ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

経験>理論の教育という営みでは

2020-12-31 07:54:28 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「共通点」12月26日
 書評欄に、詩人渡邊十絲子氏による『「どんじり医」松永正訓著(CCCメディアハウス)』に対する書評が掲載されていました。その中に、『人間の体はそれぞれ個性的で、教科書どおりにはなっていないことを発見し、「何かほっとした気持ちになった」と言う著者に、すっかり感化された。大事なのは形式をおぼえこむことではなくて、目の前のひとりをとことん見ることなのだろう』という記述がありました。
 医学は昔経験の学問でしたが、現代では「科学」であるという認識が主流です。「科学」であるということは、反復性があるということ、別の言い方をすれば、人間の体を例に言えば、Aさんも、Bさんも同じであるという考え方です。しかし、小児科医である松永氏は、人間の体の中は個性的だというのです。
 教育学という学問分野があります。教育学博士という博士号もあれば、修士号もあります。しかし、教育学を科学だと考えている人はほとんどいないでしょう。私もその一人です。教育は、一人一人の人間を対象とする営みであり、誰も同じ、ではないからです。
 にもかかわらず、未熟な教員の中には、子供とはこういうもの、○年生はこの程度、男子は~で女子は~、というような決めつけをし、それで子供理解ができたつもりになっているものが少なくありません。
 科学と思われている医学でさえ、人は一人一人違うとするならば、科学ではない教育において人は属性によって分類できるなどという考え方は、驕りでしかありません。もちろん、松永氏がいう「個性的」の意味は、胃が2つあったり、肝臓が3つあったりするということではありません。人間の内臓の配置や機能などという医学的な基礎知識を身に着けた上で、一人一人の違いをよく見ることの大切さを言っているのでしょう。
 教育も同じです。子供を理解するために、児童心理学や発達心理学等の学問が不要だというのではありません。ただ、教科書や参考書に書かれた記述をテスト用に暗記するだけで一人前の教員になったつもりになるのではなく、実際に目の前の子供を「とことん見る」ことを怠ってはならないということです。
 頭でっかちな教員であった私の反省でもあります。

 

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それ昔からやってました

2020-12-30 08:36:27 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「江戸との共通点」12月23日
 法政大総長田中優子氏が、『場所の個性、人の可動性』という表題でコラムを書かれていました。その中で田中氏は、『椅子や机をどこにでも移動でき、誰とでも対話できる環境の方が頭脳は柔軟に働き、人はいきいきする』『江戸時代の寺子屋では子どもたちが活発だが、その理由の一つは、自分の机をどこに置いてもよかったからだろう。教室のあらゆるものを可動式にすることは、学びに影響する重要な要素』と書かれていました。
 江戸時代を専門となさっている田中氏らしい指摘です。私はこの記述を目にして、指導主事時代に担当した研究校C小学校を思い出しました。同校では、C方式と呼んでいる学習形態を全学級で取り入れていました。
 そこでの実践は、まさに寺子屋式だったのです。教室には自由スペースが設けられ、そこには絨毯が敷かれてソファが置かれ、教室の後ろに並べられた辞典や事典、図鑑、資料集、地図などを自由に見て調べることが許されていました。もちろん、何人かの子供が集まってワイワイ話し合うことができました。
 教員が相談タイムと宣言すると、机や椅子を移動させて課題ごとに小グループを作り、グループ間で情報交換することも認められていました。個人が席を離れ、他のグループに出向き資料を借りたり、教員に相談に行くことも自由でした。
 これらは私のアイデアではなく、私が担当になった時にはすでに数年間の実践の積み重ねがあり、私は指導助言するというよりも学ばせてもらうという形でした。校長の話によれば、C小学校でも、当初は消極的な教員もいたとのことでしたが、後に指導主事になった有能で意欲的な若い研究主任が、自らの学年だけで実行に移し、徐々に賛同者が増えていったということでした。
 その研究主任が、寺子屋を意識していたかどうかは分かりませんが、子供と試行錯誤する中でアイデアが浮かび、形にしていったのでしょう。実は私も指導主事になる前、30代の中頃、社会科だけで似たような形を試行していました。私の場合は、社会科以外の教科では実行するだけの指導力はなく、中途半端なものでしたが、当時は、あちらこちらの学校でこうした「実験」が行われていたのです。
 教員の年齢構成が変わり、若い教員が増えてきている現在、質の低下が懸念されていますが、一方では意欲的なチャレンジが期待できるという側面もあるはずです。期待したいものです。

 

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名作の作者

2020-12-29 09:41:30 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「教員に訊きたい」12月21日
 『AI紡ぐ芸術 続々と』という見出しの記事が掲載されました。『AIが人間を超えられないと言われてきた芸術の領域で、新たな試みが生まれている』ことを報じる記事です。
 記事では、映画、俳句、音楽の分野における取組が紹介されていました。俳句では、『ネット上にAI俳句協会を立ち上げて、多くの俳人の評価を収集することで、AIに俳句の良しあしを覚えさせている』そうです。『さびしさは かりそめならず 曼珠沙華』『次の間に 猫の寝息や 秋の雨』これらは、AIが創った句だそうです。
 音楽では、グラミー賞にノミネートされた作品も生まれ、ボーカルのクレア氏は、『今までとはだいぶ異なる音楽になったが、私たちにとっては、これまでで最高で繊細で奇妙な音楽になった。一番私たちらしいと思う』と言い、ライブ会場に来ていたファンは、『実験的なダンスミュージック。斬新で電子的だった』『AIのことはわからないが、最高だった』と話しているのです。
 映画でも、来春、AIが書いた脚本による「とまと」という短編が公開されるそうです。
 私は今までこのブログで、芸術教科について、その評価の在り方を中心に何回か触れてきました。今回、この記事を読んで、AIの活用が一般的になった段階で、図画工作や音楽、あるいは芸術教科ではありませんが、作文などの評価はどうなっていくのだろうかという疑問をもちました。AIの「性能」によって、子供が創る作品が左右されるという事態になったとき、どういう態度で臨めばよいのだろうか、ということです。
 AIの使用は一切認めないというのも一つの考え方です。しかし、時代の趨勢はそれを許さないでしょうし、自宅でAIを活用してアイデアや発想にヒントを得ておいて、教室でそれに基づいて作品を仕上げるという行為を止める手立てはありません。
 むしろ近未来の学校の授業として予想されるのは、子供一人に一台整備されたパソコンをあらゆる教科の学習で使うという光景です。そこでは、AIを使った作文や作詩、作曲、デザインや配色などが行われることになります。パソコンで活用できるAIを同一のものに設定しておけば、その影響は全ての子供に等しく及ぶと考えられる(?)ので、評価上の問題はないとすることも可能です。しかし逆に、子供の作品が画一化してしまうという懸念が生じます。
 また、AIやICTとの「相性」のようなものが作品の出来に影響することも考えられます。私はAIにもICTにも詳しくないので、「相性」という曖昧な言い方をしましたが、要するに、その子供の芸術的な感性や表現したいという思いなどとは別に、うまく使いこなせるか否かが子供の作品の出来を左右するということです。その場合、「コンピューター技師」のような子供が○となってしまっていいのか、ということが疑問なのです。
 AIと創造性や表現の問題は、教員の間で話題になっているのでしょうか。

 

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平均点教員を想定して

2020-12-28 08:10:37 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「学習指導要領がある理由」12月21日
 連載企画『学校とわたし』は、マルハニチロ社長池見賢氏へのインタビューでした。その中で池見氏は、『5、6年生の時の担任の先生から大きな影響を受けました』と語り、『毎週、教科ごとにテーマが与えられ、5人くらいの班でそれを調べて「瓦版」にして発表しました(略)「水と土の温度変化の違い」というテーマを与えられた時には、自宅の庭で温度計を使って実験し、「岩石の成り立ち」の時は近くの山へ石を集めに行きました』と具体的な学習の様子を述べられていました。 
 こうした事例を知ると、不必要な縛りをなくし、教員の創意工夫を認め、自由に授業を構想して行えるようにすることが大切だ、というような主張をする人が出てきます。つまり、学習指導要領不要論です。私も教委勤務中に、こうした主張をする教員や保護者、市民に接してきました。メディア関係者にも同様な考え方の人が少なくないというのも実感です。
 しかし、それは明確に間違いです。池見氏が受けた授業の詳細は分かりませんが、京大に進学した池見氏は「勉強ができる子」であったはずです。一方で、いわゆるお勉強ができない子もいたはずです。そうした子供が、池見氏のような充実した学びを体験できていたかは不明です。私の経験からすると、池見氏のように『図書館に籠り図鑑や教材を読みあさり』ということができない子供は、野外活動的な部分だけを楽しみ、調べたりまとめたりする部分は他の優秀な班員任せになり、学びの時間がお遊びの時間になってしまうことが少なくなかったはずです。
 もちろん、非常に優れた指導力をもった教員であれば、そうした子供にも価値ある学びを提供できたかもしれません。記事を読む限りでは、池見氏の担任教員はかなり優秀な教員のようでしたから、本当に理想的な、自主性や創造性を育む授業が実現していた可能性はあります。
 しかしそうであっても、学習指導要領をなくすことはできません。学習指導要領は、優れた教員を想定して作られたものではなく平均的な教員を想定して作られているものだからです。1000人の教員がいれば、その指導力は様々です。池見氏の担任のような、脱学習指導要領であってもきちんとした学びを提供できる教員が10人、学習指導要領という基準がなく自分のアイデアだけで授業し単発的・偶発的に授業が成立するレベルの教員が700人、自分の思いつきだけでは混乱し授業も学級も成り立たないレベルが290人と言ったところだとすると、底辺の290人の教員が担任した学級でも、何とか7割の子供は中学校に進んでも授業についていける程度の学力を身に着けている、そんな状態を実現するために学習指導要領はあるのです。
 それならば、優秀な教員には自由を認めるべきだという主張が出てくるかもしれません。理論的にはその通りです。しかし、それを教委等が認めるとすれば、全ての教員に対し、優秀、普通という認定をしなければなりません。そうした場合、うちの子の担任は普通、隣のクラスは優秀教員、という格差を保護者が受け入れることが必要になります。可能でしょうか。
 さらに、教員の指導力は常に変化していきます。ある時点で「優秀」であっても、その後努力を怠ったり、疾病等で十分な研修を行えなかったりして、「普通」になってしまうことだってあり得ます。ですから常に教員評価を繰り返し「優秀」と「普通」を認定し直さなければなりません。それは可能でしょうか。
 学習指導要領がなければ、ごく一部の素晴らしい学びと多くの混乱、そうした状況が全国の学校の日常になるのです。

 

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意欲低下の真因は

2020-12-27 08:31:35 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「関係性は正しい?」
  連載企画『学びのカタチ 教育改革の行方』の今回のテーマは、『普通科改革』でした。高校の普通科に、新学科を創設できるようにする改革について、先行事例を紹介し、成果と課題を明らかにする記事です。
 私は教委で、小中と特別支援教育を担当していたので、高校のことは一般の人とそれほど変わらない知識しかありません。そのことを断ったうえで、記事の中に気になる記述があったので触れてみたいと思います。
 『なぜ今、普通科改革なのか。背景には高校生の学習意欲の低下がある。文科省と厚生労働省の、01年生まれの子供を対象とした17~19年の調査によると、休日に授業の予習・復習や受験勉強を家や塾でしないと答えた割合は、16歳で26.3%、17歳で29.9%、18歳で30.3%。授業の内容が「理解できていない」という生徒も年齢が上がるにつれ増える傾向にある』という記述です。
 明らかに整合性のない記述です。まず、学習意欲の問題を言いながら、理解度を持ち出していることが指摘できます。また、学年が進むにつれ学習内容の理解度が下がるというのは、高校だけの問題ではなく、全ての学校、全ての科においてみられるものです。考えてみれば当たり前です。小学校の算数で、足し算は分からなかったのに掛け算が分かるようになるということが起こるでしょうか。掛け算九九が理解できていないのに、分数の計算で通分や約分ができるということがあるでしょうか。学習はそれまでの成果に新しいことを積み重ねていくのですから、学年が進むに従って理解度が落ちていくのは当然なのです。
 本題はここからです。繰り返しになりますが、ポイントは学習意欲向上です。記事では、『地域が抱える課題に着目した実践的な学科』『現代的諸課題に対応するため学際的な学問分野に重点的に取り組む学科』を設けるとしています。つまり、こうした学科の方が従来の教科学習よりも、生徒の学習意欲が高まると考えているということです。
 そう考える根拠は何なのでしょうか。私は生徒の学習意欲が低いのは、単に授業がつまらないからだと考えています。私が専門としてきた社会科において高校教員と共同研究したことがありましたが、彼らは授業記録を取ったこともなく、したがって授業分析をしたこともない者がほとんどでした。学習指導案も内容を列挙しただけで、「~を理解させる」という記述はあっても、そのためにどのような学習活動をさせるのかという記述はないものがほとんどでした。そもそも教員が説明し板書するだけで、生徒に話を聞く、ノートに写す、教員の質問に答える以外の活動をさせることなど念頭にない教員が過半を占めていたのです。
 改革を主導した人たちは、そうした現状を正確に把握していたのでしょうか。教員の指導技術がないために授業がつまらないのであれば、科を変えるよりも授業力を向上させることに力を注ぐべきではないでしょうか。
 また、「古い教科」にもその教科なりの楽しさがるものです。数学でも物理でも化学でも、歴史でも古文でも倫理社会でも、です。特に高校生になれば、純粋に学問としての面白さを感じ取ることが可能になってくるはずです。うがった見方かもしれませんが、近年の傾向として、すぐに役立つ知識や技術だけが尊重され、基礎研究が軽視される風潮の高校版ではないかという懸念も捨てきれません。
 唐突かもしれませんが、小学校に生活科が導入されたとき、特に成績上位の子どもたちの中で、生活科よりも「きちんとした知識」を得られる「古い教科」の授業の方が面白いし好きというアンケート結果があったことが思い出されました。「古い教科」も、きちんとした授業を行える教員がいれば、知的な興奮、満足感をもたらすものになるのです。

 

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結論ありき

2020-12-26 08:32:18 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「矛盾する主張」12月19日
 連載企画『学びのカタチ 教育改革の行方』の今回のテーマは、『小学校での教科担任制導入』でした。記事では先進的な取り組み事例が紹介され、その成果やメリットが挙げられていましたが、その中のいくつかには疑問があります。
 まず、兵庫県伊丹市立鴻池小で交換授業によって一部教科担任制を導入している事例についてです。『自分が担当する授業がない空き時間を事務作業や担任の子どもたちと過ごす時間に充てられる』『教材研究をする時間的余裕がある』と書かれていました。総授業時間数が同じで、指導に当たる教員数も同じであれば、教員一人当たりに生じる空き時間は変わらないはずです。また、自分が空いた時間は、自分の担任の子どもは交換授業をした教員の指導を受けているはずですから、共に過ごす時間とはならないはずです。
 次に、県教委の担当者が、『複数の教員が児童に関わることで児童の悩みや不安に気付き対応もできる』と語っていますが、これもおかしな話です。もし本当にそうであるならば、小学校の低学年から実施するべきですし、現在の制度化では、中高においては小学校よりも子供の悩みや不安に気づき適切な対応が取られているはずです。しかし実際には、細切れでしか子供を見ることが出来ない中高の教員の方が子供理解が浅いとしか言いようがないのです。
 また、同じような趣旨ですが、『複数の教員が関わるため児童が気の合う先生を見つけられる』という記述もありました。これはメリットなのでしょうか。教員の指導力には差があり、教員としての能力が高い者ほど子供から信頼されるというのは当然です。つまり、特定の教員に子供への関わりという「需要」が集中することになるのです。50人の子供のうち、40人がA教員に相談を持ち掛け、10人がB教員、指導力が不足し人望のないC教員は、時間に余裕ができてのんびり、という結果は望ましいのでしょうか。下手をすると、一生懸命やらずに最低限の仕事しかしないという教員が得をするという制度になりかねません。
 さらに矛盾するのが、デメリットとして『各児童の能力や特徴を把握しにくい』が挙げられていることです。多くの気づきがあるはずなのに、特徴を把握しにくい、どういうことでしょうか。
 最後に、記事では触れられていませんが、小学校において教科担任制が導入されたときの教員移動の難しさへの言及がありません。これは一般には分かりにくいことですが、教委において人事異動を担当したことがある者であればすぐに理解できるはずです。小学校で国語という教科を担任していた教員は同じく国語を担当していた教員としか入れ替えることができないのですから、大変な困難が生じます。特に導入して10年間程度は混乱が激しいですし、自治体や学校ごとに教科担任制を導入している教科が異なれば、大混乱を引き起こします。
 初めに教科担任制導入はよいこと、という前提があって書かれた記事のような気がしてなりません。

 

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弱者切り捨て

2020-12-25 08:28:30 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「いい加減にしてほしい」12月18日
 連載企画『スクール・ウォーズの軌跡』が始まりました。高校ラグビー名門校伏見工業高校についての記事です。この件については、このブログでも再三再四取り上げ、山口監督の体罰を肯定的に取り上げることへの警鐘を鳴らしてきました。山口氏個人を貶める意図はありませんが、彼の行為が体罰肯定派、体罰愛のムチ派を力づけるものであるとして、メディアで取り上げる際に肯定的に描かないように求めてきたのです。
 もしかして今回も、という懸念をもって読み始めたところ、不幸にもその懸念が的中してしまいました。『試合の前半、チームはふがいないプレーが目立った。ハーフタイムに山口さんは涙を流しながら「フーロー(病気療養中で試合直前に死亡が伝えられた部員)はもう、この世にいないんだ」と声を絞り出し、部員を一人一人殴った。今では断じて許される行為ではないが、当時は手をつないで円陣を組んだチームが、フーローのために団結した』という記述があったのです。
 どういうつもりなのでしょう。「今では断じて許される行為ではない」と書かれていますが、体罰を禁じる学校教育法は、この時点の20年前に制定されているのです。当時も違法行為であったことは明確です。当時も許されない行為だったのです。まあそれは記事を書かれた大東記者も知っているでしょうが。
 法的なこと以上に大きな問題は、こうした記述が、「やはり師弟の間に愛情と信頼感があれば体罰は有効な指導手段だ」という間違った主張に力を与えてしまうことです。さらに、その延長上に、個人の思いを押しつぶす危険性があります。例えば山口氏の殴打事件で、1人だけ暴力に不満をもった部員がいたとします。その部員が体罰の非を訴えようとした場合、殴られることに納得していた14人の部員から「お前は俺たちを裏切り先生を貶めるのか」と圧力がかけられることが予想されます。保護者も同調するでしょう。彼らは「圧力」を正義と考えてしまうはずです。体罰肯定という「世論」が後押しをしてくれることを知っているからです。そして、少数派の部員は泣き寝入りを強いられるのです。
 この記事はそうした弱者弾圧に力を貸しているのです。私は教委に勤務している際に、いくつもの体罰事案を経験してきました。そして、体罰を訴える「被害者」が、元々不満分子だった、先生の愛情が分からない欠陥人間だ、というような批判を浴びるという二次被害に遭う場面を見たことも少なくありませんでした。大東記者もそんな事態を認めるわけではないと思います。
 ラグビー弱小校伏見工業高校が山口氏という指導者を得て、全国制覇を達成する偉業を成し遂げるようになり、同校からは大八木、平尾という日本ラグビー界を牽引する名選手が出たというのは紛れもない事実です。ラグビーファンである私の脳裏には、両氏を中心とした神戸製鋼の7連覇や全日本チームの雄姿が焼き付いています。
 しかし、そのことを伝えるためには体罰を肯定しなければならないのだとするのは、記者の力不足なのではないでしょうか。

 

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ヒントをくれれば私も

2020-12-24 08:34:08 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「どんな専門知識」12月18日
 連載企画『学びのカタチ 教育改革の行方』の今回のテーマは、『少人数 地方要望強く』でした。小学校において段階的に35人学級が実現することが決定したことを受けた内容です。その中に、教育経済学を専門となさっている慶応大教授中室牧子氏の寄稿が掲載されていました。
 その中で中室氏は、教員の質の低下、教員確保の難しさについて指摘なさっています。とても的確な指摘だと感じました。ただ一つとても気になる記述がありました。『なり手不足を解消するために、専門知識のある外部人材を積極的に活用するなど、今とは違う手法を考えていかないといけない』という一文です。
 学校教育に活用できる、学校外の人材がもっていると想定される専門知識とは何か、ということが分からないのです。人はそれぞれに専門知識をもっています。それは国家資格のようなものではなくても、長年○○に携わってきた、○○に興味があり独学で身に着けてきた、というようなものを含めれば、無数に想定されます。手早くおいしい料理を作る家庭の主婦(夫)、何人もの子供を育ててきた母(父)親、私なら日本将棋連盟から四段の免許状をいただいている将棋でしょうか。
 もちろんもっと「高度」な、外交官として磨き上げた語学力、商社マンとして蓄えた商品知識、証券会社や銀行勤務を通して得た金融知識などもあります。おそらく中室氏は、こうした方々の専門知識をイメージなさっているのだと推察します。
 例えばある自治体で調査をした結果、住民の中に、元外交官、商社マン、銀行員、企業経営者、看護師、保育士、介護士、調理師、大型免許保有者、伝統工芸士、プロ野球選手、お笑い芸人、俳優、声優、美容師、などがいることが判明したとして、そしてそうした方々ができる範囲で学校に協力してもいいですよ、とおっしゃってくれたとして、どのように活用するのでしょうか。
 しかもそれは、元調理師が学校教職の調理を手伝い、元看護師が保健室で補助をするというような分かりやすいことではないのです。そんな支援では、教員のなり手不足対策に効果はないはずですから。
 中室氏は専門家ですから、何か具体的な事例かアイデアをお持ちなはずです。ぜひ、それを知りたいと思います。そうすれば、もしかしたら私も一つ二つ「こんな活用法がある」というアイデアを思いつくかもしれません。

 

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良さの再評価、と思いたい

2020-12-23 08:29:24 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「カネの問題」12月17日
 連載企画『学びのカタチ 教育改革の行方』の今回のテーマは、『特別支援学校の環境整備 教室幅3mプラで壁』でした。特別支援学校に通う児童生徒が増え、学校の環境整備が追い付かないという現状について報じる記事です。
 この記事の中に、特別支援教育を専門となさっている日本大文理学部教授高橋智氏へのインタビューが掲載されていました。その中で高橋氏は、『インクルーシブ教育の体制が学校で整っていないために、発達に課題がある子どもたちが特別支援学校に行く“玉突き現象”が起きている』と述べていらっしゃいました。
 一方、記事の本文中では、障害のある子供の数自体が大きく増えているわけではないにもかかわらず、特別支援学校に進学する子供が増えているのは、保護者がきめ細かい指導が受けられる特別支援学校の良さに気づき選ぶようになってきているからだと述べられています。
 どんなに施設設備や教員の専門性などの教育環境を整えても特別支援学校という制度そのものが望ましくなく、全面的なインクルーシブ教育が実現するまでの過渡期だけに許される必要悪的なものなのか、子供に合った学びを保証する場なのか、見解が大きく分かれていることになります。私は後者の立場です。
 私は指導主事として特別支援教育を担当してきた経験があります。当時から理念としてインクルーシブ教育という考え方は注目されていました。この考え方を基に、何が何でも通常学級への進学を希望して譲らない保護者とも接してきました。当時は、今に比べて通常の学級で障害のある子どもを受け入れるだけの物的人的環境が整っておらず、障害のある子どもが発達段階にふさわしい教育を受けるのが難しかったのですが、理念先行型で通常学級に進学し、「お客さま」になってしまうケースが後を絶ちませんでした。
 現在は少しずつ環境整備が進んできていますが、まだまだ施設設備の面でも、指導者の面でも十分ではありません。そうした意味で言えば、高橋氏の指摘通りです。しかし、それではすべての障害のある子供が、通常の学校に入学して学ぶことを可能にするためには、どのくらいの環境整備と人員配置が必要になるか、実際に考えてみたとき、その膨大な予算に国民の理解は得られるのか、とても疑問に感じています。特にランニングコストとして継続して必要になる人件費について、です。
 特別支援学校には、広い地域から子供が集まってきます。そして数人を1単位として教員が配置されています。しかし、小中学校の通学区域を基に入学することになれば、1教室に1人という形になるケースがほとんどです。ある学校の同一学年に3人障害のある子供がいた場合、インクルーシブ教育の理念からすれば、1クラスに3人ではなく、3クラスに1人ずつという形が望ましいからです。つまり、同じ3人の障害のある子供に、3倍の教員が必要になるのです。
 1人の専門性を持つ教員が3クラスを行ったり来たりして指導に当たるというのでは効果は期待できませんし、通常学級の担任にも特別支援学校の教員並みの専門性を求めるのは現実的でありません。また、特別支援学校の教員のような専門性はなくてもいいから通常学級の担任に指導させればよいというのでは、教育の質の低下を容認することになります。ですから、人件費が大幅に増えることは避けられないのです。
 教育関係予算だけを考えても、プログラミング教育など新たな教育課題への対応や少人数学級の実現など、予算増が必要なものがあります。予算全体で見れば、高齢化の進展による社会保障費の増大は必須です。その中で、インクルーシブ教育の実現のために多くの予算を支出することが可能なのか、よく考える必要があります。
 特別支援学校制度の充実という施策こそ、今目の前にいる障害のある子供たちの幸せに資すると考えるのですが、どうでしょうか。特別支援教育に携わる多くの教員の努力に感謝しつつ。

 

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好かれる私

2020-12-22 08:08:00 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「好かれる私」12月15日
 連載企画『14歳の君へ わたしたちの授業』で、エッセイスト小島慶子氏が、「英語」について書かれていました。『英語を学ぶと多くの情報を得られる。人生の可能性を広げる手段にもなる』という小島氏の言葉は主題に沿ったものなのでしょうが、私には、本筋とは関係のない自らの高校時代のことについて、小島氏が語られたエピソードが印象に残りました。
 中学校時代、『先生に反抗する問題児で、友達とぶつかり、部活動も次々にやめ』るという状況で、「この世は闇だ」と感じていた小島氏。その闇からの脱出法について小島氏は、『楽しそうに過ごす子たちの話し方や動作を観察して高校進学と同時にまねた』と書かれています。最初に真似たのは『無口で感じのいい子』。そうすると『おしゃべりで、空気を読めずに余計なことを話して誤解されていた』小島氏は、『おとなしくてなごやか』な子になったのだそうです。
 このことについて小島氏は、『とんがりまくった3年がうそみたいに、1カ月で印象が変わり「こんなことか」と。私の本質より態度で評価が変わるんだと』と述べられています。そこには、人の本質を見ようとしない周囲に対する批判が込められているようです。
 しかし私は、態度こそすべてだと考えています。私は現実的な人間ですので、超能力のようなものを信じません。私自身がそうであるように、誰も他人の「本質」など分かりはしないのです。もしかしたら本人にも。
 泣いている人を見れば悲しいのか、淋しいのか、悔しいのか、余程嬉しいのか、前後の出来事と考え併せて判断します。唇をを噛み締め、こぶしを握り、体をぶるぶる震わせていれば、怒っているのだと思い、宥めるか逃げるか考えます。
 校則通りに制服を着てれば真面目な人だと思い、スカートの丈を短くしてピアスをし、化粧をしていれば派手好きな子だと思うのが自然ですし、スキンヘッドでタトゥーを入れている若者に遭えば難癖をつけられないように目を合わさずに通り過ぎようとします。皆さんもそうですよね。
 だからこそ私は、態度や外見、動作や言葉遣いのもつ意味について、学校の生活指導で指導すべきだと思っています。拘束と呼んだ方が相応しいような校則について、批判が寄せられています。下着の色まで決められているとか、なぜツーブロックの髪型はいけないのかとか、ピアスや化粧は自己表現だなど、個々の議論にまで立ち入るつもりはありませんが、中身が大切、本質を見て、という主張の非現実性についても考慮が必要です。
 さらに、態度や外見、動作や言葉遣いが中身や本質を変えていく恐ろしさについても、です。

 

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