ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

どうせ3年

2021-09-30 08:27:47 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「ここにもいます」9月25日
 書評欄に、『「山賊公務員の流儀」牧慎太郎著(時事通信社)』に対する日本総合研究所主席研究員藻谷浩介氏による書評が掲載されていました。同書は、『総務省のキャリア官僚の職務は独特だ。短い東京勤務を挟みつつ、自治体への2~3年間の出向を繰り返す』官僚生活を送られた牧氏が、若者に仕事のやりがいを伝えたくて書かれてものだそうです。
 評者の藻谷氏は、こうした総務省キャリアと地域振興の場で多く出合い、その仕事ぶりを観察してきた経験の持ち主です。藻谷氏は、総務省キャリアのそうした仕事ぶりについて、『霞ヶ関との複雑な交渉や、地元の利害に縛られたプロパー職員にはやりにくい仕事を、出向先の自治体のための遂行するのが、彼らの任務なのだ。ただし、出過ぎずしかし埋没せずという距離感を、周囲との間に取れる有能さがなければ、現場では機能しない』と書かれていました。
 私はこの記述を目にして、自分のことを振り返ってしまいました。私は都内某市の教育委員会に指導室長として派遣(出向)した経験があるからです。都教委の副参事(課長級)の身分のまま、某市の教委の管理職としての仕事を務めたわけです。スケールは違いますが、似ている部分があると感じたのです。
 役所の職員も、議会の議員も、現場の校長や副校長も、知り合いが誰もいない余所者でした。任期が3年という部分も、都教委に知り合いがいて伝手があるという点も、それまでの利害関係者間の複雑な人間関係を知らないふりをしてことを進め、苦情が来ても「そういう事情があったのなら、事前にお聞かせ願えれば対応のしようもあったのですが。申し訳ありません。既に決定してしまったことなので」と無知を装って既成事実化してしまうやり方も、です。
 指導室長の仕事は、藻谷氏が指摘なさっているように、「出過ぎずしかし埋没せずという距離感を、周囲との間に取れる」能力が求められました。難しい仕事です。しかしその一方で、いくつかの強みも感じました。ひとつは上司の勤務評定をあまり気にしなくてもよいことです。成績良好であろうがなかろうが、3年で市から異動していくのですから、自分の意見を強く打ち出すことが可能です。また、悪い意味ではなく、都教委という看板を生かし、「そんな対応では都教委の理解は得られません」と、筋の通らない反対意見をある程度抑える力があることです。さらに、人に恨まれることを恐れず、正論を貫けることです。恨みは異動の際に一人で背負って持っていけばよいのです。私も、赴任してすぐに、前任者への愚痴や悪口を聞かされました。前任者は有能な人でしたが、人には相性があります。必ず文句を言う人は出てきます。何年も務めるのであれば、職務に支障をきたさないため、人に嫌われないということに留意する必要がありますが、そのことに割くエネルギーをもっと建設的なことに使うことができるのです。
 藻谷氏は、『過去のナンセンスな決定も代えられない日本の組織文化。その中にあって、結果を少しでも良い方向へ変えていく途は何か。志を曲げず、力や金に惹かれず。企画と調整のプロとして周囲を動かしていく、著者の仕事ぶりは痛快だ』と、総務省キャリアの自治体への出向という制度を肯定的に捉えていらっしゃいます。都の学校教育における指導室長派遣という制度もまた、意味のある仕組みだと思います。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

絶対縮小業界

2021-09-29 08:22:22 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「教職の場合は…」9月23日
 『時論フォーラム』欄で、法政大教授田中研之輔氏が、『[「45歳定年制」]「自律型」への問題提起』という表題でコラムを書かれていました。『経済同友会のオンラインセミナーでのサントリーホールディングスの新浪剛史社長の「45歳定年制」発言が物議を醸している』ことについて論じるものです。
 田中氏は、『テクノロジーの華々しい進化のように、私たちは成長し続けることはできない(略)45歳に向けていかにキャリアを築いていくのか、そしてどう働いていくのかを一人ひとりが考え抜いていかなくてはならない』とし、『一つの組織にキャリアを預け、定年まで働き続ける勤労観から、自ら主体的にキャリア形成していく働き方への転換は、私たちに託された社会的使命である』と述べられています。
 もちろん、新浪氏も田中氏も、基本的には民間企業の従業員について語られているのですが、公務員が、教員がこうした動きと無縁であるとは言い切れないような気がします。実際、田中氏は、『歴史変化、人口構造、産業構造、職種変化、さまざまな視点から多角的な分析を踏まえて言えるのは、組織内キャリアへのバックラッシュは起こり得ない』と断言なさってるのですから。企業ではなく、組織という言葉を使って、です。
 教員45歳定年制が導入されたらどうなるのでしょうか。田中氏が言う「人口構造」から見た場合、少子化は絶対条件ですから、子供の数が減る以上、教員の数も減らすという考え方が出てくるのは自然です。新規採用を減らし、自然に減っていくのを待つという選択肢もありますが、それでは高齢教員ばかりになり学校に活気が失われていきます。
 むしろ世論は、学校にも45歳定年制を積極的に導入し、高齢教員を排除して若い新鮮な教員を増やしていくという手法を支持すると思われます。つまり、教員45歳定年制導入は絵空事ではないということです。
 では、教員にとって、学校という組織に属しながら、学校に関係のないキャリアを形成することは可能なのでしょうか。もちろん、45歳定年制が導入されるとなれば、そのためのシステム、例えば兼業や副業が認められるようになるでしょうが、それは学校教育にプラスになる改革なのでしょうか。
 また、異業種交流会や社会人大学院進学などの学びや人脈作りの場も準備されると思われますが、そうしたことに時間と労力を費やす人物が我が子の担任になることを保護者は歓迎するでしょうか。
 より根源的な問題として、教員という職は、組織外キャリア形成に向いているのかということがあります。私は向いていない、俗な言い方で言えば教員は辞めた後つぶしが利かないと思っていますが、そうであるならば、自律的キャリア形成ができないのに45歳で放り出される職ということで、そもそも有能な人材が教職に集まらないということになるのではないでしょうか。
 だからといって、教員だけ65歳定年制を維持しようとすれば、他の職で自律的キャリア形成に苦労している人たちから、「教員ばかり優遇して」と怨嗟の声があがることは確実です。私は教委勤務時代、毎年、「教員は優遇され過ぎ」という苦情電話を受けていました。実態が知られないまま、教員は嫉妬されやすい職なのです。
 まだまだ先の話と思っていると、案外10年後、15年後には難問に直面することになっているかもしれない気がします。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

栄一様の言う通り

2021-09-28 08:04:14 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「凡庸」9月23日
 余禄欄に、次のような記述がありました。『「はばかりながらいわせてもらえば、官吏は凡庸のものでも勤まりますが、商工業者は相当に才覚のある者でなければ勤まりません」。これは渋沢栄一が大蔵省を辞し、日本初の銀行を創業した当時の言葉である』。
 ここで言う「商工業者」とは、新たに起業し成功を収める者というような意味で、企業の従業員全般を指すものではないと思われます。そして、そうした意味でなら、全く同感です。さらに言えば、ここで言う官吏とは公務員を指し、当然のことながら公立学校の教員もそこに含まれると考えます。
 私は公立学校の教員から、教委の指導主事、統括指導主事、指導室長と、公務員以外の職を経験したことがありません。そのうえで、公立学校の教員は凡庸な者でも勤まるという見解に賛成なのです。というよりも、この点を強く世間の人に周知、理解してほしいと思っているのです。
 教員の大部分は凡庸な人、様々な教育改革や教育論議は、この点を踏まえて進められるべきだと考えています。現在の教育システム下において、東大法学部やハーバード大の卒業生が大挙して教員を目指すということは考えられません。安月給ですし、我が国の教育行政を変えるというような「大きな仕事」をする機会はありませんから。
 また、失敗を恐れず、旺盛な名誉欲、権力欲、金銭欲などをもって企業に挑戦しようというような性向をもった人が集まるとも思えません。仮にそうした人が教職に就いたとしても、教職に向くとは思えません。子供は実験動物ではないのですから、失敗してもまた挑戦すればいいという考えで日々の教育活動に臨まれてはたまったものではありませんし、他の教員がやらないことをしてメディアで取り上げられ注目を集めたい、というような気持ちの持ち主では、子供は教員の目的を達成する道具にされてしまいます。
 さらに、吉田松陰やサリバン先生のような偉大な教育者を目指すことを求められても困ります。そんな人はめったにいないからこそ「伝説」になっているのですし、現代の普通の公立校と幕末の松下村塾を比べられても、あまりにも違い過ぎて比較にならないことは明白です。
 要するに普通の人が普通に与えられた仕事をこなして責任を果たす、それ以上のことを求めてはなりませんし、求めれば必ずどこかに歪が生じ、学校システムそのものが緩やかに崩壊ていくことになるのです。このように書くと、教員というのは無気力者の集団というイメージをもつ人がいるかもしれませんが、そうではありません。
 私が接してきた教員の多くは、教員としての責任感や矜持、教員としての能力向上への意欲をもって、日々職務を遂行していました。それは、他の多くの職業の人と同じです。一般の公務員(私は教委で彼らと接してきました)も自分の職務においてプロフェッショナルになろうと努力していましたし、企業に勤める人、あるいはアルバイトとして働く人でも、多くの人、おそらくその9割以上は、真面目に、小さな達成感をエネルギーにして職責を果たす日々を送っているはずです。
 凡庸な人が教員になり、職務を続けながら少しずつ専門性を向上させ、同時に誇りをもつようになり、働くことの喜びを味わっていく、そうしたシステムでなければ学校は回っていかないのです。そもそも、凡庸でない人ばかり、何十万人も集められるはずがないですよね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

再発防止に必要な事後処理

2021-09-27 08:01:19 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「問題なのは」9月22日
 『児童に「死ぬしかない」 特別支援学級教諭免職 暴言・体罰34件』という見出しの記事が掲載されました。『姫路市立城陽小の特別支援学級の児童6人に「生きる価値なし。死ぬしかない」など34件の暴言や体罰をしたとして、県教委は21日、同学級の担任、藪田侑亮教諭(39)を懲戒免職処分にした』ことを報じる記事です。
 ひどい教員です。でもそれで終わってしまっては、この事件の背景にある問題を解決することはできません。まず、『担任をサポートする教職員は18年度から藪田教諭の体罰などを当時の校長に報告していた』という点にあります。同僚の教員たちは校長に報告という形で子供を守るという責任の一端を果たしています。それは認めなければなりませんが、本来はもう一歩進んで、藪田教員を阻止しなければならないのです。
 「藪田先生、やめなさい!あなたのしていることは体罰ですよ」と声を掛け、子供を救い出し、藪田教員に注意をするのが、体罰を確認した教員の務めなのです。そうした行動をとることによってのみ、保護者や子供から信頼されることができるのです。
 殴られている子供の立場で考えてみれば分ることです。殴られている場面を目撃している教員が、止めもせず傍観していれば、後刻校長に報告したからといって、「○○先生は藪田先生の暴力から僕を守ってくれた」と思うでしょうか。思うわけがありません。
 実際に、子供の前で同僚に注意をするというのは、フラットな職場である学校では難しいことですが、教員への、学校への、そして公教育への子供や保護者の信頼を得るためには絶対に必要なことなのです。校長や教委は、そのための研修や指導を行わなければなりません。
 次は、校長の無能ぶりについてです。記事によると、『教職員は18年度から藪田教諭の体罰などを当時の校長に報告していた』ということであり、『20年度に同行に赴任した湊泰宏校長も21年4月に報告を2度受けたが口頭注意にとどめ』ていたというのです。
 湊校長は、『藪田教諭は与えられた仕事に真面目に取り組んでいた。口頭注意で改めると思っていた』と語っています。私の経験では、18年度から足掛け4年、体罰や暴言を繰り返していた常習者が、注意だけで改めることはあり得ません。断固とした処分が必要なのです。
 こうしたケースでは、「普段はよく頑張ってくれているし」「ここで処分歴をつけてしまっては藪田教員の将来が~」というような思惑で、教委への報告を躊躇ったという言い訳を耳にすることが多いのですが、嘘です。校長自身の管理能力が問われることへの恐れや、その後に起こる様々面倒な処理作業を避けたい気持ちなどが、理由であることがほとんどです。また、情けない話ですが、当該教員に恨まれたくないという弱気な校長もいます。
 しかしそうした配慮や温情は結局、教員のためにも自分のためにもなりません。実際、教員は免職、校長自身は減給処分となっているのですから。体罰等をした教員を立ち直らせるためには、きちんとした処分によって、自分が犯した罪の深さを自覚させることが出発点になります。教委への報告も処分も、教員自身のために行うものなのです。
 最後に、これは想像ですが、藪田教員が特別支援学級の担任であったと言ことが影響している可能性があります。通常の学校内に設けられた特別支援学級は、学校内の別の学校のようになってしまい、そこにミニ校長のような存在が生まれ、校長が指導できないような雰囲気になってしまうことがあるのです。多くの場合、校長は通常学級の担任を経て校長になっており、特別支援教育については理解が浅く、そこに長く勤務している教員の専門性に遠慮し、全てを委ねてしまい必要なチェック機能を果たせなくなってしまっていることが少なくないものです。校長は、特別支援教育について学び、教委の指導主事等の助言も得て、校長としての指示命令を発することを躊躇ってはならないのです。
 体罰事件は、教員の処分で終わらせるのではなく、上述した視点からの「事後処理」が必要なのです。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

都合よくつまみ食い

2021-09-26 08:33:33 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「半可通」9月21日
 連載企画「14歳の君へ わたしたちの授業」は、評論家荻上チキ氏による「社会科の授業」でした。その中で荻上氏は、『学校は世の中と違い、先生に権力があって、全体主義的な振る舞いが許される、結構特殊な場所です。適応することが、社会で成長するのと同じだと考えないでほしい』と書かれています。
  そしてさらに、『立法、行政、司法全部を先生が独占しているんです。学校は社会に向かって育つ準備期間のはずなのに、民主主義的に運営されていない』とも書かれています。また、校則についても生徒の多数決で変えることができるようにすることが必要だとされています。
  久しぶりに、学校を生徒の手で民主主義に則って運営すべきという主張を目にしました。私は、教委勤務時代の20年前の議論を思い出しました。指導室長として、児童の権利条約に基づく学校運営を求める市民の会の会合に参加したときの議論です。
 我が国は民主主義と同時に法治主義を掲げています。法治主義を欠く民主主義はあり得ませんから、当然のことです。ですから、荻上氏が主張するように学校内のことは生徒が決め(立法)、生徒が運営し(行政)、生徒が裁く(司法)仕組みを実現するためには、法改正が必要になります。
 そんなことは当然であるにもかかわらず、荻上氏と同じ主張をする人たちは、抜本的な法改正までは考えず、とりあえず現行の枠組みの中で子供による自治を拡大すべきというのが通例でした(荻上氏については分かりませんが)。
 しかし、木に竹を継いだような仕組みでは学校は機能しません。かつて、小学校で、学級のきまりを破った子供には、みんなが1回ずつ叩くという罰を与えるというきまりを作った事件がありました。実際に、学級内の子供十数人に太腿を叩かれた子供の太腿は、真っ赤に膨れ上がり、痛みと悲しみでその子供は号泣してしまいました。このときには、制止しなかった教員が処罰されました。当然です。教員としての務めを放棄してしまったのですから。そんな決まりはいけないよ、と「非民主的」に介入する教員がいてこそ、みんなで叩くという行き過ぎた正義を阻止できるのですから。
 しかし、司法権が子供の手に移れば、教員は傍観するしかなくなります。それでもよいというのであれば、教員は楽ですが子供、特に弱い立場の子供にとっては、学校は地獄になるでしょう。やくざが警察と裁判所の実権を握っている社会のようなものになるのですから、たまったものではありません。
 それにも関わらず、学校民主派は、こうしたケースでは教員の指導に問題があったと非難するのです。おかしいですよね。あるときは権力を振るい過ぎると非難され、ある時は権力を行使していないと非難される、しかもその基準が不明確というのでは教員はたまったものではありません。
 私は荻上氏の主張には反対の立場です。しかし、自分の意見を押し付ける気もありません。都合の良いつまみ食いでではない、教員の指導をきちんと定義した改正案を示していただけるのであれば、耳を傾けるつもりです。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いるはずなのに

2021-09-25 08:35:41 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「いるはずなのに」9月20日
 『44.4% 女子制服でスラックスを選べる高校』という見出しの記事が掲載されました。『制服が指定されている都道府県立の全日制高校3073校のうち、女子の制服で「スラックス」を本人の意向で自由に選べる高校は44.4%の1365校だった』という調査の結果を報じる記事です。
 それだけですので、その他にどのような調査が行われたのか分かりませんが、当然のこととして、男子の制服でスカートを選べる高校がどれくらいあるのかが気になります。ほとんど0%に近い数値というきがするのですが、どうでしょうか。
 もちろん単なる推測なのですが、そう考える根拠は、私が指導室長をしていたときにも、管下の中学校において、スラックスで登校したいという女子生徒やその保護者からの希望はあったのですが、スカートで登校したいという男子生徒やその保護者からの要望は皆無だったからです。
 バラエティー番組などで活躍するタレントにミッツマングローブさんがいます。今はどうか知りませんが、テレビに登場し始めたころは、女装家という肩書でした。長身で体格の良い男性ですが、スカートを穿いてブラウン管に登場していました。ミッツ氏が、どのような性自認なのか、性志向なのかは知りませんが、スカートを穿きたい人であることには間違いありません。
 私の室長時代にも、ミッツ氏と同じタイプの男子生徒は、一定数いたはずです。でもそうした声が起きてこなかったのは、女子生徒がスカートよりもスラックスという声をあげるよりも、男子生徒がスラックスよりもスカートという声をあげる方がハードルが高かったからだと思います。
 理由はいろいろあると思いますが、最も大きな要因は、女子生徒の場合は、寒いとか、激しく動くと下着が見えてしまいそうで恥ずかしい、というような理由、つまり自分の性自認や性志向とは無関係な話として要求することができるのに対し、男子生徒の場合は、そうした理由を挙げるのが難しいからです。夏は暑いからスカートにと言えば、半ズボンがあると言い返されてしまうでしょうから。
 つまり、性自認等に関わる切実な要求としては、男女を問わず、制服の自由は認められていないというのが現状なのではないでしょうか。何人かに一人、何十人かに一人の少数派かもしれませんが、違和感や不快感を抱きながら、嫌々制服を着て登校している生徒たちのために、制服の概念を考え直す必要があるような気がします。
 私案ですが、男女同じ制服というのはどうでしょうか。下はもちろんスラックス、上半身も同じデザイン、警察官や消防官、自衛隊員のようなイメージで、中高生は同じ学校は同じ制服とするのです。そうすれば、本当は女の子(男の子)の格好をしたいのに、という葛藤は成り立たなくなるはずです。女の子(男の子)と同じ格好をしているのですから。どうでしょうか。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

画一性がもつ利便性

2021-09-24 07:53:05 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「バラバラがいい?」9月19日
 読者の疑問に答えるコーナーに、奈良市の中3T氏から、『なぜコンビニエンスストアなどの品物の配置はどこでも同じなのですか?』という疑問が寄せられていました。回答分の中に、『セブン-イレブンは、全国におよそ2万1000店舗あり、その全てでというわけではありませんがこのような並べ方をしていることが多いそうです(略)来た人がすぐ見つけられるように~』という記述がありました。
 つまり、基本的に地域差・店舗間の違いは付けずに、皆同じにしているということで、その理由は、どこでも同じなら初めて入った店でもすぐに目的の商品を見つけて買うことができるから、ということです。私はあまりコンビにを利用しない方ですが、それでも出先などで急に、祝儀袋が必要になった、筆ペンが書けなくなった、単4電池が切れた、などというとき、コンビニを利用します。初めての店でも、迷うことなく目当ての品がどこにあるか見当がつきます。便利です。それでこそコンビニエンスです。
 コンビには、全国一律の画一性を一つのセールスポイントにしているわけです。では、学校はどうでしょうか。我が国の学校、特に義務教育である小中学校は、画一的という特徴がありました。しかし近年、画一性批判が高まり、多様性、地域性を重視すべきという主張が強くなってきました。その結果、特色ある教育活動に力が注がれるようになり、同じ市内でも、A校とB校ではこんなに違う教育活動をしている、というのが良いとされるようになってきています。
 ここに転校生がいます。転校初日、初めての学校は前の学校とは違うことだらけです。登下校の仕方、朝の会のやり方、特色ある○○タイム、授業中の発言ルール、座席の決め方、給食や清掃当番の仕事内容、もちろん昔の学校間にも違いはありましたが、あまり大きな違いはありませんでした。
 今、地域間の人口格差を小さくする動きが注目されています。大都市から地方へ、あるいはリモートワークを生かした2つの生活拠点を持つ暮らし方など、人が移動、移住する機会が増えていくことは予想されます。そのとき、転校した子供が、違いの大きさに戸惑うということの教育上の影響を考えると、ある種の画一性というものには、もっと肯定的な評価がなされるべきなのではないか、という思いが湧いてきます。
  私は元々義務教育はその位置付けからして、一定程度の画一性こそ好ましいという立場でした。このブログでもそうしたへそ曲がりの意見を述べてきました。しかし、そうした視点とは別に、子供や保護者の「利便性」という視点から、画一性について考えてみることも意味があるのではないでしょうか。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人は嘘をつく

2021-09-23 09:10:30 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「信じるということ」9月19日
 『政権の「負の遺産」どう対応』という見出しの記事が掲載されました。自民党総裁選の4候補がそろった討論会について報じる記事です。その中に『安倍氏の説明は十分なのか。そう問われた高市氏は「あれだけ長い国会審議の中で説明はされていると思っている」ときっぱりと言い切った。国会で118回の「虚偽答弁」を繰り返したとされる点についても「(安倍氏)本人が虚偽と思って説明したわけではない」と擁護した』という記述がありました。
 とても不思議に思いました。高市氏の発言の中には、事実とそれに基づく見解と推察が混じっています。「長い国会審議の中で」は事実です。安倍氏の話したことが「説明」に値するというのは見解です。事実は事実ですし、見解も人それぞれですが、そういう考えもあるという意味では認められるものです。しかし、安倍氏が虚偽と思っていなかったというのは推察に過ぎません。それなのに、「~わけではない」と断言しているのです。説明したと「思っている」という表現とは明らかに違います。
 では、どういうケースでは、虚偽とは思っていなかったという断言ができるのか、というのが私が抱いた疑問なのです。教員は子供を指導する中で、子供の言い分や主張について、嘘かどうかを判断しなければなりません。嘘を鵜呑みにして対応することは、子供に「何かあってもうそをついてごまかせば済む」という価値観を植え付けてしまいますし、「この先生はちょろい」という思いを抱かせます。いずれもその後の指導に大きな悪影響を及ぼします。もちろん、嘘と察したうえで、子供の心情等への配慮で見て見ぬふりをすることはあり得ますが、それでも「先生は本当のことを知っているけど、君の辛い気持ちも分かるから~」ということを雰囲気で悟らせなければなりません。
 それだけに、高市氏が断言されたことに強い違和感を覚えるのです。おそらく高市氏は、安倍氏の人柄に心酔しており、「安倍先生のような清廉潔白、私欲のない方が国会という場で自己保身のために嘘をつくなどあり得ない」と信じていらっしゃるのでしょう。そうした信頼関係というのは、ある意味では美しいものです。しかし、盲目的な信頼関係というのは、長期的にはかえって人間関係を損なわせるものです。
 「本当?」と子供の言っていることに疑問を呈すると、教員なのに子供を信じようとしないのか、と非難するひとがいますが、間違っています。盲目的な信頼や無条件の信認ではなく、人間は弱い存在でときには様々な理由で嘘をつかざるを得なくなるという当たり前の人間理解に基づいて、子供の言行を判断する、それが教員に望まれる態度です。高市氏は教員には向きませんね。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

個人の選択は尊重されるべき?

2021-09-22 08:26:09 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「SDGs」9月16日
 三沢耕平記者が、『ファイナルエディション』という表題でコラムを書かれていました。『バイクを買った。ヤマハ発動機のSR400。』という書き出しで始まるコラムは、『名車だが、世界中で加速する脱ガソリンの流れを止めることはできない。排ガスや騒音などの環境規制は年々厳しくなるばかりで、近く全ての生産活動が終了(略)43年のSR史に幕を下ろす』とSRに対する愛惜の念に満ちていました。三沢氏は、『変わらないエンジン音を、変わりゆく時代の空に奏でたい』と、来月の納車を心待ちにしているようでした。
 私にはバイクの趣味はありません。クルマの免許も取らなかった変わり者です。三沢氏の思いに共感できないのはそのせいでしょう。しかしそうした個人的な事情を除いても、正直なところ理解できないのです。
 全国紙の紙面は公器だと思います。個人的な思いはそれぞれですが、その公器で、地球温暖化に悪影響のあるガソリン車の使用を賞揚するような記事を書くということが、です。
 しかし、現実に三沢氏のガソリン車規制が進むことへの無念を表すかのようなコラムは、編集長(?)などの管理職の承認を経て、掲載されているのです。つまり、M紙として一定の承認を与えているということです。
 私は、M紙や三沢氏を非難しようというのではありません。SDGsについて、学校でも学習対象として取り上げる機会は、今後さらに増えていくことが予想されます。その際、例えば環境問題や地球温暖化問題を取り上げたとして、こうした個人の嗜好や趣味というものをどのように扱えばよいのか、という問題意識をもっただけなのです。
 厳密には個人にとどまりません。例えば、地域振興、観光客を集める目的で汽車を走らせる鉄道会社があります。モクモクと黒煙をはいて走る機関車は、環境保護、温暖化防止の視点からみれば、問題であるはずですが、そうした非難は聞いたことがありません。
 交通機関が未発達な発展途上国においてならば、ガソリンバイクの活用や旧式な機関車も人々の生活の維持に必要なのかもしれません。しかし、我が国において、ガソリンバイクや機関車がなければ、生活の維持が不可能などという地域はないはずです。それでも、個人や法人、地方自治体の選択権の確保や幸福追求権のようなもの、精神的な満足感などから、ガソリン車に乗り続ける自由のようなものが保障されるべきなのか、という点が、SDGsについて学ぶ場合に一つの課題となるような気がするのです。
 ガソリンで動くバイクのアクセルを踏み込んだときの爆音や振動、子供たちはどんな結論を出すのでしょうか。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

早く楽にして

2021-09-21 07:21:36 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「公立学校」9月15日
 『コロナ空気感染 不都合な真実? 認めぬ国に専門家38人緊急声明』という見出しの記事が掲載されました。『新型コロナウイルスの主要な感染経路として政府が否定している「空気感染」を前提とした対策を取るよう求めて、感染症などの専門家38人が緊急声明を出した』ことを報じる記事です。
 記事によると、『WHOやCDCは今春、新型コロナは空気中に漂うウイルスを含んだ微粒子「エアロゾル」を吸い込むことで起きる「空気感染」が感染経路だと明記した(略)国はかたくなに空気感染を認めていません』ということです。私も空気感染だと思っていますが、素人です。空気感染か否かの論争に加わるつもりはありません。ただ、次の記述が気になりました。
 『真の感染経路に真正面から向き合わず、消毒や手洗い、アクリル板の設置といった効果の低い対策ばかりを推奨したけっか「第5波」までに多くの犠牲者を生み出した』という記述です。昨年から、学校はコロナ対策に追われてきました。教員は、本来の職務である授業準備等にかける時間を、階段の手すりや机、ドアの消毒などに費やさざるを得なくなっていました。手洗いの指導や監督にも、時間を費やしてきました。しかし、そうした努力は効果が薄いというのでは、全く報われません。
 そしてさらに問題なのは、公立の機関である公立学校においては、政府・文科省などの見解を逸脱した対応は取りにくいということです。一個人であれば、自分が得た情報に基づき、コロナへの対応を変えることができます。私も自宅では、消毒には重点を置かず、換気に最大限の努力をしています。しかし、公立学校は、政府→文科省→都道府県教委→区市町村教員→学校という系列の中で、政府の見解と異なる対応を取ることは非常に困難なのです。
 一校の判断で、手洗いや消毒に重点を置かない対応をすれば、他所の学校は~、という苦情が来ますが、それに単独で対応しなければなりません。公立校なのに政府の方針を軽視するのか、という苦情への対応には、より一層苦労するのです。学校にはコロナの専門家はいませんし、政府には専門家を自称する人たちがたくさんいるのですから。コロナに限らず、公立学校は、政府や文科省が間違ったあるいは偏った見解に基づく方針を打ち出した場合、その方針に疑問を抱いても、方針を無視することはしにくいのです。
 記事では、政府が見解を変えないのは、メンツの問題だと指摘しています。そうだとすれば許しがたいことです。間違いを認め、学校を、教員を楽にしてほしいと思います。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする