自由・気ままなぶらり散歩&散策あるばむ Ver. 2.0

毎日のぶらり日帰り散歩、散策で出会った風景、景観、鳥見、四季の花々を瞬撮して、日記、アルバム風に整理した備忘録帳

特集 おくのほそ道(奥の細道)

2019-09-01 | 日記
おはよう、
今日(190818)は、神社仏閣巡りの中で、「奥の細道:正確には「おくのほそ道」と表します」に関連して、松尾芭蕉の史蹟、居住跡、奥の細道へ出発するときの状況などをネット調査すると興味が湧きました。いくつかの俳句は頭に入っていますがよく理解できませんでした。
「奥の細道」の案内板標を見つけると、立ち寄ってきました。その情報をまとめました。
「江東区」は、
我が国の文学史上偉大な業績を留めた「松尾芭蕉ゆかりの地」です。芭蕉は、延宝8年(1680)それまでの宗匠生活を捨てて江戸日本橋から深川の草庵に移り住みました。この草庵を「芭蕉庵」と呼ばれています。この地を昭和56年(1981)4月19日に「芭蕉記念館」を、平成7年(1995)4月6日に隅田川と小名木川に隣接する地に「芭蕉記念館分館」を開館しました。
奥の細道行程:
「奥の細道」では、
江戸の深川(ふかがわ)を出発し、日光、松島、平泉(ひらいずみ)まで行き、山形を通って新潟から金沢に入るルートを通ります。その後、敦賀(つるが・現在の福井県)に行って大垣に到着。そして、伊勢に向けて出発するまでが「奥の細道」に書かれている内容です。
日程は150日間で総移動距離は2,400km、ときには1日に50kmも移動する日もありました。有名な俳句:「閑(しずか)さや岩にしみ入る蝉の声」、目にしたことがあるでしょうか。
「江戸・深川から出発(芭蕉庵)」と云われている。松尾芭蕉は深川から隅田川をさかのぼり、千住で下船し、奥州行脚に出発しました。とあります。
奥の細道の出発地点:奥の細道の発祥の地」は、千住大橋付近と云われ、江東区深川、千住大橋(現在の足立区、荒川区)などの定説があります。
様々な文献では「千住大橋より出発」と残されている。「「奥の細道」矢立ち初めの地」と石柱標が千住大橋脇にあります。
概要(行程)

詳細

(出典元:ネット情報)
松尾芭蕉ゆかりの地
江戸時代、数々の名句や紀行文を残した俳諧師・松尾芭蕉は、深川の庵を拠点に活動しており、「おくのほそ道」の壮大なる旅もこの地から始まりました。深川界隈には芭蕉にまつわる史跡が数多く残されています。
芭蕉庵史跡展望庭園(ばしょうあんしせきてんぼうていえん)」
隅田川の遊歩道沿いに芭蕉記念館の分館である「芭蕉庵史跡展望庭園」があります。展望庭園は隅田川と小名木川に隣接し、四季折々の水辺の風景が楽しめます。隅田川の船舶の安全を見守っているそうです。芭蕉の像は、毎日17:00になると隅田川に向かって回転する。隅田川を行き交う船を見守るかのような、ライトアップされたその姿が、観光船上から見られるそうです。
展望庭園入口と庭園内にある紹介板標
 
芭蕉の坐像です。
 
写真中央に見えるのが清洲橋、隅田川です。
 
芭蕉稲荷神社(ばしょういなりじんじゃ)」
「芭蕉稲荷神社」は、
大正6年()に地元の人たちの手で祀られたものです。

境内には、「芭蕉庵跡の碑」や「芭蕉の句碑」があります。この辺りに芭蕉の住んだ「芭蕉庵」があったそうです。この地から全国の旅にでました。
「芭蕉庵跡の碑」  「芭蕉の句碑」
 
芭蕉記念館(ばしょうきねんかん)」
新大橋と清洲橋が望める隅田川のほとり、俳聖・松尾芭蕉が庵を結んだゆかりの地にこの記念館はあります。
江東区にあります。

芭蕉記念館の石碑と館内入口の様子
 
採荼庵跡 (注:史跡)(さいとあんあと)」
松尾芭蕉は、ここから「おくのほそ道」の旅へ出発しました。採荼庵は、芭蕉の門人である杉山杉風の別荘でした。正確な地点は明らかではありませんが、仙台堀川にかかる海辺橋付近にあったといわれています。これにちなんで、海辺橋の橋台地には濡縁に腰掛けた旅姿の芭蕉像が設置されています。
此の芭蕉像が等身の背丈と云われています。
 
3
 
芭蕉俳句の散歩道
採荼庵跡の石柱標

案内板標


おくのほそ道」の途中で立ち寄った場所に芭蕉像がみられる。(立像、坐像がある)
福島・文知摺観音、普門院」の入口の所にあります。(立像)

以上
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