがある。

風穴を開けたいとき。
破裂しそうになっている心のガス抜きをするとき。

真実はそこにないけれど、それを言葉にした時、いくらか救われるような幻想がある。

ただ、そうした本音とちょっとしたあそびをそれぞれに認めうる豊かさが、もう今の社会には無くなってしまった気がする。
言葉にしたことはそのまま、独り歩きしてしまう。

その裏にある複雑な本当の想いがはかられることはない。

…とするならば、やはり言葉にしないほうがいいことは、胸の奥に押し込んでいたほうがよい。
思わぬ禍に見舞われないとも限らないから。
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きざすかすかな感覚

2009-08-11 | 雑観
近頃、ワイドショー仕立てのニュース番組をみていて、無性に苛立たしく感じることが多い。

感覚の違いを通り越して憤りを覚えるのだ。

たとえば、タトゥーなんて言ったって所詮イレズミ。
親からもらったきれいな体に一生抜けない墨を刻むなんて…時代劇で「イレズミもの」といえば犯罪者のこと。
そっと隠して、決して人目にはさらさないものですよ。
○○○稼業の方々の派手なものは、堅気(カタギ)の世界と一線を画する決意のようなものがあって初めてなされるものでしょう。
お守り?約束??オカシイです。

たとえば玉の輿というけれど、○○○○を生業とする御家柄は、決して玉と尊ばれたものではないでしょう。
ただ金銭が豊富に集まっているというだけの話で、隠しはしても玉の輿ともてはやされるべきものではありますまい。
そうした稼業にしか道を開けないところから始めておられるのだから。

などなどと、ゴシップがらみの事象から国の予算がらみのちょっと書きにくいことまで…とにかく「オカシイでしょう」と思うことが多いったらありゃしない。

最近のマスコミってオカシイと思うけれども、私の中にささやかなナショナリズムがきざしてきているような気がして、我ながら気持ちが悪い。
思想のない、淡々としすぎた気概を欠いた私でさえこうなのだから、世の中も、個々の生活にも余裕がなくなってきているのでしょう。

お行儀のよい、勤勉で実直な昔の日本人が恋しい。
余りにそれが希薄になってきているからに違いないのです。

こんなこと書いてしまうと、また妙なコメントをいただくのよね。
そうしてゾッとして…公開期間は短いかもしれません。
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振り返ってみる

2009-08-03 | 雑観
文字で、デジカメで、とりとめない自分の日常を無責任に表現することは、ある種の快感である。

毒も徳もないけれど、痛快だったり、カタルシスのようなものがこぼれる文章が紡げればうれしい。

ブログを始めたのは某SNSで、昨年の8月だった。
3か月ほど続けて、何だかとても息苦しくなった。

スパムメールが明らかに増加し、SNS以外の道筋でコンタクトとって下さる方がいらして、その存在が私心情をとにかく窮屈にした。

明解な悪人や異常者はその場でシャットアウトさせていただくが、少々常識や感覚の異なる、いわゆるちょっと相容れない人物と穏やかにやり取りすることは、恐ろしくエネルギーを必要とする。

そうして、そのSNSを休眠させて9か月。
ここに転居してきて8か月だろうか…。

一年経ってみると、自分は恐ろしく人嫌いに傾斜していて、警戒心と拒否反応が格段に増大している。
少し健康体重に近づいていたのも、すっかり警戒域に逆戻りしているし。

世情も目まぐるしく変化していて、来年の今頃、自分が果たして生き残っているだろうか…なんてことも妄想してみたりする。

ブログを読み返していてよぎるものを説明しきれないけれど、面白い感覚ではある。
…さて、どうするかな。
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