『ゼロ・グラビティ』
ロシアが自国の不要な衛星を爆破破壊した作戦が失敗、大量の破片が猛スピードで軌道上に散乱、同じように地球の軌道を周回している宇宙設備や通信網を破損させてしまう。
スペースシャトルで船外作業をしていたライアン(サンドラ・ブロック)と彼女をサポートしていたコワルスキー(ジョージ・クルーニー)は地球との交信も途絶え、ふたりきりで空気もない宇宙空間で生き残るために戦わなくてはならなくなり・・・。
宇宙ものの映画といえばSFだけど、SFには1ミリもキョーミないワタシ。
これももしかしたら一種のファンタジーかもしれないけど、SFではないですね。いま現在、実在するシチュエーションが題材になってるから。まあホントにこんな状況になったら生き残るもクソもないと思うけど。
それくらい怖かった。だって空気ないんだよ。無理だよ。ふつう即死でしょ。つうか身体が死ぬ前に精神的に死ぬよ。絶望する以外にないでしょ。凡人ならね。それでも誰も責めないよ。だって空気ないんだもん。
ぐりは「これは絶対に今日死ぬな」と確信するような状況に(いまのところ)陥ったことはないからまったく想像がつかないんだけど、実際にそういう状況になったら、ライアンやコワルスキーのように「何が何でも生きて還ろう」と自らを奮い立たせられる人はどれくらいいるのだろう。
観ていてずっとそのことばっかり考えていた。「もう無理だよ」「絶対ダメだよ」と何度も何度も思うし、ライアン自身もそう思うのに、ほんの僅かな望みにもそれこそ必死にしがみつき、生きよう、還ろうと渾身の力を振り絞ってもがく。
そこには何の理屈もなく、素直に、人の生命力の美しさを感じる。宇宙空間では死は恐れるようなものではない。むしろこんな状況で生き残ろうとすることの方が怖い。死ぬのは簡単だ。一瞬で終わる。そんなすぐそばにある結論をはねのけ、遥か彼方に輝く地表の故郷を目指そうとする主人公たちの戦いは確かに美しい。
ライアンは決して強い主人公ではない。経験はないくせに妙に意固地だし暗いし、クールなようでいざとなればすぐ取り乱す。彼女に対比すれば、しょうもない小咄ばっかりのべつまくなしに喋り続けるザ・おっさんなコワルスキーは、ベテランの軍人だけあって非常時でも常に冷静沈着で、しかもどんな状況でも明るさを決して失わない。
しかしライアンの弱さはそのまま強みでもあることが、この物語の大きなテーマにもなっている。状況的には誰よりも弱く孤独だったはずの彼女だが、戦いの中で自分自身に向かいあい、どんなに孤独でも人はひとりではないことを、たとえそばにいられなくても、心から愛する存在に自らが生かされていることを少しずつ悟っていく。
人の弱さや心の傷は生きていくうえで障害ではない。人はそれぞれに背負った重荷があるからこそ生きていける。そのことを、空気も重力もない、自分自身しか頼るもののない宇宙空間で、ライアンは初めて知るのだ。
ぐりは宇宙にもあんまり興味がないので、この映画の宇宙表現がどれだけリアルなのかはわからないんだけど(臨場感だけはスゴイ)、無重力のはずの宇宙空間での、地球の重力で生じる遠心力の強烈な表現がとにかく物凄く恐ろしかった。
無重力だから人間の動作は緩慢で、移動したくてもモノを動かしたくても、とにかく何もかもがまどろっこしい。衛星の破片が軌道上を周回してるから避けなきゃいけない、たったそれだけのことがムチャクチャ難しい。目の前の何かにしがみつきたい、扉を開けたい、たったそれだけのことがいちいちなかなかできないだけでなく、じっとしていることすらできずに遠心力に振り回されまくる。
なんでまたそんなところまで人間が行かなきゃなんないんだろう。地上、便利じゃん。空気あるし。手を離せばモノは下に落ちるだけで、時速数百キロで飛び回ったりしない。いやマジで。心から力いっぱいそう思う。それくらい生々しかった。宇宙空間の描写が。
サンドラ・ブロックとジョージ・クルーニーの二人劇なのでどことなく戯曲っぽかったけど、舞台が無重力の戯曲って無理だよね。そういう意味では非常に映画らしい映画でもある。3Dで観たけど、今回ほど自分の視力が悪い(乱視がキツいので3D映像が目にしんどい)のを恨んだことはなかったです。
あとオウンビュー(主観映像)が多かったので、観ててなんとなく『潜水服は蝶の夢を見る』を思い出しました。あの主人公ジャン・ドー(マチュー・アマルリック)は左目のまぶた以外何も動かせない、まどろっこしいどころじゃなく自分で動くことも声を発することもモノを動かすこともできないロックトイン・シンドロームの人だったけど、その不自由さが宇宙空間の不自由さに重なりました。あの作品も、何もできない状況でもできることを見いだす命の輝きが題材になってたね。また観たいです。
けど『グラビティ』はもういい(爆)。だって怖いもん・・・。
ロシアが自国の不要な衛星を爆破破壊した作戦が失敗、大量の破片が猛スピードで軌道上に散乱、同じように地球の軌道を周回している宇宙設備や通信網を破損させてしまう。
スペースシャトルで船外作業をしていたライアン(サンドラ・ブロック)と彼女をサポートしていたコワルスキー(ジョージ・クルーニー)は地球との交信も途絶え、ふたりきりで空気もない宇宙空間で生き残るために戦わなくてはならなくなり・・・。
宇宙ものの映画といえばSFだけど、SFには1ミリもキョーミないワタシ。
これももしかしたら一種のファンタジーかもしれないけど、SFではないですね。いま現在、実在するシチュエーションが題材になってるから。まあホントにこんな状況になったら生き残るもクソもないと思うけど。
それくらい怖かった。だって空気ないんだよ。無理だよ。ふつう即死でしょ。つうか身体が死ぬ前に精神的に死ぬよ。絶望する以外にないでしょ。凡人ならね。それでも誰も責めないよ。だって空気ないんだもん。
ぐりは「これは絶対に今日死ぬな」と確信するような状況に(いまのところ)陥ったことはないからまったく想像がつかないんだけど、実際にそういう状況になったら、ライアンやコワルスキーのように「何が何でも生きて還ろう」と自らを奮い立たせられる人はどれくらいいるのだろう。
観ていてずっとそのことばっかり考えていた。「もう無理だよ」「絶対ダメだよ」と何度も何度も思うし、ライアン自身もそう思うのに、ほんの僅かな望みにもそれこそ必死にしがみつき、生きよう、還ろうと渾身の力を振り絞ってもがく。
そこには何の理屈もなく、素直に、人の生命力の美しさを感じる。宇宙空間では死は恐れるようなものではない。むしろこんな状況で生き残ろうとすることの方が怖い。死ぬのは簡単だ。一瞬で終わる。そんなすぐそばにある結論をはねのけ、遥か彼方に輝く地表の故郷を目指そうとする主人公たちの戦いは確かに美しい。
ライアンは決して強い主人公ではない。経験はないくせに妙に意固地だし暗いし、クールなようでいざとなればすぐ取り乱す。彼女に対比すれば、しょうもない小咄ばっかりのべつまくなしに喋り続けるザ・おっさんなコワルスキーは、ベテランの軍人だけあって非常時でも常に冷静沈着で、しかもどんな状況でも明るさを決して失わない。
しかしライアンの弱さはそのまま強みでもあることが、この物語の大きなテーマにもなっている。状況的には誰よりも弱く孤独だったはずの彼女だが、戦いの中で自分自身に向かいあい、どんなに孤独でも人はひとりではないことを、たとえそばにいられなくても、心から愛する存在に自らが生かされていることを少しずつ悟っていく。
人の弱さや心の傷は生きていくうえで障害ではない。人はそれぞれに背負った重荷があるからこそ生きていける。そのことを、空気も重力もない、自分自身しか頼るもののない宇宙空間で、ライアンは初めて知るのだ。
ぐりは宇宙にもあんまり興味がないので、この映画の宇宙表現がどれだけリアルなのかはわからないんだけど(臨場感だけはスゴイ)、無重力のはずの宇宙空間での、地球の重力で生じる遠心力の強烈な表現がとにかく物凄く恐ろしかった。
無重力だから人間の動作は緩慢で、移動したくてもモノを動かしたくても、とにかく何もかもがまどろっこしい。衛星の破片が軌道上を周回してるから避けなきゃいけない、たったそれだけのことがムチャクチャ難しい。目の前の何かにしがみつきたい、扉を開けたい、たったそれだけのことがいちいちなかなかできないだけでなく、じっとしていることすらできずに遠心力に振り回されまくる。
なんでまたそんなところまで人間が行かなきゃなんないんだろう。地上、便利じゃん。空気あるし。手を離せばモノは下に落ちるだけで、時速数百キロで飛び回ったりしない。いやマジで。心から力いっぱいそう思う。それくらい生々しかった。宇宙空間の描写が。
サンドラ・ブロックとジョージ・クルーニーの二人劇なのでどことなく戯曲っぽかったけど、舞台が無重力の戯曲って無理だよね。そういう意味では非常に映画らしい映画でもある。3Dで観たけど、今回ほど自分の視力が悪い(乱視がキツいので3D映像が目にしんどい)のを恨んだことはなかったです。
あとオウンビュー(主観映像)が多かったので、観ててなんとなく『潜水服は蝶の夢を見る』を思い出しました。あの主人公ジャン・ドー(マチュー・アマルリック)は左目のまぶた以外何も動かせない、まどろっこしいどころじゃなく自分で動くことも声を発することもモノを動かすこともできないロックトイン・シンドロームの人だったけど、その不自由さが宇宙空間の不自由さに重なりました。あの作品も、何もできない状況でもできることを見いだす命の輝きが題材になってたね。また観たいです。
けど『グラビティ』はもういい(爆)。だって怖いもん・・・。
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