そろそろここらで萩の話をしないといけない。というより、ウルトラを始めてわずか2年後には、すでに私は萩往還250kmにトライしていた。そう、野辺山で出会ったN村さんを通じてゲットした申込用紙に3万円を振り込んで出場資格を得たのだ。
今でこそ、140kmを完走しないと250kmへのトライは出来ないが、当時は参加者も少なく、(参加者一人一人の顔写真とコメントをプリントアウトしたものが配られたくらいである。)この辺の規制はゆるやかだった。
当時の私は100kmは何度も完走していたが、ライトを持って走るナイトランの経験は皆無に等しかった。今思えば、それは無謀な挑戦であった。
初挑戦は1998年・・・以来、私は今年まで連続16回、萩250kmのスタートラインに立ち続けている。そしてゴールテープを切ったのは13回である。
1998年5月2日午後6時・・・小雨が降り続く中、メガネにかかる水滴を気にしながらのスタート。100kmと違って、みなゆっくりだ。互いにけん制し合うようにして進む。
すぐに暗くなり、ライトを用意。ヘッドランプを始めて使って走る。間もなく襲ってくる睡魔・・・この時、明らかにフルマラソンの対応とは違うことを思い知らされた。フルマラソンでは大会に焦点を合わせ、とにかく一週間前は疲れを残さないよう、規則正しい生活をする。
250kmでは、この規則正しい生活がアダとなる。いつも寝ている時間がくるとたまらなく眠くなる。ただただ、キツイ。
当時は、砂利ケ峠は、その名の通り、砂利だった。つまり、現在のように舗装された道路ではなかった。そんな中、よく道もわからないまま地図を出してもさらにわからない。バス停に着くたびに名称を確認し、時分が今、どの辺にいるのか確認しようとするが、よくわからない。仕方なく、前後のランナーについていく・・・
そうしてなんとか2日目の夜を迎え、宗頭にたどり着いた。汗と雨でカラダはぐしょぐしょである。けど、眠い・・・2階の廊下で毛布にくるまり、眠る。
一緒に来た大阪あたりのグループが、そろそろ出発しないと・・・と心配してくれたが、私は、かまわず寝ていた。
無謀な挑戦、初250kmは、こうして175km地点で終わりを遂げた。
翌朝、同じく諦めたランナーで公民館は溢れていた。でも、不思議とカラダは動く。隣にいた女性が、往還道をゼッケンはずしてゴールまで歩く・・というのでご一緒した。
意外と脚は軽い。そう、私は体力の限界を見たのではなく、ココロの限界を見たのだ。ただ、250kmを走る・・・という大テーマに心がアップアップしていたのだ。
往還道を行くと、歩け歩けの部の人たちとすれ違う。そうして憧れの白ゼッケン(250kmの部)を見ると惜しみなく拍手を送っていた。
そうなのだ、カラダはボロボロでも、ここまで来ると、こうして英雄扱いされるのだ。
そうして、歩いてゴールの瑠璃光寺にたどり着いた私が見たものは・・・
すでに閉ざされたゴール目指して体を傾けながら必死で駆けてくる250kmのランナーの姿だった。瞬間、涙が出た。そして途中で止めたことを後悔した・・・
荷物置き場に戻ると常連のS田さんはすでにゴールしていた。そして私に言った。「行けると思ったのにねえ。」と。そうなんだ、私は勝手に自分で自分の限界を敷いてしまった。
待ってろよ、萩・・!来年また来るからな。
そうして翌年、2度目のチャレンジ。魔の宗頭もクリアした。途中からH田さん率いるグループとペースが一緒になり、同行させていただくことになった。
三見駅を過ぎて萩の海を見る頃には皆、眠気がピークでガードレールにぶつかりながら歩いた。
そうして我々はゴール近くまで進んだ。往還道の出口まで来た時、H田さんが、各人のスタート時間を聞いてきた。ウエーブスタートなので、制限時間48時間も各人のスタート時間によって違ってくる。だから、速くにスタートした人から先に行ってもらおう、という粋なはからいらし。その心意気に感動した。今までフルの世界では「競争」しか見てこなかった。カーブでは人を押し倒す勢いで迫ってくる・・・けれど、ここにあるのは「競争」ではなく「共走」だった。
そうして、周りの力をかりながら私は47時間半で250kmの初ゴールを踏んだ。
次の年は、人の力を借りずに自分の力でゴールしたい、そう思った。だから、当時、まだ元気だった小野名誉会長主催の秋の試走会にも参加し、年末に自らの脚で下見した。明るい時のコースは景色が全く違って見えた。
おかげで、翌年、私は初めて自分の脚でゴールできた。
一度ゴールすれば必ずゴールできる、というワケではないのが萩250km・・・残念ながら、北海道から参加した時は2年ともリタイアしている。175km地点で気持ちが切れ、次の年は、3日3晩大雨で、215kmの東光寺で止めた。
以来、リタイアは遠い過去になりつつある・・・いつもは48時間ギリギリだった記録も、ベストは43時間台を刻むことができた。
フルや100kmが限りなく遅くなっている昨今でも、今年のタイムは44時間台をキープしている。
ポイントは、「休憩」のとり方にある。休みグセをつけない。けれど、休むべきところではしっかり休む。
そうして、3年前には念願の「10回完踏」を果たした。以後、10回完踏者が続々と現れる中、私が目指すものは「20回完踏」である。
残念ながら・・・昨今のマラソンブーム、エントリーのクリック合戦も250kmの部にまで浸透してきている。来年5月の大会申し込みは9月ですでに250kmの定員500名に達した。
半年以上先の大会、エントリー料3万円の大会に申し込みが殺到するという、この「異常」な状態・・・
我々ウルトラ仲間の間では「出る大会が無くなりつつある中、次はどこへ行こうか?」が合言葉になるつつある。
今でこそ、140kmを完走しないと250kmへのトライは出来ないが、当時は参加者も少なく、(参加者一人一人の顔写真とコメントをプリントアウトしたものが配られたくらいである。)この辺の規制はゆるやかだった。
当時の私は100kmは何度も完走していたが、ライトを持って走るナイトランの経験は皆無に等しかった。今思えば、それは無謀な挑戦であった。
初挑戦は1998年・・・以来、私は今年まで連続16回、萩250kmのスタートラインに立ち続けている。そしてゴールテープを切ったのは13回である。
1998年5月2日午後6時・・・小雨が降り続く中、メガネにかかる水滴を気にしながらのスタート。100kmと違って、みなゆっくりだ。互いにけん制し合うようにして進む。
すぐに暗くなり、ライトを用意。ヘッドランプを始めて使って走る。間もなく襲ってくる睡魔・・・この時、明らかにフルマラソンの対応とは違うことを思い知らされた。フルマラソンでは大会に焦点を合わせ、とにかく一週間前は疲れを残さないよう、規則正しい生活をする。
250kmでは、この規則正しい生活がアダとなる。いつも寝ている時間がくるとたまらなく眠くなる。ただただ、キツイ。
当時は、砂利ケ峠は、その名の通り、砂利だった。つまり、現在のように舗装された道路ではなかった。そんな中、よく道もわからないまま地図を出してもさらにわからない。バス停に着くたびに名称を確認し、時分が今、どの辺にいるのか確認しようとするが、よくわからない。仕方なく、前後のランナーについていく・・・
そうしてなんとか2日目の夜を迎え、宗頭にたどり着いた。汗と雨でカラダはぐしょぐしょである。けど、眠い・・・2階の廊下で毛布にくるまり、眠る。
一緒に来た大阪あたりのグループが、そろそろ出発しないと・・・と心配してくれたが、私は、かまわず寝ていた。
無謀な挑戦、初250kmは、こうして175km地点で終わりを遂げた。
翌朝、同じく諦めたランナーで公民館は溢れていた。でも、不思議とカラダは動く。隣にいた女性が、往還道をゼッケンはずしてゴールまで歩く・・というのでご一緒した。
意外と脚は軽い。そう、私は体力の限界を見たのではなく、ココロの限界を見たのだ。ただ、250kmを走る・・・という大テーマに心がアップアップしていたのだ。
往還道を行くと、歩け歩けの部の人たちとすれ違う。そうして憧れの白ゼッケン(250kmの部)を見ると惜しみなく拍手を送っていた。
そうなのだ、カラダはボロボロでも、ここまで来ると、こうして英雄扱いされるのだ。
そうして、歩いてゴールの瑠璃光寺にたどり着いた私が見たものは・・・
すでに閉ざされたゴール目指して体を傾けながら必死で駆けてくる250kmのランナーの姿だった。瞬間、涙が出た。そして途中で止めたことを後悔した・・・
荷物置き場に戻ると常連のS田さんはすでにゴールしていた。そして私に言った。「行けると思ったのにねえ。」と。そうなんだ、私は勝手に自分で自分の限界を敷いてしまった。
待ってろよ、萩・・!来年また来るからな。
そうして翌年、2度目のチャレンジ。魔の宗頭もクリアした。途中からH田さん率いるグループとペースが一緒になり、同行させていただくことになった。
三見駅を過ぎて萩の海を見る頃には皆、眠気がピークでガードレールにぶつかりながら歩いた。
そうして我々はゴール近くまで進んだ。往還道の出口まで来た時、H田さんが、各人のスタート時間を聞いてきた。ウエーブスタートなので、制限時間48時間も各人のスタート時間によって違ってくる。だから、速くにスタートした人から先に行ってもらおう、という粋なはからいらし。その心意気に感動した。今までフルの世界では「競争」しか見てこなかった。カーブでは人を押し倒す勢いで迫ってくる・・・けれど、ここにあるのは「競争」ではなく「共走」だった。
そうして、周りの力をかりながら私は47時間半で250kmの初ゴールを踏んだ。
次の年は、人の力を借りずに自分の力でゴールしたい、そう思った。だから、当時、まだ元気だった小野名誉会長主催の秋の試走会にも参加し、年末に自らの脚で下見した。明るい時のコースは景色が全く違って見えた。
おかげで、翌年、私は初めて自分の脚でゴールできた。
一度ゴールすれば必ずゴールできる、というワケではないのが萩250km・・・残念ながら、北海道から参加した時は2年ともリタイアしている。175km地点で気持ちが切れ、次の年は、3日3晩大雨で、215kmの東光寺で止めた。
以来、リタイアは遠い過去になりつつある・・・いつもは48時間ギリギリだった記録も、ベストは43時間台を刻むことができた。
フルや100kmが限りなく遅くなっている昨今でも、今年のタイムは44時間台をキープしている。
ポイントは、「休憩」のとり方にある。休みグセをつけない。けれど、休むべきところではしっかり休む。
そうして、3年前には念願の「10回完踏」を果たした。以後、10回完踏者が続々と現れる中、私が目指すものは「20回完踏」である。
残念ながら・・・昨今のマラソンブーム、エントリーのクリック合戦も250kmの部にまで浸透してきている。来年5月の大会申し込みは9月ですでに250kmの定員500名に達した。
半年以上先の大会、エントリー料3万円の大会に申し込みが殺到するという、この「異常」な状態・・・
我々ウルトラ仲間の間では「出る大会が無くなりつつある中、次はどこへ行こうか?」が合言葉になるつつある。