上郡への引っ越しまであとひと月を切った。今まで自分史をできたものからアップしていたが、とりあえず大学までで一区切りつけます。まだまだ未完成ですが、、、
次は社会人編としてコツコツまとめていこうと思います。
第1章 生まれたとき
親父は大正14年(1924年)8月28日生まれ、おふくろは昭和7年(1932年)2月7日生まれ。新潟県刈羽郡の小さな村で、実家は近所である。兄弟・姉妹は次の通り。
〈親父の兄弟・姉妹〉
高橋 トミ
清太郎
キミ
千代三郎(親父)
タツ
孝四郎
6人だが、親父のうまれる前と後に小さいときに亡くなった兄弟が3人いて、9人兄弟。
〈おふくろの兄弟・姉妹〉
松木 亀一郎(戦死)
久平
山緑
清春
倉吉
キクイ
マスイ(おふくろ)
ヤイ子
クニ子
公平
辰雄
カツイ
12兄弟。
ともに兄弟が多く、戦地にも行った兄がいた。戦時中、子どもを多く生んだことで、祖母や祖父は国から表彰され、戦後は戦死した兄に対する恩給を長い期間もらっていたということである。つらい時代だったと思う。
親父は、小学校に上がる前に、小児マヒ(ポリオ)によって、右足が不自由になった。右足がとても細く、カックンカックンと歩く。身長も155cmほどで小さく、尋常小学校でも体が弱い子だった。ただ、手先は器用で、絵もうまくて芸術肌である。尋常高等小学校を卒業と同時に東京に出てきて、知り合いの紹介で浅草近くの建具職人の親方のところで修行となった。12歳である。戦争は体が弱いせいで召集されず、東京大空襲のときも焼夷弾を眺めて過ごしていた。
おふくろは尋常小学校を卒業すると、洋裁学校に入った。手に職をつけるためだったらしい。親父の実家も近所だったが、年が7歳離れていて、おふくろが5歳のときには親父は東京に出てしまったので、結婚するまでほとんど面識はなかったらしい。
そんな二人が、昭和24年(1949年)に、親の言いつけで結婚。親父24歳、おふくろ18歳。今なら問題だが、農家の大所帯ゆえの結婚だったのではと考えてしまう。おふくろは足が不自由な親父との結婚をどう思っていたのだろうか。ただ、おふくろが親父のことを悪く言ったことは一度もない。今でも、お父さんへの感謝ばかりを口にしている。結婚の形はどうあれ、本当に仲が良い夫婦だった。
実家で形だけの結婚式をしたあとで、おふくろは東京の親父のところに来たらしいが、雨漏りのする地下鉄後楽園横の都営住宅で、おふくろの兄貴との3人生活だった。嘘のような話だ。
昭和26年(1951年)に兄貴が生まれたが、産婆さんが取り上げてくれた。おふくろは19歳、おふくろの妹のクニ子さんが手伝いに来てくれた。
昭和27年に池袋に借地ながらもいい場所を見つけ、材料を新潟からトラック2台で運んで、2階建ての家を建てた。当時はまだまだ焼け野原のあとが多く、2階からは富士山が見えた。
親父は、自転車にサイドカーをつけてつくった建具をのせ、東京中を走り回った。その後、東京オリンピックのころにバイクにサイドカー、そして私が中学にあがるころにやっとトヨタのライトエースに変わっていった。親父は足が不自由なので、車の免許をとるのに苦労した。期限ぎりぎりだったと記憶している。必死に生きていたし、私たちを一生懸命育てた。
私は昭和31年(1956年)に生まれた。板橋区の荘病院というところだった。頭の大きな男の子だった。写真を見るとほんとにでかい。
第2章 保育園時代・小学校時代
物心がついて、記憶にあるのは保育園生活である。
兄は、「小桜幼稚園」というお坊ちゃま、お嬢様の幼稚園に行っていたのだが、なぜか私(と弟も)は氷川神社境内を間借りしていたバラックの「みのり保育園」というところに入れられた。園長先生がキリスト教の伝道師のような方で、当時、「保育園=貧しい家庭の子どもが入るところ」というイメージだったため、トタン屋根の小屋という感じのみのり保育園は、まさにそのイメージどおりだった。
おふくろが保険の仕事(いわゆる日生のおばちゃん)をやり始めて、共働きになってしまったための保育園入園である。
その保育園では、同年齢で10人ほどいたのだが、なんと男は私一人だった。最悪である。そのため、何回も脱走したらしい。
脱走をくり返しながらもなんとか卒園したようだ。そして昭和38年(1963年)に近くの「文成小学校」に入学。この小学校は、ベビーブームとされる昭和24年度に池袋第二小学校から分かれるようにできた新しい学校であった。クラスは1学年3クラスで、こじんまりした学校である。校庭がせまく、しかもアスファルト。転んだら大けがするような環境だった。
1年生・2年生は年寄りの女の先生で、あまり好きではなかった。3年生の先生も女の先生だったが、この先生との出会いが、その後の私の人生に大きな影響を与えた。
宮本先生という名前の先生で、なんと校区、しかも私の家の近所に住んでいた。宮本先生は、私たちが2年生まで違う名前だったが、3年生になって変わった。まだ、若かったので、結婚したのかなと思っていたが、あとからわかったのだが、離婚して旧姓にもどったのだった。先生は、体育大学出身の水泳の選手で、子どもがいた。今ならシングルマザーだ。背が高くて姿勢がよく、はじめはあまり笑わない冷たい感じの先生だった。
高校・大学になっても先生の家によく遊びに行き、当時のことを先生が振り返って話された。当時は人生で最悪のときだったとのこと。旦那には裏切られ、同僚の先生やPTAからも「離婚」ということに対して、ひどいことを言われたりされたりしたらしい。古い考えの人が多くいたのだろう。
宮本先生には、3年生から6年生まで何と4年間もお世話になった。クラス替えはあったが、いつもなぜか宮本先生のクラスになった。
当時は、近所の年上の子たちと毎日、日が暮れるまで近くの広場で遊んでいたが、先生が自分の家に帰るときによく見つかって、早く帰るように注意された。はじめは私のことを悪い仲間に入っていると思っていただろう。
私の好きな授業は体育、嫌いな授業は図画工作。親父も兄貴も手が器用で、芸術肌だったのに、絵も工作もからきしダメで、図工の時間はつらかった。
ただ、足が速かったので体育は大好きで、とくに運動会は夜も眠れないぐらい興奮した。
文成小学校では6月に小運動会、10月に大運動会の2回の運動会があった。
3年の小運動会のときである。私のクラスにはライバルの岩木勝(まさる)くんがいた。彼は国鉄(現JR)アパートの野生児で、いつも顔が真っ黒に日焼けしていた。背が高くて恰好がよく、ひとたび走り出すとどこまでも走り続けられそうな子だった。ただ、無口で勉強がやや苦手。教室ではおとなしい子だ。彼とは、いつも一緒でリレーの選手になり、走りでは勝ったり、負けたりだった。
いよいよ明日が運動会、岩木くんと戦うぞと思うと眠れない、次の朝、つまり運動会当日なんと発熱で、頭が痛くなってしまった。両親にはすぐに気づかれたが、どうしても運動会に出たくて、無理やり家を出た。
そして徒競走。
岩木くんとの戦いだ。バーンという合図で走り出したとたんに岩木くんにおいて行かれた。結局、2位である。するとすぐに宮本先生が来て、
「幸雄、もう帰れ」
と一言。私はリレーの選手、帰れないと申し出たが、先生に引きずり出され、見に来ていた親父にもつかまった・・・。体調が悪いのを先生は察知したのだ。
その晩、寝込んだ、次の日も。
やっと、体調がもどって学校に行くと、クラスのみんなが心配して声をかけてくれた。
「頭がふらふらで、かけっこで負けたんだ」
というような、私は負けた言い訳を言いまくった。給食が終わって宮本先生によばれた。そして言われた。
「幸雄、うるさいぞ」
さらに
「岩木は幸雄に勝ったなんて一言も言っていないのに、お前はうるさい」
私はおしゃべりだが、確かに私の言い訳を聞いて、岩木くんはいい気持ちがしないと思った。そして、岩木くんにあやまったが、岩木くんはまったく気にしていなかったようで、不思議な顔をしていた。
この一件は、宮本先生は私のことをよく見ていてくれた証拠である。私だけでなくクラス全員をよく見ていてくれた。何がよくて、何が悪いかである。また、人の気持ちを考えることを常に言っていた。それを怠った場面では、だれでもしっかり指導していた。ただ、それがわかったのは、小学校を卒業してからである。
その小運動会のすぐ後に、弟が生まれた。9歳違いの弟で、兄貴とはなんと14歳違い。男3人兄弟だが、一人でも女の子がいたら、どんなに華やいだろうか。私は、弟をおんぶして、よく子守をした。おんぶひもが好きだったのと、弟を友だちに大いに自慢したかった。
3年生の席替えのときである。
宮本先生が席の場所で希望がある人は申し出るように問いかけた。もちろん視力や聴力にやや難の人への問いかけであるが、私は何を勘違いしたのか手をあげて一言・・・「ひろ子ちゃんのとなりにすわりたい」と言ってしまった。
何でそんなことを言ったのか、今となっては思い出せないが、それからが大変だった。
4年生になって、幸雄のひろ子ちゃん事件がおもしろかったということで、となりにすわりたい人を各自で申し込むという「宮本方式」が始まってしまった。かつてのプロポーズ大作戦の小学生版である。今ごろ小学校で先生がこんなことをやったら大問題だが、当時はまったく自由であった。
学期ごとに男子が申し込むときと女子が申し込むときを交代で行い、それぞれペアが成立したら晴れてとなり同士になれるというシステムである。
私はひろ子ちゃん事件以来、席替えは嫌になっていたので、自分から申し込むことなどはできなかった。そのため、いつも人気のない残った男女でペアになっていた。
ただ、6年生になると、そんな私にも興味をもってくれる女子が現れた。つまり、自分からガツガツ申し込む男子はかえって嫌われだしたのだ。難しい年ごろである。
そして女子が申し込むある席替えのとき、なんと私は二人の女子に申し込まれてしまった。人生最大のモテ期が訪れたようだ。
伊利子と公代ちゃんである。伊利子はクラスで一番目立っていたグループサウンズ好きの子で、公代ちゃんは小さくておとなしい女の子である。驚いた、驚いた。
結局、どちらも断れずとうとう席替えの日、じゃんけんでとお願いした。が、宮本方式はそんなに甘くはなかった。自分で決められない私は情けないということで、とうとうどちらともペアにはなれなかった。世の中の厳しさを教えられた。
(小学校を卒業すると、伊利子は私立中学に進んで学校は分かれたがよく連絡を取り合っていて、里帰りのたびに男どうしの飲み会に呼び出していた。)
宮本先生は、2016年に亡くなってしまった。中学校の還暦同窓会のときに先生の家に行き、娘さんと思い出話で盛り上がった。たくさんのエピソードを残し、私のことをいつも気にかけてくれた恩人である。
第3章 中学校時代
中学校は、豊島区立池袋中学校である。文成小学校のほか2つの公立小学校の児童が、すべてこの池袋中学校に集まってくるので、1学年9クラスのマンモス中学校である。私の兄のときは1学年15クラスくらいあったらしいが、それでも人数が多かった。
1年で9組になり、小学校の友達ともバラバラになった。
担任の大塚忠寿(おおつかちゅうじゅ)先生は数学担当で、歳は40代の中堅先生であった。第一印象は、こわくて厳しい先生だった。そのため、数学が不得意な生徒には、苦手な先生ではなかったのだろうか。ただ、私は先生の教え方が非常に丁寧で、わからない生徒にはわかるまで教えてやるという先生のポリシーが好きだった。先生が好きになると、勉強も好きになるようだ。小学校の算数も嫌いではなかったので、数学はますます好きになった。
そんな1年生のときのことである。中学校には新しい鉄筋の校舎以外に、古い木造校舎が残っていて、その中の特別教室も当番を決めて掃除していた。ある日、その教室の掃除をしていたとき、天井の板がはがれていたところを見つけた。私をはじめ当番の男子は、なぜか天井裏を覗きたい衝動にかられてしまい、はがれた板のところから天井裏にのぼった。埃にまみれながらしばらく天井裏を探索していたのだが、いっしょにのぼったWくんが足を踏み外し、天井板をさらに数枚はがしてしまった。老朽化しているということを考えていなかった報いである。
「先生に言ったら、すごく怒られる」
と踏み外したWくんが泣き出した。しかたなく、私が大塚先生に報告をしに行った。
すぐに先生は現場を見に来てくれた。泣いていたWくんに、
「けがはなかったのか」
と聞き、大丈夫とWくんが答えると、先生はよかったとホッとしていた。そのあと、天井板が大きくはがれていた天井をじっくりと見てから、
「俺ものぼりたくなるだろうなあ」とポツリと一言。
当然、怒られると考えていた私たちは、こんなこと言った先生に驚いた。もちろんそのあと、2度とのぼるなと注意されたが、それは非常に危険だったからである。
老朽化してもうすぐ取り壊しという状況だったかもしれないが、大塚先生は教頭、校長にどのように説明したのか、もしかしてとんでもなく怒られているのではないか、張本人の私たちはとても反省したのを覚えている。この大塚先生は2年、3年と担任の先生ではなかったが、私は数学だけは誰にも負けたくないと思うぐらい好きになった。
中学校のクラブは、はじめは小学校のときに警察に習いに行っていた剣道をやろうと思っていったん剣道部に入部した。しかし、胴着の下にパンツをはいてはいけない決まりや、屋上でやる気合の「こて、つき、め~ん」大声の練習が嫌で、すぐにやめた。池袋中学校の剣道部はかなり強かったのだが、ついていけないと判断した。
そして、すぐに陸上部に入った。足が速いという自信があったのだが、それ以上にまったく強くないクラブだったのが気に入った。先生が見てくれたという記憶はなく、ほとんど3年生の先輩がメニューを考えて練習するという、緩いクラブだった。ほぼ毎日、練習があったが、つらいという記憶はない。
1年生のクラスで、はじめて友達になったのは隣の席だった「金子明生さん」という女の子であった。よく話しかけてくれる明るい子で、私の坊主頭をよくからかわれ、私は彼女のたれ目を材料に『たれ子』さんと呼んで返した。当時、コント55号の萩本欽一が「たれ目」を売りにしていたので、「たれ目」はブームだった。休み時間、彼女と話すのが楽しかった。
ただ、楽しいのは長くは続かない。1年の終わりころになると、クラスでもヤンチャな連中が出てくる。池袋中学校は土地柄もあるかもしれないが、人数だけでなく悪い連中も多い学校だった。「番長グループ」のような集団もあり、ほかの中学校や朝鮮学校の生徒とも喧嘩のうわさも多かった。
そんな番長グループの下っ端の1年生がクラスに何人かいて、よく問題を起こしていた。私は恐かったので、そんな仲間にはならないようにしていたが、何回か呼び出されて嚇かされたこともあった。そんな下っ端が、金子さんにちょっかいを出した。
「金子は目だけではなく、胸もたれてる」
「幸雄がそう言っていた」
そんなことを言いふらし始めた。私はそんなことは言ったことはないし、もちろん友達を悪く言ったりしない。
中学1年は性に目覚めるころで、早く成長する子と遅い子が入り混じっている。早く成長する子は「胸もたれてる」には興味がわくかもしれないが、私はかなり成長が遅かったのか、金子さんに対して性を感じたりはしていなかった。むしろ、この事件があって、初めて性を意識してしまった。
意気地がなかったので、下っ端どもに立ち向かうことはできなかった。
「金子さんを悪く言うな」
と、心の中では叫び続けたが、一度も声に出すことはできなかった。情けない、人生最大の後悔である。その後、金子さんとも話さないようになっていき、2年生のクラス替えで分かれてからはさらに遠い存在になってしまった。私の初恋が終わった。
この経験は、大学や社会人になったときに生きている。
「今、言わなければ後で後悔するのではないか」
何か、問題が生じたとき、つねにこのことを考えて発言するように心がけている(つもりだ)。
中学は3年間、陸上部を続けた。
豊島区の大会が国立競技場を借りてやったときがあり、そこでリレーのアンカーとして走らせてもらった。中学校最後の体育大会では、走高跳びがあり、自分の身長より高い160cmをロールオーバーというとび方でとび、全校で6位にも入った。また、リレーでもアンカーでぶっちぎって優勝した。
バレーボールやサッカーのクラスマッチもたくさん思い出がある(あった)。
ただ、2年前に中学校の同窓会(還暦同窓会)に初めて参加したとき、3年生のサッカーのクラスマッチが話題になり、そのとき同じクラスだった旧友から
「幸雄がゴール前で反則して、PKを相手に与えて負けたなあ」
ほかの友も
「あれは悔しかったなあ」
と言われてしまった。正直、私は全くその記憶がない。ウソだろう、と叫びたかった。
人の記憶は、時とともに変わるのだろうか、東京にいる友は、遠く離れた友を悪人に仕立て上げるのか、と本気で考えてしまった。(二度と同窓会には参加しないと決めた)
そんな3年間だった。そして、卒業と同時に、池袋から離れた高校(高専)を選んだ。
第4章 高専時代・大阪に来た理由(わけ)
初めての人生の選択は、高校入試。自分で志望校を見つけて、合格を目指して頑張る。
親父は建具職人、兄は工業高校を出てすでに建設会社に就職していた。こんな家族の状況で、普通科高校という選択肢は思いつかず、出した結論は「東京都立工業高等専門学校(現・東京都立産業技術高等専門学校)」。5年制の学校で、「電子工学科」を受験した。親父や兄のように器用ではないため、建具をつくるなど到底できず、それなら大好きな理科・数学を生かせるとの考えから出した結論である。
なんとか合格したものの、学校が品川区の東京モノレールの下(校舎と体育館の間にモノレールの軌道があった)にあり、池袋からの通学時間は1時間15分、それも池袋から品川までは山手線でギュウギュウ詰めを乗り越えての地獄の通学である。唯一の楽しみは、品川から乗る京浜急行にあの「山口百恵」が乗ってくることがあること。彼女は「品川女子」という中学校に通っていたので、電車が同じことがよくあった。
朝6時50分に家を出て、東武東上線で下板橋から池袋、池袋から山手線で品川、品川から京浜急行で鮫洲、鮫洲から10分歩いて学校である。水曜日と土曜日以外は8時間授業で、午後は実習や実験、それが終わってバレーボール部で練習。当時はミュンヘンオリンピックの直後で男子バレーが人気沸騰。私も高校に行ったらぜひともやりたいと思い入部した。クラブはほぼ毎日あり、帰宅する時間は9時半を回っていた。それから夕食で、炊飯器の残り飯を全部たいらげるという生活だった。そして、また朝早く学校に向かって家を出る。勉強なんてできない毎日だった。でもクラブは楽しかった。
都立高専バレーボール部はかなり実力があり、全国高専大会でもつねに優勝をねらえるくらいだった。したがって、初心者で入部した私は練習にまったくついていけず、はじめの3か月はパスとレシーブの基礎練習ばかりだった。夏休みがすぎたころにやっとレシーブ要員で試合に出られるようになった。監督は、私が異常にフライングレシーブが好きなことを面白がって抜擢してくれたのだと思う。また、準備運動のときにやる逆立ちも、コートの縦の長さを往復できるぐらいになったころから好きになった。身長が低いためにアタッカーは無理だったが、レシーブだけは自信があった。今ならリベロというポジションがあるが、間違いなくスーパーリベロになったと思う(笑)。コートを走り回ってボールをひろうことが大好きだった。
学校にはバレーボールをしに行くという感覚で1年がすぎた。
1年の終わりの3月、おふくろが倒れた。家事ができなくなった。リュウマチも発症した。
兄は会社の寮に入っていて、すでに家を出ている。9歳ちがいの弟はまだ小学校低学年。家事をしなくてはならなくなったため、クラブを続けられなくなった。はじめは、すぐに回復すると思っていたのだが、リュウマチはやっかいな病気である。結局、クラブは2年の途中で退部せざるを得なかった。
クラブをやらないと帰宅は6時。帰りに近所の市場によって食材の買い出しをして帰宅。この市場には、八百屋にも肉屋にも同級生がはたらいている。高校に行かず、中学卒業と同時に家の家業を継いでいる同級生である。
「オー、幸雄」と言って、いつもナスやコロッケをおまけしてくれた。せまい町内なので、私の家庭事情が知れ渡っていたため、応援してくれる。友達はありがたい。
夕食が終わり、片付けが済む時間はクラブが終わる時間と同じだ。つまり、学校からの帰宅にかかる時間がまるまる暇になったわけで、その時間でいろいろ考えた。はじめて将来のことを真剣に考えた。高専を出てエンジニアになることが、本当に自分が望むことだろうか、ほかの選択肢はないのだろうかなどなど・・・。
その結果、出した結論は、「高専を3年で辞めて大学へ行く」「大学で教員免許を取得する」ということ。はたして、高専をやめることを親父・おふくろは許してくれるだろうか。親戚には大学へ行った者はいなかった。また、そんな時代だった。
そこで、働きながら大学へ行くなら許してもらえるかも、そして調べた。
国立大学の教員養成系で2部、つまり夜間部があるところが1つだけあった。それが「大阪教育大学」である。さっそく、親父・おふくろに頼み込んだが、あっさり許してもらえた。幸い、2年生の秋ごろには、手がやや不自由ながらもおふくろが家事もこなすことができるようになっていた。
3年になって、高専に通いながら受験勉強をはじめた。入試は5科目だったが、何しろ、国語や社会の教科は形式だけの授業で、受験とほど遠いため、自分で勉強しなくてはならない。国語の古典、漢文はラジオ講座、社会は唯一授業でやった「日本史」しか選択肢がなかった。数学、理科は高専の授業のほうが受験の数学、理科よりはるかにレベルが高かったため、これで点数を稼ぐしかなかった。英語は好きだったから、受験勉強は苦にならない。悩みは国語、社会である。幸いに同じクラスに私と同じく高専を3年でやめて、大学を志望した石塚くんがいた。彼は「中央大学・法学部」を受験するという。法学部では日本一の有名大学である。彼の受験科目は「国語・英語・社会」の3科目であった。何で高専にきたのかわからない(私もそうだが)。彼が勉強に付き合ってくれたのだ。放課後、図書館で私の課題の「国語と社会」を勉強し、いろいろ教えてもらった。ありがたかった(彼は見事中央大学法学部に現役合格した。大学1年の夏休み、彼が会いたいというので池袋で待ち合わせをしたことがあった。そのとき、真面目で固い石塚くんがなんと彼女を連れてきた。ビックリである。ただ、それっきり彼とは連絡が途絶えた)。
そして、1975年の正月、受験前のことである。いつものごとく親族が集まったその席で、おふくろの弟の叔父が、「幸雄が大学行きたいのなら、夜学ではなく昼間にしてやれよ」と親父・おふくろに助言したくれた。うれしかった。ただ、そこから志望校を変更する時間はなかった。教員養成課程なら「東京学芸大学」や「埼玉大学」もあったのだが、、、
受験は「大阪教育大学」しかなかった。
そこから3月の入試まで、猛勉強、猛勉強、猛勉強である。2月にあった中間校(そのころの国公立大学の入試は、一期校、二期校に分かれ、その間に中間校の入試があった)として横浜市立大学・理学部を試し受験したが、50倍を超える高倍率で、あえなく粉砕。その発表を見て、すぐに大阪に向かった。本命はこっちである。かぐや姫(風かな?)のアルバムの「名残り雪」が大好きだったので、その歌詞を自分に置き換えて、感傷にむせびながらの大阪行である。
はじめての大阪、宿は梅田で、大阪外国語大学や教育大を受験する学生と同室の大部屋である。「梅田」と「大阪駅」が離れていると思い、新大阪で地下鉄に乗り換えて「梅田」に行ったのを覚えている。また、2日間の入試で、1日目が終わり、宿に帰ったときに大相撲の優勝決定戦「貴ノ花対北の海」を見たのを覚えている。貴ノ花初優勝であった。
3月の終わりに合否の発表を見にふたたび大阪に来た。別に発表は電報でも受け取れたが、合格したらそのまま学生寮の申し込みをしようと思っての来阪であった。
発表の掲示板を見に行き、自分の受験番号を見つけたが、そのときの喜びはあまり覚えていない。その後、家に帰って布団袋に衣類やら身のまわりのものを詰め込んでくれているときの母の顔、そしてワゴン車でその荷物を一緒に運送屋さんまで運んでくれたときの親父の顔ははっきりと覚えている。自分自身をなんてわがままな息子だと思った。
第5章 大学生活・寮生活、そして
学生寮は、池田市の五月丘にあり「大阪教育大学五月丘寮」という名前である。
1回生は全員池田分校での授業だったので、寮から歩いて10分の大学は、高専時代と大違いの近さであった。
寮は4人部屋で全21室、84人が収容可能だが、2人部屋と3人部屋ばかりで、50人ほどしか入っていなかった。私が入った部屋は、社会学科の2回生と教育学科の3回生との3人部屋だった。
入寮して数日後、寮生全員との顔合わせ会があったが、1回生は9人で、私以外は大阪から九州、つまり全員西日本出身だった。それが大阪なんだろうなあと思った。
入学式があって、授業の履修科目が決定していったが、寮の先輩からほとんどの教科書が下りてくるので、ありがたかった。ボロボロだったり、酒臭いものもあったが、購入しないでいいのは本当に助かった。また、「~先生の単位は取りやすい」「~先生はやめろ」という情報も、寮に入った恩恵である。
寮費は、食費込みで毎月6000円前後。朝と晩ご飯は「おっちゃん・おばちゃん」がつくってくれた。朝は味噌汁とどんぶり飯、晩はおかず一皿とどんぶり飯だが、おいしかった。
寮生のほとんどはバイトと奨学金で生活し、親からの仕送りをしてもらっているのは恥ずかしいぞという雰囲気であった。中にはパチンコで生計を立てているものもいた。
そんな寮生活に慣れてきたとき、同部屋の先輩からクラブに誘われた。バイトをしなくてはと考えていたため、クラブはできないと思っていたのだが、週2回水曜と土曜だけの活動ということで、一度ボックス(部室)に来いという、ほとんど命令であった。クラブの名前は「児童文化研究会こぐま」である。
どんな活動をするのかもわからずボックスにいくと、中に入って部会に参加しろという。まだ、入部したいとも言っていなかったのに、部員として扱われた。
部員は、男性が3人、女性が20人ほどで、『人形劇』や『紙芝居』『ペープサート』をするクラブとわかった。その出し物をもって、へき地の学校へ行ったり、子ども主体の地域の催し物に参加したり、さらには年に1度は市民文化会館で定期公演をするらしい。
部会は、その年間計画案を話し合っていたのだ。訳がわからない状態で参加していたのだが、私のイントネーションがおかしい、ということで興味をもたれ、部長(玉さんという大柄な女性)に人形劇の芝居の役をつけられてしまった。
まあ、いやならやめようという軽い気持ちだった。
大学の講義はまじめに出た。高専の授業とちがい、理科も教育概論もおもしろい。悲壮感がないのである。エンジニアになるために技術を身につけなくては、という必死感がないのである。一方、自分の知識のなさも痛感した。「同和問題」は、東京ではまったく耳にしたことがなかったし、「障がい者差別」のような問題を勉強できたことはためになった。寮ではお酒を覚えたが、それ以上に先輩とこの「同和問題」や「障がい者問題」について時間を忘れて語り合えたことが、今の自分のこれらの問題に対する考え方の原点になっている。
そんなある日のこと。
昼休み後の講義を受けようとして、いつものごとく一番後ろの席で先生がくるのを待っていたとき、汗まみれの大きな男が私の隣に転がり込んできた。サッカー部の山中くんである。理学科で体育系のクラブに入っている同級生は少なかったが、彼もその一人だ。はじめて同じ学科で知り合いになれた同級生だ。そして続けざまに女性が3人掛けの山中くんのとなりに滑り込んできた。ジャージ姿で、紺のジャージの後ろに「KBBC」の名前が入っていた。勝手に「教育大学バスケットボールクラブ」の略かな、と思った(実際は「春日丘高校バスケットボールクラブ」の略だった)。同じ学科の女性だったが、彼女も汗まみれ感が半端なかった。二人とも昼の練習後に滑り込んできたようだ。
講義後、少し話したが、大阪弁の二人の会話になかなか入れない。山中くんは甲高い声で自分が二浪であったこと、父親が校長で自分は教師にならなければならないことなど、こちらが聞きもしないことを述べ、彼女は低い声で静かにその話に対する答えを少し述べていた。ただ、私が人形劇のクラブに誘われていることを言うと、彼女は、自分もそんな活動をしたいと言っていた(こぐまの公演や島之内教会でやった大阪の大学の集まっての人形劇フェスなどもみにきてくれた)。
彼女も同じ学科だったため、講義も一緒のことが多かった。
体育の講義のときである。先生はサッカー部の顧問の先生で、山中くんにさかんに手伝いをさせていた。その日は「50m走」。3人一組で走ってタイムをとるというものだった。私は、高専のバレーボール部をやめてからは運動らしい運動をしていなかったが、走りは少し自信があった。というより、同じ学科のほかの人が遅すぎた。少しがっかりしたが、そのあとで彼女が走ったのを見て驚いた。彼女に男どもはついていけないのだ。すごく速い、速い。その姿が、一瞬で目に焼き付いてしまった。今まで経験したことのないくらい心臓もドキドキした。
一方、山中くんはタイムで彼女にも負けて、顧問の先生に「情けない」というようなことをさかんに言われていた。
寮に帰り、そのことを同部屋の先輩に話すと、瞬く間に噂が広まった。「高橋が恋をした」という噂が・・・
次々と先輩たちが私の部屋にやってきて、あれやこれやの恋愛指導である。お前は恋愛経験がないから、「手紙を書け」「お茶に誘え」から始まり、「○○(風俗)に行け」「エロ映画を見ろ」まで大変であった。
大学で先輩に会うと、「どの娘や」と聞きまくられた。関西人は、ヒトのプライバシーなど考えずにどんどん私の心の中に入りこんでくることがそのときわかったが、もう遅かった。このときばかりは正直、実家に帰りたくなった。
初体験ばかりの1学期、バタバタの連続だったが、なんとか関西弁の中でも自分の意見を言えるようになった。ただ、関西弁には苦労した。
〈困った迷った関西弁〉
関東出身者が困るのは言葉であろう。私も1回生の1学期は苦労した。
「自分はどう思うんや、自分や、自分」
これが、はじめての関西弁ショックだ。「自分は」は一人称だろう。相手のことを呼ぶのは二人称の「君、あんた、おまえ、おぬし」だろう。反応しないとひどく怒られたが、ニュアンスがわからずよばれても無視することが多かった。さらに、
・直す=片付ける
・ほかす=捨てる
・身が入る=筋肉痛になる
・しばく=たたきのめす
など、全くわからない(最近、大阪育ちの若者は相手のことを「自分」とよばなくなったような気がするが)。
バイトは、寮の先輩が、喫茶店のウェイターを紹介してくれた。授業が終わって閉店の0時ごろまでやった。そして、学生課の紹介で家庭教師を1件。ともに、晩ごはん付きで、それが私の大きなバイトの条件であった。寮の晩ごはんだけでは足りないのだ。
そしていろいろあって、結局、クラブは人形劇部に入った、いや、入らされた。
クラブもやって、クラブ後にもバイトをするような毎日だったが、つらさはなかった。若かったからだろう。家庭教師は小学校6年生の女子で、結局高校入学までの4年間続いた。晩ごはんもおいしい、とてもいい環境だった。
そして夏がやってきた。寮の夏は、暑さとの戦いである。夏休みがある7月から9月の間、帰省する寮生もいるため、寮の規則でお風呂は1日おきから2日おきになる。
エアコンのない寮では異常に暑い夜に、「今から風呂行くぞ」の集合がかかる。真夜中のこともある。目指すは大学のプールだ。当時の池田分校は夜でも鍵などなく、学内にはだれでも入れた。さすがにプールは鍵がかかっていたが、金網を乗り越えれば簡単に入れた。
真夜中のプールサイドで素っ裸になり、全身に石鹸をつけ、プールに飛び込んで流す。快感である。その後、シャワーで塩素を落として帰宅。これが寮の「夏風呂」である。
7月や9月には講義でプールも使うため、寮生の深夜の愚行を知らない女子がプールで必死に練習しているのを見たとき、変に興奮したものである。
7月、小学校が夏休みになってクラブの巡回公演がスタートした。その年は、若狭湾を中心に約10日間の長期公演である。車で荷物を運ぶのではなく、けこみという舞台と大道具・小道具を分担して持ってのどさ回り、移動はバス、舟、電車、徒歩である。
公演前日に学校に入って、体育館に舞台を設置し、その晩は学校の家庭科室やら作法室に泊めてもらう。男も女も同部屋で雑魚寝。食事は当番で自炊である。
そして、次の日の夕方に公演。観客は学校の児童だけでなく、先生や住民などさまざまであった。
公演前日、体育館で舞台の設置やリハーサルをしていると、中学生や村の人が手伝いに来てくれる。準備のあとはバレーボールやソフトボールを一緒に楽しんだこともある。
そして本番。喜んだ顔を見ると、うれしかった。いいクラブに入ったかもしれない。
巡回公演が終わった夏休み。クラブで大学に来ていた彼女に手紙を渡した。文面は「キミの力になってあげたい、キミが好きです」の一行を書いたものである。いろいろ考えて、バスケットを頑張っている彼女を応援したかった。いい付き合いがしたかったのだと思う。
返事は・・・「ごめんなさい」だった(らしい)。迷惑がられたことと、フラれたことは確かだった。その晩、クラブで、大学の合宿所を借りて打ち上げの会があった。日本酒をたっぷり飲んだ。すべてを忘れたかった。生まれて初めての恋が終わった。
数日後、「高橋がフラれて、彼女が練習している体育館で酒をがぶ飲みし、彼女の代わりに一升瓶を抱いて寝た」という噂が寮に広まっていた。どうしてこんな枝葉がついたやら、伝言ゲームはおそろしい。大酒を飲んだ合宿所は確かに体育館の近くにあったが、あんな固くて冷たい一升瓶を抱いて寝られるわけがないだろう。
次々と寮生が酒持参で部屋にやってきて、失恋から立ち直る講義をしてくれた。騒いでくれた。ただ、先輩たちの失恋の多さには驚いた。こんなにも寮生がもてないのか。うれしいような悲しいような。
その後、彼女とは授業で一緒になったが、話すことはなくなってしまい、私も恥ずかしさと自分自身への情けなさで、避けるようになってしまった。
2学期以降は暗い日々を過ごしたが、冬休みからスキー合宿などに熱中するようになり、つらさも薄らいでいった。
そんな1回生だった。
そして2回生になった。
クラブは1回生と2回生は池田分校、3回生と4回生は天王寺分校と完全に分かれて活動していた。1回生と2回生は池田分校での講義が多く、3回生からは天王寺分校での講義が多くなるためである。したがって、2回生になると、中心的に動かなくてはならない。夏の巡回公演は池田分校のクラブの活動である。
2回生になった4月のある日のこと。バイト待ちでボックスにいると、同じ学科の辻谷くんが走りこんできた。彼はクラブも同じこぐまの同回生である。
「高橋、えらいこっちゃ」
「○○さん(私がふられた彼女)がバスケットをやめて、うちのクラブに入りたいらしいぞ」『ドキッとした』
「あーそー」
「だから、お前電話で確認しろよ」 『ドキドキした』
「なんでやねん」(大阪弁が板についてきた)
「お前との確執があるから入部しにくいんとちがうか、だからや」
「なんでやねん」
「電話番号、ほら」
「なんで、電話番号知ってるんや」 『ドキドキドキドキした』
・・・・・・・・・・
辻谷くんの説得力に負けてしまい、結局、バイトが終わったときに電話をすることになっってしまった。
今まで、女子の家に電話をかけたことなど一度もなかった。今の時代なら、スマホやメールで連絡先さえ知っていれば簡単に連絡できるが、そんなものはない時代である。
「もしもし、寺尾さんのお宅ですか、わたくし、教育大学で同じ学科の高橋といいます。敏美さん、おられますでしょうか」
「はい、少し待ってください。」
『女性の声であった、ありがたかった。もしお父さんやお兄様が電話に出て、それがやくざのように恐い方だったらどうしよう、と思っていた』
・・・・
その後の電話でのやり取りはまったく覚えていないが、『クラブのみんな歓迎するから』のよう
な差し障りのない言葉を並べまくったにちがいない。
そして、彼女は入部した。本当に入部した。
彼女と私の関係、つまり幸雄が彼女にふられたことはクラブのみんなが知っていた。クラブのみんなの目を気にすると、すごくやりにくかった。しかし、彼女は本当に生き生きと活動していた。2回生からの入部はやりにくかったはずだが、彼女は自分の個性を出しながらも、一生懸命みんなにとけこんでいこうとしていた。そして、みんなもそれをしっかりと迎えたくれた。結局、私だけが変に気を使っていただけだった。小さい人間である。
そして、夏の巡回公演。行先は和歌山の南、新宮からバスで出発し、へき地校を回った。何キロも徒歩での移動があったり、食料の調達が難しくなったりもしたが、1回生も頑張り、かつ、いい天気にも恵まれ、楽しかったと全員が思える公演旅だった。
彼女とはクラブなかまというだけの関係であった、、、はずだが、夏休みが終わるとまわりがザワザワし出す。クラブの男ども(1回生も)が
「高橋(さん)、今でも○○さんが好きなんでしょう」
「お二人の関係はすごくさわやかですよ」
みたいなことをさかんに言い出し始める。
『これはイカンぞ。調子にのったらダメだ』と自分に言い聞かす。
そんな秋のある日。
バイトが終わり寮に帰る途中で、大学から帰る彼女と出会った。なんでもクラブのボックスで仕事をしていたとのこと。二人だけで初めて喫茶店に入って話をした。今までのことや、これからもよろしくということを話した。ただ、彼女も私のことをいろいろ知ってくれて、好意を持つようになったと言ってくれたように思う。
そんな2回生の秋だった。
初めてのデートは、11月のクラブ終わりの土曜日。梅田のKYKで、とんかつを食べた。そのときの敏美さんの一言。
「私、男の人と食事するとき、食べ方を上品にしようとして緊張するけど、高橋くんと食べるとき、全く緊張しないよ。」
『なんじゃそれは』と思ったが、まあ、いいか。
食事のあと
「大久くんの家に行こう」
ということになった。
大久くんは、岡山県・北木島出身のクラブ員。下宿しているところへ押しかけよう、ということになった。彼の下宿先は、阪急吹田駅のそば、彼女の家(今の私たちの家のそば)は、JR吹田と阪急正雀、相川の間で、歩いて帰れない距離ではなかった。大久くんの下宿には、私は何回も行って泊まったりしていたが、チャイムで私が出て、ドアを開けたときに彼女がいたため、彼女の顔を見たときの彼の驚いた顔はおもしろかった。3人で楽しく話すことができたが、お互いいい意味で気遣いができ、しかも自然体でつきあえる関係だったからだろう。
2回生の冬も、スキーに行きまくって過ごした。お金がないので、昼飯は朝の野沢菜とおひつのご飯を容器に入れて準備した。昼飯代よりリフト券代のほうが大事だった。
そして3回生。3回生になると、天王寺分校での講義になる。幸い、池田の講義の単位は何とかとれていたので、天王寺での大学生活になった。池田の寮から、阪急、国鉄と乗り継いでいく大学までの道のりは、高専時代と同じように嫌だった。しかも実験の講義では、うまくいかないと夜遅くまで帰れない。また、天王寺分校には2部(私が入ろうとしていたところ)があったので、大学に夜遅くまで残っても、あまり居心地はよくはなかった。
〈寮のおもしろい先輩〉
寮には面白い先輩が多くいた。さまざまな方言が飛び交っていたが、なかでも鹿児島弁はまったく理解できない単語が多い。対面してしゃべるのは何とかなるが、実家からの電話を横で聞いているときなど、熱帯の別の国の人たちの会話を聞いているようでまったくわからなかった。方言で一番きついのは岡山弁。大阪に何年もいても「~じゃ」の強い語尾の方言は直らないようだ。
風呂から上がって、寒い冬でも素っ裸でうろうろして各部屋をまわる長老もいた。寮では4回生で卒業しない先輩が多く、6回生以上は長老とよばれ、特別扱いされる。それはけっして尊敬してそう呼ぶのではなく、ただ年寄りという意味であった。
長老の中にはおかしな研究をしている人もいた。私と同じ学科で生物学教室のある長老は、寮の部屋になんとニワトリを飼っていた。鳥が植物の種を運ぶという研究のために、ニワトリに強引に種を食べさせ、フンとして出たその種が発芽するか見るというものであった。ただ、同部屋に入った寮生はいい迷惑であった。幸い、2人・3人部屋が多かったので、ほとんどニワトリ部屋には戻らず、ほかの部屋で過ごしていたようだ。
3回生でもクラブは続けていたが、巡回公演のような大きなイベントなく、大阪府内の学校に公演に出かける程度であった。3回生と4回生のクラブで盛り上がったという記憶があまりない。それよりも私たちの学科は卒論制作のために研究室に入らなくてはならず、そちらの方が忙しくなってしまった。大学生活でエンジョイできたのは1回生・2回生のときだけかもしれない。
そして4回生になった。教育大学はほぼ全員が教員採用試験を受けて、先生になる道を選ぶ。私は大阪と埼玉の小学校教員採用試験を受けることを決めた。敏美さんも同じ選択をした。
1次試験、私も敏美さんも両方とも合格した。このとき、大阪は実技テストはなかったが、埼玉は体育とピアノの試験があった。体育のジグザグドリブル走と鉄棒は、私も敏美さんもぶっちぎってやった(笑)。ピアノは私は必死だったが、小さいときから習っている敏美さんはぶっちぎったのではないか。問題は2次試験である。大阪と埼玉の試験日が同じであるため、どちらかを選ばなくてはならない。
敏美さんは埼玉でもいいと言ってくれたが、両親の年齢を考えると、敏美さんの両親の方が上である。二人で大阪を受験した。
その結果、敏美さんは合格で私は不合格。こんな試練が待ち受けていたとは思わなかった。それから卒業までの半年は、つらかった、ほんとにつらかった。
結局、次の年は大学に残る方法もあったのだが、埼玉の両親にこれ以上心配はかけられないと判断し、高校の非常勤講師をしながら、採用試験に挑戦することにした。
先輩が大阪市立の「桜宮高校」と定時制の「第二工芸高校」の講師の仕事を紹介してくれた。
そして、大学を卒業した。