静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

≪ 表現とは何か? ≫  ”美しい”だけが表現の対象材料ではない  心動かすモノ/コト 総てが人間の表現対象だ

2019-09-01 07:07:49 | 時評
☆ 松尾貴史のちょっと違和感:政治を持ち込むな、ですか? 衝動こそが芸術の命かと
      https://mainichi.jp/articles/20190901/ddv/010/070/017000c?fm=mnm
本文を読まれたら松尾氏の言わんとすることは自明で解る。或るバーに入ったところ・・・という設定で彼は論旨を上手に展開するが、其のポイントは、
 ≪芸術表現のエネルギーは何かに心を動かされる事で始まるが、心動かされる対象は「美」だけではない。人間生活の中で怒りや悲しみ、時には絶望さえ含む反応も人の心を揺れ動かし、抑えきれない表現対象になる。それを松尾氏は(衝動)と言っている。従い「美」以外の表現対象に「政治性」が入るのは自然であり邪道でも何でもない」だろう。

 およそ、人間が日々生きてゆく中、「美」だけに囲まれた時間/一生など誰にもあり得ない。昔日の王侯貴族ならば稀にあったかもしれない。 或は精神が常で亡くなり、我が世界に没入した人には許される光景かも知れない、だが、この世を生きる大多数の人にとり、其の反対の「醜」「汚」「憤」などの見たくはない/聞きたくない話題の対象に囲まれ晒される時間の方が圧倒的だ。それ自体は哀しいが、人間社会の事実/現実であり、そこから目を背けた所に芸術は無い。

* もう少し考えると、松尾氏がバー店主との論争に名を借りて言わんとする本質は、≪表現とは?芸術とは?≫ の高尚な話ではない。

 人間は誰でも生れ落ちて以来、生まれつきの頭脳障害者はさておき、思考能力に恵まれる以上、常に自分が欲すること/したくない事を、それらが何であれ「表現」している。その連続がヒトの一生だ。
  とすれば、「美」だけを論じ追い求め、正反対の物事一切から目を反らす一生とは人間表現として偏っており、歪(いびつ)な生き方だと言えよう。 
 松尾氏の例え話は何も芸術に生きる人だけを指しているのではない。我々全般が日頃、何から目を背けているか? への根源的問いかけでもある。
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