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≪ ”働き方改革”? ≫ それは個人ではなく 経済界が引っ張る改革なのか?

2018-02-23 10:25:30 | トーク・ネットTalk Net
 昨今、「裁量労働制」と「聖歌報酬型賃金」そして「雇用形態の多様化」がセットになった議論がかまびすしい。其の源流は<年功賃金型雇用及び賃金体系>の残渣が残る中で進行
 してきた約30年の推移が底に在る。
 更に其の元をたどれば、60・70年代に亘って続いた高度成長が国際競争力の低下で鈍化したため、生産性底上げの必要から人件費ウエイトを下げるには、年功序列型体系と正規
 身分保障の繋がりを断ち切らざるを得なくなった、こういう背景がある。此の流れは労使で立場が違えども、否定できない現実であり事実だ。競争力の低下を呪っても始まらない。

 一連の<働き方改革>論議は此の大きな流れの中にあるものであることは、経営者だけでなく勤労者自身が自覚せねばならない。正規雇用と身分保障が揺らいだことで転職斡旋が
 ビジネスになった。これまた自然な成り行きであり、勤労者ひとりひとりが自分の値打ち/能力価値やスキルをいつも振り返らないといけなくなった。それは企業規模や業種と無縁だ。

 と、ここまでは理屈通りだが、純粋の意味で日本の労働市場は制約のないマーケットトいえるか? と問えば、一番の障害となっているのが何を隠そう「4月の一括定期採用」しか正社員にしない、此の慣行ではないか。 会計年度途中での欠員補充は飽くまでも補助的手段でしかない。これでは自由なマーケットといえない。東京大学が打ち上げた秋の入学試験が一顧だにされなかった影の力は、経済界自身の保身だろう。つまり、年度を通じた採用訓練の手間は新たなコストアップ要因でしかないためだ。

ここを変えないで何が<働き方改革>だ?  一部の高能力者にしか転職市場が自由に開かれていないままでは、社会全体の底上げにならない。経済界こそが雇用慣行を変えない限り、改革にはならない、と私は思う。 裁量性労働論議以前の本質的論点ではないか?
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