アーモーおやじ

テニスのときによく出る「アーモー」。これが口癖で、なんでも首を突っ込んでは失敗を繰り返しているじいさんの日記です。

4年経ちました

2022-11-21 07:09:00 | Weblog
 上郡に移住してから、ちょうど4年が経ちました。2018年11月21日に吹田から上郡に引っ越ししました。

 息子たちや親友さんたちと共に住み慣れた吹田の家でお別れ会をしたのが、昨日のことように思い出されて、あっという間の4年間だったなあと感じています。

(吹田の家😄)




 思えば、戸惑いの連続でした。
 移住はしたものの、知り合いはなく、住所変更手続きの多さに疲れ、新しい仕事で悩みました。不退転の覚悟の上とは言え、後悔したことは数知れずです。たぶん私一人では、そんな辛さに押しつぶされていたでしょう。常に前向き志向の敏美さんのおかげです。

 今の世の中は、4年前と比べものにならないくらい厳しい生活を、老夫婦に強いています。そんな中でもテニスやオカリナを楽しめ、友と大笑いできる日常を過ごすことができていることはなんて素敵なことでしょう。これからも日々、感謝を忘れずに過ごしていこうと思います。

 
 4年前に移住したときは、やりたいことがたくさんありました。そしてそれを実現しようと努力することが生きる支えになると信じていました。
 今、そのやりたいことへのこだわりが、少し薄れてきたかもしれません。現状に満足している自分を感じることが多くなっているんです。そんな自分に対して、厳しい世の中だから、もう歳なんだから、など理由はいくつも思い付きます。
 でもそれは自己都合の言い訳です。

 テニス交流会で、80歳ペアに軽く遊ばれてやられました。そして、試合後にラケットのガットのテンションや張り方について、熱く語り合います。いつものことながらその向上心に驚かされます。66歳の私たち夫婦は、まだまだひよっ子なんです。言い訳より先にすることがあることを思い知らされました。


 ひよっ子から次の4年間でどこまで成長できるか、みなさん見ていてくださいね🤗

 
 

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テニス技術講習会

2022-11-20 22:07:00 | Weblog
 昨日の上郡でのテニス交流試合のあとで、佐用町南光でナイターテニスをやりました。
 そして今日、同じく南光での佐用町テニス技術講習会に朝10から参加しました。
 プロのテニスコーチからの指導は、昨年のこの講習会以来です。


 今回のコーチからの指摘として覚えたいことがらのその1は、
「ボレーではボールとの距離感を常に意識して」ということ。それには足の運びが大切。左足から動いてボレーを打つのではなく、まず右足から踏み出してボールの打点に近づいて、ヒットしたあとに左足を踏み込んで頭を横向きにすること。この方が早くボールに近づけるので、いつもボールと身体の距離が同じになる。

 その2は、ストロークを打ち終わったあとすぐにボールを見るのではなく、打点を確認するように頭を残して、その後で相手を見る、ということ。それにより、ストロークの安定感がアップする。

 その3は、構える姿勢。腰を曲げてボールを待つのではなく、膝を曲げて上半身をまっすぐに立てて構えるということ。それによってラケットの中心にボールが当たる確率が増す。カッコもいい。

 
 わかりやすい説明で、うまくなった気分でした。テニスは奥深い🎾なあ😅 今日の指摘を忘れないようにと、ブログに残しておきます。

 それにしても、昨日は試合と練習6時間、今日はレッスン2時間、玉拾いスタッフ仕事2時間をこなし、筋肉痛で身体パンパンです。

 このままでは明日の仕事に差し支えると判断し、佐用町笹ヶ丘荘の溶岩温泉♨️に浸かって疲れをとり、入浴後にソフトクリームを食べました。これがとても美味しかったでーす🤗

 テニス三昧の2日間。青春しました❣️





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楽しかったテニス交流試合

2022-11-19 22:24:00 | Weblog
 大阪吹田から9人、大阪市、東大阪市、西宮、三田、上郡、佐用町、宍粟市から総勢17名が集まり、上郡スポーツセンターでテニス交流試合をしました。






 5月に、大阪八尾市をホームグラウンドにしているテニスサークルが、佐用町テニスグループと交流試合をして、それがとても楽しかったので、私の吹田時代のテニス仲間や元会社の同僚を上郡に呼んで、本日、交流試合をしました。

 とてもいい天気で、12時から16時までの4時間、熱戦を繰り広げました。

 とても楽しいひとときでした。

 テニスをしていてよかったです、とみんな口々に言ってくれて、主催者としてとても幸せな気分になりました。

 テニスは素晴らしいスポーツです🤗

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一人歩き その2

2022-11-17 20:06:00 | Weblog
 さんざん紅葉では楽しめないと言っておきながら、今日も一人で紅葉見物をしてきました。

 佐用町図書館に行く途中の国道沿いにあった「もみじ祭り」のノボリに誘われて、清林寺に立ち寄りました。



 清林寺さんは、毎年、紅葉の見頃に来た人が写した写真のコンテストが行われている紅葉の名所です。







 そして、図書館に行くと、街中に「大いちょう」のノボリがあり、またまた誘われて見に行きました。テニス仲間からもう散ってるよ、という情報もあったのですが、ノボリが、、、







 やっぱりでした😭

 もう、紅葉はおしまいにします。

 次は雪ですね、というわけで、図書館ではこんな本を借りてしまいました🤗



 さあ、ワックスでも出してこようかなあ⁉️




 


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一人歩き

2022-11-15 17:45:00 | Weblog
 兵庫県内の各地で、紅葉の見頃を迎えています。佐用町の青林寺でも紅葉まつりが行われ、佐用駅横の大イチョウも色づいているようです。
 敏美さんが、大阪に出張しているので、紅葉を見に、今日は一人で出かけました。

 生物専攻で植物の生態を学んだ私が辛いと思うことの一つが、紅葉をきれいだと楽しめないことです。
 老廃物を色素に詰め込み、落葉によって排出する営みで、老廃物と色素の化学変化で葉が赤や黄色に変わる、これが紅葉である、、、
 紅葉を楽しめないのは、紅葉=排泄、だからです。
 排泄は生きていくための重要な作業であり、けっして軽蔑しているわけではないのですが、若いころは汚いものという考えで生きていたようです。そんなころに紅葉のしくみを学習したため、紅葉に対するイメージが固定されたようです。なんとも情け無いじいさんである。

 そんなイメージを打破するため、大好きな宍粟市山崎に行きました。山崎には、3年前に行った紅葉の名所の最上山(さいじょうざん)があります。

 到着して駐車場に入ろうとしましたが、人の多さに尻込みしてしまいました。病み上がりなので、人ごみは避けた方がいいと判断しました。
 そこで人の少ない街歩きに変更し、最上山からすぐの伊沢に行きました。宍粟市のウォーキングコースの一つがここにあり、そのマップをスマホで見ながら田園地帯を歩きました。

 コースの最後に、巌石神社という面白いところがありました。説明書きには「がんせきじんじゃ」という読みがありましたが、正確には「いついしじんじゃ」だそうです。社殿の後ろの岩がすごい迫力がでした。ご利益がありそうです。







 神社の前の川には、川プールがありました。自然いっぱいです。





 途中からは紅葉見物はそっちのけで、歩き回りました。
 ウォーキングコースには、新築の家も多くて、伊沢は日当たりも良くていいところなんだと感じました。


 ウォーキング終了後、立ち寄り温泉施設の伊沢の里で、ざる蕎麦を食べて疲れを癒しました。



 敏美さんに連絡したところ、羨ましがられました。今回は下見と言うことで、ご勘弁くださいませ😅


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復活のアジフライ

2022-11-13 06:32:00 | Weblog
 まだ咳の薬は飲んでいるものの、体調は復活しました。

 寝たきりの生活で出歩くこともなかったのですが、なぜかふくらはぎがパンパンになっています。毎日、ストレッチをしているのに、寝ていて足がつりそうなこともあります。これが病というものなのでしょうね。

 復活は街歩きと海見物からと決め、先日行った備前市伊部に行きました。伊部の町並みを敏美さんにも見せたかったからです。
 備前焼の窯やショールームを見学して、小一時間ゆっくり歩いてきました。

 少し疲れましたが、いい汗をかきました。次に大好きな海沿いの道を通って日生に行き、海鮮丼を買い、海を眺めながら昼食をとりました。時間がゆっくりと流れました。

 明日、敏美さんが子守で息子夫婦のところに手伝いに行きます。孫に食べさせたいので新鮮なアジを購入して帰りました。

 家で調理。久しぶりの板前です。



 3枚におろして、孫に食べさせる身はすべて骨抜きをしました。そしてアジフライのために衣をつけて冷凍に。

 晩御飯はアジフライとつみれ汁、骨せんべいでした。アジの頭以外はすべて食べてやります😅
 食欲に負けて、写真の撮るのを忘れました。

 孫たちが美味しく食べてくれますように、復活のユキじいからの贈り物でーす🤗

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復活に向かって準備中

2022-11-11 14:35:00 | Weblog
 体調を崩していましたが、やっと戻りつつあります。

 薬がなくなったので、新しい薬を苔縄医院に取りに行きました。その医院の駐車場からふと見上げると、とても空がきれいで、思わず写しました。
 病に臥せっていたので、ゆっくりと空を眺めることができなかったから、とても新鮮に見えました。










 家での療養中は、もっぱら読書です。
 なんか資格の本でもAmazonで取り寄せて、それを読んで勉強をしようかな、などと少しは思いましたが、返って体調が悪くなるような気がしてやめました。そこで、小説を読むことに。ただし、図書館にも行けないので、昔読んだ家の本の読み返しをしています。
 一度読んでいるので、感動を期待するのではなく、読んでも後悔はしないだろうという軽い気持ちで読み始めました。
 読み終えたのは、以下の小説です。









 大まかなあらすじは知ってはいたはずなのに、どの作品も一字一句見落とさないようにのめり込んでしまいました。そして、いつものごとく涙が出て、止まらなくなりました。それを陰からそっと見ていた🫣敏美という家政婦が「えー、また泣いてるの」とつぶやいていました。

 さあ、完全復活まであと少しだぞ。泣くのは今日までだ❗️

 



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休んで思い出整理

2022-11-08 07:45:00 | Weblog
 体調を崩して休んでいます。

 天気はいいので、昼間は日当たりのいい縁側でパソコン作業。
 テニス交流試合の要項を作ったり、対戦表を作ったり、今までのブログを読み返したり、自分史をまとめたり、お気楽に遊んでいます。

 私のFacebookも確認していると、いろいろと面白い記事があって楽しいです。以前にも書きましたが、Facebookは動画を送れるので、ダンス仲間や先生からの振りなどを共有して、レッスンの効率化を図る目的で始めました。最近は、日記がわりのこのブログが中心で、動画で何かを伝えたいときにたまにアップしてます。

 そんなFacebookで、9年前の今日の記事の連絡があり、それを見てみました。
 
 会社への出勤前、鶴見緑地で日課のダンスの振りを練習していたとき、カメラ愛好家の年配の方に写真を撮られたときのものです。





 この写真を撮った後で名刺を渡され、自分のHPにアップしたいからと許可を求められました。勢いにまかせて、いいです、と言いました、というより訳がわからんというのが正直なところでした。

 その晩、名刺にあったアドレスでHPを確認すると、なんと私の写真が何枚もアップされていてビックリ。
 そして、コメントは「鶴見緑地でヨサコイ練習のご老人」のような内容でした。

 かなりの数のフォロワーのいるカメラ愛好家さんでしたが、私はコメントに怒り心頭でした。
「ヒップホップダンスじゃー」
と大声で叫びました。横で敏美さんが大笑いしていたのは言うまでもありませんが🤣
それより「ご老人」のほうでガックリしていたのかも😭

  これだから素人は困る
   まだ57歳じゃ(当時)
  許可するんじゃなかった
  全世界に顔が出てしまったじゃないか
  へぼカメラマンめ

しばらく怒りはおさまりませんでした。


 落ち着いた?後日、このときの様子をFacebookに写真とともにアップすると、ダンス仲間からたくさんのコメントをいただきました。
 HP写真を見て、キレキレだね、ストップ&ゴーがよくわかるよ、きれいに写してもらいましたね、というお褒めのコメントでした。ヨサコイ老人のことはひと言もありませんでした。

 自分の器の小ささを実感したできごとでした🤗

 敏美さんに言ったら
「器の小ささは、先刻ご承知だよ」と返ってくるので、内緒、内緒。

 とまあ、体調が悪くても頭は回っているようなので、パソコン仕事に精を出して過ごすとしますかな。

 

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自分史 その2 大学卒業から

2022-11-07 01:03:00 | Weblog

 「自分史 大学卒業まで」をまとめてから4年が過ぎてしまった。すぐに続編を書くつもりだったが、上郡に引っ越してから忙しくしていたため、始める機会を失っていた。

 少し落ち着いたので、また始めてみた。これからは、年表に沿ってまとめるというより、印象に残ったエピソードなどを思いつくままに記していこうと思う。
 
 

第1章 結婚まで
 

 大学の学生寮を出て、阪急三国駅のそばのアパートに移った。6畳一間で、共同トイレ、風呂なしで、部屋にはガス台と流し、1つの押し入れがあるだけだった。

 
 そこから非常勤講師として、昼は大阪市立桜宮高校、夜は大阪市立第二工芸高校で働いた。桜宮では生物を、第二工芸では物理を教えたが、授業内容は無残なものだった。生物実験では助手の先生の方が経験豊かで、教師の私は準備のしかたもわからない。物理の授業では生徒の学力を把握出来ずに授業を進め、夜学の第二工芸では、自分よりも年上だった生徒に文句を言われる始末である。
 まったくたよりない教師であった。そんな高校で唯一楽かったのは、桜宮高校の横の淀川ワンドでの野外実習だった。大好きな淀川で、植物採集や魚の調査を生徒とともにやるのである。楽しい思い出だ。
 桜宮高校と第二工芸で、合わせて週16単位の授業をして、税引き前の手当は9万円くらいだった。そんな生活を約1年間送った。
 
 一方、敏美さんは小学校教員としてバリバリ働いていて、とてもうらやましかった。それ以上に、こんな私と結婚していいのだろうかと本気で悩んだ。敏美さんとは、大学卒業前に結婚の約束をしていた。
 
 そんな生活の中、教員採用試験を受けた。今回は中学校理科で受験した。高校生を教えて、小学校教員より少し年齢が上の生徒を教えてみたくなったからである。教員免許としては、小学校1級、中学校理科1級、高校理科2級を持っていたので、受験できた。
 
 そんな採用試験の1次が終わった夏休みに、敏美さんと埼玉の実家に帰った。結婚式の打ち合わせのためである。式は東松山の箭弓(やきゅう)神社にある紫雲閣という結婚式場で行うことになった。大阪暮らしなので、式だけは新潟や埼玉の親戚にも来てもらった。それは親父やおふくろの希望だったからだ。
 親族以外は、私の幼なじみの目崎くんと神谷くん、そして小学校の恩師宮本先生だけである。
 そんな結婚式は学校の年度末の3月30日にやることになった。私も敏美さんも23歳である。
 
 一方、採用試験はというと、1次は合格したのだが、2次で再び不合格になり、来年も正規教員にはなれないことが決まった。
 
 結婚は決まったものの、宙ぶらりんの自分が情けなくなってしまった。しかし、敏美さんはまったくそんなことは気にしない人で、給料が安かろうが、ちゃんと働いているでしょ、と常に励ましてくれる。ありがたかった。
 
 さて、結婚式である。
 
 大阪組は前日に東松山ラドンセンターに宿泊してもらった。
 義理の兄と義理の姉の夫が二人で新幹線で東京駅に着き、地下の食堂でご飯を食べたのだが、「まずい、遅い、高い」だったようで、大層立腹してラドンセンターに着いた。これがコテコテの大阪人である。




 結婚式は、アクの強い大阪組に圧倒されるのではと恐れていたが、無事に進んだ。そして義理の兄は、私の親族一人ひとりに挨拶し、私に「敏美のことよろしゅう」と言ってくれた。嬉しかった。
 
 
第二章 雄一郎が生まれるまで
 
 結婚する前に、三国から阪急相川駅まで徒歩15分の東淀川区井高野の文化住宅に引っ越した。安威川を隔ててほぼ反対に敏美さんの実家があり、すぐに行ける場所だった。
 
 私の仕事はというと、大英産業というシルクスクリーン印刷会社のアルバイトとして昼間働き、夜は第二工芸高校で非常勤講師で働くということになった。そして、もう一度、採用試験にチャレンジするつもりだった。
 ただ、この生活パターンは非常に苦しく、1学期で非常勤講師を辞めた。そして、その印刷会社に就職した。敏美さんは採用試験だけに集中したらいいと応援してくれたけど、いつまでも稼ぎのない夫である自分がつらかった。そして、採用試験もあきらめた。
 
 印刷会社では、アルバイト中は工場で印刷やフォークリフトでの商品の搬出などをしていて、正社員になってからもしばらくはその仕事をしていた。残業も多くて休みも少なく、手はいつもインクまみれであった。
 その後、取引先と話ができるということで、工場から営業に回された。大阪中を車で走り回った。
 スクリーン印刷は、布や金属板に印刷をする技術である。主なお得意さんは、住宅会社とサラ金である。住宅会社は分譲地などのノボリ作成である。サラ金は鉄板やプラスチックボードの宣伝看板で、電柱やフェンスなどに貼り付けるタイプの作成である。時代は高度成長期であり、とても忙しかった。また、サラ金のお店に入ると、いかにもその筋の関係の思われる社員もいて、納期などが遅れると、指をつめろと言わんばかりに怒られた。始めは恐怖であったが、だんだんと慣れてくるものである。慣れは偉大である。
 
 そうして教員になる夢は忘れようと心がけた。
 
 そして結婚2年目。小さな命を授かった。生まれてくる子どものことを考え、敏美さんの実家のある吹田市吹東町に引っ越した。中古で二戸一の2階建住宅をローンで購入したのだ。大きくはないし、汲み取り便所の家だし、ローンも大変だったが、駐車場のある持ち家を初めて持ったことがとても嬉しかった。
 
 そして1981年7月13日に、長男雄一郎が生まれた。
 名前は、私が尊敬するプロスキーヤーの三浦雄一郎さんからいただいた。雄一郎といっしょにスキーに行くことを願ってである。
 敏美さんが産休に入ってすぐに生まれたので、私が済生会吹田病院の産科に駆けつけたとき、雄一郎を抱いて会わせてくれた看護師さんが
「しっかりした赤ちゃんですよ、生まれる予定日、計算間違いしてたみたいね」ととても大きな声で言われた。予定日から早かったからであるが、何もそんなに大きな声で、と思った。
 
 雄一郎は3歳まで、私と敏美さんが仕事に行くときに敏美さんの実家で預かってもらった。義理の母も父も優しく、そして大切に雄一郎を育ててくれた。雄一郎は、弟を叩いたり、弟とケンカしたりすることはまったくないやさしい子である。おじいちゃんとテレビの水戸黄門を見るのが好きで、水戸黄門の主題歌を覚えて歌っていた。おっとりした性格は、天国のおじいちゃんとおばあちゃんのおかげである。
 3歳からは吹田東保育園に入園した。同じクラスのほとんどの子は、0歳からの保育園児のため、1学期は様々な病気をもらって休んだ。その都度祖父母に預かってもらったのだが、それまでの温室育ちがよくわかった。また、雄一郎は友達と遊ぶのが苦手で、一人で本を読んだり、遊具で遊ぶのが好きだった。そんな子がいてもいいとは思うのだが、初めて私が出席したクラスの父母会で、担任の先生から「雄君は、何を考えているかわからんのです」と言われた。大したことではないが、私はこの先生が苦手で、子どもと真剣に接してないと感じてしまった。もちろん保育園の先生方にはお世話になっていたが、この先生だけは、後述する学童保育の先生とは大違いだった気がする(イカンイカン悪口はイカン)。
 
 
第三章 健太が生まれるまで
 
 雄一郎が生まれてから、印刷会社がとても忙しくなり、盆休みも正月休みもあまり取れない状況となった。
 そんなとき新聞の求人欄で、「理科 編集部員募集」を見つけた。I書房という会社で、訪問販売の教材と中学校教材、さらに中学生対象の高校受験向けの公開模擬テストを扱っている会社である。
 訪問販売が大流行りの時代で、高校生対象で大学受験のための教材を新たにつくるため、編集部員を募集していたのである。
 のちになって、訪問販売が多くの問題を起こしたため、訪問販売教材も撤退せざるを得なくなったのだが、当時は飛び込み営業で月何百万も契約をとる販売員もいた。
 印刷会社の営業より、教材作りの仕事のほうが、教員を目指していた自分に合っているような気がした。敏美さんからも反対されることはなかった。
 そしてその教材会社に履歴書を送り、入社試験を受けたところ合格してしまった。教員採用試験では、面接のある2次試験でいつも落とされていたので、面接がとても緊張したのだが、なんとか滑り込んだらしい。というより、新教材発行のための人材が多く必要だったようだ。
 お世話になった印刷会社に辞職願いを出した。教員採用試験を落ちた自分を拾ってくれた会社である。社長はじめ営業と工場の同僚には感謝しかない。
 
 
 入社した編集部の仕事はデスクワークで、毎日活字とにらめっこで、時代が進むとパソコン画面とにらめっこであった。じっとしてする作業は苦手であったが、ほぼ定時で帰れるし、印刷会社と比べてとても楽だと感じた。ただ、このときは編集部の実態を知らなかったのである。
 
 若手の先輩社員が新入社員歓迎会を開いてくれた。私の家庭状況を知る総務部のY子さんが私を紹介してくれたのだが、そのときに私が既婚者であること、そして子どもがいることを発表した。ほとんどが独身であった若手社員である。そのとき「じゃあパパだね」とある社員が言ったのだが、そのときから私の会社での呼び名が「髙橋パパ」を略して「タカパ」になってしまった。同僚や先輩社員からだけでなく、管理職やあとから入社した社員までその呼び名で呼ばれた。結局、定年になっても、嘱託として63歳で会社を辞めるときまで「タカパ」であった。嬉しいような悲しいような😢
 
 
 雄一郎が2歳のとき、二人めの子どもを授かった。だが残念なことに産ぶ声を上げて生まれてこれずに天国に旅だった。埼玉から親父とおふくろが車をぶっ飛ばし、敏美さんを心配してきてくれた。つらかったが、4人の両親の励ましは、また頑張っていこうという気持ちにさせてもらった。ありがたかった。
 その年の暮れ、家族3人で京都の化野念仏寺に行き、供養してもらった。とてもつらかったのだか、決して忘れないからね、と3人で誓った。このときから毎年年末には念仏寺の水子地蔵さんをお参りしている。今年一年、無事に過ごせたよ、こんなことがあったよ、と報告しに行っている。
 
 雄一郎が3歳のとき、念願の雪山に行った。行った場所は佐野坂スキー場(現在は白馬さのさかスキー場)である。白馬のスキー場はよく知っていたので、そり遊びがよくできそうなゲレンデだと思って出かけた。
初めてみる大雪のゲレンデに大喜びで、雪の中に飛び込んで遊んだ。雄一郎の名前の通りであった。宿の部屋で、晩ごはんを食べながら雄一郎は、顔を御膳につけて寝てしまった。驚いたが、雪山で動き回って疲れたのである。親子3人で幸せなひとときだった。
 



 それからしばらくして、新たな命を授かり、1985年10月5日、無事に生まれて来てくれた。敏美さんは不安だったと思うが、天国からの応援もあったはずである。生まれてすぐに感染症の疑いがかかって退院が伸びて少し心配したが、しっかりした顔立ちの男の子であった。亡くなった子の分も含めて健康に育ってほしいとの思いから、「健太」と名付けた。阪神タイガース優勝は、健太が産まれた数日後の出来事である。その後、熱狂的な阪神ファンになるのは当然な成り行きであった😁
 健太は近所の方々にも可愛がられた。外面がいいのと愛想がよく、おじいさんやおばあさんともしっかりとおしゃべりでき、人気があった。また、頭の回転が速くて、何事も段取りよくこなす。保育園のとき、牛乳がないと知った健太は、スーと家を飛び出していった。慌てて追いかけると、パン屋さんからニコニコしながら牛乳を持って出てきた。勝手に商品を持ち出したのだ。すぐにパン屋さんに謝りに行ったが、その身軽さには驚いた。小学校のときには、私たちの帰りが遅くなり、近くの中華料理店にお持ち帰りのおかずなどを買いに行くときも、「僕がやる」と一人で行ってくれた。学校や学童保育の親の間でも健太の評判は良くて、「一家に一人健太くん」という標語までできたほどである。
 



 第四章 康平が生まれるまで
 
 雄一郎は、3歳から保育園に通うようになったが、健太はすぐに共同保育所に入所した。
 敏美さんが二人を迎えに行き、家に帰って夕食作り、とても忙しかったはずだが、それが当たり前の生活と考えていたせいか、辛さはまったくなかったし、不満もなかった。雄一郎と健太も家に帰ると愚図ることはなく、二人で仲良く遊んでいた。子ども二人のほうが一人より余裕ができることがわかった。
 
 雄一郎は本好きで、集中するといつまでも没頭するタイプ。健太は兄のやることをよく見ていて、全方位を常に観察するタイプ。まったく性格が違う。
 埼玉に帰省して帰るとき、雄一郎は毎回埼玉のおじいちゃん、おばあちゃんとの別れが辛くて涙を流す。その様子を見た弟の健太は、運転中の私にこと細かく報告してくる。兄を心配しているのだろうが、今はそっとしておいてやってね、と敏美さんが優しく健太を悟す、これは恒例行事であるが、私は幸せを感じる瞬間だった😄
 
 そんな健太も兄になることがわかった。新しい命が宿った。それを知らせると、健太は大喜びをしたが、雄一郎は「またあ」とひと言。大笑いである。
 赤ちゃんは、産まれる前に臍帯ヘルニアとわかり、吹田市民病院から大阪大学附属病院を紹介され、そこにひと月前から入院し、天国からも応援されて、帝王切開で産まれた。1988年12月13日、三人目の男の子が誕生した。敏美さんは頑張ってくれた。
 
 健康を願い健太と名付けたが、弟は大変な試練を受けて産まれてきた。「康平」と名付けたのは、健太と同じ理由である。
 
 4歳と3歳違いの男3人兄弟である。女の子が一人でもいたらなあ、と思われるかもしれないが、子どもたちはみんなやさしい子である。人をバカにしたり、弱いものいじめを絶対にしないし、自分のことはしっかりと自分でやる子たちである。
 



 第五章 仕事について
 
 編集部の仕事は失敗の連続であった。真の編集部員になるには10年はかかる。編集の入門は、原稿と打ち上がった校正ゲラを間違いがないかをみる校正作業である。校正記号をしっかり覚えての作業である。これを初校という。その初校を直したものを再校といい、しっかりと訂正が直っているか確認する。その再校が終わると内容吟味の素読みという作業に入る。内容に不備はないか、文脈の体裁はおかしくないか、など、頭をフル回転する作業である。そしてさらに校正を重ねて、直すところなし、となって晴れて校了となる。基本的にはこの作業を38年間続けてきた。出版してから誤植を指摘されたり、テストの問題不備が判明したりしたことも多々あった。校正や素読みは数人の共同作業であるのだが、それでもミスは出てしまう。教材出版社はいくつかあるのだが、ミスの多い出版社もあったように思う。ことに学校教材は信用第一なので、一度大きなミスをすると、その教材を選んだ先生は後々まで覚えていて、以後の採用は難しくなるのだ。今振り返ってみると厳しい世界であったが、それだけやりがいのある仕事だった。
 この仕事についたとき、前職よりも楽などと思ったのだが、年を重ねるごとに責任の重大さは増していった。
 また、4年に一度の教科書改訂のときは、すべての教材を教科書に合わせて作り直さなくてはならない。残業の連続であり、就業時間が世に出たら間違いなく問題化していただろう。就業時間は、主任、次長、部長と役職が上にいくほど多くなっていった。
 
 
 第六章 家族旅行
 
 康平は、小学校卒業まで定期的に阪大病院に通院していて、小学校に上がる前にも腸閉塞になって入院したり、検査入院をしたりしたが、保育園にも休むことなく通えて、元気な子になってくれた。
 康平が入院すると心配なのが健太だった。学校へ行かれなくなったり、ご飯を食べられなくなったりするのだ。そのたびに私は健太に
「康平は頑張っているんだから、お兄ちゃんのお前も頑張らなアカンやろ」
と叱った。すると、ますますご飯が食べられなくなり、登校できなくなるのだ。その一方で、雄一郎は常にマイペースで、自分の世界に常に浸かっていたように思う。
 そんな状況のある日、いつものように健太をしかりつけていると、たまたま来ていた義理の母に
「幸雄さん、そんな言い方はダメですよ」
と一言。健太は健太で頑張っているんだからね、ということである。頭をガツンと殴られたような気がした。健太は健太で康平のことを心配していて、その感情がうまく表せなかったのある。頑張っていたのである。そんなことがわからなかった私は最低な親である。と同時に義理の母の冷静さに助けられた。
 事実、康平が退院してくると、何事もなかったかのように学校へも行くし、ご飯もしっかり食べた。「親育て」させられた出来事である。それ以来、「子育ては親育て」を私の座右の銘として、悩んだとき、必ずこの言葉を唱えるようにしていた。

 健太にはこんなこともあった。健太と雄一郎と3人でメイシアター(吹田のイベントホール)に行き、映画を見たときである。雄一郎が小学校1年で、健太が3歳のときである。夏休みのジブリ作品映画会として吹田市が行ったイベントである。
 はじめの上映は「パンダ・コパンダ」。健太も雄一郎もニコニコしながら楽しく鑑賞。映画をあまり見たことがなかったからである。
 次は「火垂るの墓」。「パンダ・コパンダ」とのギャップが大きすぎると思ったが、まあアニメだからいいかな、などど思いながら鑑賞を始めた。少しして健太が顔を背け始める、次に私に抱きついてくる、そして一言「怖い」。ついに泣き出した。周りにお客さんがいたため、出ていかなくてはならない。雄一郎は、俺は見ているからと言うので、しかたなく健太と二人で外のロビーに出た。
 しばらく泣いていたが、健太はもう見たくないと思い、映画が終わるのをロビーで待った。終わってから出てきた雄一郎は、今にも泣きそうな顔をしていたが、何とか持ちこたえた。彼も怖かったのだ。
 それ以来健太は、戦争の悲惨さを異常なまでに恐がるようになってしまった。まさに三つ子の魂である。これもバカな私の責任であるが、「火垂るの墓」の上映は問題があったとも感じる。小学校低学年や保育園児も多くいたからである。
 健太は広島に行き平和資料館に入ったときも、私に抱きついて展示物を見なかったし、高知県の戦争資料館でも同じだった。(そんな健太が、教員として修学旅行で広島に行き、平和教育を頑張っている。人生は謎だらけである😅)
 
  雄一郎が小学校4年、健太が保育園年長、康平が保育園3歳組のときの夏休み、一家で北海道にキャンプ旅行に行った。舞鶴から新日本海フェリーに乗って小樽まで行き、そこから車で回り、キャンプ場で泊まるという旅行である。1週間の大移動旅である。
 雄一郎が中学生になったら、一家全員で行ける旅はなかなかできないからという敏美さんからの提案で始まった髙橋家の大イベントであり、雄一郎が4年、5年、6年と3年続け、北海道中を回った。
 摩周湖、阿寒湖、屈斜路湖、釧路湿原、礼文島、知床半島、蝦夷駒ケ岳、雨竜沼湿原、温泉、露天風呂、どこも素晴らしかった。
 キャンプでは子どもたちもよく働いてくれた。雄一郎はマイペースで地味な仕事をコツコツとこなし、健太と康平はリヤカーで道具や薪を運ぶを遊びながらやってくれた。夫婦で、いい子に育ったなあと、しみじみ感じた旅であった。









 雄一郎が中学生になってからは、いっしょに長期の休みがとれなくなったので、夏休みは2泊3日の家族旅であった。中1のときは尾瀬、中2のときは四万十川中心の四国、中3のときは別府と阿蘇に行った。たくさんの思い出があるがそのうちのインパクトナンバー1を紹介すると、、
 
 尾瀬に行ったときである。ご存じのように尾瀬は歩いてしか行けず、歩いてしかめぐれないところである。2泊3日で計画を立て、一泊目は温泉小屋、2泊目は村営尾瀬沼ヒュッテに泊まるという計画で、温泉小屋で泊まった次の日に燧ケ岳にのぼり、尾瀬沼ヒュッテを目指すとスケジュールだった。1泊目の温泉小屋に着いたとき、康平の顔色が少し悪いなと思い、ご飯を食べてすぐ休ませた。すると寝入りばな、すぐにもどしてしまった。高山病であった。何とか眠ることはできたのだが、明日の燧ケ岳の登山は無理である。相談して、私と雄一郎と健太は登山して、敏美さんと康平は登山をしないで、尾瀬沼に沿って尾瀬沼ヒュッテに行こうと決めた。別れての移動であったが、尾瀬は木道に沿ってルートがはっきりしているので迷うことはない。
 2日目はいい天気だったが、康平は元気がなく、ご飯もほとんど食べられなかった。標高に慣れたら元気になることは言われていたので、不安を抱えながらであったが、温泉小屋を出発した。
 しばらく歩き、燧ケ岳の登山口に到着。2手に分かれての行動である。すると突然康平が「僕も登る」と言い出した。保育園児の強烈な自己主張である。雄一郎が「康平ちゃん、やめたほうがいいよ」とさかんに説得したが、頑として受け付けないのだ。
 結局、途中でへばったらみんなで登山を中止して引き返そうと決め、しぶしぶ登り始めた。ろくに食事もとれていないのに、もしものことがあったら、バカ親と世間から言われること間違いなしである。
 ただ、登り始めると康平は頑張った。疲れた、しんどい、なども言わずに黙々とのぼった。そしてなんと登頂してしまった。嬉しかったが、それ以上に康平の頑固さに驚いてしまった。
 ペースを落としての登山だったので、尾瀬沼ヒュッテに着いたときはすっかり日が暮れていて、もう少し遅かったら暗闇で迷うところだった。綱渡りの尾瀬旅行だった。
 





 ここまで書いてきて、これは自分史ではなく、息子たちとの生活史だと気づいた。もう遅い。
 
 
第七章 学童保育
 
 息子たちは小学校に入学すると同時に学童保育にお世話になった。共働き世帯のありがたい施設だ。
 吹田東小学校の学童保育は「ひかり学級」といい、1年生から3年生まで、学校が終わった放課後をそこで過ごす。
 この「ひかり学級」にはつらい歴史があった。吹田に引っ越した次の年の夏だったと思う。新聞に学童保育の活動中に二人が水死、という記事が出た。吹田東小学校「ひかり学級」の事故であった。安威川に出かける野外活動をしていたとき、阪急電車の鉄橋下の安威川で、二人の学童が深みにはまり溺れたのだ。先生は必死に助けようとしたができなかった。
 ひかり学級は、存続さえ厳しい状況になり、閉鎖も考えられた。そんな厳しい状況の中で立ち上がったのは、ひかり学級に子どもを預けていた父母たちだった。何回も吹田市と協議を重ね、二度と悲惨な事故を繰り返さないこと、そしてそれはひかり学級だけではなく、吹田市すべての学童保育にあてはめることなどを決めていった。
 つらい出来事を教訓として立ち上がってきた。ひかり学級の定例父母会には、父親たちの参加が非常に多い。夜の会合も一因であるが、学校PTAの会合はほとんどが母親なのに対して、父親が積極的に参加してくれるのだ。私は学童保育の父母会会長もPTA会長もしたが、やりがいがあったのは学童保育であった。
 
 そんなひかり学級に息子たち三人はお世話になった。夕方まで遊んで、宿題をするのだが、健太は康平の件で学校に行けなくなっても学童保育だけは行けたのだ。先生たちの頑張りもありがたかった。夏休みのキャンプは、子どもとのふれあいよりも親同士が晩遅くまで語らうことが楽しく、勉強になった。
 息子たちもたくさんの友達ができ、ときにはケンカもすることがあったが、学童の先生はよっぽどのことがない限り、そのケンカを止めたりはしない。そのケンカが終わったときにしっかりと子どもと話すのである。丁寧に時間をかけてである。子育てとはこうあるべきと教えられた。
 結局、康平が学童保育を卒業して4年にになっても吹田市全体の学童保育の役員として残り、お手伝いさせていただいた。わずかな恩返しである。
 
 その後、康平が5年生のとき東小学校のPTA会長をさせていただいた。
 運動会や卒業式では緊張して困った。卒業式で君が代斉唱があり、私は大嫌いだったので起立せずに座っていたら、校長に怒られた。それでも座っていたので、その次の年の康平の卒業式には、来賓席への案内も来なかった。そんなに意固地にならんでもいいのに、笑い話である。
 

第八章 地域の活動、クラブ活動ほか
 
 吹田に引っ越ししたとき、そこの町会に入ったのだが、入ってすぐに町会長さんから「体育委員」をやってくれないかと言われた。隣の家の方ともろくに挨拶もしていないのに、ましてうちの町会が何件かなど皆目わからないときに、とんでもない話である。しかし、あまりに熱心で、しかも協力するからと言われたので、しぶしぶ承諾せざるを得なくなった。
 町会名は、吹田東地区の第一吹東会。体育委員の仕事はというと、毎月の小学校・中学校のグラウンドと体育館開放時に各種スポーツの運営・管理をすることで、バレーボール、卓球、ソフトボールの施設使用を町会で割り当てて調整した。当時は、町会対抗の大会が盛んで、みんな必死に頑張り、楽しんだ。それだけ人が多かったと思う。とくにバレーボールでは、わが町会はライバルの正和会と死闘を繰り返した。9人制の男女混合で、前衛のアタッカーは女性という変則ルールであった。私はセッターか中衛のセンター。高専時代以来のバレーで、年甲斐もなく興奮して盛り上がった。若かったんだろうなあ。
 
 そしてもう一つ、東地区町会対抗運動会の企画と選手集めなどである。第一吹東会には、熱心な年配の方が多くて、町会対抗リレーに選ばれた選手は、夜間、小学校のグラウンドでバトンパスの練習などをするほどだった。リレーは男女別で、小学生・中学生・10代・20代・30代・40代・50代以上の町会代表選手によるもので、髙橋家の5人は、毎年誰かは代表で走った。敏美さんも昔取った杵柄がある。あの私を惚れさせたランニングフォームで、何回も代表選手として走った。
 
 子どもたちはそれぞれにいろいろなスポーツをやった。
 雄一郎は、学童保育が3年までなので、4年生から週の何日かをスイミングスクール通うことになった。阪急正雀駅すぐのところに阪急スイミングスクールというのがあり、練習を始めた。雄一郎は、球技は苦手だが、走ることと泳ぐことは得意である。25mプールを潜水や無呼吸で軽々泳げる。そして、中学校のクラブは陸上部である。持ち前の集中力とコツコツ努力する性格で力をつけていったと思う。高校は敏美さんの母校府立春日丘高校に入学した。ここでも当然体育会系のクラブをやってくれると思ったのだが、入部したのは混声合唱の「音楽部」。このとき、はじめはガッカリした。私の中にはクラブ=スポーツしかなかったのである。後日、この愚かな考えが180度ひっくり返されるのだが・・・・
 
 健太は、5年生の終わりに自分から小学生ソフトの「吹田東子ども会」ソフトボールチームに入りたい、と言ってきた。驚いたが、理由を聞くと友達が誘ってくれて、来年、キャッチャーがいなくなるからそのキャッチャーとして入部するとのことだった。守備の要のキャッチャーがすぐにうまくなるなんて思えないし、ましてレギュラーなどは難しいだろうなあと思った。そして、入部してしばらくして練習を見に行ったのだが、健太がキャッチャーの練習をしていた。健太がホームからセカンドに投げるボールがなんとも弱弱しいのだ。届かないこともあるし、大きな山なりボールばかりである。大きなソフトボールを投げられるような強い肩ではないのだ。しかし、監督は怒ることもなく黙々と練習を続けていた。大丈夫かいな、これが第一印象である。そしてまた、しばらくして練習を見に行ったときである。明らかにキャッチャー健太の投げるボールの強さが変わってきていた。そして、試合形式の練習では、大きな声でアウトカウントを叫んでいた。子どもの成長の早さに驚いたが、監督はそれをわかっていた。監督は、私と同級生で職業は消防士。いい監督と巡り合った。吹田東子ども会のOB の中学生になっても健太はこのチームのコーチとして残り、小学生を指導していた。ソフトボールが大好きで指導者になりたかったようだ。
 中学校では野球部、高校ではバドミントン部で頑張った。高校は、雄一郎、敏美さんと同じ府立春日丘高校である。
 



 康平は、漫画を描くことが大好きで、小学校のときから4コマ漫画を描き続けていて、先生がよく学級通信に掲載してくれた。また、読書が大好きで自分で小説などもよく書いていた。スポーツにはほとんど興味がなく、健太がコーチをしている関係で「吹田東子ども会」に入ったが、私が無理やり入れたようなものである。体を鍛えたい、丈夫にしたいという思いが強すぎてである。今思うと、それは間違いであった。
 中学校では雄一郎と同じ陸上部、これも私の強制である(またまた反省)。高校は、府立港南造形高校「美術科」に入学。康平は、芸術の道に進みたかったのがやっと実現した。それを早くから応援するのが親の務めだろーと、またまた反省。

 康平が中学入学したときの写真。雄一郎大学2年、健太高校1年。



第九章 息子たちの大学
 
 雄一郎は、高校3年になり、進路を決めるとき、美術系の大学に入りたいと突然言い出した。そして、実技試験対策のため、茨木にある美大受験対策のアトリエに行きだした。音楽が好きなので、音大かとも思ったが、その第一志望は京都精華大学漫画学科であった。そして第二志望が京都市立芸大美術科である。どう考えても、第一と第二の志望は反対だろうと思うが、彼はそう決めた。すると持ち前の集中力である。残念ながら精華大学は不合格になったが、京都市立芸大は合格してしまった。普通科高校から京芸である。私は残業で夜遅く帰ってその合格を聞き、寝ている雄一郎を叩き起こしておめでとうと抱きついた。

 健太は大阪教育大学を第一志望にして頑張ってくれた。私と敏美さんの出身大学の教員養成課程である。とは言え、所在地は奈良との県境に移転したので、まったく別の大学のようであった。健太は小学校から大学、さらに教員まで、敏美さんとまったく同じ道のりである。それはそれで不思議なのだが、そう仕向けた敏美さんの影がチラホラ見えるような気がする😅

 康平は美術科高校だったので、雄一郎と同じく美大を受験した。沖縄県立芸術大学には不合格となり、京都の2つの私立大学を受験したが、一つは合格、もう一つは不合格となった。当然、合格した大学に入学すると思って喜んだが、浪人すると言い出した。なんでも、その大学には始めから入学する気はなく、不合格した大学のための試し受験だったとのこと。いろいろ説得したが、頑固な康平である。結局、浪人となり、予備校の入学手続きをとり、さらにその予備校入学までの間、私の会社の商品発送のアルバイトをした。新年度で大忙しのときなので雇ってもらった。そして、もう3月が終わるとき、不合格だった大学から、定員に空きが出たので、繰り上げ合格したと連絡があった。バタバタであったが、浪人にはならず、志望の京都精華大学美術科に入学となった。京都精華大学は学部は違うが、雄一郎が不合格になった大学である。縁とは面白いものである。余談だが、康平はその大学の同級生の薫さんと結婚した。二人が出会うのは運命だったのだ。



 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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2022.10 帰省してきました

2022-11-01 06:47:00 | Weblog
 2か月ぶりに帰省してきました。

 朝3時に出発して、山陽道、名神、新名神と走り、6時に新名神土山SAで敏美さん特製おにぎりで朝食。朝食後に仮眠。
 いつもなら仮眠は20分ほどなんですが、1時間もしてしまいました。昨日までの仕事疲れのせいでしょう。ゆっくり寝かせてくれた敏美さんに感謝です🥲

 その後、通勤ラッシュの伊勢湾岸道、新東名、東名、圏央道と走り、最後は関越道。圏央道では事故や故障車で渋滞に巻き込まれ、予定より少し遅れて東松山に到着しました。ただ、期待していた富士山がまったく見えずに残念。


 次の日から、おふくろからの用事をこなしました。
 敏美さんがおふくろの散髪をしてから、オヤジのお墓参り。そしてホームセンターに行き、肥料や腐葉土を車いっぱいに買い込みました。車の前輪が浮き上がるんではないかと思うくらいの量です🫤

 帰宅後すぐに里芋と落花生の収穫、収穫後の耕作。これで1日目の作業終了。











 夕方、敏美さんと道端の植木のカリンが大きな実をつけていたのを収穫。私が枝をゆすり、落ちてきたカリンを敏美さんがキャッチ、という段取りですが、思わぬところからカリンが落ちてきて超危ない作業です(作業中の横を弟が車で通り、2人組のカリン泥棒を目撃したとのこと。悪い奴らがいるもんです😜)。


 2日目の午前中は、耕作したところに畝を作り、夕方から敏美さんとタマネギの苗を150本植えました。

 敏美さんは、午前中、おふくろがカリンジャムを作りたいと突然言い出したので、朝からジャムとカリンジュレ作り。午後からはおふくろお得意の赤飯作りのお手伝い。今回のお赤飯は大量の栗が入った栗おこわです。

 昼食時に弟家族、昼食後に叔父夫婦が来て、楽しく話して過ごしました。
 いつもお世話になっている叔父さんはおふくろの弟で、このブログでも登場している元大工さんです。今回の栗おこわの栗は、叔父夫婦がとって皮を剥いたものです。そして、その栗は、おふくろと叔父の亡くなった妹が育てた栗の木からの贈り物です。

 晩御飯は弟家族とお赤飯、お刺身、すき焼きという正月並みのご馳走を堪能しました。

 おふくろは足が弱り、やっとこさ歩く生活です。畑仕事が生きがいですが、里芋畑では里芋の葉の下に埋もれるようにして作業しているそうです。あと何年、畑仕事ができるかわかりませんが、最後までそんなおふくろを見届けようと思います。


 風呂に入ったあと、敏美さんも私も腰や背中に湿布薬を貼りまくり、寝ました。湿布薬が目に沁みて寝られないぞ、と言いつつ、すぐに寝落ちしました😄

 帰りはいい天気。7時に出発。

 圏央道を走っていると富士山が見事に見えました。久しぶりに中央道を走って、北側から富士山を眺めて見たくなり、ルート変更。上郡に引っ越してから、中央道を走ってないので、新鮮な気分です。





 初雁PAで、久しぶりに富士山を味わいました。

 八ヶ岳もバッチリ見えました。



 中央道を走ったら温泉です。駒ヶ根ICで降りて、ガソリン給油、こぶしの湯という定番コース復活でーす🤗

 湯から上がり、家族旅行村の片隅で赤飯おにぎりを頬張る、のんびりと時間が過ぎる、幸せなひととき❣️


 さあ、あと400キロ、上郡に向かって突っ走っていくぞー!

 

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