落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

恥ずかしい社会

2014年08月05日 | diary
理研の笹井芳樹氏は、なぜ自死を選んだか

毎日毎日焼けつくような暑さが続くこの季節、仕事が終わって帰宅して、バルコニーで生ぬるい夜風に吹かれながら音楽を聴きつつ夜景を眺めるのが、ささやかなリラックスの時間になっている。
今夜、つるんと晴れた夜空をゆっくり横切っていく飛行機の小さな灯りを静かに見送りながら、亡くなった笹井氏のご家族や、残された小保方氏やその他の同僚たちはどんな夜を過ごしているだろうかと、ふと思った。
少なくとも、空を見上げて平和を感じるような余裕などないだろうなと思った。

ぐりは科学にはとんと疎い人間だし、1月に記者発表があったときも「なんだかすごい研究みたいだな」とぼんやり思ったことしか記憶にない。研究グループのリーダーとして注目を集めた小保方氏が、若くて美しい女性でどうのこうのという騒動もあとになって知った。2月になって不正疑惑が持ち上がり、メディアがSTAP一色になってしまったときは残念だったけど、それはこの報道のせいで本来国民全体で議論すべき集団的自衛権の問題がきれいに忘れ去られてしまったからだ。
世間では猫も杓子も突然科学評論家(そんな職業があるのかは知らないけど)になったかのように、どこがあやしいだのおかしいだの訳知り顔になってアラ探しに盛り上がり、果ては小保方氏の人格や過去の経歴までつつきまわし始めた。
ぐりは何が何だかわからなかった。論文に不正があったこと、発表の過程に間違いがあったことは疑いようがない。あれだけ多くの専門家が再現実験をして成功できなかったのだから、研究そのものにどんな正しさがあろうと、まだ世に出すべき段階ではなかったことだけはさすがのぐりにもわかる。
だがそのことで、研究者個人を魔女狩り裁判よろしく寄ってたかって攻撃することになんの意味があるのか。それよりも、発表されるべきでない論文が発表されてしまった構造的な不正をこそ糾すべきではないのかと思った。

こんなことをいまになってガタガタいうのはフェアじゃないかもしれない。
笹井氏がこんなことにならなければ、いう機会は決してなかっただろうと思う。いえるほどの何を知っていたわけでもなかったから。ぐりがどれだけ身の程知らずでも、少なくともその程度の自覚はある。
自分たちは安全な場所にいて、彼らを嘘つきだと誹謗し、日本の信頼を傷つけたなどと怒りをぶつけるのはさぞ気持ちがよかっただろう。逃げも隠れもできない無抵抗な存在をただいたぶるのは心地いいものだ。醜悪で何の生産性もない暴力。誰も得しないし、どこにも行けない。なのにどうして人は、そんな暴力の魅惑から逃れられないのだろう。
笹井氏がこんなことになって、日本の再生医療ははっきりと後退することになるだろう。ノーベル賞に近いともいわれた優秀な研究者を失って、サンドバッグ代わりに彼らを袋叩きにした人々はいま、何を感じているだろう。たぶん、何も感じてはいないだろう。寂しいことだがそれが世の中だ。
だが、彼らのあとに続く若い研究者たちには、こんなことに萎縮しないで、是が非でもSTAP細胞を完成させ、より高度な再生科学の発展を目指してもらいたいと、心から願っている。
それこそが、亡くなられた笹井氏の無念を晴らす唯一の道ではないかと思う。

遺書を書いたとき、階段の手すりに紐をかけたとき、笹井氏は何を考えていただろう。
どんな気持ちでいただろう。
海の向こうでは恐ろしい感染症が流行し、卑劣な軍事攻撃によって罪もない市民が生命の危機に瀕している。彼らに選択の余地はない。ただなすがままに死んでいくだけだ。
きっとそんなことは思いもよらなかったんだろうな。もっと生きて、もっとたくさんの人たちを救えたかもしれないのに。
そんな可能性をもった人をこんなふうに死なせる社会って、なんかものすごく恥ずかしいと思うんですけど。


我が家から見える朝焼け。遠くに細く飛び出して見えるのはスカイツリー。