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財務省と国民の歴史健忘症ⅡⅩⅣ

2012年08月13日 | 政治経済
池田勇人に学ぶ復興の秘策
池田勇人という希代の政治家について、城山三郎の「官僚たちの夏」で登場しますが、これは世紀の倒錯小説です。
正義と悪がこれほど倒錯した話は他にないでしょう。そこでは池田勇人が異常な悪役として描かれていて、
池田勇人に付いた通産省の中の通商派自由貿易推進派と言われた人たちが悪役で、
それに対して抵抗した産業派と言われる人たち、国内派民族派、はっきり言えば聞き分けのない人たちを、美化しています。
主人公は佐橋滋をモデルにしています。この人は憲法九条を本気で信じていながら通産次官になれたという、よく分からない人物です。
はっきり言えば佐藤栄作という政治家による政治人事によって通産次官になってしまいました。
彼のような通算省内護憲派社会党のような人たちがいて、そういう人たちが主役であるかの如く描かれています。
当時通産省の主流派は今井善衛さん、佐橋滋さんのライバルに当たります、彼は城山三郎にこれでもかと悪役に描かれている人で、彼こそが本流です。
通産省は高度経済成長を推進した官庁です。今井さん、彼は後に次官になられました、は池田勇人の政策に非常に忠実な人でした。
佐橋さんのような人たちは、護憲派でよく分からない民族主義的な似非右翼的な発言を繰り返し、国内産業を守れ、一方で社会主義を推進したがるという、
変な抵抗していました。当時の霞ヶ関の状況は、通産省の高度経済成長路線と大蔵省の健全財政路線が全く矛盾していません。
日本人全員ががんばって働けば給料が増えていくのです。池田勇人は10年で給料を2倍にしますと行って7年で実現しました。
経済成長しているので税収が増えます。赤字国債を発行する必要が全くないのです。経済政策がうまくいけば健全財政と経済成長は全く矛盾しません。
ところが通産省内に社会主義的護憲派として頑強に抵抗していた佐橋滋一派をなぜか美化してしまうのです。
後に佐橋一派で、佐橋さんと決別して次官になった人もいます。
佐橋滋という本気で憲法九条を信じていたような変わり者、労組の委員長から次官になった人、こんな人を美化するという、世紀の倒錯小説です。
池田勇人という政治家は通説においても相当誤解されています。
城山小説では通説に乗った上で、池田勇人を私利私欲によってレモン自由化し、関税を利用して佐藤栄作の資金源を断つ政党政治家として描いています。
なぜ今、池田勇人なのか、復興を学ぶ上でこれほど理想的な政治家はいません。昭和20年8月に日本は敗戦しますが、その直前に彼は何を考えていたでしょうか。
彼は大蔵省主税局長でした。生涯の親友で側近である前尾繁三郎さん、池田さんは自分の派閥を政治家として前尾さんに譲ります。これが宏池会の源流となります。
初代会長が池田さん、2代目が前尾さん、池田さんの死後大平さんにクーデターで派閥を乗っ取られてしまうことになります。
池田前尾の二人が20年8月何を話し合っていたでしょうか。「もし敗戦になったら2人で武器を持って戦うしか無い。地下に入って戦うしか無い」、
彼らは本気で話し合っていたのです。池田さん前尾さん、ケンカが強いどころか病弱な人でした。
そんな二人でも国家の官吏として「国を滅ぼしてしまったら、徹底的に戦って国民に対して申し開きをするしか無い」、その覚悟があったのです。
いざ敗戦になった、大蔵省はGHQと徹底的に戦います。手練手管知恵の限りを尽くして、最終的にGHQを手玉に取りますが傷も負いました。
福田赳夫さんは大蔵省を追われて刑務所に放り込まれてしまいます。そういった中で池田さんは事務次官になります。前尾さんも側近です。
池田さんは事務次官から吉田茂に登用されて大蔵大臣になります。政治家として政界で吉田内閣末期の3年半大蔵大臣をやります。
その時、池田勇人さんは当時敗戦で焼け野原、とにかく国民が食えなければいけません。餓死してはなりません。
「国民全体が食えるようにしよう。ただし、奴隷として飯を食わしてもらうのではない」。
ドッジラインという、日本の事情をよく分かっていないアメリカ人が数値目標だけを押しつけてきて、「緊縮財政健全財政やれ」と言われ、
池田勇人と大蔵省は本当に実現してしまいます。ただ、アメリカ人に物をもらってノルマ達成するのでは無くて重要なのは「経済による国民統合」です。
この一言を強調しています。池田勇人の経済政策の原点は敗戦で打ちひしがれて、
普通の国なら民族がばらばらになって殺し合いをしてもおかしくないような状態の中で経済という一つの政策の中で国民を統合させようということです。
平成デフレの今ほど経済が国民にとって重要問題となっている時はありません。敗戦の時も池田勇人がそのように決めたのです。「経済による国民統合」と…。
 今は復興で大変です。その前からデフレで不況で国家全体が活力を失っています。若者は生まれたときからだめな日本しか見ていません。だったら正しい経済政策をやって「経済による国民統合」をしなければならないのです。池田勇人の原点に立ち戻るべきです。
 通説としては、「岸信介までは日米安保で政治の季節だった。それを池田勇人が国民の目をそらすために経済成長を行ったのだ。
それで憲法や安保が置き去りになったので、経済はよくなったけれど憲法や安保がなおざりにされた」これが池田勇人に対する歴史認識の誤りです。
 池田勇人が行った3つの功績、それによってどんな未来が示されたのでしょう。
池田勇人を語る上で、その首相秘書官を務められた伊藤昌哉さん、愛称ブーちゃん、
彼の著作「池田勇人その生と死」、池田勇人と高度成長を語る上で絶対読むべき名著です。
池田勇人の3つの功績を紹介します。前の岸信介の時、5万とも言われる学生が国会周囲を包囲しました。今にも革命が起きそうな暴動状態でした。
自衛隊を出動させたら学生との殺し合いになるかも知れません。また、暗殺が吹き荒れた時代でもありました。
岸さん自身も太ももを刺されて死にかけています。社会党委員長浅沼稲次郎さんも暗殺されています。
 池田さんの第1にやったことは議会による話し合いの政治の確立です。暴力では無く、選挙と話し合いによる議会政治の原則を守ろうということです。
岸信介の革命前夜から後継され総理大臣になって、まず高度経済成長という自分の政策を掲げて解散総選挙に打って出ました。
今思えば記録的な大勝です。議席自民党単独で2/3に迫ります。あの革命前夜のような状況で、自民党を倒せ、岸殺せ、その中の解散総選挙で、
自分はこういう政治をやりたいからと国民の審判を問います。就任直後半年以内で総選挙、
その勝利により話し合いによる政治を行わなければいけないのだという原則を確立しました。戦前で言う憲政の常道の実現です。
 第2に高度経済成長です。復興まで三等国と言われた状況からようやく経済状況が元に戻ってきました。
下村脩さんという、東大経済学部出身で大蔵省に入った人です。実質的にキャリアでありながらノンキャリアという立場に置かれている優秀なブレインを集めて、
「下村脩と7人の侍」と呼ばれた集団を作ります。高度成長をどうすればできるかをブレインに委ねました。
主流派の森永貞一郎さん、石野信一さんの森石ラインをきちんと説得、「この路線で行きましょう!」。
経産省主流派今井善衛さんもこれに乗る、財界四天王の池田さん支持者も加わります。
自民党多数派は、憲政の常道に従い、勝った池田さんを支持する政治基盤があります。
党人派と官僚派がいましたが上手にその人達を使いながら、「国民全体で働けば月給2倍になるぞ、働く者が報われる社会になるぞ」、そして実際に実現しました。
経済政策の意味は当時ソ連という日本を侵略しようと虎視眈々と狙っている国がありました。ソ連が付け入る隙が無くなってしまいました。
池田勇人が意識していたのはこれです。まさにこの経済政策こそがソ連の脅威を排除するための安全保障政策でした。
岸さんと池田さんの経済ブレインは一人の人物が行っていました。賀谷興宣という人物です。戦前近衛内閣、東条内閣で大蔵大臣を務めた方です。
大蔵省保守本流の人物です。戦後台湾ロビーの筆頭として自民党タカ派の頂点で、岸信介さんの東条内閣の同僚でした。
もう一人、昭和20年の鈴木貫太郎内閣で終戦工作を担った内閣書記官長の迫水久常さん、この2人を極端に重用しています。
戦前戦中戦後と日本を守るために戦った人たちの内閣が池田内閣です。
日本人全体を結集させて政治も官僚も財界も個々の日本国民の相対としての個人も一丸となってがんばれば10年間で月給が2倍が実現できるというわけです。
これに抵抗した人たちは3つありました。ソ連に日本を売り渡そうと考える共産党社会党。
そして経産省内産業派、はっきり言えば条件闘争のために抵抗している人達、通商派を頭抱えさせた人達です。
最後の一つが日本銀行です。当時高度経済成長に真っ向から反対したのは日本銀行でした。
池田勇人さんは「中央銀行の独立なんかイラン、文句があるなら下村脩に言え」。
下村さんは「中央銀行の独立なんてイラン、政府に従って高度成長やれば良いんだ、日銀みたいな消極財政やる気は無い、なんで経済が伸びているときに金利の引き締めなど金融緩和を止めるようなことをやらなけりゃ行けないんだ」と堂々と日銀を叩きのめしました。
山際正道日銀総裁、彼は池田さんの同期です。山際さんの所に日銀プロパーから相当な圧力が来ました。池田さんは下村さんを差し向けて返り討ちにしました。
 3つめ、安全保障政策とも関わる伊藤昌哉さんは自由主義諸国との連携を強めました。
アメリカ一辺倒ではなくてタイ、インドネシア、オーストラリア、フランスなどヨーロッパのアメリカ同盟国など、
自由貿易体制を推進していくことによって海洋国日本を確立したのです。岸さんはもう一度イギリスと仲良くしようとした事もあったようです。
池田さんはヨーロッパならフランス、またアメリカ以外の太平洋諸国との連携を強めようとしました。
池田さんがよく批判される事は「憲法と安全保障を置き去りにした」ということですが、これは嘘です。
岸さんは真正面からやろうとして失敗したので、池田さんは内閣法制局を使って戦後の憲法九条を中心とした戦後体制を徹底的に骨抜きにしていきました。
内閣法制局というと「護憲派の牙城では無いか」、今の姿を見てそう思われるかも知れませんが、
第三代法制局長官高辻正己、佐藤栄作内閣8年間を勤めた人物が全部変えてしまったのです。
池田内閣の法制局長官は林修三さんで、法律用語の大家、鳩山石橋岸池田の4代内閣で法制局長官を務め、岸内閣以上に池田内閣では憲法9条の骨抜きが進みました。
例えば集団的自衛権の解釈を変更しろと言う人がいますが池田勇人の時に戻せば良いのです。
集団的自衛権はとっくに行使しています。侵略戦争以外何やっても良い、林長官の解釈なら拉致被害者を簡単に取り返せるような解釈でした。
国民が気づかないところで防衛力は増強していくこともやっていました。

 池田勇人の心残りは、最後病気で退陣されるが最後の2年間で、やりたかったのは教育でした。
ただ軍事力だけ持っても憲法の条文をこねくり回していじったところで国民全体で日本国を守るのだという気概が無ければ意味はありません。
国旗国歌を強制するよりも自然と愛国心が生まれるような教育を2年間で総仕上げでやってその後憲法を正しくする姿に持って行こうということでした。
それは叶いませんでした。
 1つは話し合いによる「議会政治の復活」、2つめは「高度経済成長」を築く 、3つめは日本と世界の「自由主義諸国連携」。

 実はこの3つ以上にもっと重要なことを、彼は成し遂げました。
「敗戦で打ちひしがれている日本にどうすれば良いかの道筋を示し希望を与えた。これこそが政治家の仕事だ」と、伊藤昌哉さんは書いています。


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8月の予定
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15日(水)午前のみ営業、午後お休み。
16日(木)以降は通常営業。