静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

≪ 九州に歴史を問う旅 ≫   その2. 軍艦島/長崎県立美術館

2017-06-26 09:00:12 | 旅行
☆ 軍艦島ツアーについて、もう少し。 友人が勧めてくれたホテルはツアーの出る常盤桟橋のすぐ傍で、便利だった。同桟橋からは2~3社が
  ツアー客獲得を競っている。 見渡すと私が乗った会社の船は最もトン数が少なく「これで海が荒れたら・・・大丈夫かな?」と少し気になったが、
  それこそ<乗りかかった船>だから、と腹を括る。 船酔い経験ゼロの私、他の乗客34名のうち一人くらいは? と案じていたが幸い誰も酔わなかった。

  ガイドは、世界遺産になる前から活動してきた某NPO法人所属だと自己紹介。小柄な青年だが、眼が鹿のように黒く澄んでいる。若干の九州アクセントは
  感じられるものの、ハキハキと説明してくれた。大概の内容はパンフレットと重なったが、印象に残った説明を二つ三つ紹介すると、端島は岩礁だった場所を
  埋め立てて造られた人工島ゆえ、次の4つが無かった、即ち<真水、緑、火葬場、墓>。
   まず、「水」。最初は海水を淡水化していたそうだが、人口増加で追いつかなくなり、対岸から船で真水を運んだ。それでも昭和になると不足したので、遂に
  対岸から海底に送水ラインを引いたというから、三井鉱山の財力は凄い。採炭は国策で保護されたとはいえ、こんな場所は他にあったのだろうか?

  次に「緑」。高層住宅などの上に今でいう屋上菜園や花畑を作り、憩いの場とした。ガイド君の説明は「子供たちが花や草を知らないので、本土へ移り住む
  可能性に備え、それは教育上よくないからとの配慮もあったと言われています」。

  「火葬場と墓」;これは今のような老人の死に対応するニーズではなく、乳幼児の死亡、炭鉱夫の事故死/病死などによる葬儀が必要でも、狭い軍艦島では
  行えなかった、ということか。 「近隣の島まで運び、火葬・埋葬などを行いました」とガイド君。 ああ、死はここでも日常生活で目に触れないものに
  なっていた・・。
* 興味深く聞いたエピソードは、採炭作業を終えた炭鉱夫たちが入る風呂のこと。風呂桶は大きなものが3種類あり、最初は衣服のまま海水湯に浸かり、
  衣服に着いた炭塵などをざっと洗い流し、洗濯場へ出す。その次は同じ海水だが自分の体を洗う。そいて最後に真水で体をすすいだのだそうだ。

★ 小雨に打たれ帰港する。 遅い昼食のあと、少し歩き長崎県立美術館で夕刻まで過ごすことにした。長崎県あるいは九州出身の画家の作品が中心の展示だ。
  従い、油彩/水彩/水墨/日本画/版画/写真などなど、何でもありのジャンル別コーナー設定。 建物の立派さに度肝を抜かれるのは覚悟していたが、正直驚く。
  おのずと水墨作品に目が留まった。 私が足を止めた作品は、大久保王眠「伊勢大廟図」の松樹の描き方に、小波魚青「春野白狐」における狐の毛並みの
  描写技法に、それぞれ感服。  降りやまぬ雨に垂れ込められ、部屋で一人食す夕食を買うと、ホテルに戻った。           < つづく >
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≪ 九州に歴史を問う旅 ≫  その1   長崎市/軍艦島

2017-06-25 22:14:34 | 旅行
 長く本コラムを留守にしていたが、長崎と佐賀に旅していた為で、お許し願いたい。

★ 初日、長崎の西およそ19Kmに浮かぶ端島(はしま)通称「軍艦島」へ。あいにくの曇り空が島に近づくにつれ、雨模様に。なんと、波浪高すぎて、
  接岸したものの、渡り梯子が飛ばされる可能性を船長が予見。危険なので止む無く上陸は断念。 
   
☆ 戦後日本の工業を支えたエネルギーが石炭から石油に転換されるまで、如何に炭鉱が誇りに満ちた仕事であり、炭鉱夫の家族が日本のどこよりも先端且つ
  豊かな生活を送っていたか、パンフレットや船内のDVDで繁栄を謳歌した当時の写真や映像から痛いほどわかった。3種の神器はどこよりも早く100%普及。
  炭鉱夫の多くは日給だったそうだが、月給換算では何と昭和30~40年代通じ、大卒初任給の4倍あったという。 然も、建物は全て鉄筋コンクリート造り。
  高層アパートが狭い島に林立するが、エレベーターが設けられなかったのは何故か? その豊かさからすれば不思議だなと私は首を捻った。
   だが答えは簡単。 今の高齢化社会と違い、エレベーターを必要とする年齢の居住者など居なかった、ということなのだろう。

* エネルギー転換に伴う炭鉱離職者家族の舐めた辛酸。60年代年前半の激変を記憶する私の世代にとり、栄華の痕跡を留める廃墟を前に味わう無常観は余りにも
  辛かった。私が過ごした中学へは北海道の美唄炭鉱から移り住んだ家族の男子数名が転入してきたが、離職者住宅に居たのは僅か2年ほど。高校へ入る前に
  何処かへ行ってしまったのだ。船の乗客の9割は若い世代だった。  彼らに此の廃墟はどう映り、廃墟は何を教えたのだろう?

◆ 接岸不能で高島炭鉱のあった高島へ。炭鉱博物館には鉱夫たちの使った器具などが陳列されている。石炭そのものを観たことも使ったこともない世代が
  主流となった今。 彼らは何を感じているのか? 表情を読もうとしたが、何も読めなかった。             < つづく >
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≪ 政治家/国家公務員管理職は 24時間 私人ではない ≫   これが不服なら 今すぐ辞めよ

2017-06-19 08:18:57 | 時評
◆ (朝日社説)稲田防衛相 閣僚の立場をふまえよ http://www.asahi.com/articles/DA3S12994308.html?ref=nmail_20170619mo
・ <稲田防衛相が、4月に亡くなった渡部昇一・上智大名誉教授の追悼文を月刊誌に寄せた こんな記述がある。
 「先生のおっしゃる『東京裁判史観の克服』のためにも固定概念にとらわれず、『客観的事実はなにか』を追求する姿勢を持つことが大切だ」>
・ <渡部氏は著書で、東京裁判史観についてこう説明している。「戦前の日本が犯罪国家であり、侵略国家であると決めつけた東京裁判の前提を正しいと考える
  歴史観」>
・ <だが、日本は1951年のサンフランシスコ講和条約によって東京裁判を受諾し、主権を回復した。戦争責任をA級戦犯に負わせる形で、国としてのけじめを
  つけ、国際社会に復帰したのだ。これは否定することができない歴史の事実であり、戦後日本の基本的な立脚点である。>
<歴史家が史実を探り、それに基づいて東京裁判を評価するのは当然の仕事だ。しかし、閣僚が東京裁判に異議を唱えると受け取られる言動をすれば、国際社会における日本の立場は揺らぎ、外交は成り立たない。
 まして稲田氏は自衛隊を指揮監督する立場の防衛相である。自らの主張はどうあれ、国内外の疑念を招きかねないふるまいは厳に慎むべきだ>。

1) 戦争で亡くなった肉親や友を悼むため、遺族や一般の人々が靖国で手を合わせるのは自然な営みだ。だが、先の大戦を指導した側のA級戦犯が
   合祀(ごうし)されている靖国に閣僚が参拝することに、割り切れなさを感じる遺族もいる。
2) 中国や韓国、欧米など国際社会にも、日本が戦争責任から目を背けようとしているとの疑いを広げかねない。

 ⇒ (1)は、<A級戦犯合祀に遺族が割り切れなさを感じる>から靖国合祀が問題なのではない。大日本帝国はポツダム宣言受諾を条件に降伏し、統治体制変革を受け入れ実行したからこその国際社会復帰と占領解除(=独立)に至った、それで新しい日本国の歴史がスタートした。その姿勢に「A級戦犯」慰霊の合祀が相反すると解釈するのは遺族だけではない。
 (2)でいっていること、それは大日本帝国の侵略を受けた、そして同帝国打倒のために戦った諸国にとり、如何に宗教儀礼の体裁をとろうが「A級戦犯処刑によるケジメ」自体の否定は何年経とうが許せないことだ。何故なら、日本がつけた筈のケジメ否定を見逃すのは、侵略に苦しみ・戦った自分たちの歴史の否定に直結するからである。 然も、この直結は中韓だけでないことを日本人は忘れてはならない。「知らなかった」では済まないのである。

政治家や自衛隊高級幹部が、個人的見解と前置きさえすれば政府見解や戦後の基本理念に反すること言っても構わない、そんな風潮を誰かがじわじわと広め、それを国民が迂闊にも見逃し始めている。 
 そもそも政治家/公務員に「公人か私人か」などという議論の余地は無い。地位が高ければ高いほど、<守秘義務と同様、言ってはいけないこと>は退職後までつきまとうのだ。   それが不満なら、転職してから発表せよ。
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≪ バカではなく「阿呆」につける薬は さらに無い! ≫  稲田朋美の女性差別発言  もう人前に出すな!!

2017-06-16 17:13:37 | トーク・ネットTalk Net
★ (特派員メモ シンガポール)稲田「容姿」発言の波紋 http://digital.asahi.com/articles/DA3S12986120.html?rm=150
・ <私たち3人には共通点がある。みんな女性で、同世代。そして、全員がグッドルッキング(美しい)!」>
・ <3日、シンガポールで開かれた「アジア安全保障会議(シャングリラ・ダイアローグ)」での演説。フランスのルモンド紙の女性記者は「大臣の容姿の
  善しあしなんて誰も気にしていない。女性である大臣自身が、女性差別的な発言をしたのに驚いた」。
   容姿の優劣で女性の価値をはかるような物言いは、世界では不適切とされる風潮にある。この日の夕食会でも、稲田氏の「グッドルッキング」発言は
  「奇妙だった」と ひとしきり話題になったそうだ。>

* 貴女が女性なら、どう思います?  コメントや批判の言葉を捻りだすのさえ馬鹿バカしくなりませんか?  
  あなたが男性でも、『下手なジョークだな・・』と失笑するだけで 済みますか? 
〇 稲田を任命した安倍のアホ加減もいい加減にしてほしいところへ、稲田は安倍に輪をかけた<スパー阿呆>であることを世界中に発信してしまった。  
   こうして政治離れの一因を、政治家自らが再生産し続けるのだ。    ああ・・、情けない国になってしまったものだ・・・。 
  然し、間違えて逆恨みはいけません。 こんな阿呆どもを送り出したのは有権者、そう、貴方が悪いのです。

◆ 「あほう/阿呆」になじみが薄い東国出身者のため、西国で使われる≪ アホ vs 馬鹿 ≫の意味上の差異について一言申し添えます。

 * 「バカ」は、<迂闊><そそっかしさ><軽すぎる調子者><同じ過ちを繰り返す愚かしさ>などを指します。 時には可愛げも有る。
    英語形容詞では(Foolish, Stupid, Dull )が近い。
 * 「あほ」は、<物事の道理が理解できない低能><取り返しのつかない過ちにも気づかぬ虚け者>を意味する。英語形容詞では(Idiot)。

 現在のように東西文化が混じらなかった昔、西国の人は「あほ」だけで上の意味二つを現わしていた。同じく東国では「バカ」一語で両方の使い分けなし。 
従い、西国人に「馬鹿」は一段強烈に入り、東国人に「あほ」は決定的罵詈と聞こえたのです。時には喧嘩の種にもなりました。此の感覚は今でも年配者に残っているでしょう。

 さて、この「スーパー阿呆」、支持者が地元に居る限り、議員で居続けられる仕組み。 国会議員にはリコール制度がないので、次の選挙しかこのような破廉恥者を退場させる手段が残っていない。  投票に行かぬ若者よ、これでもアホどもをのさばらせますか???
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≪ 「実家」感覚 X「イエ意識価値観」X「転居経験の寡多」 ≫ 「実家」は死語に? 「ふるさと」は?

2017-06-15 16:22:09 | トーク・ネットTalk Net
★ (投書)私の「実家」 千葉県君津市・山田陽子(36歳・看護学生) https://mainichi.jp/articles/20170615/ddm/013/070/023000c?fm=mnm
・ <辞書で実家の意味を調べてみると(1)その人の生まれた家(2)婚姻・養子縁組などのため他家の籍に入った人の元の家。実父母の家--とある>。
・ <私が生まれたのは川崎市だが7歳の時に千葉県君津市に引っ越し、両親が建てたその家にずっと暮らしている。両親はすでに病気で亡くなっていて、
  その家に結婚後の今も生活しているのだ。だから「実家はどこですか」と聞かれると「今住んでいる所。両親はいないけれど」と答える。でもそのたび、
  「私の実家はどこにあるのだろう」と思っていた。> 

 ⇒ ここまで読み進み「ああ、私も投書者と似た生活で、同じような感覚をもつことがある」と共感する人は多くないのでは? と想像した。同時に、
  山田さんのように親が建てた家に子供時分から住み続け、結婚後もずっと同じ場所で暮らしている人の生活は、高度経済成長の60年代以降、都市へ流入する労働人口であった人々(その子孫も含め)と対照的な暮らし方だというのも想像していただけるだろう。 前者は、戦前・戦後すぐまでは日本人の大勢だったが、経済成長に伴う人口膨張の大半を占めた都市人口増大の主役となったのが非大都市圏から移り住んだ人々である後者だ。

 後者に属する人は「非都市圏=田舎」に親が住む家(=実家)があり、帰省時にはそこを「ふるさと」と懐かしむ。前者に属す山田さんの場合は、たまたま「実家」に相当する家の在る地域は都市圏内であり、純粋の語感として「田舎」とは呼べない。だから「ふるさと」感覚は持てないのであろう。
 だが山田さんの母親の出身地・奄美大島はまぎれもない「田舎」に今も分類されるので、親の「ふるさと」で自分がもちたい「ふるさと感覚」は代用できる。 然し、依然として「実家とは?」の疑問は親元を離れなかった人でも消えない。 
 
 核家族化・少子化・都市生活者の増大で、「イエ意識や”墓守り”意識」は衰退している。昔からの「田舎」でさえ、それを維持できなくなってきた。都会では猶更であり、もはや「実家」感覚自体が、山田さんのような暮らし方をする極く少数の人ですら実態を喪失した。

 都市部への人口流入に加え、高度成長は輸出産業の隆盛を呼び、次いで製造業は現地生産型に展開。日本国内だけでなく、外国への転居経験者も増えてきた。こういう都市流入族&子孫に顕著な内外転居経験の拡大は「ふるさと」喪失や「実家感覚」消滅と深く結びついている。核家族化・少子化・都市生活者の増大がもたらした「イエ意識や”墓守り”意識」衰退と重なり合い、「実家」は早晩、死語になるのではないか? 

 死語と化すのは一抹のエレジーを伴う現象だが、家父長制度の残渣が本当に拭い去られる方向へ日本社会がむかうのだ、と考えたら私は喜ばしいと思う。 
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