はいほー通信 短歌編

主に「題詠100首」参加を中心に、管理人中村が詠んだ短歌を掲載していきます。

遠遊(斎藤茂吉料理歌集)

2008年10月20日 20時55分28秒 | 斎藤茂吉料理歌集
「遠遊」
(大正十一年一月から大正十二年七月まで)


 維也納歌稿 其一

暖かき君の部屋にて時うつり食(しょく)にハンガリイのPaprika(パプリカ)を愛づ

川上公使夫人と同船にてわれ來しゆゑにけふ甘納豆をもらふ

アカシアの花白く散り櫻桃(あうたう)もきのこも店頭に見えて春更く

ふるさとの茂太(しげた)のことをおもひ出しこの童子等(どうじら)に菓子を與(あた)へし

洞窟の中にみなぎる雪解水(ゆきげみづ)帝王もつねに召したまひにき

維也納市(ういんなし)の水道源(すゐだうげん)を約言(やくげん)すれば氷のみづと謂(おも)ふべからし


 ドウナウ下航

元始的に見ゆることあり網たれてドウナウの鯉捕る人のあり

おほどかに流るる河の舟に添ふ水車(すゐしや)がありて麥(むぎ)をひくらし


 ブダペスト

西瓜、瓜、桃、李(すもも)、巴旦杏(ハダンキヤウ)唐辛子をも店にならべつ

唐黍(たうきび)の赤毛のふさもなつかしと街上(がいじやう)を來て足をとどむる


 獨逸旅行

馬鈴薯(ばれいしょ)の畑のまはりに向日葵(ひまはり)が高々(たかだか)と咲きかがやくごとし

ここの食店(しよくてん)に“Trinkgeld nicht abgeschaffen ”とことわりてあり

藤巻(ふぢまき)に來りてわが食ふ日本食白飯(しらいひ)といへど過ごすことなし

黄色(くわうしよく)の部屋にて彼は八十(はちじふ)の齡(よはひ)のまにま食事せるなり

靜嚴(せいげん)なる臨終なりしと傳(でん)ありて藥のそばに珈琲茶碗ひとつ

シヤンダウの丘にのぼれば酸模(すかんぽ)はあまたほほけぬ日本のごとく


 維也納歌稿 其二

樅木原(もみきはら)深きをくぐりくれなゐのあざやけき斑(ふ)の茸(きのこ)を見たり

木原(きはら)いでて谷間(たにあひ)の道日の照ればき苺をあまたも食(は)みつ

都會(とくわい)より來にし人々茸をばルツクサツクに大切にせり

もの食ひつつ下向きに來る少女(をとめ)あり街上(がいじやう)にして言(こと)を問はむか

橡(とち)の實(み)がすでに金(かね)つき落ちゐるを吾はよろこぶ一人(ひとり)來りて

たどり來しレナウの墓の傍にほほづき赤くなれる寂しさ

秋ふかき村の小さき墓地中(ぼちなか)の胡桃(くるみ)の木より落葉しやまず

本多公使「牡丹正宗」をめぐまれぬゆふぐれぬうちに醉(ゑ)ひて歸らむ

日本(につぽん)の醤油をもて肉を煮るかたはらに牛蒡の味噌づけありて

キイルリングの Stiftkeller にくれなゐの葡萄の酒を愛(あい)し時たつ

いろいろの野菜も積みぬドウナウの鯉とならびてイタリアの魚

温き朝の乳のむ卓のうへブフシユタインの位置をしるしつ

おのづから牛馬(うしうま)の飲む泉(いづみ)ありて彼等みづからこもごもに飲む

この道に小さき食店(しょくてん)ひとつありいたく鹽辛き肉汁(そつぷ)飲ましむ

食卓のうへに載りたる「鹿の肉と團子」より暫し白き氣(いき)たつ

雪つもるこの山の獸(けだもの)にあたへたる食餌(しよくじ)のことを語る媼(おうな)よ

寺院に入りて老いし僧上の説を聽きてより夜(よる)のカフエに入る

群衆のみなぎりてゐる眞夜(まよ)なかに葡萄の酒を高くささぐる


 維也納歌稿 其三

一月の一日(いちにち)をひとり寂(しづ)かなる山に來(きた)りて晝(ひる)の食(しよく)をす

去年(こぞ)のけふ Wien(ウイン)に著きたることおもひひとりしづかに夕食すます

わが胸に袋をさげて種子(たね)をまく農(のう)を見るべく春はなりぬる

東海(とうかい)のくにの旅びとこよひ食ふ復活祭の卵と魚を

祭日(まつりび)の酒のみかはす人々は東海のくにのわれに親しむ

山がひの雪消(ゆきげ)の道に蕗の薹もえつつぞ居るかなしきまでに

谿谷(けいこく)の魚食はしむと言ひてあり“Jausenstation”の文字の親しさ

獨墺(どくおう)の授等の貧しき晝餐(ちうさん)のその食券8しよくけん)をわれも買ひ持つ

公使館にて貝の柱(はしら)をふるまはれし話を持ちて友たづねこし

このゆふべ數(かず)の子食ひぬ愛(かな)しくもウインナの水にほとびし數の子

僧院の窖(あなぐら)に入り卓(たく)のうへに葡萄の酒を持ち來(きた)らしむ

酒藏(さかぐら)に白葡萄酒を飲むときはさびしく過ぎし一年(ひととせ)おもふ


 伊太利亞の旅

麥(むぎ)の畑(はた)黄になりてつづくところあり桑の木があり唐黍(たうきび)があり

櫻の實房(ふさ)なりになる風景も旅びとわれのこころにぞ沁む

ヴエネチアの晝(ひる)の市(いち)なる海の魚われの心を躍(をど)らしめたり

Bovoli(ボオリー)といふ蝸牛(かたつぶり)うづたかく積みて賣れるを見れば樂しも

ヴエネチアは遠(とほ)いにしへゆ樂しくもこの海の魚食ひ來(きた)りしよ

古(いにし)への井戸のあとありきみづ欲りて幾代(いくよ)の過ぎ來(こ)し跡ぞ

ナポリ途上小林(こばやし)の楢(なら)櫟(くぬぎ)唐きびの赤ふさ葱の鉾(ほこ)たち

貝(くろがひ)のむきみの上にしたたれる檸檬の汁は古詩(こし)にか似たる

き斑(ふ)の牛街上(がいじょう)に立ちをりてしぼりながらの乳(ちち)飲ませけり

寺々(てらでら)もいそぎまはりて郊外はトマト畑(ばたけ)にほそ雨ぞ降る

ナポリーの食物(しよくもつ)に吾々と共通のものあるゆゑに此處(ここ)に居りたし

蠅多き食店(しよくてん)にゐてどろどろに煮込みし野菜くへばうましも

富びとの寝室も酒あたためし廚(くりや)も牀上(しやうじやう)のモザイツクも

ポンペイに吾(わ)が立ちて悲しむこと無かり食色(しよくしよく)の生(せい)と神の殿堂と

栗の花さく親しさも目前(もくぜん)にありとしおもへ飯(いひ)くひながら

いちじゆくも胡桃あんずも豊かなる南イタリアの國ゆくわれは

この町のマカロニをわれ食ひしかば心は足りぬ旅とほけども


 維也納歌稿 其四

(なし)


(原本 齋藤茂吉全集第一巻(昭和四八年))