軍艦島ツアーの翌日、曇天の中、弥生時代大いに栄えたと思われる「ムラ」遺跡へ向かった。佐賀で特急から各停に乗り換えると、カエルの声がかまびすしい田圃を列車が横切る。「吉野ケ里公園」という名の寂しい駅から徒歩15分で吉野ケ里歴史公園に着いた。
門標には(国営)がついている。やけにだだっ広い駐車場ながら雑草や雑木も目立たず、管理は行き届いている方であろう。公園センターで200円の入場料を払い、暫く歩いてやっと、木柵を張り巡らせた中に復元された遺構などが並ぶ広場に着く。 ここまでで駐車場入り口から優に500mはあろう。
さて、ここから公開されている場所の全てを巡り歩いたのだが、写真右の「甕棺墓列」と「北墳丘墓」までスタート地点から片道1,300mとパンフにあった。
歩くと実際その記述どおりのくたびれ方だ。通路が平坦でないこともあるが、休む椅子・ベンチも無い。曇天でなくば暑さにめげ、悲鳴を上げていたかもしれない。見に来ている客は10組くらい。 感心なことに、説明標識には全て<英・中・韓>3外国語訳が付けられている。 まてよ、西洋文化にあった国からの観光客はさておき、先進文化圏であった中韓の人々が興味を持つのだろうか? と私は素朴な疑問を抱いた。 寧ろ、大陸/半島との交流史に力点を置いた説明を増やさねば、せっかく用意しても無駄打ちに終わるのでは??
吉野ケ里遺跡の日本史における意義や大陸との交流史、そして弥生後期から古墳時代に移る頃盛んに起きた奈良盆地や北九州各地との抗争について、興味尽きないこと私も人後に落ちないが、まあ、専門の書物にそこは譲るとして、古事記や日本書紀、おとぎ話や”わらべ歌”へ密かに潜り込ませた敗者の物語なども更に面白いものだ。 それは謎解きだけでなく、<勝者が常に歴史を創る>人類普遍の格言を現代史そして現代社会にも当てはめなければいけない、と改めて思わせてくれる。
大和朝廷の成立と天皇家が始まるよりはるか前の時期:稲作伝来に伴う階級社会の出現、そして「ムラ」から「クニ」への流れ。遺跡の前で眼をつむり、人々の生活を想像してみるのはとても楽しいものだ。 私は、疲れた足腰を感じつつ、そんな喜びにひたりながら、駅に向かった。 < つづく >