まち・ひと・くらし-けんちくの風景-

建築設計を通してまち・ひと・くらしを考えます。また目に映るまち・人・くらしの風景から建築のあるべき姿を考えています。

『日本の醜さについて』井上章一氏の面白い本

2018-10-06 14:28:06 | 建築・都市・あれこれ  Essay

井上章一氏の『日本の醜さについて 都市とエゴイズム』という本を手にしました。最近のインバウンドブームもあり、「日本の美しさ」について改めて日本人自身が知ろうという趣旨の本は多いように思います。また「本来は美しかった」ということを前提に、現代の日本の都市風景や田園風景の醜さについて外国人が書いた本も売れているようです。

しかし、日本人が正面切って「日本の醜さ」を書くというのは意外と珍しいと思い読んでみました。

井上章一氏は歴史家として「つくられた桂離宮神話」という面白い本を書いておられます。「発見された桂離宮の美」はブルーノタウトによって再発見されたということになっていますが、当時の建築界のひとびとの手によってつくられた神話であるということを、資料や証言をもとに論証していくといった内容だったと記憶しています。われわれが信じていたのは作り物の「神話」だったのかという思いと、歴史家にたいする尊敬の念をいだいたことを思い出します。

建築界には、いろんな神話がありますが、ファシズム、全体主義に対する闘士、戦うモダニスト前川國男というのもその一つのようです。戦後になってつくられた神話であることは複数の方々がすでに書いておられます。もちろんそのことが、前川圀男の思想や建築の価値を低めることではないと思います。最近世田谷区民会館や区庁舎の建て替え論議に接するようになり、前川建築を町ぐるみで保存する弘前を訪れたり、彼に関連する著作を多く読みましたが、ヨーロッパの前衛的な思想としてのモダニズムを日本の建築として新しい質のものにしていこうとした前川圀男の姿勢、信念は本当に貴いものに思われます。

さて本の話に帰ります。

日本のバラバラ、百花繚乱のまち並みを見る限り、集団主義の日本VS個人主義の西欧という図式が当てはまらない。また自由に近代の材料を使っている日本のまち並みを見ると不十分な近代化の日本VS徹底した近代化の西欧という図式も当てはまらない・・・というのが冒頭の主張。本全体もこのトーンでつらぬかれています。

上のようなまち並みを見ると確かにその通りのような気もしますが、若干の違和感も残ります。隣と違う家を建てる日本人は個人主義といってしまうとすると例えば下のような隣と同じ建物が並ぶまち並みにはどういう人が住んでいるのでしょうか。

ここでは皆さんお隣と同じような建物で甘んじているので、集団の意思に従って、ヨーロッパ的な精神で住んでいるのでしょうか。そうとは思えません。

バラバラのまち並み、隣と違う家にする精神を個人主義の発露として一般化して捉えることに少し無理があるように思えます。

私は、状況に応じて、日本人も西欧人も個人主義的にふるまったり、集団主義的にふるまったりするという点ではそれほど大きな差はないように思います。違うのはその振る舞いがどういう状況でなされるのかということではないでしょうか。

例えば人と人との関係において、あるいは集団の中において西欧社会では個人の存在が重視されます。養老孟司先生が言うように、集団中で常に"Tea or coffee?"と個人の判断を迫るのが西欧の社会でしょう。時間を見計らって全員にお茶を出すのが日本の集団です。

会議やディスカッションの場は、集団の場ですので上と同じような機制が働きます。日本人はあまり突出する意見を避けるでしょう。しかし、同じ集団が場所を変え、酒の席に移ればそこは無礼講となり、自分の意見を譲らない「酔っぱらった個人」がたくさん出現します。

まち並みという状況の中での振る舞いも彼我では大きく異なります。

西欧社会では都市やまち並みは共同体、都市のシンボルです。彼らの都市はは周囲から囲われ(城壁)、中心(広場)をもちます。都市やまち並み自治を獲得して作り上げてきた共同の成果物です。個人を超えた集団のルールがあります。壊れたら同じように直そうとします。

ただ、残念ながら日本においてまち並みは集団の共同形成物とはなっていません。明治以前には、各種の規制も相まって調和的なまち並みが各地にありました。しかし、明治になって近代化=西洋化という考えのもと、古いものを壊して新しくすることが進歩という精神で改変が進められました。また第二次世界大戦後は、日本的な価値観、日本の伝統的な工法自体を否定するという風潮もあり、今までとは変えたいという時代のエートスの中で、見た目「自由な個人」によるバラバラのまち並みを作り出していきました。過去とは決別して自由に建てるという「モダニズム」も日本とアメリカで花を開いたのもよくわかります。ようするに、まち並み(実は都市の公共空間も)は人々が協働で作り上げてきたものという観念は育ちませんでした。

以上、日本におけるまち並みの自由さをもって「集団主義の日本VS個人主義の西欧という図式が当てはまらない」とまで言うのはどうだろうか、というのが私の感想です。日本に多く見られる自然破壊の景観から、「日本人が自然との調和的な関係を持っている」というのは間違いだという議論に対する態度と同じです。日本人も西洋人も自然を大事にしたいという気持ちは持っています。しかし、文化的に自然との付き合い方は多様な側面を持っています。富士山を眺める風景に大きな看板を付け加え手台無しにして平気なのも日本人ですが、一方では小さな庭の中に富士山を含む広大な自然をシンボライズさせて楽しむのも日本人なのです。

井上章一氏はいろんなことを分かったうえで、「醜いまち並み」という現実から目をそらしてきた社会学や思想界、或いは知識人の在り方に警鐘を鳴らしているのだと思います。大変面白い論点を提供してくれる本です。

I read "Investigation on ugly Japan, city and egoism" written by prof. Shoichi Inoue.

Professor Inoue, renown as an author of "Created myth on Katsura Palace" presented an issue of "Ugly city-scape of Japan" for formal and academic disputation.

高谷時彦 建築/都市デザイン

設計計画高谷時彦事務所/東京

東北公益文科大学大学院/鶴岡

Tokihiko Takatani     Architect/Professor

Tokihiko Takatani Studio.  Architecture/Urban Design Tokyo

Graduate School of Tohoku Koeki University  Tsuruoka-City Yamagata-Pref.

 

 


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