ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

ごめん、大人の都合で

2020-11-09 07:35:43 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「せめて自覚を」11月6日
 『大規模施設 一転存続』という見出しの記事が掲載されました。宮城県の例に、知的障害者入所施設にかかわる政策の変移と現状及び問題点について報じる記事です。知的障害者については、大規模施設への入所から、地域で暮らすという方向性が打ち出されていますが、なかなか進んでいません。
 記事では、元宮城県知事で、大規模施設から地域へという宣言を出した浅野史郎氏の言葉が紹介されていました。浅野氏は、『「地域に出せない」という言葉は、どこまでも周囲の視点だ。施設にいる方が本人のためだと考える人には、自分が同じ立場ならどうか問いたい。何十年、あるいは一生涯を施設で生きることが本当に幸せと言えるのか。家族や支援者の都合ではなく、障害のある彼ら彼女ら本人の人権や人生を考えなければいけない』と語っていらっしゃいました。
 私も、両親が認知症を患い、家では見きれず、父は特養に、母はグループホームに入所させました。とても悩み、迷いましたが、自宅で世話をすることは共倒れになると考え、決断しました。父や母がどのように感じていたかは分かりませんが、喜んではいなかったはずです。私もずっと罪悪感のようなものに苦しめられました。ですから、地域や自宅でという理想も、施設で預かってもらってほっとしたという思いも両方理解できます。浅野氏の言うことはよくわかるのですが、浅野氏の理想を現実を知らないと非難する側の人の気持ちも理解できてしまうのです。
 ここで話は変わりますが、子育てにおいても、浅野氏が指摘する、周囲の視点、家族の都合という問題があるように考えています。例えば、保育園選びについて言えば、保育園に入れるか自宅で面倒を見るか、どこの保育園に入れるか、何時まで預かってもらうか、保護者の視点からの決定であり、保護者の都合である部分が大きいのではないでしょうか。
 学校に通うようになっても同じです。本当はこうした方が子供のためにはよいと思うけれど、実際には仕事や経済的な問題などによって、子供に次善、三善の環境しか与えてやれないということは、ほとんどの保護者が経験しているはずです。私は教員を経て教委に勤務した者、つまり学校側の人間でしたから、子供第一主義の視点で保護者に要望し、説得してきました。しかし、若いころはともかく、経験を重ねるにしたがって、理想論を振りかざしても、それぞれの家庭の事情があるのだと思うようになりました。
 築30年の6畳一間のアパートに住む父子家庭の子供がいました。父親は夜勤が多く、子供とはすれ違いの生活でした。子供はいつも同じ服を着て、その服も汚れていました。中堅に差し掛かっていた私は、その父親に、もっと子供の様子に目を配りましょう、いつも汚れた服では友人関係にも悪影響があります、親子で語らう時間を取って子供理解を深めましょう、朝食をきちんと摂らないと学習に身が入りません、などという正論を吐いても意味がないと考えるようになっていました。
 子育ては理想ではなく現実の問題なのですから。ただ、保護者には、自分が、自分の都合で、子供に今の状況を強いているということだけは自覚していてほしいと思っていました。それは、自分を責めるということではなく、子供が何か問題を起こしたとき、「なんでこんなことをしたんだ!」と怒るのではなく、子供が抱いている苦しさを共有するために、です。
 子供が何かしでかしたとき、相手が悪い、世間が悪い、制度が悪い、と責任転嫁して逃げるのではなく、「お父さんが悪かった。寂しい思いをさせたな」と言える親であるために、ということです。保護者は、子供に対して少し「引け目」を感じるくらいである方が、子供の立場に立ちやすいように思います。もちろん、教員も。

 

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