ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

苦しくても建前を押し通す

2023-04-30 08:36:07 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「迷いは不要」4月22日
 『先生 こっそり夜の副業』という見出しの記事が掲載されました。『名古屋の繁華街で客引きをしていたとして中学校教員が逮捕された』事件について報じる記事です。教員といっても非常勤講師であり、時間外勤務の副業は違法ではありません。記事によれば、『市教育委員会は「ホストは想定外だった」と困惑している』とのことです。
 困惑の理由が分かりません。逮捕されたのですから、当然解雇処分となるはずです。それで一件落着です。当該講師からの苦情もないはずですし、仮に裁判ということになっても市教委側が敗訴する可能性は極めて低いと思われます。
 記事では、『市教委の担当者は、副業が認められる職種について「これはダメ、これはOKなどと一概に言えない。職業差別や人権侵害になりかねない」と話す(略)ホストという副業をどう捉えるか非常に悩ましい。今後は一定の規定を設けることも検討するが、そう簡単には決められない』と言う記述がありますが、悩む問題ではありません。
 私は過去にこのブログで、教員採用時の問題として、いわゆる風俗で働いていたという職歴を理由に採用試験の成績が良いにもかかわらず不合格にできるかという問題を提起したことがありました。それと同じ考えで対処すればよいと考えます。
 結論は、あらゆる差別を許さないことを標榜する学校において、違法でない限り職歴を理由に不公平な扱いをすることは許されないという原則を墨守することです。ソープ嬢であろうが、デリヘルで働いていようが、それを不採用や解雇の理由にしてはいけないのです。もし、市民や保護者や子供から解雇等を求める声が上がっても、それは人権侵害だと教員をかばう覚悟も必要です。
 ただし、正規教員であれば、事前に許可を求めることは当然ですし、許可なく副業に従事していれば、懲戒処分を下すのも当然です。また、前歴を隠して採用された場合、正しい申告がなされなかったという理由で採用取り消しを行うべきとも考えます。
  私は「建前」を言っています。本音では、長年風俗に従事していた人を教員として教壇に立たせることに強い違和感を覚えています。しかし、個人の違和感で人権侵害をしてはいけません。もし、どうしても風俗出身教員は嫌だというのであれば、自分で声を上げ、理論的にここまではOKという線引きをし、法制化するよう働きかけるべきです。合理的な線引きは不可能だとは思いますが。
 教育には、苦しくても「建前」を掲げなければならないときがあるというのが私の考えです。
 

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まだ日本では少ないけれど

2023-04-29 08:31:07 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「教員だったら?」4月21日
 藤原章生氏による連載企画『イマジン~チリの息子と考えた』の14回は、『人のエゴ平気なの?』でした。その中で藤原氏は、息子さんにベジタリアンになった理由を尋ねています。息子さんは、『動物を奴隷にし、拷問し、勝手に受精させて、生まれた子をすぐに親から引き離し、幼いうちに殺す。これは今のシステムではまったく問題ないことになっているよね』と話し出します。
 さらに、『(人については)殺人は最悪の行為だし、拷問や暴力、レイプと同じように、道徳上許されない』『犬や猫は大事に保護されていて、食べたら批判を浴びるし、狭い檻に閉じ込められた映像が流れると、動物愛護団体がすごく怒るじゃない。じゃあ、他の動物は?』と言い募るのです。つまり、牛や豚や鶏の肉は、『生まれたときから死ぬまで続く苦しみや拷問の結果』であることを指摘し、そうした動物の「人生」を想像したら、食べるなんてできない、許されない行為だということなのです。
 藤原氏は、こうした息子さんの意見に全面的に賛同するわけではないのですが、現時点でとりあえずペスカタリアン(ときに魚介類は食べる菜食者)になっているということでした。私は、藤原氏やその息子さんのような「良心」は持ち合わせておらず、とんかつも生姜焼きも肉豆腐も牛丼も大好物で、全く罪悪感を感じずに食べています。
 そんなわけでここでベジタリアンの思想について論じる気はありません。ただ、息子さんのような思想、価値観でベジタリアンとなっている人が教員になったらどうなるのだろうと考えてしまっただけです。
  給食の時間、彼は肉や魚が使われた給食を食べることをしません。子供は訊くでしょう。「どうして先生は食べないの。好き嫌いしちゃいけないんだよ」と。彼はどう答えるでしょうか。前述したような価値観を口にするのでしょうか。それは、給食指導における教委や学校の方針と齟齬をきたすことになります。
 保護者から苦情がくることが予想されます。「我が家では好き嫌いなく食べるように苦労して指導しているのに、担任の先生がそれを台無しにするようなことを口にするなんて」と。この苦情に対して、彼の価値観を説明したところで理解を得られるとは思えません。
 保健体育の授業で、動物性たんぱく質の摂取が、健康な体作りにおいて重要であるという内容を指導できるのでしょうか。まさかこれは間違っている、と言ってしまうわけにはいかないでしょう。
 社会科の授業では、我が国の産業について学びます。それぞれの産業の従事する人たちの工夫や喜びについても学びます。しかし彼の価値観に従えば、畜産業に携わる人たちの工夫は、動物にとっては拷問であり暴力であることになり、畜産家は動物を苦しめ虐待する極悪人ということになります。そんな授業はできません。
 最近、旧統一教会の件があり、宗教について関心が高まっています。教員の中にも、○○学会や○○○○証人などの信者がいます。彼らが自分の宗教的な価値観を子供に対して露わにすれば問題となるでしょう。しかし、そうした機会はほとんどありません。でも、藤原氏の息子さんのような価値観に基づくベジタリアンが教員となったとき、多くの場面で価値観を口にせざるを得ない場面にぶつかります。
 教員にも信条の自由はありますし、嘘をつけとも言えません。ベジタリアンを理由に不採用ということも許されません。難しい問題です。

 

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対岸の火事、ではない

2023-04-28 08:42:03 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「誰のもの?」4月20日
 『性教育 高校生も規制 フロリダ「ゲイと言うな法」』という見出しの記事が掲載されました。『フロリダ州の教育委員会は19日、公立学校で性的少数者について教えることを規制する州法に関して、規制対象を従来の「小学3年まで」から「高校まで」に拡大することを承認した』ことを報じる記事です。
 とんでもない法があったものです。ちなみにこの法は「ゲイと言うな法」とも呼ばれているそうです。米国がキリスト教原理主義の国であることを改めて思い出させてくれる記事でした。しかしここでは、法の内容については触れないことにします。
 私が気になったのは、この法改正を後押しした保守派の人たちが、『親の意見を公教育に反映すべきだ』という主張をしていることです。フロリダ州の小中高の児童生徒の保護者は、性自認や性的指向に関して学校で指導を受けさせたくないと考えているから規制を拡大すべきだと言っているということなのです。
 私はこのことについて、疑問があります。まず、保護者の意向で公教育の学習内容が決まるという考え方は正しいのか、ということです。保護者は学校教育についての専門家ではありません。保護者の大部分は、学習内容について考える際に必要と思われる、社会の動向や歴史的経緯、諸外国の状況などについて十分な知識をもち、それに基づいて考えているとは思えません。
 だからこそ、我が国では、「専門家」が一定の時間をかけ、組織的に研究を続けて内容を決定しているのです。それが学習指導要領です。もちろん、我が国の仕組みが最善であり、一切問題がないなどと言うつもりはありませんが、保護者の意向を過大に重視するやり方は、安定性を欠く結果になることは間違いありません。私は、学校教育は、猫の目のように変わるものではなく、継続性、安定性が必要だと考えます。
 もう一つの疑問は、保護者の意見だけを反映させるということについてです。フロリダ州方式が正しいと考える人は、民主主義社会においては、一部の専門家の見解よりも主権者である国民、市民の考えが重視されるべきであると考えているのだと思われます。一理ある考え方です。しかし、その場合、保護者=主権者ではないことについての考慮が感じられないのです。
 国や社会の未来を担う子供たちは、社会全体の希望の存在です。彼らにどのような教育を施し、どのような大人になって欲しいかについては、社会全体、具体的に言えば全ての年代の市民、国民が意見を述べる権利があると考えます。それにもかかわらず、保護者というごく狭い範囲の主権者の意見だけが尊重されるということで良いのでしょうか、ということです。
 我が国においても、学校生活の記憶を新鮮にとどめている20代の若者、ビジネスの最前線で新しい時代の変化を実感している世代、昔の教育に比べて今の学校教育に不備な点を見出しがちな60代等々、保護者世代の価値観やものの見方が多数派だとは限らないはずです。民主的な手続きを謳うのでれば、全ての州民の意見を集約すべきなのではないかと思うのです。
 私は、今回のフロリダ州教委の決定は、ポピュリズムが学校教育に負の影響を及ぼした悪しき例だと思います。そしてそれは、我が国にとって対岸の火事ではありません。

 

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アピールポイント

2023-04-27 08:31:39 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「新しい学習内容」4月19日
 論点欄では、『日本のソフトパワー戦略』というテーマで3人の識者が語られていました。印象に残ったのは、「日本のソフトパワー」という概念についての、3人の方々の捉え方でした。『漫画やアニメなどのポップカルチャー』『漫画やアニメ、伝統文化(略)片付けコンサルタント「こんまり」こと近藤麻理恵さん』などをイメージされて語られているのは3人に共通していました。
 そんな中で、慶応大教授渡辺靖氏が別の概念も提示されているのです。渡辺氏は、『平等な社会を作るという旧ソ連などの社会主義理念は、それ自体が強いソフトパワーだった』とし、それに対抗して米国は『米国の文化や民主主義、言論の自由といった価値』をソフトパワーとして打ち出したと指摘なさっているのです。
 そして、『米国の掲げる価値は普遍性があるからこそ、自国の実態と矛盾していても、ソフトパワーとして強かった』としながらも、『2021年の連邦議会議事堂襲撃事件などでその矛盾はより深刻になっている(略)以前より説得力が減じている』と述べていらっしゃいます。
 つまり、民主主義、自由、法治、人権などといった社会の在り方自体が、その国のソフトパワーとなるという考え方です。渡辺氏は我が国について、『相対的に安全で法の支配や言論の自由が守られた安定した国だが、少子高齢化などの課題を抱える課題先進国でもある。周辺国を含む多くの国が直面する同様の問題で新しい生き方や生活スタイルを世界に打ち出せば魅力や信頼をさらに高めていける』と分析なさっています。
 こうした指摘は他の方も行っていました。ただ、私が新鮮に感じたのは、民主主義や自由のある社会をソフトパワーとして活用するという発想でした。スラムダンクの国とアピールするのが悪いとは言いませんが、民主的で自由があり、誰しもが法の前に平等で人権が尊重されるのが日本です、とアピールすることの方が重要だと思います。
 しかし、これだけであるならば、同じような国は欧州にくつもありますし、カナダやオーストラリア、ニュージーランドや韓国などもそうです。日本ならでは、ではありません。そこで私は、平和をソフトパワーとして売り出すべきだと思うのです。第二次大戦後、78年間、国として武力行使することなく、一人の外国人も殺さず、一人の日本人も戦争で死なせることがなかったということは、我が国のソフトパワーとして打ち出すのに絶好の条件を備えていると思うのです。
 私自身の反省を込めて言いますが、社会科の授業で取り上げられる「民主、自由、法治、人権、非戦」は、多分にお題目的な扱いでした。そうしたことが大切だと言いながら、子供にしてみると実感が伴わない部分がありました。空気のようにあって当然という受け止め方と言ってもよいでしょう。
 私は改めて、我が国がこれからの国際社会で尊敬を受ける存在として生きていくためのソフトパワーとして「民主、自由、法治、人権、非戦」の価値を学ばせることを、社会科の教科内容に位置付けていくべきだと考えます。特に非戦をわが国固有の貴重なソフトパワーとして認識させることを。

 

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学べば増えるはず

2023-04-26 07:35:31 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「繰り返しですが」4月18日
 『理不尽PTAに「NO」』という見出しの記事が掲載されました。「PTA不要論」著者黒川祥子氏へのインタビュー記事です。その中で黒川氏は、『PTAは任意加入の団体で、入会は強制ではないはずです。それなのに、その説明は一切ない』『(ひとり親世帯、家族の介護など)出来ない事情のある人を思いやるどころか、切り捨てる。どんなブラックな組織なんでしょうか』『PTAに関わることで、子どもとの時間は減ってしまい~』などと、現在にPTAの在り方の疑問を呈していらっしゃいます。
 全くその通りです。私は教員時代にPTAの教員側委員を長年勤めましたが、黒川氏の指摘に全面的に同感です。誤解のないように言っておきますが、PTA活動に熱心に取り組んでいらっしゃる役員や委員の方々に悪い印象はありません。そうではなく、PTAという組織そのものの位置づけが間違っていると考えているのです。
 PTAは、戦後、アメリカ教育使節団の示唆によって、文部省(当時)が小冊子「父母と先生の会」を配布したことを契機に始まりました。その目的は、「家庭と学校と社会における児童・青少年の幸福な成長を図る」ことでした。家庭・学校・地域が教育の場として想定されていたのです。
 三者が協力して教育を推進する、そのためにはそれぞれが教育力をもたなければならないのです。協業は、弱者のもたれあいではなく、強者連合であるときに、より力を発揮するものです。そのためには、Pすなわち家庭が子供を導くのにふさわしい教育力をもたなければなりません。学校は曲がりなりにも教育の専門家の集まりですが、Pは新しい民主的な教育について学ぶ必要があるということなのです。
 ですから、PTAは基本的には学びの場であるべきなのです。保護者が一人で学ぶというのは非現実的です。どう学べばいいのか、何を学べばいいのか、分からない人が少なくないはずです。そこで、教員たちとも話し合い協力して学びの場を準備する、それが本来の姿なのです。
 ヤングケアラー問題、ネグレクトなど虐待の問題、子供にとってのLGBTQ問題、人権と校則問題、ネット社会における諸問題、プログラミング教育など新しい教育課題、性交を扱わない性教育問題、従来の知識や常識では対応することが難しい教育課題が山積しています。それは、学校にまかせっきりで済むことでもなければ、保護者が無知でなんとかなることでもありません。
 私はPTAについて、こうした課題を取り上げ、テーマを決めて、悩みや戸惑いを率直にぶつけ合ったり、専門家の話を聞いたり、現場を視察したり、ワークショップ形式で学んだり、そうした機会を提供する機関としての活動を中核に据えるべきだと考えます。
 今、PTAの活動の大きな部分を占める「お手伝い」を廃止しても、前述したような学びを通して学校に関わることの必要性や意義を理解した保護者が増えれば、ボランティアという形で学校を支えようと考える人たちが現れてくると思います。

 

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美談でいいか

2023-04-25 08:00:27 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「連想」4月17日
 『「おかしい」とっさに 54歳漁師 容疑者組み伏せ』という見出しの記事が掲載されました。『遊説中だった岸田文雄首相に和歌山市の漁港で爆発物が投げつけられた事件(略)容疑者を取り押さえた男性の一人が取材に応じ、事件のてんまつを語った』ことに関する記事です。
 記事によると、『容疑者が何かを前方に投げたのが見えた。黒っぽかった。再び容疑者に目をやると、まだ手を動かしている。「おかしい」。とっさに飛びかかった。自然と容疑者の首に手を回し、手にあったものを一心不乱に払いのけた~』ということだったようです。
 私が気になったのはその後です。『15日夕方、自身の携帯電話が鳴った。「本当にありがとうございます」。相手は岸田首相だった(略)家族から「よくあんなことができたね」とたたえられた』という記述がありました。男性の行動は首相を救った勇気ある行動という印象を与えます。そうなのでしょうか。
 私は男性を批判するつもりは全くありません。ただ、男性の今回の行動を肯定的に評価する報道は危険だと思うのです。たまたま、容疑者が抵抗せず駆けつけた警察官と共に制圧することができたわけですが、容疑者が凶器をもっていて(実際ナイフを所持していた)それを使って暴れようとしたら、あるいは自爆の準備をしていたら、男性は命を失っていた可能性があるのです。
 さらに、周囲の群集を巻き込み大惨事になる可能性もあったのです。それにもかかわらず、男性の行動を肯定的に報じることは、多くの人に、自分も同じような状況に直面したら、同じような行動をとるべきだ、というプレッシャーをかけることにつながりやすいのです。
 また、同じような状況に直面し逃げ出した結果、テロが成功してしまったというケースが現実のものになったとき、逃げ出した人に対して、「勇気をもって行動しなかったからこんなことになってしまった」という非難が寄せられることも十分に予想されます。ネット時代の現在、そうした非難は本人や家族を巻き込んで精神的に大きな傷を残すことは必至です。
 そもそも、警備や犯人逮捕の責任を負う警察官とは異なり、一般人である男性には、我が身の危険を顧みず容疑者の身柄確保に務めなければならない義務はないにもかかわらず、です。
 私がこのブログを始めたころ、教員のあり方を解説するために、こんな「お話」を掲載しました。学園ドラマで、移動教室に出掛け、一人の子供が川に流されてしまいます。それを見つけた若い女性教員が泳ぎが苦手であるにもかかわらず、川に飛び込み子供を助けようとします。教員も溺れ、結局、子供の悲鳴に気付いた地元の住民たちが、子供と教員をを助けるのです。そして、自分の手で子供を助けることはできなかったものの、命の危険を顧みず飛び込んだ子供への愛情の深さが皆の心をうち、それまでうまくいかなかった子供と教員の関係がうまくいき出す、という話です。
 私はこの話を紹介した後、この教員は教員として失格だと非難しました。泳ぎが苦手なのであれば、自ら飛び込むのではなく、他の教員に知らせ救助を依頼する、地元の人や警察、消防などより「救助力」の高い人たちへ素早く連絡する、それらと並行して子供がつかまれるものを投げる、ロープやひもを作り子供がつかまれるように放るなどの行為をとるべきなのです。その方が子供が助かる可能性が高いのですから。結果オーライではないのです。
 しかしそんなことよりも、私がもっとも批判したのは、こうした自己の命さえ犠牲にすることを厭わず子供のために行動するのが教員としてあるべき姿だ、というような誤解を広めてしまうという点でした。
 衝動的な自己犠牲を美談にしてしまう、そのことの危険性を強調したかったのです。今回の男性の行動が賞賛されるような風潮が広がれば、我が身を顧みず飛び込むのが理想の教員像という誤解も広まっていくと思ってしまったのです。

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迷路に

2023-04-24 09:24:58 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「すべて白紙でいいの」4月16日
 ノンフィクション作家河合香織氏が、『「かくあるべし」を白紙に』という表題でコラムを書かれていました。その中で河合氏は、『いまだ「あるべき母親像」というものが存在する。男性の育児参加が当たり前という時代になっても、主に子育てを担うのは母親であるはずだ、という価値観は根強くはびこっている』と書き、『まずは社会の意識を変えていくことが、少子化改善の第一歩』と述べていらっしゃいます。
 全くその通りです。そして岸田流の少子化対策を批判し、『必要なのはお金を配るだけではなく、「かくあるべし」という価値観を一度、リセットすることだ』ともおっしゃっています。これにも同感です。
 ただ、少し考えてしまったのも事実です。河合氏は、女性と子育てに関する「かくあるべし」のリセットを主張なさっているのだと思いますが、そうした狭い範囲に限らず、あらゆる「かくあるべし」のリセットを主張する意見をよく目にするようになり、やや戸惑いを感じるのです。
 「教員はかくあるべし」はどうでしょうか。私も、教員だから教え子のことを常に第一に考えて行動すべし、というような見解には反対です。家族が危篤のときも、教え子が夜遅くになっても帰宅しないという知らせを受けたら病院を出て教え子の家に向かったということが美談になるような風潮は容認できません。家族の元を離れなかった教員が非難されるようなことは許されないと思います。しかし、「教員はかくあるべし」が皆無であれば、そもそも教員養成も、育成のための研修も構想しようがありません。
 では、「子供かくあるべし」はどうでしょうか。子供はここまで面倒を見てくれた保護者に感謝の気持ちをもつべきだ、についてどう思いますか。毒親もいれば、虐待や育児放棄をする保護者もいます。病気や障害で子供の世話をすることができず、むしろ子供がヤングケアラーとなっているケースもあります。感謝なんてと言いたくなります。しかし保護者等に対する感謝という概念は道徳で扱う内容の一つに位置付けられています。ダメなのでしょうか。
  同じように道徳関連で言えば、日本の伝統文化に誇りをもつ、はどうでしょうか。「日本人かくあるべし」と言えば反感を抱く人もいるでしょうが、これも道徳の指導内容の一つです。問題だと思いますか。
 「かくあるべし」については、突き詰めて考えていくと迷路に入ってしまうような気がしています。公教育で、となると余計に。

 

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幸せな教員

2023-04-23 08:52:10 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「トップの発想」4月14日
 『全従業員でおもてなし』という見出しの記事が掲載されました。ディズニーランド開業40周年の今年、その歩みを振り返る記事です。その中に気になる記述がありました。TDLの直営ホテルで営業推進部長を務めた経験のある内苑孝美氏の話されたことです。
 『部下に対し「自分たちが楽しいと思わなければゲストも楽しめない」という考えの下で指導していたといい、「キャストの幸せがゲストの幸せになり、ゲストの幸せがキャストの幸せにつながる好循環を生み出している」』というものです。
 人と人とが接する仕事では、不変の真理だと思います。もちろん、ホテルやディズニーランドだけでなく、学校においても、です。将来はともかく、少なくとも現在の学校は、子供と教員が触れ合うことなしには成立しません。立場の違いはあっても、お互い人同士です。その人の状況や感情は、相手に伝わり、相手は影響を受け、自分の感情や態度を変えていきます。
 幸せな教員が子供を幸せにするのです。そして幸せな子供と接することで、教員もまた幸せになる、内苑氏が言う好循環が学校でも重要になるのです。教育行政に携わる者は、このことを忘れてはなりません。
 卵が先か鶏が先か、という議論がありますが、教育行政が考える際にはこうした議論は無用です。教員の幸せを考えるのです。文科省も教委も、直接子供にアプローチすることはできません。しかし、教員には働き掛けることができるのです。
 教員の配偶者が「部活未亡人」と呼ばれるような状況をどのように変えていけるか。サービス残業や定額働かせ放題といわれる状況をどのように変えていけるか。それらの対策は、教員の志望者確保といった狭い範囲のことではなく、幸せな教員が幸せな子供を育てるという、学校本来の目的に直接働きかけることなのだという自覚をもたなければなりません。
 その際、忘れてはならないのが、人はどのようなときに幸せだと感じるのか、という発想です。簡単な仕事でもやらされていると感じるとき、人は幸せではありません。自分の発想や努力で状況を変えようとすることが認められていなければ、給料をもらっても幸せではありません。仕事を通して自分が成長できたと感じることができなければ幸せではありません。組織の中に一人か二人、助け合える仲間がいなければ幸せではありません。
 幸せの原理は人類共通です。その原点に立ち返り、政策の総点検が必要なのではないでしょうか。

 

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自動翻訳機能とチャットGPT

2023-04-22 08:32:38 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「混線」4月14日
 読者投稿欄に千葉県塾講師U氏の『考えない葦でもいいのか』というタイトルの投稿が掲載されました。その中でU氏は、『(英語が)苦手な生徒ほど「自動翻訳を使えば、英語ができなくても問題ない」というのが気になる』と述べ、その後チャットGPTを取り上げて、『考えなくてもよい人を大量に生み出すことになる』という懸念を表明し、『コミュニケーションの手段を機械任せにする弊害をよく考え、使い方を十分に議論してほしい』とむすんでいます。
 一読して、U氏の見解はどこかでこんがらがっているという気がしました。それは、英語の自動翻訳機能とチャットGPTを同列に考えていることが原因だと思います。自動翻訳を使って外国人とコミュニケーションを取る場合、相手の言うことを理解しようとする、自分の思いや考えを伝えようとするとき、自分の頭で論拠となる事実を探し出し、論理を組み立て、伝わりやすい表現を考え、伝えます。
 この一連の過程において、最初の聞き取りと最後の伝達のときだけ英語の自動翻訳機能をツールとして使いますが、その他は全て自分の頭を使って大いに考えているのです。政治家や起業家が外国の要人と対談をするとき、通訳を介しているからと言って自分で考えていないなどと言う人はいないはずです。それと同じことです。
 一方、チャットGPTを使ってリポートを作成するということは、「森鴎外の舞姫の感想文を800字程度でまとめて」という他者から与えられた課題を伝えるだけでリポートが完成してしまうのですから、ほとんど考えることはありません。先ほどの、自動翻訳機能の場合とは全く違います。
 自動翻訳機能もチャットGPTも、AIを使った新しいツールという点では共通です。しかし、だからといって何となくイメージで同じようなものとして議論してしまっては、正しい結論には至りません。U氏を非難しているのではありません。私自身、デジタル難民とでもいうべき時代遅れの人間で、正直、この手の話題にはついて行けません。だからこそ、一つ一つの用語や概念を慎重に扱い、議論する習慣を付けなければと思ったのです。今後も、このブログで学校教育について論じていく際には、自戒し続けていきたいと思います。

 

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誤解から批判

2023-04-21 08:35:08 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「知ってるの?」4月13日
 金秀蓮記者が、『学びを止めない』という表題でコラムを書かれていました。その中で金氏は、熊谷市立藤見中学校の通級指導教室を取り上げ、『そこに通う生徒一人一人に時間割や教材が用意されていた』と紹介し、『こういうのを「学びの最適化」と言うのだろう』と評価なさっていました。
 ???という感じです。殊更今の時点で取り上げ高評価を与えるようなことなのかという疑問が生じてしまうのです。私が教委で特別支援教育、当時は心身障害教育と言っていましたが、を担当していた27年ほど前、通級指導学級では、既に個別指導計画が作成されていました。
 それも特別に熱心な教員が取り組んでいたというのではなく、管内の通級指導学級全てで、通ってくる全ての子供について作成していたのです。もちろん、私が所属していた教委だけが先進的な取り組みをしていたわけではなく、全ての区市町村教委が同じことをしていました。当然です。そういう規程になっていたのですから。
 各学校は年度末に、次年度の教育課程を編制し、教委に届け出ます。その際、A校の子供がB校の通級指導学級に通っていれば、A校の校長は通っているすべての子供、もし5人いれば、a、b、c、d、e5人分の教育課程を作成して届け出るのです。もちろん、実際に指導に当たるB校を無視して作成するわけにはいきませんから、B校の通級指導学級の担任と情報交換や相談をして作成することになります。そして、その個別の教育課程を教委に持参し、担当指導主事の指導を受け、必要な修正をした上で正式に提出するという運びになっているたです。
 要するにもう数十年も昔から行われていることなのです。もちろん、問題があるというわけではありませんが、金氏のコラムを読んだ人の中には、富士見中だけが特別な対応をしているかのような錯覚をする人が出てきて、中には他の学校はどうしてやらないんだと批判する人も出てくるかもしれないと思ってしまうのです。誤解から、学校批判、教員批判が起きてしまうとすれば悲しいことです。
 金氏は、私が述べたような経緯を知っているはずです。どうして誤解が生じるような書き方をなさったのか、不思議でなりません。

 

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