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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

停電で授業中止

2019-09-30 07:47:40 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「スマートではなくても」9月25日
 農業ジャーナリスト青山浩子氏が、『スマート農業がめざすもの』という表題でコラムを書かれていました。その中で青山氏は、『「環境制御技術に頼りすぎると、社員が作物を観察しなくなる」と警鐘を鳴らす高知県のピーマン農家もいる。若手育成のためこの生産者は、複数の施設のうち1棟では、環境制御技術を導入せず、社員自身が作物を観察し、状態に応じて温度や湿度を調整するよう指示している』と書かれていました。
 つまり、AIやICTを活用することによって、安定した収穫が見込める反面、農業者、生産者としての技術の伝承が途絶えてしまうことを懸念する動きがあるということです。とても示唆に富んだ話だと思います。学校教育におけるAIやICTの活用を考える際にも忘れてはならない視点だと考えます。
 20年以上前、学校にTT(ティーム・ティーチング)が導入されるようになりました。その際の基本的な形は、T1が授業を展開し、T2が個別に子供の支援に入るとされました。しかし私は、この形には欠点があると考えました。それは、T1担当となった教員には子供の反応を見取り、その意味するところを瞬時に察知するという機会が乏しくなり、見取り能力が衰えてしまうことと、T2担当となった教員には授業の全体像を構想しつつ限られた時間の中で授業を進める能力が衰えてしまう懸念があることです。
 人間の能力は一定ではありません。使わなくなれば衰え、使い続けていけば維持向上が期待できるものです。教員にとって必要な2つの能力、全体の構想推進と個別の見取り、それがバランスよく身についてこそ良い教員なのですが、TTの導入は、その障害になるのではと考えたのです。ですから私は、当時、研修会の講師に呼ばれたとき、「TTで優れた指導力を発揮できる教員は、一人でも優れた指導ができる教員である」ということを繰り返し説いてきたのです。
 それでも、TTは実際に目の前に「生の子供」が存在します。しかし、AIやICT活用の典型と考えられる遠隔授業では、そうした前提も崩れてしまいます。さらに、子供の学習状況の把握もAIによる分析に頼るようになれば、教員として必要な子供理解力が減衰していく可能性が高いと思われます。
 大型台風が来襲し、停電したら授業ができなくなりました、などということが当然視されるような時代がきてはなりません。AI活用と教員の能力育成のちょうどよいバランス点を探ることが必要になると思います。
 
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「また~」の後

2019-09-29 08:30:17 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「また、~」9月24日
 『学校弁護士300人配置へ』という見出しの記事が掲載されました。『文部科学省が「スクールロイヤー」と呼ばれる専門の弁護士を全国に約300人配置する方針を固めた』ことを報じる記事です。『弁護士が早い段階から関わり、訴訟など状況が深刻化する前の解決を目指す』ということです。
 そこまでは理解できます。しかし、その後に続く記述の意味がよく分かりませんでした。『また、教員の長時間勤務が深刻な問題となる中、専門的な知見を取り入れて現場の負担軽減にもつなげる』とあるのです。
 日本語では、「また、~」という表現のとき、「~」部分には、前段とは直接関係にない内容が記述されるのが普通です。つまり、トラブルへの対応とは別に、長時間勤務問題にスクールロイヤーの知見を活用して解決するという意味にとれます。確かに、過重労働による過労死や精神疾患や健康侵害などの問題は、雇用者側と労働者側で法的な争いに発展する事例が少なくありません。違法な職務命令やパワハラに該当する長時間勤務の強制などの問題も皆無ではありません。
 しかし、長時間勤務問題については、給特法の改正や教員の職務の見直し、教員の適正配置など制度面の改善や、子供の教育に関することは何でも学校に委ねようとする風潮の改善、学校・家庭・社会の役割分担の見直しなど国民全般の意識改革の必要性など、学校単位で法的なアドバイスによって改善できる部分はごく限られた範囲に過ぎません。どういう意図なのでしょうか。
 そうした疑問とは別に、もう一つの懸念があります。このスクールロイヤー制度を根付かせるためには、単に弁護士を300人揃えただけでは足りません。学校という営利企業や一般の官庁とは異なる歴史と文化、風土と体質を持つ組織、出世や競争に対する教員意識の特殊性などについて、十分な理解をした人材をそろえなければなりません。
 私が都教委で人権担当をしていたとき、パワハラをテーマに弁護士に講義を依頼したことがありました。その弁護士は、単なる講義ではなく、ある場面を設定しロールプレイを取り入れた意欲的な講義をしてくださいましたが、その設定は学校現場の実態とはかけ離れたものでした。誰もが教頭を目指し校長の意を得ようと必死になっているという設定で、私は、講義終了後、やんわりとそのことを話しましたが、弁護士は大変驚いていました。「出世や昇給に興味のない教員がそんなにいるのですか」と。
 そんな認識では、効果的な対応は望めません。

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好きにはなれなくても

2019-09-28 08:09:07 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「偏見の原因」9月22日
 女優・タレントで、一般社団法人「Get in touch」代表を務める東ちづる氏の連載コラムの中に、子ども食堂に関する記述がありました。東氏は、子ども食堂に対して、通うと貧乏だと思われる、子ども食堂ができると貧しい地域と思われるから作らないでほしいなどの偏見があることを紹介した上で、『まずは地域の皆さんから「関心」の扉を開けてもらえれば、と思います。「無関心」からの思い込みや偏見は厄介なものです」』と述べていらっしゃいます。
 この「無関心からの思い込みや偏見」という指摘は、とても重要だと思いました。人は、「よくない」「嫌いだ」という負の感情をもつとき、それはその対象について多少なりとも関心をもち、知ったうえでの場合が多いのです。そのことの是非はともかく、そこには一応自分で情報収集し考え判断するという過程が存在します。自分で考えて得た結論だからこそ、新しい情報や考え方に接したとき、自分の判断で変えていくこともできるのです。
 一方、何の関心もない事象に対しては、「そんなこと分かんな~い」となりがちです。そしてそうした状態のとき、第三者から、「〇〇って~なんだよね」という情報を聞かされると、深い考えもなしに、「〇〇って~なんだって」とその情報を自分の考えのように錯覚して受け入れてしまうのです。愛の反対は憎悪ではなく無関心という言葉があります。人は、関心のないものに対して思い込みや偏見をもち、容易に変えようとしないのです。
 教員の中に、「あの子は~だから」と断定的に語る人がいます。よほどきめ細かくその子供のことを観察して理解しているのかと思うと、「前の担任方引き継いだ」「親自身がそう言っていた」など、自分の判断ではなく他者の判断をそのまま受け入れ自分の判断としているケースが少なくありません。他人の言うことを疑うことなく受け入れる素直な性格とも言えますが、むしろ元々子供に関心がなく理解しようともしていない、という場合がほとんどです。しかし、何もわからない透明な存在というのでは「不便」ですから、第三者の評価をそのまま転用して事足れりとしているのです。
 教員に求められる資質として「愛」を挙げる人は少なくありません。もちろん、「愛」が悪いわけではありません。ただ、「愛」よりもまず「関心」です。子供を好きになれないと悩む教員のあなた、無理に愛そうとする必要はありません。人には相性というものがあります。そんなことは無理なのです。それでも「関心」をもつことはできるはずです。また、子供に「関心」をもつことは、教員の義務でもあります。
 
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聞かせるための経験則

2019-09-27 08:07:24 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「聞かせる」9月22日
 書評欄に、『「事実はなぜ人の意見を変えられないのか」ターリ・シャーロット著、上原直子訳(白揚社)』についての、大竹文雄氏による書評が掲載されていました。その中で大竹氏は、本書から学んだこととして、他人に注意を聞いてもらうためには、『人々がどんな情報なら知りたいか、ということを考えればいい。誰でも自分にとって良い情報は一刻も早く知りたい。逆に、自分にとって良くない情報なら、できれば知らないままでいた方が安心だ。ということは、大事なことを伝える際には、誰もが興味をもって、知りたいと思うような内容にする必要がある』と書かれていました。
 参考になる指摘だと思いました。教員の仕事は、子供に、あるいは保護者に、話を聞いてもらうことにつきるからです。教員が子供に話を聞かせようとして失敗するのは、主に2つのケースです。まず、情緒的に説得しようとするやり方です。多くの場合、教員が自分の感情に酔ってしまい、子供は冷めて白けてしまうという形で失敗します。性善説の理想家タイプの教員に多く見られます。
 もう一つは、事実を重ね理詰めで迫る方法です。テストの点数、忘れ物の回数、遅刻の回数など事実を突きつけ、事態の改善の必要性を説くのです。目に見える事実を基に正論で迫られれば反論はできませんが、感情は反発します。悪くすれば「うるさい!そんなこと言われなくても分かってるよ」と怒鳴り返されますし、よくて面従腹背です。
 こうした失敗を避けるためには、成績が下がっているという、良くない情報=聞きたくない情報を、良い情報=知りたい情報に変えて伝えるという配慮が必要になってきます。
 「最近成績が落ちているぞ、このままじゃA校には合格できない」という情報を伝えるのではなく、「あと20点アップさせれば、A校に合格だ。そのためには、英語の点数をあげるのが近道かな。英語の〇〇先生は、単語の語彙数を増やすのが効果的だと言っていた。詳しいやり方は、〇〇先生に聞いてみたらどうかな。その気があるなら先生からも頼んでおくよ」という感じです。
 なんだこれは、昔から通信票の所見欄を書くときによく言われた、「欠点を指摘するのではなく改善の具体策を提示する」というやり方じゃないか、という人がいるかもしれません。その通りなのです。先輩の教員たちが、シャーロット氏の理論を知っていたかは分かりませんが、長年の経験が、学者の研究に合致していたということなのです。経験は馬鹿にできませんね。

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毒を見分ける

2019-09-26 08:02:48 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「毒」9月22日
 作家梨木香歩氏が、『滲み出る本質』という表題でコラムを書かれていました。その中で梨木氏は、食用キノコのナラタケと猛毒のコレラタケの見分け方について、達人に訊いた話を書かれています。『確かに図鑑に書いてある特徴だけで見分けるのは難しいですね。写真も一面的な情報しか与えないし。強いて言えば、丸ごと覚える訓練、でしょうか。信頼のできる人にいっしょについて行ってもらって、出会う経験を積むしかない』。
 そんなものなのかもしれません。そして、何かを見る目という点では、子供を見て理解することにも通じる話だと思いました。私は、教員免許を取るために、大学では児童理解や心理学の講義を受講しました。そこでは、年齢に応じた一般的な子供の姿、様々な言動と子供の心理状態の類型などの知識を身につけました。でも、それは教員になってから役に立つことはありませんでした。
 最初の例に習って言えば、図鑑を読み、写真を見て分かったつもりになっていたというレベルだったのでしょう。キノコは間違って毒のあるものを口にすれば、命にかかわります。ですから、怖くて自分の生半可な知識を使うことにためらいが生じます。しかし、子供理解は、間違っていたところで自分が危険にさらされるわけではありません。ですから、机上の知識を安易に当てはめ、子供を分かった気になり、結果として授業でも、学級経営でも、生活指導でも、問題を起こしてしまうのです。
 私は著書(教師誕生)の中で「教員の仕事は職人芸」と書きました。本やデータから学ぶのではなく、実際に教壇に立ち子供を目の前にして試行錯誤することから学び成長するものだという主張でした。キノコの見分けと同じなのでしょう。だとすれば、教員にとって必須である子供理解を深めるためには、キノコの見分けと同じように、信頼のできる人と一緒に、ということが重要になるはずです。
 それは、経験を積んだ教員、それも一緒にいる時間が長い同じ勤務校のベテラン教員が望ましいのです。〇〇研修や△△講習会などでは学ぶことができないのです。若手教員にとって「信頼できる人」、子供理解の達人が全ての学校にいるでしょうか。言訳になりますが、私の場合、同じ勤務校で「信頼できる人」に出会ったのは29歳のときでした。遅すぎたかもしれません。私が良い教員になれなかったのは、何でも素直に吸収しやすい22~3歳のときに出会えなかったからなのかもしれない、と思うことがあります。
 
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一人ではできない

2019-09-25 08:16:56 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「合作」9月21日
 連載企画『南光の「偏愛」コレクション』は、陶芸家故河井寛次郎氏について、孫の鷺珠江氏との対談でした。その中で、南光氏は、『陶芸は、あるところまでしか自分では作れず、焼くのはお任せせんとしゃあない。我々も落語を稽古して稽古してやろうとしたって、お客さんの前でやらないと意味がない。お客さんとともに20分、30分やって最後に出来上がる』と述べていらっしゃいました。
 つまり「合作」ということです。教員の本務である授業もまた、教員と子供たちとの合作です。教員が事前に、教材を研究し、学習指導案を作成し、子供の様々な反応を予想して修正し、これで準備万端整ったと思って授業に臨んでも、うまくいくとは限りません。陶器が、窯変によって思いもしない姿を現すように、落語が寄席の客の個性によって予想外の盛り上がりを見せるように、授業も大失敗に終わることもあれば、意外な盛り上がりを見えた物の当初の狙いとはずれて方向に進んでしまうこともあるのです。
 だからといって、準備や研究が不要だというわけではありません。河井氏は、「焼くのはお任せ」と悟りつつも、造形に心血を注いだはずですし、南光氏も、一つの話を自分の体に染み込ませるために繰り返し稽古を重ねたはずです。そして、「合作」と言いながらも、自分が手を抜いたときの作品や話は、やはり不出来だったケースが圧倒的に多かったと思います。
 教員の授業に対する認識は、教員としての成長に伴って変わっていきます。初めは、一生懸命準備すればよい授業ができるという単純なレベルです。その後、準備してもうまくいかないことに気付きます。そこから道が分かれていきます。準備してもうまく行かないのであれば努力するだけ無駄だと教員用指導書を頼りにそれをなぞるだけの授業に甘んじる人、失敗を重ねながらも準備と工夫を続け、子供との合作と言うことに気付く人に。
 そして、そこから教材だけでなく、合作者である子供に目を向けるようになり、授業における子供理解、つまり子供の立場で授業を見直す視点をもつようになれば、ワンランクアップです。次は、子供理解を深めるために、印象に頼らずに事実を把握すること、つまり授業記録の大切さに目が向いていくのです。私がこのブログで、授業記録と分析の大切さを主張してきたのは、この「合作」意識に基づくものだったのです。
 何十回目になるか分かりませんが、授業記録の分析は、授業力向上の王道です。
 
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上から目線の同上は、違う

2019-09-24 06:54:37 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「一般の人」9月20日
 映画監督今村彩子氏へのインタビュー記事が掲載されました。『生まれつき耳が聞こえない。小学校ではいじめで不登校になった』という今村氏は、『(映画「E.T.」を見た)感動から、大学時代に米国に留学し、映画製作を学んで今日に至った』という方です。
 記事の中で今村氏は、『自分をマイノリティーと思ってきたが、彼女(アスペルガー症候群の友人)が私の言動を評して「一般の人」ということに驚いた。状況によって「少数派」は入れ替わるのが興味深い』と語っていらっしゃいました。考えさせられる指摘です。
 私には、ある意味、今村氏とは逆の経験があります。都教委に勤務していたとき、人権尊重教育について研究発表の機会を与えられたことがあります。そこでは、東京都が掲げていた様々な人権課題の現状と課題、解決への方向性について学校現場ではどうあるべきか、ということが大きなテーマとなっていました。ちなみに、様々な人権課題とは、女性差別、高齢者差別、子供の人権、外国人差別、同和問題、HIV感染者への差別、障害者差別などが挙げられていました。発表を終え、質疑の時間になると、カウンセラーの女性が挙手し、吐き捨てるように言ったのです。「あなた方の研究というのは、毎年聞いているが、いつでも、自分は差別される側ではないという高みからものを言っているようで不愉快~」と。
 彼女は、「女性差別問題では、男性であるあなたは差別する側でされる側ではない、高齢者差別でも壮年のあなたはされる側ではない、もちろんあなたは子供でもないし、外国人でもない、地区の出身者ではないだろうと思われるし、HIVに感染してもいない、障害者もないでしょう」というのです。言い方を変えれば、常に多数派に所属しているということです。
 確かにその通りです。私は的確な応対ができず、はぐらかすような回答をした覚えがあります。しかし今思えば、当時の私の認識はまだまだ不十分なものでした。当時、あらゆる場面で、多数派だとされていた私は、外国に行けば少数派の異国人ですし、今は年金を受け取りガラケーしか使えない高齢者という弱者になっています。そのうち、何らかの障害があらわれることも予想され、障害者という少数派になる可能性もゼロではありません。
 つまり、当時、差別非差別、少数派多数派を固定的に捉えていた私は、間違っていたのです。自分をある立場に固定し、そこから差別や人権を考えるという姿勢は、その立場が少数派や弱者であっても、多数派や強者であっても間違いです。それぞれの「立場」は、相対的で流動的、かつ主観的であるということを前提にアプローチしていく、そんな人権教育でなければいけません。
 子供を多数派に位置付け、困っている人を助けてあげましょう的な人権教育に陥っていないか、再点検が必要です。
 
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罵声を浴びる

2019-09-23 07:44:58 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「聞きたくないこと」9月18日
 『北村氏「今後は注意」 「ダム犠牲やむなし」発言』という見出しの記事が掲載されました。北村誠吾地方創生担当相が、閣議後の記者会見で、『長崎県川棚町の石木ダム建設に絡み、多くの人の生活のために住民の犠牲は避けられないとの認識を示したことについて、「私の不行き届きな発言で、不快な思いをされるようだったのなら、今後は十分注意したい」と述べた』ことを報じる記事です。
 この発言は、間違っているのでしょうか。ダムをつくるためには、そこに住んでいた人に立ち退いてもらわなければなりません。長年住み慣れた家は土地を離れることは、当事者にとっては辛いことである場合がほとんどです。ですから、立ち退きは「犠牲」になるということです。北村氏の発言は事実関係において、何も間違っていないことになります。
 確かに言い方の問題はあるかもしれません。「公共の福祉のためとはいえ、長年住み慣れた土地を離れることになった方々の心情を思うと忍びない。しかし、多くの方の暮らしを考えると、他の方法はなかった。苦渋の決断をしていただいた方々には心から感謝する。その心痛を無駄にしないためにも~」などという丁寧な言い方をすればよかったのかもしれません。しかし、そのことと発言の内容の成否や真偽は別です。
 同じ時期に、小泉環境相が、前環境相である原田氏の、処理水の海洋放出発言について、謝罪するという出来事がありました。小泉氏は、漁民の心情を思い遣り寄り添うという趣旨の発言をしましたが、海洋放出以外の方向性を示唆することはありませんでした。東京電力福島原発の問題は、基本的には環境省の所管事項ではありませんが、海洋汚染の問題となれば、同省の書簡範囲です。所管大臣として、「寄り添う」や「思い遣る」だけで、方向性を示さないまま、有力な方策を否定してしまうのは無責任極まりない、当座の人気取りだと考えます。具体策を決定する前に、自分の大臣任期が終わってしまえば、後は後任者の責任とでも考えているのでしょうか。
 学校でも、こうした寄り添う・思い遣る・無責任派の人がいます。障害のある子供の通常学級入級について、保護者の願いを思い遣り、子供に寄り添うと言って、「いい顔」をし、自校の教育環境や教員の指導力等を考えもせずに入級を引き受け、その子供が全く発達課題をクリアできない状況を放置したまま、他校に異動していって後は知らないという校長、そんな人を見てきました。
 授業中に女生徒が同級生に連れ出され、繰り返し性的暴行を受けていた事件が発覚し、保護者からの苦情を受けて、「カウンセラーを配置してもらいます」「加害生徒には厳罰で臨みます」「学校内では、担当学年の教員を中心に見守り体制を整え、不安なく登校できるようにします」と約束し、誠意と実行力のある校長をアピールしながら、加害生徒の保護者からの苦情、職員団体幹部からの反対に遭い、全て教委に対応を丸投げした人もいました。
 誰でも、他人に良く思われたいという欲望があります。しかし、自分がよく思われることを優先する言動は、少なくとも組織人、しかも責任ある立場にいる人間がとるべき態度ではありません。相手の希望に反してでも、相手が嫌がることが分かっていても、今の自分にできることを丁寧に説明し、罵声を浴びることも組織人には必要な覚悟なのです。
 
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NOを告白して

2019-09-22 08:32:37 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「できますか」9月17日
 『そこが聞きたい 差別問題の今』という見出しの特集記事が掲載されました。解放同盟中央本部執行委員長組坂繁之氏へのインタビューで構成された記事です。その中で組坂氏が語られた言葉が印象に残りました。
 『私は初めてハンセン病療養所の入所者と握手をした後、手を洗いたくなった。子どもの頃に恐ろしい病気と刷り込まれた記憶がぬぐえていないと気付き、がくぜんとした。私たちは、真っ白な心のキャンバスに、真っ黒い差別の墨を塗られて育ちかねないものなのだ。墨をぬぐい取るのは容易ではない』という言葉です。
 長年、被差別者の立場に立ち、同和問題だけでなく、在日外国人差別など、様々な差別、人権侵害と闘ってこられた組坂氏の言葉だからこそ、重みをもって迫ってくるのです。私は、映画「あん」を思い出しました。女優樹木希林さんが演じる、ハンセン病療養所で暮らす徳江さんが、どら焼き屋で粒あんづくりで働く姿を通して、自分の中にある差別意識と向き合わせてくれる作品です。映画を見ながら、もし私だったら、と考えさせられたのでした。
 私は教委勤務時代に、人権尊重教育を担当していました。ハンセン病差別についても、教科書的なことは理解しているつもりです。また、多くの人権課題についても講師として、教員対象に話をしてきました。差別を否定する考え方は、ある程度好みに染みついているとも思っています。
 しかし、映画「あん」を見ながら、「このどら焼き屋であんこを作っているのは、ハンセン病療養所の入所者なんだよ」と聞かされ、実際に買いに行ったときに、指が変形し、手の甲にこぶができ赤い斑紋が浮き出た手を見た後、それでも引き続きそのどら焼き屋でどら焼きを買い続けるだろうか、そう自問したとき、「もちろん、美味しくて安ければ買うさ」と言い切る自信はありませんでした。
 つまり、私の中の差別を許さないという意識は、机上の空論、建前だけで中身のないものだったということです。そして、正直に言うと、それ以来、自分の反差別感覚に自信がもてないのです。私はこのブログで、差別問題について何回も触れてきました。それは、自分の至らなさの自覚の反動という側面もあったかもしれません。
 教員のみなさん、あなたはどら焼きを買えますか。様々な差別問題を子供に指導するとき、こうした問いを自分自身にしてみてください。答えがNOだったら指導する資格がないというのではありません。むしろ逆です。自分の弱さを自覚した上で、それをさらけだすことで子供の本音を引き出す授業ができるはずです。

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私に言っているの?

2019-09-21 08:32:12 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「当事者意識」9月15日
 心療内科医海原純子氏が、『「当事者意識」指数』という表題でコラムを書かれていました。その中で海原氏は、『自分以外にも多くの人に送られているものは、何となく返事をしなくてもいいような気分になりがちだ。自分宛てに送られてきたメールには必ず返事をする』『講演会で最初に「こんにちは」とあいさつするが、客席からの「こんにちは」の声は人数の割に少ない(略)たくさんの人がいると何となくあいさつが自分に向けられたものでないような気分になりがち』などという事例を挙げ、『この何となく、他人事になりがちな心理、当事者でないような感覚というのはテクノロジーが発達すると増加するのだろうか』と述べていらっしゃいます。
 貴重な指摘です。教員にとって、教室の中にいる子供たちに、この当事者意識、つまり、「先生は私に質問している」「先生は私の意見を聞きたがっている」「先生は私に向かって説明してくれている」という意識をもたせることこそ、授業を成功させる秘訣です。
 私には苦い思い出があります。授業が下手な教員であった私は、話し合いが低調になると、決まって「特定の子供」を指名する癖があったのです。N君とH君です。2人とも、名門と言われる市立中学校に進学していきました。教育熱心な保護者の意向で、低学年のうちから進学塾に通い、私が6年生の担任になったとき、既に小学校の全課程の学習を終えている子供たちでした。
 私の説明が分かりにくいとき、質問が抽象的で意図が不明確なとき、教室はシーンとなってしまいます。そのとき、N君を指名すると、見事に私の意図に沿った発言をしてくれるのです。それでは教員と子供の一問一答形式となり「話し合い」にはなりません。そこでH君を指名すると、「N君のに付け加えると、~」と発言してくれるのです。これで、見た目は子供の発言で学習が深まった感じになります。
 そんな授業をしていたとき、ある子供が、「ここでNの出番だぜ」と言ったのです。子供たちは見抜いていたのです。私の質問や説明が、授業の山場になるとN君とH君だけに向かって発せられていたことを。つまり、2人以外の子供にとって授業や他人事、自分は当事者ではない、という感覚だったのです。私は顔が赤くなりました。恥ずかしかったのか、悔しかったのか、腹が立ったのか、よく分かりませんが、急に熱が出たように顔が熱くなったのは覚えています。
 授業は、教員と子供が協力して作り上げるものです。その一方の当事者である子供に当事者意識がなければ、表面的にはどんなにスムーズに展開していても、それは良い授業ではありません。
 私の場合は、私の未熟さが原因でした。しかし、今、導入が進められようとしている遠隔授業などの場合、この当事者意識というキーワードが重要になります。目の前にいない、人間関係もない教員の言葉をどれだけ当事者意識をもって受け止めることができるのか、十分な分析が必要だと思います。

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