へんないきもの日記

今日も等身大で…生きてます😁

ウルトラマラソンを斬るー!⑬ 大村湾一周160km

2013-10-30 06:40:37 | 旅とランニング
 そろそろここいら辺で登場するのが、S先生の大村湾・・・

 かねがねウワサは聞いていたけど、いつ募集しているのか不明だった大会・・・あるきっかけでようやく参加することができた。やっぱり、ウルトラの世界も・・・「人脈」ですね!特にSNSの発達していなかったこの頃は。

 長崎県大村市から長崎市、そして佐世保市一体をグルリと取り囲むようにして広がる大村湾、でもスタートゴールは嬉野温泉で有名な佐賀県嬉野市・・・

 私は、このコースが好きで好きでたまらない。九州の中でも、なぜか私は大分と長崎のコースが好きだ。それは歴史と自然にあふれたコースだからかもしれない。

 そして「仏の里」と言われるくらい仏像や仏閣の多い国東半島と対照的に、長崎を走っていると、例えば田舎に行けば行くほど、畑の中に陶器でできたマリア像が立っていたりして感動する!
 
 そんな「発見」に満ち溢れたコース・・・一周は年によって逆回りになったり、どちらから回ってもよかったり、あるいは30時間くらいかけて長崎街道を行く旧道コースもあり・・・と、あらゆる「仕掛け」のある大会・・・

 旧長崎街道を行った時は、大阪をはじめとするにぎやかな関西グループと終始一緒で、そりゃ楽しかった。夜中に長崎街道の山道を通りながら、眠いのでみんなでしりとりをしていたら、いつの間にかルートから離れてしまい、たまたま通りかかった地元のくるまを止めて道を聞く、なんてこともあった。

 また、ハイって差し出されたお茶のペットボトルに「いや、飲み物あるからいいですよ。」と断るとしつこく出してくるので飲んだらウイスキーだった・・・なんてことも。

 イチゴ農家の横では、関西のおばちゃんが「おっちゃん、おいしそうなイチゴやな。」って言ったら「食べるかい?」って差し出してくれた。おばちゃんに学ぶもの大!

 そんなほのぼのとした大会を支えてくれたボランテイアは厳寒の中、不眠不休で働いていた。

 参加者の増大による安全確保と、そしてなりよりボランテイアの安全確保・・という点で、ついにこの大会も今年2月でファイナルを迎えた。

 ・・と言いつつも、また復活して4年に一度の割合でやってくれるのでは?なんて我々ウルトラ仲間の間ではささやかれているのだが・・・

 個人的には、ボランテイア無しの完全自己責任型でもいいから復活してほしい、大好きなルートである。
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ウルトラマラソンを斬るー!⑫ ウルトラ本来の楽しみを教えてくれた駄マラニック・シリーズ

2013-10-29 06:46:38 | 旅とランニング
 ウルトラマラソンを始めて2年目くらいの頃、ウルトラマラソン・メーリングリストなるものに登録した。当時は、フェイスブックなどのSNSが無かった時代、共通の趣味を持つ者同士のネットワークとして非常に重宝した。毎週のように全国あちこちの大会への参加します宣言が出された。

 そのウルトラマラソンメーリングリストに、「今度、友人が長崎でウルトラマラソンを開催するので、どなたか参加されませんか?」という案内が出ていた。

 第1回・・・というコトバに私は以外と弱い。さっそく飛びついた。

 平戸大橋付近の公園に行ってみると、なんと参加者は私を含め5名・・??

 一人一人にボランテイアスタッフがつくカタチだ。ボランテイアは、主催者・あみりんの近親者、つまり、身内や職場の同僚後輩・・・?

 参加賞は平戸のかまぼこ・・・という、今では考えられない、少ない参加者と手作り大会だからこそ出来る、実に温かいおもてなしの大会だった。

 残念ながら、寿司屋での懇親会はクルマで来たため、辞退したが、この後、場所を変え、開催された平戸のこの大会は、やがて地元のホテルをスタートゴールとし、完走後は、ひとっぷろ浴びてホテルのレストランでの打ち上げ、そしてホテルのカラオケボックスでの2次会・・・と、走りだけでなく飲むほうもウルトラ級のものに発展していく・・・

 この頃から、徐々に顔見知りも増え、私は走ることと同時に、いや、それ以上に、走ったあとの飲み会が楽しみになった。と同時に、走るタイムは遅くなっていった。

 今思えば、これこそが駄マラニック主催者の思惑だったのかもしれない。

 遅いあなたが主役です・・みたいに、みんなでワイワイ言い合いながら、だらだら走る。途中、おいしそうなパン屋があれば躊躇せず立ち寄る・・・ウルトラの新たな楽しみを与えていただいた。

 駄マラニック・シリーズは、その後、平戸街道や九十九島といった長崎の風光明媚な場所をステージにして展開していく・・・


 どれも、主催者あみりんのおもてなしの大会である。
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ウルトラマラソンを斬るー!⑪ 思い出の・・・玄海100kmウルトラマラソン

2013-10-28 06:44:18 | 旅とランニング
 海宝さんの宮古島100km遠足の打ち上げで同席した福岡県のI田さんから、「今度、福岡県で100kmマラソンをやるんだけど来てみない?」と誘われたのがこの大会・・・

 同じ日、私は秋田100kmに初めて参加を申し込んでいた。エイドやボランテイアの温かさが伝わってくると評判の大会だ。

 いったん、断ったが、後日、なぜかこの玄海のコースに興味が湧き、結局、秋田を蹴って参加した。秋田はこの後、参加することもなく、今日に至る・・・

 私が興味を持ったのは、コースの一部が当時の私の住んでいるエリアを通るためであり、いったいどんな大会いなるのだろう・・・と興味深々だった。
 
 第1回大会は、100kmどころか105kmあったのでは?と思わせるくらいの回り道コースだった。9月中旬の福岡県は、まだまだ暑い。特に海岸沿いは照り返しが強い。

 峠あり、山あり、海あり・・・と福岡県の豊かな自然を満喫したあとは、ゴール手前で砂浜を走らされる。だが、なんとここで私は男性3人を抜いた。

 当時は今より10km太っていたけど速かった。そして今よりもっと髪の毛が短かった私に、ボランテイアスタッフは、「元気な兄ちゃんが来たばい。」「いや、あれ、女性でしょ?」「男だろ?」と。

 で、結局、女性で優勝?させていただき、以後、ここの大会スタッフの方たちとお友達に・・・

 そう、E口さん夫妻とも、ここで知り合ったんですよね。

 だから、この大会は、私にとって、とても身内的な大会、親しみある大会でした。ゴールの海水浴場の民宿も職場で一度、利用したこともあり、本当に身近な大会でした。

 でも、参加者の増加とスタッフの高齢化という反比例な構図、最近のマラソン大会ではよくある構図に、最終的に10回大会?で幕を閉じることとなりました。

 私的には、この後に紹介する大村湾よりも玄海のリメンバー大会を期待しているのですが・・・
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ウルトラマラソンを斬るー!⑩ 私にとってのウルトラの原点:萩往還250km!

2013-10-27 08:08:33 | 旅とランニング
 そろそろここらで萩の話をしないといけない。というより、ウルトラを始めてわずか2年後には、すでに私は萩往還250kmにトライしていた。そう、野辺山で出会ったN村さんを通じてゲットした申込用紙に3万円を振り込んで出場資格を得たのだ。

 今でこそ、140kmを完走しないと250kmへのトライは出来ないが、当時は参加者も少なく、(参加者一人一人の顔写真とコメントをプリントアウトしたものが配られたくらいである。)この辺の規制はゆるやかだった。

 当時の私は100kmは何度も完走していたが、ライトを持って走るナイトランの経験は皆無に等しかった。今思えば、それは無謀な挑戦であった。

 初挑戦は1998年・・・以来、私は今年まで連続16回、萩250kmのスタートラインに立ち続けている。そしてゴールテープを切ったのは13回である。

 1998年5月2日午後6時・・・小雨が降り続く中、メガネにかかる水滴を気にしながらのスタート。100kmと違って、みなゆっくりだ。互いにけん制し合うようにして進む。

 すぐに暗くなり、ライトを用意。ヘッドランプを始めて使って走る。間もなく襲ってくる睡魔・・・この時、明らかにフルマラソンの対応とは違うことを思い知らされた。フルマラソンでは大会に焦点を合わせ、とにかく一週間前は疲れを残さないよう、規則正しい生活をする。

 250kmでは、この規則正しい生活がアダとなる。いつも寝ている時間がくるとたまらなく眠くなる。ただただ、キツイ。

 当時は、砂利ケ峠は、その名の通り、砂利だった。つまり、現在のように舗装された道路ではなかった。そんな中、よく道もわからないまま地図を出してもさらにわからない。バス停に着くたびに名称を確認し、時分が今、どの辺にいるのか確認しようとするが、よくわからない。仕方なく、前後のランナーについていく・・・

 そうしてなんとか2日目の夜を迎え、宗頭にたどり着いた。汗と雨でカラダはぐしょぐしょである。けど、眠い・・・2階の廊下で毛布にくるまり、眠る。

 一緒に来た大阪あたりのグループが、そろそろ出発しないと・・・と心配してくれたが、私は、かまわず寝ていた。

 無謀な挑戦、初250kmは、こうして175km地点で終わりを遂げた。


 翌朝、同じく諦めたランナーで公民館は溢れていた。でも、不思議とカラダは動く。隣にいた女性が、往還道をゼッケンはずしてゴールまで歩く・・というのでご一緒した。

 意外と脚は軽い。そう、私は体力の限界を見たのではなく、ココロの限界を見たのだ。ただ、250kmを走る・・・という大テーマに心がアップアップしていたのだ。

 往還道を行くと、歩け歩けの部の人たちとすれ違う。そうして憧れの白ゼッケン(250kmの部)を見ると惜しみなく拍手を送っていた。

 そうなのだ、カラダはボロボロでも、ここまで来ると、こうして英雄扱いされるのだ。

 そうして、歩いてゴールの瑠璃光寺にたどり着いた私が見たものは・・・

 すでに閉ざされたゴール目指して体を傾けながら必死で駆けてくる250kmのランナーの姿だった。瞬間、涙が出た。そして途中で止めたことを後悔した・・・

 荷物置き場に戻ると常連のS田さんはすでにゴールしていた。そして私に言った。「行けると思ったのにねえ。」と。そうなんだ、私は勝手に自分で自分の限界を敷いてしまった。

 待ってろよ、萩・・!来年また来るからな。


 そうして翌年、2度目のチャレンジ。魔の宗頭もクリアした。途中からH田さん率いるグループとペースが一緒になり、同行させていただくことになった。

 三見駅を過ぎて萩の海を見る頃には皆、眠気がピークでガードレールにぶつかりながら歩いた。

 そうして我々はゴール近くまで進んだ。往還道の出口まで来た時、H田さんが、各人のスタート時間を聞いてきた。ウエーブスタートなので、制限時間48時間も各人のスタート時間によって違ってくる。だから、速くにスタートした人から先に行ってもらおう、という粋なはからいらし。その心意気に感動した。今までフルの世界では「競争」しか見てこなかった。カーブでは人を押し倒す勢いで迫ってくる・・・けれど、ここにあるのは「競争」ではなく「共走」だった。

 そうして、周りの力をかりながら私は47時間半で250kmの初ゴールを踏んだ。

 次の年は、人の力を借りずに自分の力でゴールしたい、そう思った。だから、当時、まだ元気だった小野名誉会長主催の秋の試走会にも参加し、年末に自らの脚で下見した。明るい時のコースは景色が全く違って見えた。

 おかげで、翌年、私は初めて自分の脚でゴールできた。

 一度ゴールすれば必ずゴールできる、というワケではないのが萩250km・・・残念ながら、北海道から参加した時は2年ともリタイアしている。175km地点で気持ちが切れ、次の年は、3日3晩大雨で、215kmの東光寺で止めた。

 以来、リタイアは遠い過去になりつつある・・・いつもは48時間ギリギリだった記録も、ベストは43時間台を刻むことができた。

 フルや100kmが限りなく遅くなっている昨今でも、今年のタイムは44時間台をキープしている。

 ポイントは、「休憩」のとり方にある。休みグセをつけない。けれど、休むべきところではしっかり休む。

 
 そうして、3年前には念願の「10回完踏」を果たした。以後、10回完踏者が続々と現れる中、私が目指すものは「20回完踏」である。

 残念ながら・・・昨今のマラソンブーム、エントリーのクリック合戦も250kmの部にまで浸透してきている。来年5月の大会申し込みは9月ですでに250kmの定員500名に達した。

 半年以上先の大会、エントリー料3万円の大会に申し込みが殺到するという、この「異常」な状態・・・

 我々ウルトラ仲間の間では「出る大会が無くなりつつある中、次はどこへ行こうか?」が合言葉になるつつある。
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ウルトラマラソンを斬るー!⑨ 勝てば官軍、負ければ・・・?宮古島100km

2013-10-26 07:38:12 | 旅とランニング
 宮古島ワイドー50kmの部で優勝カップを手にしてから数年後、あの宮古島についに100kmマラソンが誕生すると知った。それ以前に海宝氏の100km遠足には出ていたのだが・・・海宝氏には、いつも「そんなに頑張って走りなさんな。」と諭されていた。

 こりゃ、もう、出るしかないでしょ。もちろん、「優勝」でしょ!と、強気の優勝狙いで突入ー!
(注:この頃は、まだ、キロ6分ペースを刻んで10時間台前半でいけば「優勝」のチャンスもあった。)

 帰りは那覇乗継の最終便に間に合わないと知り、宮古~那覇を知り合いの那覇市内の不動産屋の社長にお願いした。そう、社の自家用機を飛ばすようお願いしたのである。自家用機、といっても4人乗りのセスナだけど・・・

 そこまでテコ入れして、準備は万端だった。那覇から飛んできた社長と現地の居酒屋で合流し、もや子出身の割にはなぜか酒があまり飲めない社長は一足お先に帰宅した。

 残された私は、ちょうど2階が宿だった安心感から、せっかく宮古島に来たのでもう少し飲むことにした。というか、さっきから常連客でいた同年齢の女性とすっかり打ち解け、小上がりで地元のグループの泡盛をいただいていた。

 ふと、気付くと午前0時半を回っている・・あわてて2階に。

 目がさめたのは午前6時25分・・・スタートは・・・午前6時半?

 あわてて荷物を持って外へ飛び出し、タクシー捕まえてスタートのグランドまで行くが、すでに100kmの部はスタートした後・・・主催者側に申し出ると、「こまったねえ~、最後尾からスタートしてもらおうか?」と言いつつ、結論出ないままのらりくらり・・・これでは「優勝」どころではない。

 途方に暮れる中、ある案が浮かんだ。「あの・・50kmからスタートするというのは、どうでしょう?100kmのゼッケンですが、50kmの部に鞍替えするってのは?」と尋ねてみた。50kmの部は午前11時スタートで時間は十分にあった。

 結局、入賞しても表彰はしない、という条件で50kmの部スタート地点の来間大橋までマイクロバスで移動・・・

 やっぱり、気持ち悪い。前夜、泡盛を飲み過ぎた私は、この時、まだ「酔って」いた。

 50kmスタート地点で、100kmのゼッケンつけてストレッチしている私に周囲のいぶかしげな視線が集まった。「あ、昨日飲みすぎちゃって・・・」に周囲も爆笑ー

 50kmの部がスタートした。すぐに100km女性トップと思われる人に追いついた。焦る彼女に私はこう言った。「大丈夫、50kmにエントリーしてますから。」

 結局、この日も5時間ちょっとでゴールし、結果は3位だった。けれど約束通り、4位の人が繰り上げ入賞となった。

 
 その後、何度か宮古島市主催のこの100kmにエントリーした。けれど、時代は既に転換期を迎えていた。もう、100kmを10時間前半では優勝はおろか入賞すらできない時代が迫っていた。それでも1度だけ2位になったことがある。そうして再び、「カップ」を手にすることができた。思わず、空港で生ビールを入れて飲んだ。

 2位でゴールした時は、50km折り返しの前半まで女子トップで走る私に地元の宮古テレビが密着だった。必然的にテレビに映ろうと私の周りに人が集まる・・・その中に2位で走ってくる彼女もいた。

 50kmに到達するころ、すでに私のエネルギーはマックスに達していた。思わず足をゆるめたその瞬間、2位でくらいついてきた彼女に抜かされた。

 1位でゴールした彼女は、今も島々のフルマラソンでトップに君臨し、その後も宮古島100kmで首位をキープし続け、「女王」と呼ばれている・・・

 あれだけ私に密着していたカメラもゴール後のパーテイー会場では、ひたすら優勝した彼女を映し出していた。

 
 次の宮古島の思い出は、さらに時が流れて・・・海宝氏のラスト宮古島でのダブル100である。制限時間16時間の海宝氏の大会を11時間台でゴールしてしまい、翌日の制限時間14時間の地元の100kmは苦戦しながら10分前にゴールした。その時は、かなり壮絶なゴールだった。上野のドイツ村のゴールゲートに続く赤じゅうたんを必死の思いで駆けてきた。その手前のサトウキビ畑は既に真っ暗・・ボランテイアが「あと10分」と自分たちが解放される時間を待ち遠しげにしていた。こっちは必至なのに・・・

 ダブル100の思い出は一度きりだ。これが開催順が逆だったらよかったのに・・・って思う。それにしても、海宝氏が宮古島から撤退してしまったのは非常に残念である。もっとも一番残念がっているのはご自身だと思うのだが・・・
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