ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

私って何?

2020-11-30 07:52:26 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「君らしくないな」11月24日
 大学生が創る紙面「キャンパる」に、独協大T氏の『自分らしさ』というタイトルの小文が掲載されていました。その中でT氏は、『自分らしさって何だろう。思えば「君らしくない」とはよく言われてきた。中学・高校で6年間続けたテニスをやめ、大学で音楽を始めた時。バーでアルバイトを始めた時。たばこを少し吸うようになった時。自分がしたいからしているだけなのに、らしくないと言われる』と書き、『他人が自分の「らしさ」を定義し、押しつけようとしている』と違和感を記していらっしゃいました。
 「君らしい」も「君らしくない」も、君はこういう人だと勝手に決めつけられ、しかもそこで言われている自分像が、自分自身が描いている自分像とずれがあるために、他人からの決めつけに違和感が生じるのでしょう。
 私もよく「あなたはこういう人だ」と言われました。覚えているだけでも、「鉄仮面」「低体力主義者」「新しいタイプの指導主事」等々、要するに変わり者ということなのでしょう。私の場合、十分に思い当たる指摘ですので、さほどモヤモヤ感は抱きませんでしたが、確かに「君らしくない」や「君らしい」という言い方はよく使われます。
 言うまでもないことですが、人間は少ないいくつかの言葉で言い表すことができるほど単純なものではありません。優しさと残酷さを併せ持つものですし、同じ人があるときに見せるものと別の機会に表すものとが全く違うというのも普通のことです。さらに、Aさんの前ではこうなのに、Bさんと向かい合っているときには別人のようだということも当たり前のことです。
 「鉄仮面」と言われるほど仕事では感情を露わにしない私も、テレビで親の誕生日に初めてケーキを作ろうと悪戦苦闘する女の子の姿を見て涙を流しそうになります。何事もほどほどで体力を温存して生きていく「低体力主義者」の私も、つれあいの両親に結婚を許してもらうときには、10kgもある義父の好きな特選ビールセットを担いで炎天下の田舎道を1時間も歩いてつれあいの実家まで行きました。お盆の大渋滞でタクシーが動かず、約束の時間に遅れそうになったので。義父は、なんて情熱的な男でそこまで娘と結婚したいのか、と思ったことでしょう。
 私のことはともかく、相手を一面的に見て「君はこういう人」と決めつけることは、慎まなければなりません。特に教員は要注意です。大勢の子供を受け持つ教員は、どうしても「効率的」に仕事を進めたくなります。そのとき陥りやすいのが、この子はこういう子という決めつけ、レッテル貼であり、これをしてしまうとそれに安心してしまい、それ以上に子供理解を深めようという努力をしなくなってしまいやすいのです。しかも子供は大人以上に変化(成長)が激しく、1か月前のAさんと今のAさんとでは、違う存在になっていることが多いにもかかわらず、相変わらず「Aさんは○○な子」と思って接しているのでは、指導に支障をきたすのは当然なのです。
 「~するなんて君らしくないな」、そんな言葉を口にしていないか、教員としての自分の子供理解度を測る物差しになると思います。

 

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GOTOをやめない本音はよく分かる

2020-11-29 08:37:32 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「言葉で?」11月24日
 読者投稿欄に、中野区のK氏による『愛を言葉で伝えよう』と題された投稿が掲載されました。その中でK氏は、『親から愛されているのか不安だった』小学生のときの思い出を綴られています。『ある夜、家の近所に救急車が止まった。すると、仕事から帰ってきたばかりの母が駆け足でやってきて「交通事故にでもあったかと思った」と息を切らしながら私を抱きかかえたのだ。その時、初めて愛されていると確信を持ち、ホッとしたことを覚えている』と。そのときのK氏の安堵感、幸福感が察せられます。よかったですね、と言いたい思いです。
 この体験を基にK氏は、『私がそうだったように、家族への愛は言葉にしないと伝わらない。不安な時代だからこそ、感謝の気持ちや愛を言葉にして伝えよう』と書かれています。えっ、そう繋がっていくの?ひねくれ者の私は、違和感を覚えてしまいました。
 私流の解釈では、K氏に愛されているという確信をもたらしたのは、母の言葉もそうでしょうが、駆け足でやってきたこと、しかも息を切らして急いで来たこと、抱きかかえてくれたこと、そして書かれてはいませんがそのときの母の鼓動や体の温かさ、そういったもの、母の「言葉」よりも母の「行動」だったのではないかと思うのです。
 人は自分の思いや感情を様々な形で伝えます。そして人の真情、真意は言葉よりも行動に現れると言われます。言葉で嘘をつくことは容易ですが、天才的な詐欺師でもない限り、態度や行動でも嘘をつくことは容易ではありません。ですから、「愛してるよ」といくら言われてもそれだけで相手の愛情を信じることができないのです。
 K氏ももっと幼いころ、「ママ、私のこと好き?」などと尋ねたことがあったはずです。そして母の「もちろん、亜美ちゃんのこと大好きよ」と笑顔で答えてくれたことでしょう。それでも、心の底から信じることができずに不安だったのだと思います。その不安を解消してくれたのは、息を切らしてかけてきたという行動、抱きしめるという行動だったのだろ考えるのです。
 教員が教え子に抱く感情は、親のような愛情には及びません。それは仕方がありません。でも、相手を対等な人間として尊んでいる、相手のことを思っている、信頼している、そうした感情を子供に伝えることができなければ、授業も生活指導も教育相談もうまくはいきません。そしてそれは言葉だけでは不可能なのです。自分は、態度で、行動で子供に思いを伝えることができているか、じっくりと自省してみることが必要です。
 国民の命を守ると言いながら、GOTOは絶対に止めないという態度で本音を見抜かれる誰かさんのように、子供のことなど本音ではどうでもよいと思っているというのなら、そもそも問題外ですが。

 

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コロナより深刻?

2020-11-28 08:33:53 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「差別といじめ」11月24日
 『ハンセン病とコロナ差別』という見出しの記事が掲載されました。ハンセン病問題に取り組んでいる弁護士徳田靖之氏へのインタビュー記事です。その中で徳田氏は、『差別的な行動をしている人たちには、共通する四つの考え方があると思います。一つは感染者、その家族は社会に害をなす迷惑な存在だから排除されても仕方がないという論理。二つ目に感染したのは自己責任であるという考え方。三つ目は、自分は感染することはないという前提に立っていること。そして最後に「自分は正義の行動をしている」という確信』と、「排除」の背景について語っていらっしゃいます。
 実は、この記事の見出しを見て私は、学校におけるいじめ問題につながる知見が述べられているのではという「勘」が働き、読み始めたのです。しかし、同じように集団から特定の人を排除するという行為でありながら、両者には相反する要素の方が多かったのです。
 まず、「自分は感染しないという前提」についてですが、いじめの加害者においては、中核をなすごく少人数を除いて、いつ自分がいじめられる側に回されるかという不安を抱き続けているけーすがほとんどです。また、「自分は正義の行動」という点についても、いじめ加害者では、内心では「悪いことだ」「いじめられている人は可哀想」などと考えている場合がほとんどです。それにもかかわらず、先ほど述べたように、いじめを止めようとすると自分が標的にされるという恐怖からいじめに加わっているのです。
 「自己責任」ということについても、被害者への同情があるのですから、いじめられている子に原因があるのだからいじめられて当然という意識ではないのです。「迷惑な存在」という捉え方についても同じです。
 つまり、いじめの大半を占める無視や仲間外れという集団からの排除は、ハンセン病やコロナにおける感染者排除とは違う心理状態によってもたらされているということです。その他にも、いじめと感染症差別には違いが目立ちます。いじめ被害者は孤立していますが、感染症差別被害者には、メディアや世論という味方がいます。いじめ被害者は、今の地獄が未来永劫続くような絶望感に囚われていますが、コロナ差別被害者は完治する日を予測できます。学校を主たる生活の場とするいじめ被害者は逃げ場がありませんが、コロナ差別被害者は短期間なので自宅等に引き籠ることが可能です。
 もちろん、そうだからといってコロナ感染差別の被害が軽いと言っているわけではありません。ただコロナ差別との比較を通して、改めていじめは被害者に深刻なダメージを与え、解決の難しい大問題なのだということを痛感させられました。

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共感できない、でもよい

2020-11-27 08:30:18 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「感性も価値観も違う」11月21日
 書評欄に、橋爪大三郎氏による、『「日本習合論」内田樹著(ミシマ社)』についての書評が掲載されていました。その中に『共感できる同質な人びとと社会をつくろう、も危険である。レヴィナスの《重要なテーゼ…は「他者との関係は…共感の上に基礎づけるべきではない」》だ。人間は互いに理解も共感もしにくい。だから最低限のルールだけは守ろう。多様な人が自分らしく行動し、結果が調和すればよい』という記述がありました。
 この考え方、変わり者といわれる私は、大賛成です。共感は心地よいと思います。ですから私も共感したい、共感してほしい、他者と「共感」が成立したときには、心が弾みます。それが危険なのです。薬物中毒ではありませんが、その快感に慣れてしまうと、たまに共感を得るだけでは足りなくなり、常に共感の沼に浸っていたくなってしまうのです。それはやがて、共感を壊し、快感を遠ざける「非共感」的な存在を敵視し、排除し、攻撃したいという感情に転化していくのではないかと考えます。
 国や社会という大きな話をしているのではありません。学校の話です。学校という場は、その場の権力者である教員は、仲間とか、共同作業とか、協力とか、みんな同じとか、一緒にとかいった概念や雰囲気を好む傾向にあります。そこでは、「どうぞ皆さんご勝手に、ただ私は別にやりたいことがあるので」というような行動をとる者は、調和を乱す異分子として非難されてしまいます。
 いじめはいけないと言う教員が、実はこうした異分子を許容することができず、内心「なんでこの子はいつもみんなと同じことをしようとしないんだろう」と批判的な目で見ていることが、いじめ加害者らに「こいつは異分子。責めてもよい」という認識を与え、いじめを発生させていくという構造があるのではないでしょうか。
 近年よく聞かれるようになった嫌な言葉に「学校カースト制」があります。これも、ある一つの物差しがあるからこそ、カースト=ランク付けが行われるのです。そして一つの物差しだけが強力になるのは、やはりみんな一緒に、という雰囲気があるからです。
 私は以前このブログで、学校や学級は、乗り合いバスのようなものであるべきだと主張してきました。たまたまバスの車内である時間を共に過ごすことになった乗客、そこには共感など存在しません。当たり前の話です。しかし、だからといって各人が勝手気ままにふるまえば、車内はとげとげしい雰囲気の不快な場所になってしまいます。そこで、一定のルールやマナーが必要になるのです。足を広げて座らない、荷物を座席に置かない、大声で話さない、高齢者には席を譲る、立っている人は吊革につかまるなどのルールやマナーを守ることで、車内で過ごす時間を不快なものにしないということ、それだけが乗客に求められるべきで、それ以上の「共感」を求めるのは筋違いです。
 学校も学級も、単なる学校側の都合でつくられた人工的な集団です。価値観や感性、意につけてきた習慣など考慮されず機械的に作られた集団なのです。そこで求められるのは、学校生活を、授業を成り立たせるためのルールとマナーだけであるべきなのです。教員は子供たちに過剰な「共感」を求めてはなりません。

 

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自己保身、責任逃れの卑怯者

2020-11-26 08:47:20 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「卑怯者」11月21日
 『知事の中立 差別助長』という見出しの記事が掲載されました。朝鮮人犠牲者追悼式典実行委員長宮川康彦弁護士へのインタビュー記事です。記事は、『関東大震災後の朝鮮人虐殺に心を痛め「過ちは二度と起こさない」と誓う人たちがいる。それに対し、同じ場所で「(虐殺の)犯人は不逞朝鮮人」と全く逆の主張を繰り返した人たちがいる。後者の発言を東京都はヘイトスピーチと認定したが、都は双方に誓約書提出を求めるなど、まるで「けんか両成敗」のようだ。中立とは何だろう』という疑問について考えようとするものです。
 その中で宮川氏は、『行政の公正・中立の点で大きな問題です(略)私たちとそんな主張をする団体を同一に扱うのは中立ではなく、彼らに手を貸すものにほかなりません』『米国などで差別を否定しないことは差別への加担と見なされる風潮がありますが、知事は中立ではなく、一方に積極的に加担した』と語っていらっしゃいます。
 私は、宮川氏の立場に賛同するものですが、ここでは朝鮮人虐殺問題については触れません。ただ、見かけ上の中立が実は一方への加担であるという点について述べたいと思います。実は私がこの記事で一番反応したのは「喧嘩両成敗」ということばでした。学校現場でもこの言葉が誤って使われることがあるからです。それは、いじめ対応においてです。
 いじめ問題についての知識が不足し、指導力のない教員が侵しがちな過ちとして多いのが、「A(被害者)さんにもB(加害者)にも、問題があった。2人とも同じクラスの仲間なのだから、お互いに謝り、握手して仲直りしよう」というような表面的な対応をして問題が解決したとしてしまうことです。
 人間は完全な存在ではないのですから、誰でも何らかの問題行動はあります。しかし例えば、たまたま一度友達との会話に夢中になっていてBさんが呼んでいるのに気がつかなかったというAさんの「過失」と、そのことを根に持ち仲間を集めて一週間にわたって休み時間も、清掃時間も、給食の時間もAさんを無視し続けたというBさんの行為とを同一の「問題」として「喧嘩両成敗」するのは、Bさんのいじめに加担した不公正な行為です。 しかし、今でもこうした対応をしてしまう教員がいるのです。さらに、一教員の不適切な指導というレベルではなく、教委や校長といった立場の人間が、表面的な「喧嘩両成敗」論で、自分を公平な裁定者の位置に置き、責任逃れをするケースさえ散見されるのです。
 真実、人権というような普遍的な価値において、明らかな誤りに過剰な配慮をし、表面的な中立を装うことは、最も恥ずべきことです。全ての学校関係者が、教育者においては特に許されない行為であることを肝に銘じる必要があります。

 

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土台作りを忘れずに

2020-11-25 08:30:10 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「見えていない部分が」11月19日
 広島県教育委員会教育長平川理恵氏が、『GIGAスクール成功の要点』という表題でコラムを書かれていました。その中で平川氏は、『小中学生に1人1台のパソコン端末と高速大容量の通信ネットワークを全国一斉に整備する「GIGAスクール構想」』について論じていらっしゃいます。
 平川氏が、『PCを配ったが、全く使われていません』とならないための活用のポイントに挙げていらっしゃるのは、『「ノートテーキング」「ドリル」で終わらせぬことだ。教科横断型の授業やプロジェクト型学習、つまり「主体的・対話的で深い学び」を作り出す授業改善と並行すべき』ということです。
 私は、このブログで自身の実践や指導主事として指導してきた内容を基に、自ら問題を発見し、仮説を立て、自ら調べ考えて、問題を解決する学習の重要性を強調してきました。また、そのための学習過程として、子供が相互交流によって自らの考え方や結論新たな疑問等をぶつけ磨き合う場の設定について強調してきました。ですから、多少表現は違いますが、平川氏の主張とは重なり合う部分が多いと考えています。
 ただ、教員を経験していない平川氏が、コラムの中で触れていない部分が気になるのです。学びの土台を作る小学校の授業においては、「主体的・対話的で深い学び」ではない学びもまた重要になると考えるからです。ひらがな・カタカナを正しく覚え使えるようになること、漢字を読み書きができるようになること、掛け算九九を覚え四則計算ができるようになることなどなどです。
 必要な時期のこうした基礎的・基本的なことを身に着けないと、「主体的・対話的で深い学び」など、机上の空論、絵空事に過ぎなくなってしまうのです。そして、当たり前のように新聞を読み、論理的に書かれた事務文書を作成して仕事をしている「大人」多くが理解していないのですが、小学校低学年の子供にそうした知識や技能を確実に身に着けさせるのはなかなかの難事なのです。
 研究者によって、教科書の文章を理解できない子供が無視できない割合で存在するという事実が明らかにされましたが、その多くは、当然のことながらPCを目の前にしても「主体的・対話的で深い学び」などできず、途方に暮れるだけです。
 平川氏の指摘通り、『PCを活用した「主体的・対話的で深い学び」のための教員研修に力を注ぐ』『「オリエンテーション」のカリキュラムを作成』『先行してPCを導入した県立高校の先生が近隣の小中学校の教員に研修』等の施策も大事だと思いますが、学びの基盤づくりにおける授業という視点からの提言も、期待したいと思うのですが。

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休まず働く綺麗な先生

2020-11-24 07:45:56 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「バーチャルティーチャー」11月18日
 『進化続けるバーチャルタレント』という見出しの特集記事が掲載されました。『人間さながらの「バーチャルタレント」が身近な存在になってきた。ファッションモデルや芸能タレントとして起用する企業も増えている』という現状について報じ、今後の展望や課題について考える記事です。
 記事を読み、驚きました。自分が社会から取り残されている気がしました。『世界的なファッション雑誌「GRAZIA」中国版の表紙を飾ったのは、ピンク色のボブカットが印象的な「imma」。人間の体にCGの顔を合成して作られたバーチャルタレントだ』という記述とともに、その写真が掲載されているのですが、全く「人」と区別がつきません。『自動車メーカー「ポルシェ」や化粧品ブランド「SK-Ⅱ」の宣伝に起用』されているというのです。そうした例は他にも数多くあるということです。『写真や画面の中の、その人がバーチャルなのか生身なのかさえ見分けがつかなくなっている』のです。
 しかも『この技術で生み出されたモデルは「早い、安い、使いやすい」の三拍子がそろっている(略)コロナウイルスの感染拡大も、バーチャルモデルにとっては追い風だ。体調を気遣ったり、撮影で感染したりする心配がなく、スキャンダルと無縁なことも企業にとって利点になるからだ』ということなのです。
 私はこの記事を読んで、バーチャルティーチャーという言葉が浮かびました。コロナ禍、リモート授業が導入され、今後新しい日常ということで、さらに拡充される動きが強まっています。私は以前このブログで、リモート授業の拡充の行き着く先は、その教科・分野における日本一の教員が授業をし、それを全国の子供が画面越しに受けるという形に近づくという指摘をしました。あくまでも、実際には起こりえないSF的な極論としてです。
 しかし、今回の記事では、バーチャルタレントは、AIを活用すれば、『いじめに遭った子どもの相談に乗り、1人暮らしの高齢者の話し相手になる。一人一人事情が異なる人たちとの心の交流ができ、いつでも寄り添える存在になる』というのです。そうであるならば、実在しないバーチャルティーチャーを作り出し、AIを活用することによって一人一人の子供の質問に答え、ときには励まし、ときには叱責するという昨日をもたせることによって、マンツーマンの家庭教師のような懇切丁寧なバーチャルティーチャーが授業をする学校というものが実現するというのは、非常に現実味をもった未来像なのではないかと思うのです。
 たしかに初期費用は膨大になるかもしれませんが、その後のランニングコストは安く、長い目で見れば予算削減効果も見込まれます。勤務上の管理も不要ですし、業績評価や賞罰といった人事管理の問題もありません。不祥事で免職、欠員が生じるということもありません。良いことだらけだと感じる人もいるはずです。
 リモート授業を前提とする限り、反対するとしたら、どんな理由があるのだろう。考え込んでしまいました。

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直接?

2020-11-23 08:51:15 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「聞き取り調査?」11月18日
 『ヤングケアラー「本人に聞き取り」 政府、初調査で方針転換』という見出しの記事が掲載されました。『「ヤングケアラー」をめぐり、萩生田光一文部科学相は17日、政府が今冬に行う初の全国調査では、児童・生徒から直接実態を聞き取ることになるとの見通しを示した』ことを報じる記事です。
 たしかにその方がより的確に実態を把握することができるでしょう。ですから、その方針自体に異議を唱えるつもりはありません。ところで、「直接実態を聞き取る」というとき、皆さんはどのような調査形態をイメージなさいますか。私は、調査員が面接して(コロナ禍ではリモート面接も可)やりとりをするというイメージが浮かびました。そして、相当多くの調査員を確保し、日程調整等の労力が必要だと考え、そんなことが可能なのかと危惧しました。
 ところが記事を読み進むと、『厚生労働省から、学校を通じて児童・生徒に直接アンケートをする方向で検討する』ということなのだそうです。それを本人から「直接実態を聞き取る」と表現するのは、羊頭狗肉、誤魔化しではないかと思うのです。
 学校は様々な調査を行います。子供のことを少なくとも厚労省の役人よりもはよく知っている教員が、調査票を読み、日ごろの言動と併せて、ときには行間まで読み取って、「調査票にはこう書かれているけれど、実際は~」などと良い意味で推理を働かせ、子供にもう一度確認するなどして、調査を進めているのです。いじめの実態調査などもそのようにして行われていますが、それでも多くの「漏れ」が生じているのです。
 学校を通じて、趣旨を説明し、記入の仕方を理解させ、そして回収させる、そんな調査では、見えにくいヤングケアラー問題の実態を把握することは難しいと思います。文科省と厚労省はもう少しこの調査に人手と予算をかけるべきです。具体的には、学校に対して、調査票や把握している家族構成、級友等からの情報などを基に、少しでもヤングケアラーではないかと思われる要素がある子供をすべて報告させ、その子供たちを対象とした聞き取り要員を揃え、聞き取り要員を各学校に派遣し、直接面談して詳細を聞き取る、というような体制を整えるべきだと考えます。
 聞き取り要員は、各自治体ごとに、対象となるのは小中校の児童生徒数の2割と想定し、一人の聞き取り要員が20人から聞き取ると仮定して、教員と教委、首長部局の職員から構成すればよいのです。私の住む区で計算すると、対象となる小中学生は約5000人、必要な聞き取り要員は250人、十分可能な人数です。要する時間も、一人30分とすれば、10時間、1週間で終了可能です。
 ヤングケアラー問題は、子供の学習権を保証するという、教育行政においてももっとも基本的な課題です。ぜひ、本当に役に立つ調査にしてほしいものです。

 

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学力につなげる指導力

2020-11-22 08:33:51 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「必要な学び」11月17日
 サイエンスプロデューサー米村でんじろう氏が、『夢中になれば道開ける』という表題でコラムを書かれていました。その中で米村氏は、都立高校の教員時代について、『苦労しました。実験は生徒が喜んだけど、「もっと受験用の勉強を」と求められて辞めました』と振り返っていらっしゃいます。
 現在の米村氏は、テレビ等で面白い実験を披露し、活躍なさっていますが、高校の教員としては実験授業だけでは通用しなかったということのようです。皆さんは、米村氏の述懐をどう捉えますか。ポイントは、受験用の勉強を求められるということの捉え方にあります。
 科学の面白さを伝えようとする米村氏の姿勢を素晴らしいと評価する、そこまでは多くの人が共感すると思います。私も同じです。しかし、そこからが分かれます。目先の大学進学という小事に心を奪われ、科学への好奇心や探求心という「生きる力」に直結する大切な能力・資質を伸ばすチャンスを放棄してしまう生徒や保護者・学校側の見識のなさを責めるか、現実問題として大学受験に役立たない知識や経験ばかり身に着けて大学不合格となってしまえば、大きな損失であると受験指導をしない米村氏の責任を重く見るか、の2つに。
 私はどちらでもありません。まあ、強いて言えば米村氏の力不足を指摘するのですから、後者に近いかもしれませんが。私は小学校の教員でしたし、社会科を専門教科として研究を続けてきたので、米村氏とはあまり共通点はありません。ただ、校種や教科は違っていても、授業というものの本質は同じだと考えています。
 私も子供の興味を引くために、様々な工夫をしてきました。実際に自動車を分解させてみたり、昔の土木作業を体感させるために直径70cmの丸太をのこぎりで切断させたり、火起こし体験や竪穴式住居づくりをさせたり、海水から塩を作らせたり。いずれも、子供たちは喜んで取り組みます。授業後に感想を書かせると、面白かった、疲れたけどまたやりたい、など前向きな言葉が並びます。しかし、それでよい授業ができたと思うのは素人です。
 子供の興味関心を引きつけた後、どのように「学習指導要領の内容に沿った学習」に接続発展させ、必要な知識と技能、考える力を身に着けさせるか、それこそが難しいことであり、プロの教員の腕の見せ所なのです。しかも、与えられた時間は限られているのです。子供が興味をもったからといって、その学習ばかりに時間をかけ、学習指導要領に定められた内容の学習を終えることができないのでは、公立学校の教員の責任を果たしたことにはならないのです。学習指導要領の内容をきちんと終えることは、学校・教員と国民の契約なのですから。
  教員はイベント屋ではないということです。実は現役教員時代の私は、大いにイベント屋的な部分があったのです。当時の私はそんな自分を、アイデア豊富な実践家と自己評価していたのです。恥ずかしい限りです。
 米村氏には、多少イベント屋的な部分が他の教員よりも多くあったのではないか、というのが私の考えです。もちろんそれはサイエンスプロデューサーとしての米村氏を批判するものではありません。ただ、教員とは、授業とは、と考えるとき、忘れないでほしいと思って自分の思いを書いてみたものです。イベントを受験にも役立つ知識や技能につなげるのが普通の教員です。

 

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そのことを何と呼ぶ?

2020-11-21 08:37:20 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「そのことを何と呼ぶ」11月15日
 放送タレント松尾貴史氏が、『「学術会議任命拒否事件」 あからさまな違法行為追及を』という表題でコラムを書かれていました。書かれている内容はもっともなことばかりでしたが、今回私が注目したのは、次の一文でした。『菅首相による「学術会議任命拒否問題」というよりも、これは「学術会議任命拒否事件」というべきではないだろうか。もちろん問題であることは確かだが、ここまであからさまな違法行為をやって居直っているこの国の首相については「事件」として追及を緩めるべきではない』。
 ある事象について、どのように命名するかによって、その事象のもつ意味自体が変わってしまうというのはよくあることです。痴呆症と呼ぶのか、認知症と呼ぶのか、そこには単なる呼称という以上に、その人や症状についての認識や対応までも変えてしまう力があるように、です。
 私が教委で指導室長をしているとき、管下の学校の教員が若い女性宅を覗き警察に逮捕されるという事件が起きました。私と校長は、全校保護者向け説明会を開き、状況を説明し、今後の対処方針を示すことにしました。その説明会で校長が、「今回の事故につきましては~」と話し始めるとすぐにある保護者が手を挙げました。「校長は今事故と言った。これは事故ではなく事件、犯罪なのではないか。事故という認識なのか。事故というのは、起こってしまったものだから自分には責任がないという意識の表れなのではないか」とその男性は追及してきたのです。校長にそうした責任回避の意図はなかっただろうと思います。責任感の強い方で、自ら辞職を申し出てきたほどの方でしたから。
 しかし、怒りと不安に駆られていた保護者から見れば、そう思わざるをなかったのも理解できます。私は、「教育行政では、教員の不祥事については、服務事故という用語を使う。そのために事故という言葉が出てきただけであり、校長も教委も許しがたい犯罪行為という認識で一致している」と説明し了解を得ましたが、今でも一言のもつ重みを再認識させられた事案として記憶に残っています。
 学校では様々な出来事が起きます。体罰「問題」、いじめ「事案」、被害者にとっては、事件であり、犯罪であるという認識でしょう。問題や事案という言葉を使っただけで被害者やその保護者をさらに傷つけてしまう可能性があります。一方、何でも事件というのでは、加害者側に不満がたまるケースもあるでしょう。
 また、よく使われる言葉に「不適切な指導」や「行き過ぎた指導」があります。そもそも暴力とか、人権侵害の暴言としか言いようのない場合にこうした表現が使われると、教委や校長の見識が問われます。危機管理としても最低で、火に油を注ぐ結果になってしまいます。
 さらに、「熱心な教員」という言葉も、「行き過ぎた指導」を問われている教員に対して使われることが多い表現です。例えそれが事実であっても、使うタイミングを間違うと、教員を不当に擁護し子供の側に重大な落ち度や過失があったと印象操作をしようとしていると受け取られかねません。
 校長や教委の担当者は自分の言葉のもつ「破壊力」を自覚すべきです。

 

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