ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

分からなくても想像はできるはず

2021-06-30 08:36:34 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「そんな気持ちわからない!」6月22日
 精神科医香山リカ氏が、『コロナ収束後の光と闇』という表題でコラムを書かれていました。その中で香山氏は、『夜、仕事の帰りにバーや居酒屋の前を通り、中から灯りや笑い声がもれてくるとなんとなくホッとする』と書き、コロナ禍で灯りの消えた店が並ぶ光景に心細さを感じると述べていらっしゃいます。
 そんな思いを学生に話したところ、学生からは『「おとなが深夜まで飲んでいたこれまでがおかしかった」「お酒はからだによくないし、健康的な生活にシフトすればよい」』という『真面目で、しかも前向き』な言葉が返ってきたそうです。香山氏は、こうした学生の反応に、『とても明るくて清潔な生き方だが、「それだけでいいのか」という気が消えない』とし、『人間の心にも人生にも、光もあれば闇もある(略)コロナの後には明るい世界が来てほしい。そう思いながらも、「でも暗さや闇も残しておいて」』と綴られていました。
 私は、以前は大酒呑みでしたが、肝臓を傷め今ではアルコールを口にしません。付き合い酒や接待酒は、呑んでいたころから嫌いでした。元々教条主義的なところがあり、現在、個人的には、深夜まで酒飲み族には批判的な感覚です。そういう意味では、香山氏の教え子に近いかもしれません。
 しかし、香山氏の教え子の発言には、とても強い違和感を覚えました。それは、人生や人間というものに対する洞察力のなさ、人間味の欠けるということに対する危機感のようなものです。
 人は誰でも、全てにおいて順風満帆の人生を送ることはできません。たとえ子供であっても、様々な挫折を経験し、不安、怒り、自己嫌悪、嫉妬、切なさなどの感情を抱えて過ごした経験があるはずです。失恋や入試の失敗、レギュラーになれなかったことやいじめに遭うなど原因がはっきりとしている場合もあれば、将来への漠然とした不安感や友人と比較して自分が小さく感じられるときなど、心の底に隠れていた思いが突然浮かび上がることもあるはずです。
 そんなとき、「過去は変えられないのだから、これからどうするかを考えよう」という前向きなアドバイスを受けると、それが正しいことが分かっているだけに、反発もできずかえって傷つき落ち込むというような経験もしてきているはずです。私は成長の遅い鈍感な子供であり、一人で過ごすことが好きな社会性の乏しい若者ではありましたが、それでもやはり、後ろ向きになり、じっと水底に沈んでいたいような気分が続いた日々がありました。だからこそ、香山氏が言う社会の中に「暗さや闇」に浸ることができる場所が必要だと思うのです。
 もしかしたら、香山氏の教え子たちは、後ろ向きの気持ちを抱えた経験がない「幸福な人」たちなのかもしれません。それならそれで羨ましいことですが、もう大学生です。子供ではないのです。自分が経験していないことは分からない、で済ませてよいとは思えません。
 私は前述したとおり、人間関係を築くのが苦手な社会性の乏しい人間ではありましたが、ときとして闇や暗さを必要とする人間の性については理解しているつもりです。それは、読書に負うところが大でした。本に描かれる様々な登場人物の人生、老若男女、金持ちと貧乏人、現代人と昔の人、日本人と外国人、それぞれの違いを超え人間として共通する痛みや悲しみ、そんな心情があることを多くの「物語」を通じて感じ取ることができたと考えています。
 もし、香山氏の教え子のような若者が増えているのだとすれば、それは自分が経験していないこと、自分とは違う人たちのことは分からないし、分からなくてもいいと考える人たちが増えていくという未来を暗示しているような気がします。そんな社会はとても非寛容な分断された住みにくいものであると思います。
 そんな未来を避けるために思いつく処方箋は、読書です。文学の力で人を、人生を理解させることです。しかし、今学校教育は、文学を遠ざける方向での国語教育の見直しが進められています。それは大きな問題なのではないかと思います。

 

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夢は若隠居

2021-06-29 07:30:23 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「将来の夢は」6月22日
 連載企画『FIREという生き方 下』は、2人の識者がその光と影を語るものでした。ちなみに「FIRE」とは、『Financial Independence,Retire Early』、つまり『経済的自立をして会社を早期退職する』生き方のことで、若者を中心に『共感や憧れが高まっている』のだそうです。
 つまり、若いうちに節約や投資で資産を形成し、その後はその資産の運用益だけで働かずに生活するというライフスタイルです。もちろん、好きなことをして小遣い稼ぎをするということもありで、要は生活のために会社に縛り付けられ、したくもない仕事に時間を取られることを避けて生きるということです。
 私は最初に「FIRE」についての記事を目にしたとき、退職金で家を買い、老後はその家賃収入で生活するという60年前のサラリーマンの理想の焼き直しという印象をもちました。たしかに、いい時代でした。しかし、そんな生活が理想とされたのは、あくまでも老後という人生の黄昏時の姿としてでした。
 現在の「FIRE」は、30代半ばから40代前半でのことなのです。私はこのブログで、キャリア教育について、様々な視点から批判をしてきました。そんな私ですが、今回この「FIRE」を知ってから、批判云々ではなく、キャリア教育において「FIRE」をどのように扱うべきなのか、考え込んでしまったのです。
 中学生の生徒が、「大学では経済学部で投資について勉強する。卒業後はどんな仕事でもいいから、給与の良い企業に就職し、節約しながら資金を貯め、投資によって7000万円の資産を作り、その後は働かず、資産の運用益でのんびり暮らす」というライフプランを理想の将来像として示したとき、どうするかということです。
 人生の選択は人それぞれです。法に触れない限り、どんな人生を思い描こうと非難される筋合いはありません。ただ、「道徳的?」に問題のある選択については、問題点を指摘することは必要です。かつて都内A区で、小学生が理想の生活として「将来はお父さんのように生活保護をもらって働かないで暮らす」という作文を書き、話題になったことがありました。生活保護で生活することは違法でも何でもありません。でも、そこを目指すというのは、生活保護制度の精神から言っても問題があり、指導することに批判はないでしょう。
 しかし、「FIRE」は、自分の力で一生懸命に働いて稼ぐということを前提にしています。投資についての勉強も努力の一環です。退職後、好きなことをして暮らすというのも、批判されることではありません。したくもない仕事に追い回されて生きるより、自己実現を果たしているのですから。しかも、実際に「FIRE」を実践している人の例では郊外暮らしで自然農法で自分が食べる分だけの野菜を育てたりなど、エコ、即ち地球に優しい生活をしている人が多く、そうした面からはむしろ推奨されてもいいくらいです。
 そうは考えても、どうしても違和感を覚えてしまうのです。若いうちから隠居生活が夢だなんて、という反発を抑えきれないのです。私が年寄りだからで、現役の教員世代はむしろ共感を覚えるのでしょうか。私の孫がこんなことを言い出したら嫌だな、なんて思うのは少数派なのでしょうか。若い教員の考えを聞いてみたくなりました。

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感傷

2021-06-28 07:50:49 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「アホと言われても」6月21日
 週1回、読者の短歌と俳句を掲載する『詠む広場』には、『うたの雫』という専門家のコラム欄があります。今回はそこに歌人加藤英彦氏が、『カメさんのいた場所』というタイトルでコラムを書かれていました。
 その中に、『「あほやなあこの子は」なんて死ぬまでにもう一度だけ言はれてみたい』といううたが紹介されていました。よく分かる、私は不覚にも涙ぐんでしまいました。解説するまでもないのですが、私の解釈は、初老期を迎えた人が、今はなき母親の愛情のこもった口癖、「あほやなこの子は」をせめてもう一度だけでもいいから聞いてみたい、できれば自分が子供だったときのように頭を撫でそっと見つめながら声を掛けてもらいたいという思いを詠んだもの、です。
 長い介護と看護を経て、4年前に母を亡くした私には、このうたの心情が我が事に様に感じられるのです。「あほ」というのは人を罵る言葉です。特に関東では、あまり使われないだけにきつく感じる人が多いと言われます。私も、もし誰かに「あほ」と言われれば、非常に不快で腹を立て、その相手を嫌な目つきで睨みつけることでしょう。しかし、思い出の中の母の口から出されれば、それは自分を温かく包む言葉になるのです。
 教員は、子供との人間関係を築くことが求められます。その際、言葉が果たす役割は大きなものがあります。何気ない一言がいつまでも子供の心に刺さり、深い傷を負わせることもあります。しかし、慎重に熟慮の上で口に出された言葉であれば子供の心に届くかと言えばそうとは限りません。
 子供の手を両手の手のひらで包みながら、感情の赴くままに「ばーか」と言った一言が子供の信頼を得てしまうこともあるのが、難しいところです。そして、同じシチュエーションで同じことをしても、「気持ち悪い、止めて」と思われることもあります。怖いですね。
 まして、そのときの表情や状況とは無関係に切り取られた言葉、文字に起こされた記録や録音となると、心の問題などどこかに吹っ飛んでしまい、貴方は子供に対して馬鹿という暴言を吐いたという事実だけが認定されてしまいます。これも怖い話です。
 そんな言葉の怖さ、難しさを乗り越え、教え子の心に残る言葉を一つでも口にすることができたら、教員冥利に尽きるというものです。おかしいですね、何だか感傷的になってしまいました。すみません。

 

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おかしい、のは分かる。でも・・・

2021-06-27 08:14:49 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「どうリンクしている?」6月21日
 『私が思う日本』というタイトルで、『東京に駐在する外国メディア特派員の目に、私たちの社会はどう映っているのだろうか』という問題意識で書かれる連載コラムが始まりました。これからも定期的に掲載されるということで楽しみにしています。
 第1回は、朝鮮日報元東京特派員李河遠・国際部長の『外国メディア特派員が見たジェンダーギャップ 女性まるで透明人間』でした。そこに書かれている『男湯での衝撃』という記述に考えさせられました。
 李氏は、『登別市の地獄谷にあるホテルの野外温泉につかり、疲れを取っていると、女性従業員が掃除をしに入ってきて腰を抜かした』と書かれています。東京のフィットネスジムでも、『男性たちが入浴する時間にタオル交換や掃除のために入ってくる従業員が、中年の女性』だったことに戸惑ったというのです。さらに、『よく見ると、日本人男性たちは入浴場の女性従業員が丸でその場にいないかのように対応していた。女性従業員を透明人間のように扱っていたのだ。私は約3年間にわたってこのジムを利用したが、入浴場内でその女性従業員と誰かが会話するのを見たことがなかった』とも書かれています。
 李氏は、このことに問題意識をもち、多くの日本人『女性記者、女性会社員、専業主婦』などに相談をするのですが、『日本人たちはこの問題の深刻さを感じていないようだった。「あ、そうですか?」という答えが返ってくることが多かった。ある女性は「男性浴場に女性従業員が入るのは問題ではない。しかし、反対は絶対に許されない」と言った』という状況で、やがてこの問題を日本人と議論するのをやめてしまったというのです。
 この後李氏は、世界経済フォーラムのジェンダーギャップ指数や夫婦別姓問題、皇位継承問題などに触れ、女性の権利問題について論を展開していきます。その指摘は的確で、大いに共感させられました。それだけに、この「男湯での衝撃」に関する部分だけが、ストンと落ちてこないのです。
 私も男湯に女性従業員というのはおかしいと思います。しかし、李氏のように、何かの象徴であるという捉え方ができないのです。例えば、ある職に特定の性の人間はつけないというのは差別だという考え方は理解できます。米国では、女性の軍人が戦闘の第一線に立てないのはおかしいと、女性も危険な戦場に立つことができるようになりました。しかし、「男湯~」問題では、男性従業員が女湯にはダメとなっているのですから、男性差別ということはできても、女性差別ではありません。またこれは、性の差別、セックスによる差別であり、ジェンダー差別ではないという気もします。
 また、男湯で働かされる女性従業員は不快さを我慢させられているという解釈は成り立ちます。ですから、女性だけが不快な状況での労働を強いられるという意味で女性差別ということもできます。しかしこれも、夫婦別姓や皇位継承につながる問題だとは思えません。
 あるいは、男湯で働く女性が透明人間として無視されていることが問題なのでしょうか。確かにいじめ問題でも無視やシカトは精神的にとてもきついと言われます。愛の反対は無関心という言葉もあるように、そこにいるのにいないとして扱われるのは気持ちの良いものではありません。とはいえ、それでは男性入浴客から話しかけられれば嬉しいかといえば、そうではないでしょう。
 最後に考え付くのは、直接的な差別や人権侵害ということではなく、男湯の女性従業員問題を、日本の文化だからと疑問に感じない、日本人全体の感性とか価値観に違和感を覚えているということなのかもしれないということです。だから、国会議員や企業幹部に女性が少ないことにも疑問を抱かないし、女性が男性の姓を強要される実態にも、女性皇族が皇位につけない制度にも疑問を抱かないのだということなのでしょうか。
 私は社会科を研究教科とし、子供に考えさせる授業を目指して創意工夫してきました。そのせいか、ある「問題」に直面すると、このことを教材にして子供に話し合わせるとしたらどんな展開になるかという視点で考える癖がついています。そしてその「癖」は、自分自身がその問題を理解するうえでも有効だったのです。
 でもこの男湯の女性従業員問題は、扱い方が浮かばないのです。子供に驚きと意外さを与える素材であることは間違いないのですが。

 

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梯子を外す

2021-06-26 08:26:05 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「梯子を外す」6月20日
 『発送時期に自治体格差 ワクチン接種券 23区内の状況は?』という見出しの記事が掲載されました。『新型コロナウイルスワクチンの接種券を巡っては市区町村の発送時期による格差が生じ、早めに接種できる、できないという差が出ている』ことに関する記事です。
 その中の『寝耳に水の国の方針転換』という小見出しがつけられた章に、気になる記述がありました。『ある区の実務担当者は「国の会場の18~64歳への接種開始は“まさか”だった」と話す。同区は基礎疾患がある人や高齢者施設職員らのために細かな日程を組んでいた。それが国の方針で、問い合わせが殺到し、業務に支障をきたしたという。「元々は国の動きが遅かったことからその尻拭いをさせられているのに、『接種が遅れている自治体はサボっている』と印象づけるためにやっているように見える。裏切られた気持ち」と憤る』というものです。
 私には、「そう言えば、あのときもそうだった」と思い出すことがあります。それは、小学校英語を巡る「裏切り」です。約20年前、教育改革の目玉として、「総合的な学習の時間」が導入されました。戦後一貫して、教科・道徳・特別活動という3領域で構成されていた学校の教育課程に、50年ぶりに新しい領域が加えられるという大改革だったのです。しかも、「総合的な学習の時間」には教科書がなく、各校が独自に内容を決めることができるということで、教育における地方自治の拡大という側面も注目されていました。
 また、それまでの学校教育の特徴であった意図的・計画的・体系的な学びではなく、非意図的・偶発的・問題解決的な学びということで、教委や学校、ここの教員の力量が反映されるということで、各地で意欲的な取り組みが始まってもいました。
 文科省が例示した活動例としては、福祉や国際理解が挙げられ、国際化が一層進展することが見込まれていた社会状況を反映し、国際理解の視点から内容・活動を構想するケースが多かったのです。そこでは、「総合的な学習の時間」における国際理解教育が、安易に英語教育に収斂していくことがないようにと注意が与えられ、地域に住む外国籍の人々との交流体験、外国の料理や風習にふれる活動などが例示され、私が勤務する市においても、そうした取り組みを蓄積していきました。
 しかし、突然風向きが変わったのです。経済を重視する政治家から、小学校の英語教育の必要性が叫ばれるようになり、「総合的な学習の時間」の国際理解の時間を利用して取り組むことが認められ、やがて推奨される雰囲気になっていったのです。隣接する市でも小学校における英語活動が試行され、保護者や議会も早期の英語教育を求めるようになりました。
 私は指導主事時代に、「総合的な学習の時間」創設に関わって立ち上げられた関東地区の「総合的な学習の時間」担当の指導主事会のメンバーになっていた(社会科と理科の担当指導主事が研究に取り組むことが多かった)こともあり、文科省の方針に忠実に従っていたのですが、急に「英語活動への取り組みが遅い」と非難されることになったのです。まさに、裏切られた、梯子を外されたという思いを抱いたものでした。
 これからも政治の都合で、梯子外しが行われていくのでしょうか。「学校教育」は行政における力が弱いですからね。

 

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自己犠牲×運の良さ

2021-06-25 08:06:52 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「計算上は」6月19日
 『言えなかった「トイレ離席」 新幹線運転士へ批判と擁護』という見出しの記事が掲載されました。『時速約150㌔で走行中の東海道新幹線で5月、男性運転士がトイレを我慢できずに約3分間運転席を離れた』という事件について、その背景とその後の反応についてまとめた記事です。
 記事によると、『JR東海の規定ではこのケースは指令所に連絡して列車を止める必要があった』ということですが、運転士は『止めて遅らせたくはなかった』と話しているということです。
 当然の心情でしょう。数分間の遅れであっても、運転士の業績評価はマイナスになることは確実ですし、遅れ自体が企業にとってもマイナスの評価をもたらします。利用客も迷惑をこうむります。そして、ATCの働きにより、離席しても列車の安全は確保できる状況にあったのですから。
 この件に関して、非難する声もありますが、『「生理現象で誰にでも起こり得る問題。運転士を責めるのは気の毒」「交代要員がいない体制が問題」と擁護する声が多数を占めた』そうです。私がこの記事で気になったのは、体制が問題とする指摘についてです。
 記事を読み進めると、『96年までは運転士2人体制だったが、現在は安全・安定輸送を確保できる設備が整えられたとして1人体制』に変更されていることが分かりました。つまり、人件費節約のため、運転士を減らし、それにも関わらず、離席を認めないという規定はそのままにしておいた、ということです。外部に対し、公式には問題ない体制が採られていると説明しながら、実際には緊急事態発生時に十分な体制は採用しておらず、現場の担当者に非人間的な負担を押し付けているという構図だとみることができます。
 こうした例はJRに限りません。私は教委の体制についても、現役時代同じ問題を感じていました。あくまでも15年近い昔の話ですが、当時、東京都では、区市教委ごとに指導主事の定数が決められていました。基本的には児童生徒数や学校数に応じているのですが、特別な事情を抱える自治体には加配されていました。大きい区では、指導主事は8人、小さい市では2人でした。私が最初に勤務した区は、小中学校が併せて45校、指導主事は5人でした。指導室長として勤務した市は、小中学校併せて14校、指導主事は2人でした。ほぼ、学校数に比例した定数だと言えます。
 しかし、指導行政の仕事は単純に学校数に比例して決まるというものではありません。例えば、人権教育、消費者教育、特別支援教育などの教育課題や中学校夜間学級やスクールカウンセラーなどの事業ごとに都教委の担当指導主事会というのが20ほどありました。会議は都庁等で半日、往復の時間等も含めれば、その日の勤務時間の6割以上は費やされる勘定になります。
 指導主事が8人いる教委では、7人が区内に残り業務をこなせますが、2人の市では指導主事は一人しか残らないのです。指導主事も人間ですから体調不良で休むこともあり得ます。突発的に対応すべき事故や事件が起きれば、通常の指導業務を担う指導主事はいなくなってしまいます。
 また、どの区市でも、市民の代表者で構成される議会への対応は、指導主事にとって重要な職務です。そこでの質疑への対応は、学校数が1/4だから1/4で済むというものではありません。首長部局への対応、5人の教育委員で構成される「教育委員会」も同様です。
 つまり、学校数等に応じて指導主事は必要数を配置しているというのは、実態に沿わない説明なのです。私が室長を務めていた、2人しか指導主事がいない市で、何とか業務を回して行けたのは、そこが「良い市」だったからです。中学生の非行もせいぜい学校間の喧嘩程度、暴力団や暴走族とのつながりで警察と連携して休日や夜間にも呼び出される、というようなケースは年に1件あるかないかという落ち着いた市だったから、何とかやれたのです。
 もし、私が最初に勤務した区のように、警察官が中学生にナイフで刺されたり、中学生にまで暴走族絡みで覚せい剤が渡っていたり、女子中学生が校内で輪姦されていたりするような環境であれば、全くのお手上げ状態に陥ったことでしょう。
 実態を軽視し、人件費抑制を重視して、機械的に人員配置を進めるやり方は、誰かの犠牲的な献身で成り立っている場合がほとんどです。そしてそうした組織は、危機対応の余力がなく、問題なく見える日常も単に「運が良い」だけだということを忘れてはなりません。

 

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女だって

2021-06-24 08:18:38 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「自戒」6月19日
 書評欄に、文筆業清田隆之氏による『「女たちのポリティックス 台頭する世界の女性政治家たち」(幻冬舎新書)』に対する書評が掲載されていました。その中のある記述に強く頷かされました。『女性だからといってリベラルなフェミニストとは限らず、<マッチョな男性中心主義のイメージがある>極右勢力のリーダーになる女性が増えている事実にも驚きだった。例えばフランス「国民連合」党首のマリーヌ・ル・ペンやドイツ「AfD」のアリス・ワイデル院内総務など~』という記述です。
 私たちは、理性では性役割分業的な見方は間違いだと理解しています。私もその一人です。「女だから~」というような見方は非難の対象となります。今どき、「女は家庭に入って男を支える」とか、「女は結婚して子供を育てるのが幸せ」などと口にすれば、前世紀の遺物扱いされても文句は言えません。
 しかしそんな人たちの中にも、「政治家や企業の幹部に中に女性が増えれば、女性ならではの見方や発想が生かされ、組織が変わっていく」という考え方には異論を唱えないはずです。そしてそのときその人の頭の中にある「女性ならでは」は、まさしく「リベラルでフェミニン」なものであるケースが多いのではないでしょうか。
 それにはオッサンたちの前世紀の遺物的な見方と共通する問題があるのです。形を変えても、「女ならば~」という多様性を否定する見方という点で。女性であっても、暴力を必要悪と認め、世の中の対立は最終的には力で解決するしかないという考えの方がいるはずです。競争こそ社会の発展に必要で、敗者が苦しむのは自己責任という発想の方がいても不思議はありません。
 話は飛躍するようですが、教委に勤務しているとき、障害児は穢れのない心をもっていて人を信じ悪いことはしないと「信じて」いる教員を目にすることがありました。こうした教員は障害児の味方であるかのように振舞いますが、実は強烈な差別主義者なのです。人間は誰しも嫉妬心もあれば、好き嫌いもあり、自己保身を図るものです。ですから、いじめもすれば嫌がらせもしますし、嘘だってつくのです。障害児だけがそうではないというのは、障害児は自分たちと同じ人間ではないと無意識のうちに考えていることを意味するのですから。
 自分は頭が固く考え方も古いのかもしれない、そう薄々考えている人は、他人からの批判を受け自省するチャンスをもっています。しかし、私は女性の味方、障害者の良き理解者と「自惚れ」ている人は、反省する機会を自ら放棄してしまっていることがある分だけ、危険なのです。
 私は、教員には自らを善意の人と思い込んでいる者が多いように感じています。そんな人こそ、自分も間違った思い込みをもっているのではないかと自省してみてほしいものです。

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三方得の主張

2021-06-23 08:55:55 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「貴方方のために」6月18日
 論説委員小倉孝保氏が、『「命の恩人」の辞職』という表題でコラムを書かれていました。その中で小倉氏は、『新型コロナウイルスに感染したジョンソン首相を看護したジェニー・マクギーさん』の辞職を取り上げていました。
 マクギー氏は辞職の理由について『私たちは敬意を払われていません。それにふさわしい支払いもありません』と述べているそうです。英国では、『看護師たちはコロナ対応で忙殺されながら、英政府から提案されたのは給与の1%アップだった。物価の上昇を考えれば、実質的な賃下げになる』ということで、彼女の訴えはもっともだと言えそうです。
 小倉氏は、『近代看護教育の母』ナイチンゲールの言葉を引用して英政府の対応を批判しています。『「犠牲なき献身こそ真の奉仕」。医療者たちの善意や職業倫理を当てにした医療は、本来あるべき姿ではない』と。
 ナイチンゲールの言葉を、文科省や教育族と言われる政治家にも噛み締めてほしいと思います。教員に対し、月8時間分程度の時間外勤務手当にしか相当しない調整金で、毎月30~60時間もの時間外勤務を強いてる現状を放置し続けているのですから。コロナ禍で、校舎内の殺菌・消毒、リモート学習のための取り組み、家庭との連絡など、教員もこの1年過重労働を強いられました。そのことに対して、何らかの報いを考えているという話は一切聞こえてきません。
 それどころか、これからも新たな負担を求める姿勢が鮮明です。コロナ禍を受けた不登校や神経症への対応、ヤングケアラー問題への対応など、負担は増すばかりです。また、小学校における英語教育、プログラミング教育など新たな教育課題への対応も従来のまま教員の多忙化の原因となっています。
 もちろん、どれも大切なことです。しかし、そこが問題なのです。教員自身も大切な課題であると考えるからこそ、つい頑張ってしまうのです。それが教員の使命、大変だけど子供たちのため、と自らを奮い立たせてしまうのです。熱心な教員ほど、こうした犠牲的精神が強く、マゾヒストなのではないかと思うくらい忙しく働く自分に自己陶酔していってしまうのです。
 看護師に白衣の天使のイメージを重ね、奉仕を求める心的傾向は英国にもあるはずです。それだけにマクギー氏の発言には勇気が必要だったでしょう。しかし、自己犠牲に陶酔するのではなく、勇気を持って発言することでしか現状は変えられないのです。我が国の教員も、聖職者というような間違ったイメージに捕らわれずに、「犠牲なき献身こそ真の奉仕」というナイチンゲールの言葉を発するべきなのです。
 それは自分勝手な主張ではなく、無理なく永続的に維持される教育システムこそ、子供の、そして国民の利益になるという三方得的な主張だという自信をもって。

 

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「寛容」の時代

2021-06-22 07:44:11 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「伝説は良い意味?」6月17日
 『200年前のドイツ「伝説の教師」 抱腹絶倒の迷言・失言録』という見出しの記事が掲載されました。「伝説の教師」の名は、ヨハン・ゲオルク・アウグスト・ガレッティ。『想像を絶する失言を繰り返した』人物だそうです。
 記事によると、その失言とは、『女王は常に女性である』『王は若くして生まれた』『生まれた時、それほど老けていなかった』『軍には、40歳から50歳までの若者からなる部隊があった』『人類はただ一人を除いて大洪水にのまれた。その一人とはデウカリオンと妻のピュラである』『地中海のどの島も、シチリア島より大きいか小さいかのどちらかである』などだそうです。
 記事を書かれた篠田航一記者は、ガレッティ氏について、『大まじめに話した授業自体が壮大な脱線だったように思える。きっと愛されたに違いない。授業が終わり、先生が教室を出た直後、せきを切ったように爆笑し始める生徒たちの様子が目に浮かぶ』と書かれています。
 よく分かりません。篠田氏は、ガレッティ氏を良い教員だと思ってこの記事を書いたのでしょうか。『200年前のドイツ、何だか楽しそうである』とも書かれているのですから、肯定的に評価していると考えるのが妥当だとは思うのですが、ガレッティ氏の何が「良い」のかが分からないのです。
 ユーモアで教室の雰囲気を和ました、ということでしょうか。しかし、失言として紹介しているのですから、意図的なユーモアではないはずです。『失言録は没後まもない1830年代、おそらく当時の教え子たちによってまとめられた』ともありますから、教え子から親しまれていた人物であることは想像できますが、それはガレッティ氏の「失言」が原因なのでしょうか。ガレッティ氏は、『「ドイツ史」「トルコ史」など多くの歴史書も執筆した』ということですから、その博学ぶりが評価されたとも考えられます。
 もし私が教委の指導室長時代に、ある中学校の保護者が「うちの子の歴史の先生は、授業中に平気で間違ったことを言っている。歴史に素人の私でも明らかに間違いや矛盾だと分かるようなことを口にしている。隠れて録音してきたテープがあるので、聞いてほしい。そしてしかるべき処分をしてほしい」と言って、この失言にみちた授業の様子を知らせてきたらどうするか考えてみました。
 「生徒も楽しそうだからいいじゃないですか」とは口が裂けても言えません。おそらく、指導主事を派遣し、校長と共に複数回授業を参観させ、当該教員を個別指導することになるでしょう。この教員は、立派な指導力不足教員候補と認定せざるを得ないと思います。
 ユーモアなどという感覚で放置すれば、議会に、マスコミに、と問題は広がり、教委も校長も厳しく批判されることになってしまうはずです。でも何となくガレッティ氏のような教員が一人くらいいてもいいのでは、と思ってしまう部分もあるのです。200年前のドイツと今の日本、子供たちはどちらが幸せだったのか、考えてしまいます。多分日本だとは思うのですが。

 

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子供の全てを知ってください、と言われても

2021-06-21 07:37:45 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「仕事が増える?」6月17日
 東洋大INIAD学部長坂村健氏が、『知ってもらう権利』という表題でコラムを書かれていました。その中で坂村氏は、『自分の位置情報を常に友人と共有するアプリが、若者たちの間で大人気』という現状を紹介なさっています。『相手がどこにいるか』『その場での滞在時間やスマホの電池残量、移動速度』『相手が活動しているか寝ているか』まで全て分かるのだそうです。
 オジサン世代を自認する坂村氏は、『どこにいるか常に他人に知られるなんて嫌』だと感じるそうです。私も同じです。私など、スマホやカードでの決済でさえ、どこかに自分が何に対してお金を払ったかという記録が残るなんて耐えられないというくらいのアナログ人間ですから、居場所を知られるなんて拷問のようです。
 しかし現代の若者は、『プライバシーについて旧来型の考え(私のような)の人もいれば、「自分の役に立つよう使ってもらう権利」と捉える人もいる』と坂村氏は分析なさっています。位置情報の共有は、『相手の都合を察することができる』『近くの友人と合流できる』『「今どこにいるの?」と言われずに済んで楽』、つまり自分のプライバシーを役に立つように使ってもらっている状態ということなのです。
 いやはや大変な時代になったものです。私は自身はもう変わろうとは思っていませんから、『知ってもらう権利』には無縁ですが、こうした考え方が浸透していくと、学校の教員は負担が増すと思います。つまり、保護者や子供から、「私の(子供の)位置情報がわかるアプリを先生のスマホに入れて」と要求される時代が来るということです。教員に自分(の子供)が今どこで何をしているか把握していてもらえば安心と考える人が一定数いるはずですから。
 その結果どうなるかというと、何か問題が発生したとき、「どうして先生は適切な対応を取ってくれなかったんですか」と責められるようになるのです。「夜、外出していたのは分かっていたのだから~」「長時間、繁華街にいたことは分かっていたはずですから~」「素行の良くないAさんと一緒なのが分かっていながら~」などと、非難される時代が来るかもしれないのです。24時間、365日子供の行動に目を光らせているのが子供思いの熱心な教員であり、無関心なのは情熱の愛情もないダメ教員という烙印を押されかねない時代が、です。
 もちろん法的には、勤務時間外だということで責任を問われることはないでしょう。しかし、現在でも勤務時間外とはいっても、子供に何かあれば、いやありそうだというだけですぐに駆け付けなければ冷たい先生と言われてしまうのが現実なのです。教員を便利に使い倒そうと考える保護者が、じんわりとアプリ活用という圧力を掛けてくる可能性は排除できません。
 そういうことは一切認めないと教委なり学校なりが防波堤になる必要があります。大丈夫でしょうか。

 

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