はいほー通信 短歌編

主に「題詠100首」参加を中心に、管理人中村が詠んだ短歌を掲載していきます。

鑑賞サイト 037:花びら

2006年09月29日 19時45分22秒 | 題詠100首 鑑賞サイト
やはらかき花びらにふれ指先は指先であることに気がつく
                       (野良ゆうき) (野良犬的)

 固定もしていない花びらに、指先でそっと触れる。
 見ただけでは分からない、あるか無しかの静脈。意外なほどの
弾力。微妙な温度。
 花びらの精妙さと同時に、センサーとしての指先の優秀さにも、
改めて驚く。
 セクシーな読み方もできますが(そちらの方が正しいのかもし
れないけれど)、あえてこちらの方の読み方をしてみました。
 そのほうが、この歌に似合っているのではないか、とふと思っ
たもので。

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あれはマナ(ふるるふるると花びらは棺の上に)あれはマナです
                      (村上きわみ) (北緯43度)

 「マナ(Mana)は太平洋の島嶼で見られる原始的な宗教におい
て、神秘的な力、または元素とされる概念である。(後略)」
                 (フリー百科事典『ウィキペディア』)

 初めの「あれはマナ」は自失と自問が合わさって口をついた呟
き。次の「マナ」は自答と周囲への説明、そして確認でしょうか。
 花びらのような形をした「マナ」が棺に吸い込まれていくのか
(マナ=花びら)、それともマナが込められた花びらが棺に降り
注いでいるのか(マナ in 花びら)。
 「ふるるふるる」の擬音が、「降る」「震える」など幾通りの
意味を込めながら、全体に効いています。

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向日葵の花びら落ちて仰ぎ見て花だったんだと気づく花びら
                   (ひらそる) (*ひねもすもずく*)

 ふだん向日葵を「花」として見ることは、確かにあまりないです
ね。あまりの存在感に。
 周りのたてがみ様の花びらが散って、改めて植物として認識し
直すのかもしれません。
 象徴するものの不在によって、その存在に気づく。
 なんだか哀しくも頷けるお話です。
 (関係ないかもしれませんが、「ひらそる」って、スペイン語で
向日葵っていう意味なんですね。)