アーモーおやじ

テニスのときによく出る「アーモー」。これが口癖で、なんでも首を突っ込んでは失敗を繰り返しているじいさんの日記です。

私とスポーツ 第2回

2024-09-29 09:20:00 | Weblog
 野球、剣道、陸上、バレーボール、マラソン、ダンスとやってきたことを第1回で書きましたが、今度は趣味の範囲でのスポーツです。

 はじめは卓球です。
 前職の教材編集部にいたころ、昼食後、ほぼ毎日卓球をしていました。ディスクワークだったので、運動不足解消をかねての遊びです。会社には商品部、印刷部、資料部といろいろな部署があったのですが、卓球メンバーは部署関係なく集まり、普段付き合いのない社員の憩いの場でもありました。
 遊びでしたが、毎日やっているとそれなりに上手くなっていきます。ペンホルダーからシェークハンドに代わり、当時流行っていた裏バックのスマッシュもマスターしました。
 そして吹田東地区の大会にも、町会代表として参加させてもらい、結構いい成績のときもありました🤭 大会ではすごく上手い方がおられて、コテンパンも何回か経験しましたが、、、


 続いてスキー。
 このブログでもスキーやスノボをこの歳でも楽しんでますよ、と書いていますが、スキーとの出会いは高専1年生の冬からです。東京都立工業高等専門学校では1年生の冬にスキー合宿がありました。場所は信濃森上が最寄り駅の岩岳スキー場(現在は白馬岩岳スノーフィールド)。そこに東京都立の山荘があり、都立高校や高専が合宿に使えました。

 初めてやったスキーが白馬で、そこで数日間スキー講習を受けました。
 快晴の日が続いて、北アルプスの白馬三山がきれいに見えたロケーションでの講習は最高でした。空の色が青ではなくて紺色🟦なんです。案の定、宿に帰ると目が真っ赤、俗に言う「雪目」になり痛い痛い😣
でも、それも経験、初めてのスキーは最高でした。大学でも冬はスキーです。こちらも白馬五竜に大学の山荘があり、体育会や学生課主催のスキー教室にはほぼすべて参加しました。お金がないので、リフト代を捻出するために朝ごはんのときにお櫃のご飯を握り飯にして持っていき、それを昼ごはんで食べ、一日中スキーをしていました。若かったからできた芸当ですが、今は懐かしい思い出です。




 スノーボードは60歳から始めました。次男がやっていて、いっしょに行った奥伊吹スキー場でレンタルで借りて滑りました。まずリフトに乗るのが大変で、降りるときも転びまくり。斜面を下るときも枯れ葉が舞うように右でストップ、左でストップ。それはそれは大変でした。転んでいたときに後からきた見ず知らずのボーダーに、
「やる気マンマンですね、そのお歳で」
と超失礼なことを言われました。帽子もゴーグルもしていて、はげ頭を見せてないのに、どうして私が高齢者とわかるんだ、と思いましたが、家族曰く
「立ち居振る舞いで、ジジイとわかるんですよ」と言われました。ガッカリ😮‍💨しました。しかし、私は諦めません。すぐにボードを購入しました。そして、暇なときには家の前の堤防道でスケートボードで滑る感覚を養いました。
 今はスキー場に行くと、午前中はスキー、午後はボードと決めて楽しんでおります🤗




 さあ、次は何をしようかな?
 3か月前に、職場の同僚がやっているバドミントンクラブで練習させてもらいました。テニスと同じ感覚でシャトルを打っても飛びません。ならばと全力で打つのですが、周りの方とまったく違って飛ばないんです。なんで?
 先輩が手首を使ってポンという感覚で打つんですよ、と教えてもらいました。するとどうでしょう、飛ぶ、飛ぶ。驚きました、同時に感動してしまいました。
 そして誕生日プレゼントにバドミントンラケットもリクエストさせてもらいました。次はマイラケットでやるつもりです。

 
 スポーツは発見の連続です。
 だから楽しいんですね‼️
 


 
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私とスポーツ 第1回

2024-09-26 21:33:00 | Weblog
 昨日、ナイターテニスのとき、教室に入ってきた新人二人に、私は39歳のときからテニスを始めたから、若いみなさんならすぐにテニスが楽しくなるから頑張ろう、と励ましました。そしてその晩、寝床についたとき、新人に自分が言った言葉を思い出し、テニスだけでなく、いろいろなスポーツをしたなあ、としみじみ振り返ってしまいました。



 初めてやったスポーツは野球です。小学生のころは、空き地で近所の子たちと野球ばかりやっていました。手打ち野球から柔らかなボールをバットで打ち、グローブではなく手でとる野球。そして小学校高学年になって軟球の少年野球チームに入りました。でも上手くなかったので、いつも補欠でした。いい思い出がないので、ただやったことだけを記憶しています。


 中学校では剣道部に入りました。小学校のときに池袋警察の剣道教室に何回か参加していたので、面白いかなと考えて入部しました。しかし、本格的に剣道をやるとその厳しさに負けてしまい、結局1年の1学期で退部しました。
 2学期からは陸上部に入りました。走りに関しては少し自信がありました。小学校ではいつもリレー選手で、3クラス140人ほどいた学年でもトップを争っていました。陸上部は顧問の先生がまったく熱心でなく、練習は先輩たちが考えたゆるーいメニュー。気分的にすごく楽で、中学校卒業まで続けました。


 高専に入学して入ったのがバレーボール部。中学3年のときに見たミュンヘンオリンピックでの男子バレー金メダルに感動してしまい、すぐに入りました。
 東京都立工業高等専門学校(都立高専)のバレーボール部は、全国高専大会でも常にトップを争う強豪校でした。そんなバレー部にまったくの素人が入部しました。来る日も来る日も基礎練習ばかりでした。でも、その練習にも慣れ、上達していく自分がわかるようになると、ゲームが楽しくなり、のめり込んでいきました。
 そして、試合にもレシーブ要因として出してもらえるようになりました。しかし、2年の2学期、おふくろが病で倒れました。1時間半の遠距離通学なので、クラブをすると帰りが夜9時となる生活ができなくなりました。そして、退部しました。仕方ないことでした

 大学では人形劇クラブに入って、スポーツとはまったく無縁でした。バイトバイトの生活でしたが、両親が高専を3年で中退して大阪の大学を選んだ自分を許してくれたことに対して、スポーツなどをするよりも自活するべきであり、親への経済的負担を少なくすることは当然でした。

 
 卒業して1年後に結婚し、子育てをしていたときもまったくスポーツとは無縁でした。そんな私がスポーツに目覚めたのは、息子たちがお世話になっていた学童保育の運動会のときでした。
 吹田市の小学校全校の学童保育所の学童が集まってする合同運動会が、毎年、秋の深まった時期にあり、その競技の中に学童だけでなく、親のリレーがありました。私はアンカー。中学校のときに陸上部だったので、なんとかなるだろうと甘く考えて走りました。するとゴール手前で足がもつれて大転倒。腕がずるむけ、血だらけになりました。もちろん、最下位になりました。
 みんなからは慰められましたが、私は自分の情け無さに打ちひしがれました。当時は70kg近い体重があり、運動不足丸わかりの体型でした。

 そして一念発起❗️

 走り始めました。
 会社まで11kmの道のりをバイクや車で通うのをやめ、自転車とランニング通勤にしました。毎日往復で22km、鍛錬しました。
 そしてマラソンが趣味になりました。
 10kmランからハーフマラソン、そしてフルマラソンへ。









 フルマラソンのベストは3時間51分。4時間を切ったのは結局2回だけでしたが、32歳から39歳まで楽しめました。
 
 最後は不整脈が出てしまい、マラソンをやめました。そしてすぐにテニスを始めました。テニスなら心臓の負担は少ないかな、なんて考えたからです。
 家の近くに吹田市営のテニスコートができたのをいい機会に、敏美さんとテニスを始めました。
 せっかくやるからにはスクールに入って上手くなろうと考え、阪急相川駅そばのテニススクールに入りました。
 そして、そのレッスンの2回目、左足のアキレス腱を完全断裂しました。数ヶ月前にはフルマラソンを走っていたのに、テニスでアキレス腱断裂なんて。学童保育のリレーのときと同じように、テニスを甘く見ていたようです。またまた大怪我です😢
 半年間、テニスができませんでした。
 その間、敏美さんは一人でテニスを楽しんでました。クソー‼️
 そして復活。すぐに時間を取り戻そうとテニスにのめり込みました。草トーナメントにスクールの若い子と組んで参加したり、会社でもテニス仲間を作ったりして楽しみました。スクールでは敏美さんと組んでクラス優勝もしました。



 そのテニスを今でも楽しんでいますが、途中、テニスを中断したことがあります。それはヒップホップダンスに魅せられてしまったためです。
 原因はスピードスケート⛸️高木美帆さんです。彼女は中学生のときにオリンピックに出ました。その彼女の特集番組がテレビで放映されました。そのとき、スケートだけでなく、サッカー⚽️でもジュニア日本代表であり、また、幼いころからヒップホップダンスでも舞台に立っていると紹介されました。
 衝撃でした。そしてダンスを楽しく踊る美保さんがとても素敵に思えました。
 そしてすぐに吹田駅の大阪アカデミーのヒップホップダンスの基礎コースに飛び込みました。2010年6月、53歳のときです。若い女性にまじって禿げた中年が入りました。みんなびっくりしたと思いますが、誰も嫌がらずに歓迎してくれました。実は、ヒップホップダンサーではそれが常識なんです。ダンスをする人はみんな仲間で友達なんです。年齢、性別、容姿なんか関係ないんです。私もダンスを続けてそれがわかりました。私を一番リスペクトしてくれたのは小学生で、私もその小学生をリスペクトしてました。結局、上郡にくる前の61歳まで続け、発表会にも何回か出演しました。最高齢ダンサーとして😆
 ときどき、あー、ダンスがしたいなあ❗️と思うことがあります。ついこの間も昔のダンス仲間と長時間電話してしまいました。今でも仲間です。







 上郡にきた今、スポーツはテニス中心です。上郡にも佐用にも、そして大阪吹田にもテニス仲間がたくさんいるので、いつでもラリーできます。


 以上、私のスポーツ遍歴でした。
 そのほか、卓球、スキー、スノボ、ローラースケートなんかのネタもありますが、第1回はこれぐらいにしときます🤗
 

 
 

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大林宣彦監督作品「あした」

2024-09-20 06:29:37 | Weblog
 昨日のニュースで、2年前の知床遊覧船事故を起こした遊覧船会社社長が逮捕されたとあった。

 たくさんの命が知床沖の海底に沈んだ傷ましい事故です。防げるはずの事故だ、船舶免許や通信士の勉強をしたことがある私は、なんでこんなことが起こるの、と強く思った事故でした。


 先日、行った尾道で大林宣彦監督のロケ地巡りをしましたが、その大林監督作品の一つに「あした」という作品があります。



 沈没して行方不明の小型客船の乗客9人から、家族、恋人、親友たちの元に手紙が届きます。午前0時に呼子浜に来てください、という内容です。

 指示された通りに呼子浜に行くと、突然小型客船が現れ、中から乗客が次々と現れ、再会を果たす。そして、生きていたときは言えなかったことを確認するという内容だったと思います。

 知床遊覧船の事故のとき、この「あした」みたいなことが起こらないものなあ、と願いました。


 尾道は、とても不思議な場所として、私の中に存在し続けていきます🙂


 

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彼岸花が恋しいよ

2024-09-20 06:07:00 | Weblog
 昨日は彼岸の入り。
 例年、秋霖の雨が終わり、秋めいた日が続くようになるはずなのですが、まだまだ猛暑日が終わりません。
 次の写真は9年前の今日、暮らしていた我が家の前を流れる吹田の安威川堤防道で撮ってFacebookにアップしたものです。


 赤と白の彼岸花がきれいに咲いていました。投稿したコメントには「彼岸花は短日植物で、日照時間が短くなると花芽を形成するため、日本全国ほぼ同時に咲く、、」ような内容を自慢げに書いてました😅

 今暮らしている上郡の我が家の近くの畑の周りにも彼岸花がたくさん咲くのですが、今年はまったくありません。調べたら、彼岸花は20℃以下の日が続かないと開花しないようなんです。
 日照時間+温度低下、が開花条件でした。10月になったら咲くそうです。お彼岸に見られるから彼岸花なのに、なんか寂しい気持ちになりますね😢

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金比羅さんへ

2024-09-17 20:31:00 | Weblog
 今治のルートインに泊まり、今日は金比羅さんです。
 3時間かけて一般道を走り、琴平へ。
 一般道を走るとその土地のいろいろな情報が得られます。観音寺市に大平元総理の名前の道路があったり、四国中央市に大王製紙などの製紙工場が密集していたりなど、新発見の連続でした。



 金比羅さんは初めてでした。
 800段近い階段を登り、御本宮まで行き、お参りしました。













 足腰がまだ達者な今、なんとか登れてよかったです😆


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尾道からしまなみ海道へ

2024-09-17 05:31:00 | Weblog
 尾道、しまなみ海道、瀬戸大橋というルートで旅行してます。

 尾道の千光寺公園駐車場に車を止め、千光寺さんにお参りです。連休の最終日ということで賑わっていました。





 千光寺さんを降り、アーケード街で瀬戸内天丼昼食。



 キス、ホタテ、つぶ貝の天ぷらが美味しくて、大満足です。


 尾道と言えば映画です。大林宣彦監督の不思議な映画が好きなので、その資料があるかと思い、昼食後におのみち映画資料館へ向かいました。途中、ラーメン屋さんの前を通ると、外まで行列ができていました。尾道ラーメン大人気です。




 資料館に入り、しばし閲覧。1階は小津安二郎監督作品、2階は新藤兼人監督作品で、大林監督の資料はまったくなし。残念😢でした。尾道三部作、新尾道三部作を作ったのは大林宣彦監督だー、と心の中で叫んでしまいました。
 悔しいので、大林宣彦監督作品のロケ地はないかと探すと、なんとあの「転校生」で、尾美としのりさんと小林聡美さんが階段から落ちるシーンを撮影した場所が近くにあるとわかり、すぐに出かけました。



 御袖天満宮です。階段から落ちて男女が入れ替わった場所です。千光寺さんは大賑わいなのに、ここは誰もいません。
 早速、その場所でそのシーンの真似事をして敏美さんに動画撮影してもらいました。相変わらずのバカでーす。



 バカなことをしようとしたときです。本堂の横から外国人青年が降りて来て「こんにちは」と挨拶されました。私もすぐに挨拶をしてから、「この場所は知ってたんですか」と聞くと、日本語はわからないとジェスチャーされました。チャンス到来❗️
私が知っているありったけの単語で会話しました。
 Did you know this place?
  The famous japanese movie....

 この場所が映画の撮影場所だということ、その映画が大林宣彦監督の「転校生」という作品であること。もう必死で説明しました。青年も一生懸命理解しようとしてくれました。好青年でした。旅の楽しい思い出になりました。と同時に、本気で英会話を勉強しようという気持ちになりました。言葉が通じたときの感動、最高です‼️

 千光寺さんへの上りはロープウェイです。暑いので無理はやめました。



 そしてしまなみ海道へ。

 今治手前の大島にある亀老山展望台に。







 駐車場から展望台に上って来た人のほとんどが「ウワー」と声をあげるんです。それほど素晴らしい眺めのところでした。
 下界は猛暑でしたが、ここだけは涼しいところでした。

 今治のルートインに到着。お風呂に入ってからすぐ近くのイタリアンレストランで夕食。ビールが身体全体にしみ込んでいきました🤗



 明日は金比羅さんと讃岐うどんの予定ですが、どうなるやら⁉️




 




 
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またまた思い出記事 

2024-09-14 05:38:00 | Weblog
 Facebookの7年前の投稿です。
 定年して嘱託となり、図書教材協会の研修や代理店の挨拶などで東京出張したときのものです。

 東京出張で先週の土曜日に実家に帰り、いったん大阪に戻り、今日、再び東京出張。
 やっと終わり、実家へ向かう東武東上線です。
今日は、四ツ谷で研修だったので、上智大学に寄り道しました。
 実は、高三のとき、入学したアグネスチャンに会おうとして、行ったことがあります。大ファンのクロキくんと。
 会えるわけがないのに、クロキくんは満足していたのを覚えています。
男子ばかりの学校だったので、アグネス命だったのでしょうね。

 明日、実家から敏美さんと車で帰ります。







 たった7年前のことなのに、なんか懐かしいなあ🤭
 この投稿をしたとき、コメント欄にダンス仲間のMさんの友達から「私もよく仕事で四谷に行っていました」と感想が入りました。当時、群馬県で子育て真っ最中のその方と妙に気が合い、その後も情報交換しています。関東のことが知りたくて話がはずみます。
 なんでもMさんのFacebookで友達の私を知り、この記事へのコメントをしてくれたとのこと。こんな形で友達の輪ができるんだなあ、と知りました。SNSは有効活用すれば素晴らしいツールですね❗️
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借り換えで思い出したバブル

2024-09-13 06:37:00 | Weblog
 預金金利が上がっているから、定期預金で期日がきたものは借り換えたほうがいいということで、ゆうちょ銀行へ行き手続きをしてきました。ほんのわずかな定期預金ですが、老後のための蓄えとして少しでも増えたらと考えたからです😅

 0.01%であった期日定期が0.13%、なんと13倍になってました。ゼロ金利政策からの転換によるものです。税金を抜きに単純に考えると、100万円に一年で1300円の利息がつく計算です。やったー🙌


 バブル期の1980年から1990年のころ、定期預金の利息は6.08%で種類によっては8%を超えるものもあったそうです。もちろん住宅ローンなど借りたお金の金利も高かったのですが、100万円に一年で6万円以上の利息がついていたんです。仮に1億円を貯金していたら、利息だけで裕福な暮らしができる計算です。

 バブルがはじけた1992年ころ、私たち夫婦は30代後半で子育て真っ最中でした。バブル期、ボーナスは月収の8倍ほどあり、なんとか生活にも余裕ができつつありました。
 会社ではボーナスの一部をある証券会社の金利のよい財形預金にすることを推奨していました。社員への福利の一貫でしたが、なんとその証券会社が倒産してしまい、社員のほとんどが被害を受けました。預けたお金の一部が返らない事態が発生したんです。私も20万円ほど損したことを記憶しています。ショック😨でした。
 中にはその証券会社を通して大々的に株をやっていて、年収以上の損害を被った社員もいました。バブルの泡になって消えたんです🫥


 100万円が一年で100円の利息が1300円になったと喜ぶ自分を見て、こんなことをふと思い出してしまいました。全く些細なことではありますが、バブルがはじけた時代を知る私としては、利息はこれくらいで推移するのがいいかもしれないと考えてしまいます😉
 
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エリ谷自然村の山小屋物語

2024-09-08 20:59:00 | Weblog
 エリ谷自然村は、和歌山県伊都郡九度山町にあるログハウス村です。
 39年前、ログハウス作りに興味のある仲間が集まって始めた集まりです。

 年月と共に仲間たちは高齢化して、遺作となる山小屋が多くなってきました。その一部で、とくに私の記憶にとどめたい人を山小屋と共に紹介します。泣きながら紹介します。


*ポパイの山小屋



 今年始めに亡くなった仲間の山小屋。屈強な体でバリバリ働く姿から、みんなからポパイと呼ばれていました。村で一番大きな小屋で、総会などでも使わせてもらいました。草刈りのとき、石を跳ねて私のクルマの窓ガラスが粉々に。泣きそうな顔で詫びた顔はスーパーマンポパイではなかったよ。優しい人でしたよ。あのときはごめんなさいと、10年以上経っても言い続けてましたが、村のためにどれだけ貢献してくれたか、そのことのほうだけを覚えていますからね。

「ポパイ、いつまでも忘れないからね」



*エリ谷大王の山小屋




 某大手家電メーカーの営業マンだったOさん。定年してから顎髭を伸ばし、まるで仙人のようになりました。自ら建てた山小屋に「エリ谷大王」と表札をかかげ、山小屋生活を楽しんでいました。奥様も明るい気さくな方で、私の息子たちもお世話になりました。天国の大王に恥ずかしくない人生をと心がけてますからね❗️



*大好きだった友人の山小屋




  Iさんは、大阪南部の私立高校の体育教師。アメリカンフットボールの監督。

エリ谷仲間で一番若く、私より2歳下でした。自分のトレーニングにもなるからと、南海高野線で和歌山県に入ってすぐの駅近くの自宅から、自転車で通って小屋作りをしていました。知識豊富で小屋作りをしに来ても、私の話す時間が長くて、仕事が進まないとお互いで文句を言いつつ、笑い合って楽しんでいました。一番仲が良かった仲間です。癌で一度は復活したのですが、50代になってすぐに逝ってしまいました。早すぎます。でも、私の心の中にはいつも歳をとらないIさんがいます。歳をとらないなんて、ずるいよ😢



*宴会部長の山小屋




 Sさんは早くにリタイアして、山小屋を作り始めた遊び人。奥様と娘さんが大阪梅田の地下で居酒屋を経営していて、仲間たちの集会場所になっていました(今はないかも)。総会や餅つきイベントが大好きで、放送禁止、出版禁止用語を連発する盛り上げ係。あの人が亡くなるなんて信じられませんでした。今でも飲み会のたびにSさんのさまざまなやらかしエピソードが話題になります。いつも楽しい雰囲気を作ってくれて感謝、感謝です。きっと天国でも禁止用語連発してるんでしょうね🤭



 久しぶりに山小屋に来て、仲間たちを思い出しています。人とのつながりがあっての今の自分なんだとつくづく感じています。さあ、私もみんなの記憶に残れるように頑張ります❗️

















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居酒屋で大学話

2024-09-06 05:24:00 | Weblog
 久しぶりに上郡駅近くの唯一の居酒屋Sさんで食事をしました。



 途中からお客さんが私たちだけになり、お店のご主人&奥さんと昔話で盛り上がりました。

 ご主人は上郡、奥さんは岡山生まれ。歳は私たち夫婦のほぼ一回り上です。
 四国の大学の同級生で、上郡に戻って働き結婚し、定年後に居酒屋を始めた方です。出会いが私たち夫婦と似ている大先輩です。
 終戦のときに生まれ、大学時代は日本中がデモの真っ只中。安保闘争、ビキニ環礁水爆実験、東大安田講堂事件などが続いて起こり、全国の大学で学生運動の嵐が吹き荒れていました。

 私の大学時代は学生運動が下火になっていったときでしたが、寮生活だったために寮の福利厚生改善を大学当局と交渉したり、通学してきた学生にビラ配りをして、寮の問題を訴えたりしてました。
 ご主人も寮生活だったので、当時のことを懐かしく話されていました。

 そして話がフォークソングに。
 歌声喫茶や学生集会で歌ったとのこと。まさにフォークソングの始まり世代です。
 私はフォークソング全盛期世代なので、時代は少し違います。先日、私が録音した吉田拓郎さんの曲を懐かしそうに聞いてくれました。またまた自己満足😅です。


 大学時代の記憶は鮮明なんです。若かったからですが、卒業して40年以上もたつのに昨日のことのように話せるんです。とてもとても密度が濃い時間だったんだと、つくづく思いました。

 美味しい料理と美味しいお酒で昔話。
 素晴らしい人との出会いがあれば、それだけで幸せになれるし、笑顔になれるんです。人間だけの特権かな🤗


 家に帰り、大学同級生と話がしたくなり、私の歌をグループLINEに送りました。
 またまたバカなことをやってるな、と同級生はあきれているはずですが、何人かは懐かしいと感想を言ってくれました。それでいいですよね⁉️

 


 
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