『自然詠の終焉――短歌構造の本質に関する一説』 岡井隆
(『遙かなる斎藤茂吉』思潮社 1982年刊 所収)から
わたしは、結局、近代における自然詠の位相を、つぎのようにかんがえておきたい。
(一)近代の自然観に逆行する。とくに、自然科学的自然観に対立する。自然は制禦と征服の対象としてあらわれることなく、むしろ、讃嘆と同化の対象として示される。こうした理念を先行させた自然詩は、一見汎神論的にみえるが、実はいかなる宗教詩ともちがうものである。自然が、もはや畏怖すべきものでも神化の対象でもないことを、この詩人たちは生活感情としては知っている。機械文明のなかの自然詩は、「失われた自然」を恢復しようとする感傷的な自然詠に堕するか、それでなければ、信仰なき汎神論――つまり擬パンテイスムの支えを必要とする。
(二)短歌は、近代人の文芸観に逆行する。歌は、五句三十一音それだけでは、円環的表現を完了することができない。そのわけは、短かさ、定型、文語、この三つの特質があるからである。充分に長く、自由に(非定型)、言文一致体で書こうとする近代人の傾向に、ことごとく抵抗する性質をもっている。短かさは、単純化を要求し、ことばの象徴機能を高めるように働らく。定型は、特殊な句法上の工夫(たとえば対句や切断と溶接、助詞助動詞の省略や活用)を生み、リズムに影響する。即ち定型律である。文語は、リズムにも韻にも影響する。が、そのもっとも大きな効果は、印象としての反時代性を強める点にある。
(三)したがって、そこがまた面白いところだが、反時代的だという点で、〈自然詩〉は目立ったのである。(後略)
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《中村 註 》
この文が1967年に書かれたことに、まず留意したい。
僕は最近、文語・口語について少々思いを巡らせているが、
文語の「もっとも大きな効果」が「印象としての反時代性を強める点にある」という一節に特に興味を引かれた。
〈昔からそうだから〉〈語意が豊富だから〉といった消極的な理由ではなく、このアグレッシブな発想。