ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

データの解釈

2020-09-30 08:07:03 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「データの解釈」9月22日
 『シュートわずか4本で1ゴール 150得点興梠の決定力』という見出しの記事が掲載されました。『Jリーグ戦で史上6人目の通算150得点を達成した』興梠選手についてその特徴を分析した記事です。
 記事によると、興梠選手の特徴は、『今季は出場13試合でシュート6本ながら3得点。決定率の高さが際立つ』ことだそうです。通算得点ランキング上位選手と比べても、大久保は6.0本で1点。佐藤は4.5本で1点。マルキーニョスとジュニーニョは7本以上で1点。興梠は4.1本で1点ということで、決定率が高いというわけです。
 記事ではこの決定率の高さをもって、興梠選手のストライカーとしての能力を評価しています。そうなのかなあ、というのが私の疑問です。サッカーにおけるシュートの決定率は、野球における打率とは違います。野球では、自分の力で他席に立つ回数を増やすことはできません。一方でサッカーでは、自分のポジショニングや身体能力、ゴールへの嗅覚、アグレッシブなプレースタイルなどによってシュート機会を増やすことができます。
 つまり、興梠選手は、FWであるにもかかわらずシュート機会を得ることに貪欲でない、という解釈も可能なのではないか、ということです。サッカー解説者はよく「シュートで終えることが大事で、チームにリズムを作る」という趣旨の発言をします。外れても一連のプレーをシュートで終える方が、相手にボールを奪われて終わるよりもよいという考え方に立てば、シュート数の多い選手の方がチームに貢献していると考えるのはおかしなことではありません。
 なぜこんなことを長々と書いているかというと、ある事実やデータの解釈は、一通りではないということを言いたいからです。私は、学校教育に関しても、政治家や評論家といった人々から、あるデータについて恣意的な解釈で、新たな改革が主張され、方向性が決められてしまうことがあると考えています。
 小学校における英語学習の教科化、学校選択制の導入、社会人経験者の積極的教員採用、少人数学級の推進、リモート教育の体制整備、ここ数年に限っても様々な改革が行われ、今もまた進行中です。これらの改革が、初めに推進ありきで、都合のよい解釈にもとづいて、反対論や疑問を軽視して行われてしまったという懸念が消えません。

 

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あなたが欲しいのはどちら

2020-09-29 07:54:09 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「感覚からくる違和感」9月21日
 『見直し進む教職大学院』という見出しの記事が掲載されました。『教員の資質向上を目的とする教職大学院が2008年度に発足して12年余り(略)設置が広がる中、先行した大学では従来の大学院の教員養成系修士課程との統合など見直しや改革も進む』という現状について報じる記事です。
 記事の内容については、「?」マークばかりが頭に浮かびます。まず、『教職大学院は実践力の育成を重視する』ものであるということです。その具体的な例として『国語や英語、保健体育など教科の専門性や指導力を磨くプログラムも新設』とあります。教科の指導力とは授業力のことでしょう。授業力を磨くのに、実際に授業をしてその反省と改善を繰り返すことよりも有効な方法があるのでしょうか。ない、と思います。
 これは現職の教員や校長などの管理職に訊いてみればはっきりするはずです。校長には「あなたは、新たに自校に配属される教員について、実際に2年間教壇に立って授業をしてきた人と大学院で2年間学んできた人のどちらが望ましいですか」、教員には「あなたは、新たに一緒に学年を組む教員について、実際に2年間教壇に立って授業をしてきた人と大学院で2年間学んできた人のどちらが望ましいですか」、と問うてみるのです。多くの人が前者を選ぶはずです。自力で学級経営をし授業をし保護者と対応することができ、その指導や支援に労力と時間を割く必要がないからです。つまり、子供のいないところで何を学び演習を重ねようと、実践力など身に着かないということです。
 次に、『教職大学院で学位を取得しても給与や昇進など制度上のメリットが整備されていないことは当初から課題に挙げられている』ということについてです。要するに教職大学院出身者は、高給で迎え、管理職登用時にも優遇すべき、ということです。私が教員になったころ、小学校では短大卒の教員がたくさんいました。彼らが学級経営力や授業力において4年制大学卒の教員よりも劣るという実感は全くありませんでした。私と一緒に配属されたG教員も短大卒でしたが、学級経営も授業も巧みで、同期の私は内心悔しい思いを抱き続けていたものでした。私のつれあいも短大卒でしたが、国語の研究に打ち込み、教え子を作文コンクールやコンテストで入選させました。区の教育研究会の国語部の研究部長を務め、都の研究員、開発委員、研究生に選ばれ、教頭、校長として学校経営にも実績を挙げました。つまり、いわゆる学歴と教員としての資質能力との間に相関関係はないというのが実情なのです。
 最後に、『学校運営リーダーコース』が設置されていることです。私は退職後、他の教委から依頼され何度か「ミドルリーダー育成研修会」の講師を務めたことがありました。主幹等を対象にしたものです。そのときの講義で最も共感を得ることができたのは、ミドルリーダーとは、他の教員から見て「役に立つ人」であるという話でした。悩んでいるとき、困っているとき、切羽詰まったピンチのとき、援助の手を差し伸べてくれたり、役に立つ情報やヒントを与えてくれたり、共に具体的な対応策を取ってくれたりする人ということです。
 そうした能力や知見は、組織論や人材育成論を学んで身に着くものではありません。教員としての豊富な経験と能力の裏付けがあって初めて机上の空論ではないノウハウが身に着くのです。もちろん、~論を軽視するわけではありません。私自身も指導主事や指導室長になったときにそうした研修を受けました。しかしそうした研修については、それまでの実体験の積み重ねがあってこそ、「そうか、なるほど」と納得がいき、自分なりに咀嚼できたというのが実感でした。
 全体的に、教員は子供を目の前にして学ぶという原則が軽視されている印象です。畳の上の水練にならなければよいのですが。

 

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見守り寄り添う、だけでは

2020-09-28 07:50:08 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「できない」9月20日
 人生相談欄で、作家高橋源一郎氏が、57歳女性の娘についての相談に回答していました。短大を出た24歳の娘が就活をしようとせず、現在は無職、やりたい仕事を問うても黙り込むだけ、育て方が悪かったのか、という相談です。この相談に対する回答は、『どうして卒業と同時に就職しなきゃならないのか、やりたい仕事がなければ、できる仕事でいいのか。本当にやりたいことって何だろうか。わからないまま仕事についていいのだろうか』などの悩みを抱えて苦しんでいる娘さんを『(あなたは)さらに追い込もうとしています。なにをやっているんですか。真剣に悩んでいる娘を、あなたは、ほんとうの病気にしようとしている。いちばん近くにいて、理解してほしい母親に責められる。どうして、自分の子どもを黙って受け入れてやれないのです。なぜ娘での味方ではなく社会の味方をするのですか』というものでした。
 高橋氏の言いたいことは分かります。でも難しいのでは、と思います。教員の職務の一つに進路指導、あるいは進路相談があります。高校受験も、就職も人生における重要な選択という意味では同じです。そして、受験においても、徹底して考えていくと、「学ぶって何?」「自分が学びたいことって何?」「どうして中学校を卒業したらすぐに高校にかなければいけないの」などという「本質的な問い」に直面します。実際に15歳の生徒がそこまで考えて悩むことはとても少ないですし、そのような問いを持ち出す場合も、受験という目の前の苦しみや不安から逃避したいという気持ちの方が強いケースがほとんどです。
 受験の準備もせず、どのような道に進みたいのか尋ねても黙り込む生徒に対し、「○○さんは、~が好きだと言っていたじゃないか」「○○さんが…していたときにはとても楽しそうだったけど」「△△高校はどうだろう。以前○○さんに似た先輩がいたけど、△△高校で楽しくやっているみたいだよ」などと声を掛けるのは、生徒を追い込んで病気にしてしまう愚行なのでしょうか。
 それとは逆に、「悩むよね。人間にとって学ぶってどういうことなんだろうね」とだけ言ってじっと見守っているのが望ましい進路相談ということになるのかというと大変疑問です。保護者はもちろん、生徒自身もそんな見守りを望んでいるのでしょうか。私の見聞きした経験からすると、そんな事例はほとんどありません。
 子供の成長には、受容してくれる身近な存在が必要ですが、示唆し方向付けてくれるものの存在も欠かせません。保護者や教員は、そのバランスが求められるのです。極論は無責任に通じるように思えますが。

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神はいなくても

2020-09-27 08:33:16 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「神はいなくても」9月20日
 総合研究大学院大学長長谷川眞理子氏が、『望むことで得る平安』という表題でコラムを書かれていました。その中で長谷川氏は、ご自身について『大人になって科学者になり、今でははっきりと無神論者である』としていらっしゃいます。そのうえで、カンボジアのポル・ポト政権が行った虐殺の跡地を訪ねたときの経験として、『どうしてもお寺に言って拝みたくなった。そして、私とは縁もゆかりもない仏教の宗派のお寺なのだが、裸足で上がってペタンと座り、お祈りをすることで、少しは平安を得られた。あれは何だったのだろう?』と書かれているのです。
 そして『人間が「神様」を必要とする理由はたくさんある』と言い、『ヒトにはある種の善悪の感覚がある。そして、善が悪に負けている状態を見ると何とかしたいと欲する。ところが自分の力が全くそれに及ばないことがわかると無力感に陥る。そこで、自分たちの力を超えた全能の存在が、いずれ何とかしてくれるだろうと信じたいのだ。無力な自分には、そう望む以外にできることがない。そう望むことで心の平安を得るのである』と述べていらっしゃいます。
 共感を覚えます。私もそうです。神の存在を信じてはいませんし、仏教の教義も知りません。父母の葬儀や法事は、ごく自然に僧侶に供養をお願いしましたが、深く考えてというわけではなく、今までに見聞きした他人の葬儀や法事を真似したに過ぎません。そんな私ですが、父母の月命日仏壇の前で手を合わせる度に、何かほっとした気分の包まれます。父母の遺影を見ると、笑ってくれているように感じます。もし、仏壇や遺影の前でとを合わせ頭を垂れることを禁じられたとしたら、生活上の支障はないはずなのに、イライラして落ち着きをなくし、精神のバランスが崩れていくような気がします。
 勝手な想像ですが、多くの日本人がそうなのではないでしょうか。私はこのいい加減であいまいな感覚を、我が国の学校教育における「宗教教育」の柱にすべきなのではないかと考えます。ユダヤ教やキリスト教、イスラム教などの一神教はもちろん、ヒンズー教や仏教、道教、あるいはわが国固有の神道でさえ、現代の多くの日本人の心性には合わないように思えます。かといって、宗教的なものなしには人は生きづらいものです。科学者である長谷川氏は、コラムの最後を『科学は、この世界の成り立ちについて多くのことを明らかにしてきたので、世界の説明では宗教の入る余地は少ない。しかし「安心」のよりどころとしては?』という言葉で結ばれています。
 具体像は描けないのですが、長谷川氏がいう「安心」に支えられた人生実現のためには、我が国に合った宗教教育は有意義なのではないでしょうか。

 

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IT先駆者と文系知識人

2020-09-26 08:20:12 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「知識人」9月18日
 インターネットイニシアティブ会長鈴木幸一氏が、『単純化と醜聞のすっぱ抜き』という表題でコラムを書かれていました。その中で鈴木氏は、『思想家ボルテールとプロイセン国王フリードリヒ2世の親交、ドレフュス事件で作家ゾラが政治的に果たした影響力、哲学者サルトルや作家カミュと政治家など、権力者との関りにおいて知識人の役割は大きかった』と歴史を振り返っていらっしゃいました。
 正直、とても意外な感じがしました。鈴木氏は、IT技術が社会を変えるという信念の下、その分野で先駆的な役割を果たしてこられた方であり、私の頭の中では「科学技術=理系の人」というイメージだったからです。文系出身者が多くを占める我が国の大企業経営者の「時代遅れな感覚」を厳しく糾弾してきた人という印象だったのです。
 その鈴木氏が、歴史に影響を与えた知識人として、ボルテール、ゾラ、カミュなどの「文系知識人」を挙げているから驚いたのです。もちろん、時代背景の違いもあり、当時は理系知識人というような存在がいなかったからだと言えばそれまでですが、私には、ITとAIが社会構造や人々の意識まで変えてしまう現在においても、倫理や宗教、哲学や文学、歴史や芸術といった分野の知識人の存在意義について、鈴木氏のような方が認めているというように受け取れたのです。
 実際に世の中の諸問題を見ても、生命科学の発展に伴いヒトとは、生命とはと考える生命倫理の問題が重要になり、IT産業の発展が新たな法体系の構築の必要性を痛感させ、AI技術が自動殺傷兵器の拡散という危機を予想させ、科学技術の粋を集めた宇宙開発が宇宙空間をも国家紛争の舞台としてしまう現実から目を背けることが許されなくなっています。これらの問題の解決には文系知が必要とされているのです。
 そうであるならば、社会を支え、個人の幸福実現に役立つことが求められる学校教育においても、倫理や宗教、哲学や文学、歴史や芸術といった分野の学習に力を入れることが必要であると考えるのは自然なことです。しかし、現実は逆の方向に進んでいます。文学が削られ実用文書に、英語教育の拡充に反作用として国語教育の減退が懸念され、国際的な競争力維持のための理系教育充実に比して文系知の中核をなす社会科教育の停滞など。
 学校教育における文系復興を急がなければなりません。

 

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お役人と先生

2020-09-25 07:51:26 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「教員と役人」9月17日
 論説委員花谷寿人氏が、『数字の先の悲しみ』という表題でコラムを書かれていました。その中で花谷氏は、免許更新講習での体験について語られています。『昨年、同県の交通事故志望者は129人。前年比46人減ったという。それ自体はいいことだ。だが講師が繰り返す言葉が引っかかった。「とても喜ばしい数字です」129人の死者と遺族にとって「数字」に何の意味もない』と。
 講師の思いも花谷氏の思いもよく分かります。私は教員を経て教委に勤務するようになりました。つまり、教員とお役人の双方を経験したということです。教員は、目の前の子供一人一人のことを考えます。というか、一人一人のことしか考えません。Aさんは~、Bさんは~、という積み重ねで、せいぜい数十人しか視野に入ってきません。一人の人間が考えることができるのはそれくらいは上限です。ですから、教員はそれでよいのです。
 一方、お役人はそうではありません。教委に勤務すると、それがどんなに小さな自治体であっても、管轄下の学校に在籍する子供は1000人以上になります。自治体の規模によっては数十万人、都教委の場合は100万人を超える児童生徒のことを視野に収めなければならなくなります。当然、一人一人の子供をAさん、Bさんとして認識することは不可能になります。
 その結果、子供たちはそれぞれ異なる顔をもち、思いをもち、保護者の願いを背負い、異なる人生を歩んできて、そしてこれからも歩んでいく存在ではなく、不登校児童生徒の中の一人、問題行動調査表に記入された一人、統計表の欄に書き込まれた数字としてしか見ることができなくなるのです。
 私が教委に勤務するようになって最も馴染みづらかったのが、このAさんから「1」への意識の転換でした。誤解のないように言っておきますが、私は「お役人」の発想や捉え方が非人間的だと非難するつもりはありません。Aさんの笑顔、Bさんの困った顔、Cさんの嬉しそうな声、Dさんの口惜しさに満ちた泣き声、そんなものをいちいち思い浮かべていては、情に流され、何一つ決断することはできなくなってしまい、教育行政は停滞してしまうからです。
 教員から教委へ、その道を歩むごく少数の指導主事や指導室長、そうした人たちに求められているのは、教員とお役人の間で、両者の橋渡し、意思疎通、発想の相互理解の手助けをすることだと考えます。それを忘れ、お役人になり切ってしまうのも、いつまでも教員の発想から抜け出せないのも、指導主事としては失格なのです。

 

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日本では…

2020-09-24 08:20:27 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「考えさせるには」9月17日
 読者投稿欄に、豊田市の主婦I氏の『「日本では違法」の表現に不安』というタイトルの投稿が掲載されました。その中でI氏は、俳優伊勢谷容疑者の大麻所持事件に触れ、『伊勢谷容疑者は調べに「日本では法に触れることは理解しています」と供述したという。この言葉からは、言外に「海外では違法ではない国もあるからたいしたことではない」とのニュアンスがあるように私には読み取れ、青少年に誤ったメッセージを送ることにならないか不安を覚える』と書かれています。
 私は教委勤務中に、生活指導担当として違法薬物使用について研修会等を企画していたこともあり、I氏の不安には共感します。ただその一方で、社会科の教材開発に取り組んできた者として、この問題は子供に考えさせる絶好の教材であるとも感じます。
 大麻所持に限らず、ある国では違法である行為が、他の国では合法であるという事例は少なくありません。つい最近まで、サウジアラビアでは、女性は運転することすら禁じられていました。多くの非イスラムである日本人には、なんじゃそれという感じですが、サウジアラビアでは、女性の運転禁止が解禁された現在も、保守派からは反発の声が上がっているそうです。
 法はその社会の歴史と伝統、それによって培われた価値観、社会の状況によって大きく異なります。そうした意味で、国による法の違いを調べ学ぶことは、子供にとっては社会というものを理解する上で非常に優れた素材なのです。
 また全く違う面からも、国による法の違いを学ぶことは教育的な価値が高いと言えます。よい教材とは、驚きと疑問を生じさせるものであるという原則があります。子供は漠然と、法というものは万国共通であるという認識をもっています。それなのに~、というのは子供の知的好奇心を刺激するのです。成人女性がミニスカートで外出すると逮捕されると聞けば、特に女生徒は「えー、なんで?おかしいじゃん」と言うはずです。その驚きと怒りが調べてみようというエネルギーになるのです。
 また、国による法の違いという概念は、より小さな集団によるきまりの違いという方向にも発展していきます。一例を挙げれば、学校ごとに異なる「おかしな校則」問題にもつながり、子供の人権意識向上につながる学習へと発展させることが可能なのです。
 良い「教材=社会的な事象」という考え方は一般の方には馴染みの薄いものかもしれませんが、社会科の教員には業のようなものです。私もいつまでも抜け出せません。

 

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怪物を生む

2020-09-23 07:15:16 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「グリップ」9月16日
 鈴木美穂記者が、『拝啓 新首相・菅義偉様』という表題でコラムを書かれていました。その中で鈴木氏は、『官僚のさまざまな声が聞こえてきます。「官邸のご意向に逆らえば命がない。進言するのが怖い」「イベントで官邸幹部に会っても顔を覚えられないよう、下を向くことにしている」。笑うに笑えません』と、菅氏の過剰な官僚支配を問題視なさっています。
 そして、『心配なのです。強大な権力が一極集中するシステムは、官僚による過剰な忖度を生み出し、首相を「裸の王様」にしてしまう』と、部下の異見、不快な情報を受け入れる姿勢を求めていました。私は、菅氏には期待をしていませんので、鈴木氏のような温かい助言をするつもりはありませんが、鈴木氏の指摘は、組織のトップに立つ人間は常に胸に刻み込んでおかなければならないと考えます。
 私が初めて勤務した教委では、圧倒的な権力をもつ人物がいました。指導室長を異例の4年間務めた後、教育長にになり10数年にわたって管下の学校の人事権を握り続けた方でした。自分が抜擢した校長が退職すると、嘱託として教委に勤務させ、秘書のように使っていました。管理職人事もお気に入りの嘱託校長の下案を作らせて、指導室長や人事担当係長に相談することなく全て自分で決定していました。
 教育長会の会長も務め、自分のお気に入りの指導主事を都や他区の要職に着けたり、女性問題を起こした校長を無理矢理他区に押し込んだりもしました。正月には、数十人の校長、教頭、管理職選考試験受験者が年賀の御挨拶に教育長宅を訪れ、仕出し屋が刺身の盛り合わせを何回も往復して運んでき、それを私たち指導主事が運んで来客の接待をしたものでした。
 教育長の職を退いてからも、教委に残った嘱託を通じ、様々なご意向が下りてきました。確かに面倒見の良い方でした。私が異動して数年たった後、指導室長の面接を受けるという情報をつかまれた彼は、私に履歴書を送ってくるように電話をしてきました。口利きをしてやるということでした。私は何となく釈然としないものを覚え履歴書は送りませんでしたが、改めて人脈の力というものを感じたものでした。
 能力と人情のある好ましい人でしたが、それは私が取り巻きの一人だったからそう感じるのだと思います。彼から冷遇された人の中には、不公平さ、不合理さを感じ、職務への情熱を減じた人もいたはずです。国家であろうが、地方の一教委であろうが、一校の中であろうが、規模こそ違え、過剰な権力の弊害は必ず生じるものです。リーダーには、自省と自制が必要です。

 

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引っ掛かりから始まる

2020-09-22 08:12:59 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「そうなんだ」9月15日
 連載企画『14歳の君へ 私たちの授業』は、「数学」について、数学者秋山仁氏が語られていました。その中で秋山氏はいくつも考えさせられる発言を行っています。まず、数学は積み重ねと言った後、『つまずいた所からやり直して勉強すれば、必ずできるようになります。そして、分かってくるとすごく面白くなります』と述べていらっしゃいます。
 特に目新しい指摘ではないように思えますが、私は2つのことについて考えさせられました。一つは、秋山氏は、「勉強すれば~」とおっしゃっていることです。「勉強する」の主語は、子供たちです。わたしたちの「授業」という企画なのに、授業を主導する教員ではなく、子供を主体にしているのです。教員に対して、数学が出来ない子供がいたら、その子供が躓いた所に戻って指導しなさいと言うのではなく、子供に自分で勉強し直しなさいと言っているのです。秋山氏は他の部分でも『分からない所からやり直そう』と、子供に自ら学ぶことを勧めています。学ぶのはあくまでも子供自身、という考え方には学ぶところがあります。
 もう一つは、『分かってくるとすごく面白くなります』という指摘です。今学校では、面白い授業、楽しい授業ということが重視され、そのための工夫が様々行われています。大切なことですが、中には行き過ぎも見られます。楽しさや面白さをその場限りの刹那的なものと捉えた「工夫」をする教員が少なくないのです。打ち上げ花火のように一瞬だけ、「オーッ」とか「スゲー」というような歓声が上がり、後は退屈で平板な講義が続くというような授業です。そうではなく、分かることこそ面白さなのだという、広義の学習全般に言える大原則を再確認する指摘を、秋山氏はしているのです。
 また数学者という理系(理系文系と分けるのは問題かもしれませんが)の秋山氏が薦めているのが、『授業で習う定理や原理を発見した人がどんな発想でそれを思いついたか、科学者の伝記を読むのもいいでしょう』『特におすすめは読書。自分が読みたい本をせかされずに読むと面白い』と数学の学びにおいても読書が意味をもつと主張なさっていることにも留意したいものです。
 知的好奇心の対象を広げ、その中から自分の頭の中のネットに引っかかったものをきっかけに学びの世界に入り込んでいく、そんなイメージが浮かびます。そこには表面的な効率を重視する学びとは対極にあるゆとりある人間らしい学び像があります。これからの学校教育において忘れてはならない視点だと思います。

 

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感情論も含まれます

2020-09-21 07:31:59 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「これは?」9月13日
 日本総合研究所主席研究員藻谷浩介氏が、『次期首相の課題 継承してはならぬもの』という表題でコラムを書かれていました。その中で藻谷氏は、『自民党総裁選で党則とされる党員投票を行わないことに対し、石破候補者が「不満を述べた」という報道』について、『不満とは感情であり、公私の区分で言えば「私」の領域の属する。石破氏は「党内民主主義に照らして妥当ではない」と指摘したのであり、これは感情論ではなく、公的な政策論である。それを「不満」と書いてしまうのは「公私混同」も甚だしい』と述べていらっしゃいました。
 なるほど、と思いました。なるほどの意味は2つあります。一つは、感情論と合理的な提言や指摘を峻別しておく態度の必要性であり、もう一つは感情論も合理的な提言や指摘を装うことによって訴求力をもたせることができるという意味です。
 私はこのブログで学校教育に関して様々な指摘や提言をしてきました。その際に、不満がある、違和感を覚える、~と感じる、嫌悪感を抱くなどの表現を使って指摘することが多かったように思います。私は意識していなかったのですが、私のブログを読まれた方は、感情的にものを言っているな、という印象をもたれたことが多かったのではないかと思います。
 私は教員を経て教委に勤務するようになり、教委の幹部として職業人人生を送ってきた人間ですから、当然のこととして世間一般の傾向に比してある種の偏りがあることは自覚しています。端的に言えば、学校や教員に「甘い」のです。しかし私としては、そうした偏りは避けがたいものとして意識しつつも、合理的な指摘や提言として文章を書いてきたつもりでした。藻谷氏の指摘を目にし、合理的な指摘や提言であることをきちんと伝えるためには、感情論と捉えられやすい「不満」「違和感」等の使用を控えていかなければならないと思ったのです。
 そう考える一方では、実はほとんどが感情論なのかもしれないし、私のような経歴の者が書く以上、むしろ生々しい感情を伝えることの方が正しい姿勢なのではないかとも思い、しばらく考え込んでしまいました。現場を知る人のナマの声というものは、感情抜きには存在しえないでしょうから。
 そうそう、「思う」と「考える」も明確に違うということを研究生のときにたたきこまれたのでしたっけ。このブログは当分揺れ動くことになりそうです。教員の皆さんも、職員会議で、研修会で、保護者会で、子供に対して、言葉を発するときに自分は感情でものを言っているのか、合理的な思考に基づいて話しているのか、意識してみる習慣を身に着けるとよいのではないでしょうか。

 

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