ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

役に立つか、面白いか

2020-01-31 09:07:55 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「効率の罠」1月23日
 筑波大教授で客員編集委員の鴨志田公男氏が、『三つの無とキリンの首の骨』という表題でコラムを書かれていました。その中で鴨志田氏は、若き解剖学者郡司芽久氏を取り上げていらっしゃいます。郡司氏が、『主な研究対象としてきたのはキリンの首』で、『その研究は、何の役に立つのですか?』と何度も言われたそうです。『幼い頃からキリンが好きだった』という郡司氏が発見したのが『キリンには「8番目の首の骨」があるということ』で、それだけを聞くと、それこそ何の役に?と思ってしまいますが、『従来の常識を覆す大発見』なのだそうです。
 詳細は省きますが、『郡司さんのもとには現在、異分野からの問い合わせや共同研究への参加依頼が相次いでいる』とのことで、その一つが『ソフトロボット学』なのです。キリンの首の仕組みをロボット開発に生かしたいということなのです。鴨志田氏は、『「何の役に立つか」にとらわれすぎると、大発見の芽を摘むことになる』とコラムを結んでいらっしゃいます。
 先頃、大学入試改革の2本柱である英語試験の民間委託と国語と数学における記述式試験が延期されました。この失敗については様々な意見がありますが、経済界からの即戦力育成という要請を受けて改革を急いだことが根底にあるということが共通認識になっています。それは、郡司氏の「キリンの首の骨」のエピソードとは対極にある考え方です。
 ある目的に向かって、最も効率的であると思われるただ一つの道を脇目もふらずに突き進む、という組織やシステムは、実は大変脆いのではないかと思います。近年注目されている考え方に「生物多様性」があります。これは、多様な遺伝子、性質をもったものが存在することで、ある危機的状態が発生したときに全滅を免れるものが出てくるのに対し、均一的同質な集団では、全てが滅んでしまう危険性があるという論理で、その重要性が説明されます。これもある意味、一見すると無駄に見えるものが実は重要な意味をもつ、ということを示しているように思えます。
 学校教育においても、一見すると無駄なもの、価値があるか分からないものに、子供が自らの興味関心に基づいてじっくりと取り組む、そんな時間と場を用意することが必要になってくるのではないでしょうか。そうした発想に基づいて設けられたのが、生活科であり、「総合的な学習の時間」であったのです。今、これらの時間は、英語やプログラミング教育といった新たな教育課題のために見直し、削減の方向にあります。もったいないと思うのは私だけでしょうか。

 

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多様性を求めたはずが

2020-01-30 08:39:32 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「多様性がもたらす排他性」1月23日
 パロアルトインサイトCEO石角友愛氏が、『最新技術から距離を置く教育』という表題でコラムを書かれていました。初めは、IT化の遅れた学校に対する批判かと思ったのですが違いました。石角氏は、『iPadやパソコンなどの技術を一切導入しない「シュタイナー教育」を行っている米国の学校』を見学したときのことを書かれていたのです。
 そこで石角氏は、『非常に質素な作り』『木製の机や椅子』『色鮮やかな滑り台や鉄棒などの遊具が置かれていない』ことに驚き、『工作や絵など芸術活動を通して算数や理科、歴史などの授業も学ぶ』カリキュラムに触れ、『最新技術を当たり前に使いこなし自己表現をする子供もいる中で、技術との触れ合いは高校生までいらないという人もいる。どの親も我が子が求めている創造性や自己肯定感などがどうやったら育まれるのか、子供のそれぞれの個性を見て決めるのがいいのだろう』という結論を導き出していらっしゃったのです。
 まさしくその通りです。理想の姿と言えるかもしれません。しかし、石角氏の考える理想の学校教育の姿が、我が国で実現するのは難しいと思います。我が国では、多様性を重んじ、保護者の求める教育の場を用意しようとすると、皆が「流行」に乗っかり、全て流行色に染め上げられてしまうという傾向があるからです。
 20年ほど前、戦後最大の教育改革と言われた言われた「総合的な学習の時間」の導入が行われました。何をすればよいのか戸惑う学校や教員の声に応え、文科省は、「国際理解」「環境」「福祉」などいくつかの分野を例示しました。あくまでも例示であり、これらの中から選択してもよいし、他の学校独自に学習内容を設定してもよいということで、何に取り組むかは各学校の自主性に委ねられていました。
 数年たったころ、小学校における英語教育が注目されるようになりました。国際化の進展を受け、経済界を中心に英語力の強化が重要という見解がいくつか出されたのです。それらを受けて文科省が、「総合的な学習の時間」で取り扱う「国際理解」の枠内で、英語の初歩的な学習に取り組んでもよいという方針を打ち出しました。あくまでも、「~してもよい」ということであり、基本はあくまでも、様々な国の文化に触れ、異なる文化をもつ人々との交流や体験を通して異文化理解を深める、ということだったのですが、現実は異なりました。
 先進的な学校が、中学年での英語遊び、高学年での「英会話」を始め、それがメディアに取り上げられると、船に乗り遅れるなとばかりに、「うちの子の学校でも英語を」という声が大きくなりました。当時、指導室長をしていた私は、市議会で、「いつ英語教育を始めるのか」「どんな形の英語教育を考えているのか」「ALTの配置計画はどうなるのか」などの質問を受け、「総合的な学習の時間」の趣旨を説明し国際理解=英語教育ではないことを説明しても、「○○市ではもう始まっている」「△△市でも実施計画が立てられた」「私のところには多くの保護者から、我が市だけが英語教育で後れを取るのではないかという不安の声が寄せられている」などと言われ、「吊し上げ」をくったものでした。
 「英語は中学校からでいい」とか、「小学校では、いろいろな国の人とのふれあいを大切にした」とか、「小学校では英語よりも、自分の興味関心を生かすことを重視してほしい」というような声はかき消され、全ての学校、全ての教委が、「保護者の声」に押され、競い合うように、英語に雪崩れ込んでいったのです。
 多様性を求めたのに、英語以外を排除する方向での画一化に進んでいったということです。「民意」を酌まなければならない公立校では、石角氏が考える理想は遥かかなたの夢物語なのです。ですから、教育における多様性は、教委が専門的な見地から多様な形態を保証することで実現されるのが現実なのです。寂しいことですが。

 

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精神論では乗り切れない

2020-01-29 07:47:11 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「精神論からの脱却」1月23日
 『児相職員手探り対応「苦悩」』という見出しの記事が掲載されました。『児童相談所の一時保護所職員への研修について、国の取り決めがないために、自治体間でばらつきがあることが明らかになった』ことを受けて書かれた記事です。
 記事の中で、ある男性職員は、『研修がないまま一時保護所の子どもたちの対応を任され「マニュアルの先輩からの方法論の引き継ぎもない。手探り状態だった」(略)多忙でストレスもたまり、子どもから話しかけられても「はい、はい」と受け流し、反抗した子どもに「うるせえ」と大声を上げるようになった』と語っています。また、『子どもから話を聞くのが好きで児相の仕事を希望した職員は「自分が大切にしてきたものが崩れ、いつか自分が虐待をしてしまいそうで怖い」と言って、続けた。「傷付いた子どもと長い時間を一緒に過ごす仕事なのに、職員の専門性の向上は軽視されていると感じる。国や自治体は真剣に考えてほしい」』という記述もありました。
 これらの内容は、私がこのブログで訴えてきた教員の育成の問題と重なります。それは、専門性の軽視です。より正確に言えば、無視といった方がよいのかもしれません。子供の相手ぐらい大人なら誰でも出来るだろうという意識です。私が以前紹介した、「幼稚園の先生なんて、しょせん小さい子とチイチイパッパしているだけだろ」という酒席での中学校校長の偏見、思い込みと同じなのです。
 教員も、一時保護所職員も、介護職員も、人と接する職には専門的な知識とよき指導者やモデルの下での職人芸的な学びが必要なのです。しかし、そうは考えない人が多すぎるのです。
 私は教委勤務時代に、教員の服務事故に関わる仕事をしていました。最も多いのが体罰事案でした。世間の人は体罰というと元々暴力的な体質の者が行うと考えがちです。そして体罰防止策というと、教育愛や教員としての使命感、人権感覚などを高めることをあげるのです。確かにそうした研修も大事ですが、それだけでは決して体罰は減りません。
 体罰をした教員への聞き取りでは、ほぼ100%の者が、「自分の言うことを聞かないのでカッとなった」という趣旨の話をします。自分の言うことを聞かない、つまり自分の指示や注意を聞かせることができないという指導力不足が大きな要因なのです。
 上記の一時保護所職員も、ストレスがたまり大声を、と述懐しています。子供の心情を理解し、瞬時にそれに寄り添った対応を考え実行するという「指導力」が不足しているからこそ、大声という暴発が起きてしまったのです。これは、体罰や虐待まで、あと少しという危険な状態なのです。ですから、きちんとした育成、研修の体制整備は緊急の課題なのです。
 人と関わる仕事の専門性について、広く世間の人に周知することが行政に携わる者の責任なのです。

 

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悲惨、からの脱却

2020-01-28 07:29:23 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「悲惨、からの脱却」1月22日
 和田崇記者が、『終わりなき復興』という表題でコラムを書かれていました。その中で和田氏は、阪神淡路大震災で『店舗兼住宅が全焼。消防団員として救出活動に当たったが、多くの友人を失った』古市忠夫氏の言葉を紹介しています。『悲しい体験ばかり語られるが、本当の「心をつなぐ」とは、災害に直面した時に何をすべきかを語り継いでいくこととちゃうやろか』という言葉を。
 その通りだと思いました。そして、手前味噌になりますが、この考え方は私がこのブログで再三訴えてきた「平和教育」から「戦争防止教育」へ、という主張と重なるとも感じました。こんな悲しいことがあった、こんな悲惨な出来事があった、二度とこんなことが起きてほしくない、という思いや願い、心情を伝えるだけでは、大震災の被害も戦争も防ぐことが出来ないということです。
 特に戦争は、大震災や津波、噴火や台風などの自然災害とは違い、起こすのは人ですし、止めるのも人です。それだけに、次代を担う子供たちには、ただ「戦争反対!」と叫ぶだけで、時代の流れにズルズルと押し流されてしまうような無力な存在にはなってほしくありません。
 私が考える「戦争防止教育」は、過去の戦争はいかにして起きたのか、過去の戦争を防ぐにはどの時点で何をすればよかったのか、人々が戦争を止める行動を起こせなかったのはなぜか等を歴史から学ぶのが第一段階です。そしてその学びを生かして、今の社会を「点検」するのが第二段階です。
 人々が排他的になり「敵」を求める風潮が高まっていないか、議論をせずに自分の意見に反対する人にレッテル貼りをしていないか、自分が何かしても世の中は変わらないとニヒリズムに陥っていないか、などいくつかのチェックポイントを設けて、新聞記事やニュース等を基に、今の社会を診断するのです。
 第三段階は、第二段階の診断結果を基に、今自分は何をするかを考えることになります。新聞の投稿欄に自分の思いを投稿してみる、授業で学んだことをネットに投稿する、あるいは掲示板をつくって広く若者に意見を呼びかける、自分の住む地域の議会を見に行く、請願を出すなど、具体的な行動を考え出すのです。
 古市氏は、『災害に強い町を作ることが生き残ったものの使命』とおっしゃっています。戦争をしない社会をつくることが自分の使命と考える子供を育てるのが、教員の使命です。

 

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強すぎる弊害

2020-01-27 08:22:17 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「権限強化」1月22日
 コロナウイルスの拡大に関して、中国政府の対応を批判する記事が掲載されました。その中に、『武漢市政府は20日、「習氏の重要指示を受け」て市長をトップとする感染防止の指揮部門を設置したが、ネットでは「今まで何をやっていたのか」「まずは対応の不備を認めるべきだ」との非難が相次いだ。こうした事態は、習氏の権威の大きさを示すと共に、行政の硬直化という副作用も浮き彫りにした。習氏に権力を集中して行政効率を高めたはずだが、中国政府当局者は「習氏の意向を見極めなければ、役人が動かなかくなっている」と現状の問題を指摘する』という記述がありました。
 ○○一強と呼ばれるどこかの国にも共通する現象のようで悲しくなりましたが、こうした現象は、国レベルでなくても、あらゆる組織で起こりえるものだと思います。つまり、トップに権限を集中すること、強いリーダーを求めることが、その副作用として、組織の成員の、自分で考え判断して行動するという能力や意欲を削ぎ、結果として組織を停滞させてしまうということです。
 20年ほど前から始まった学校改革の大きな柱が、経営者としての校長権限の強化でした。それまで、校長と教頭以外の管理職がいなかったこと、1年目も30年のベテランも教員としては同じというおかしな平等感覚が強かったこと、教員には「教育権」があり個々の教員の教育活動に管理職は介入すべきではないという間違った法解釈があったことなどの要因で、学校は組織体としての意思決定や行動ができていないという批判があったのです。
 そこで、企業のように、部長が決断をしたら、部下はその決定に不満があっても従うのが当然という在り方を目指し、職員会議の諮問機関化の徹底、主幹・主任制度の導入などの改革を行い、校長の経営権限を強化してきたのです。私も当時、こうした改革を推進する側にいました。今でも、改革の方向性はよかったと考えています。実際、自分が目指す学校像を明確に打ち出し、成果をあげている校長も少なくありません。宿題もテストもなし、ということで注目を集めている工藤勇一校長のように。
 しかし、校長権限強化が行き過ぎ、習氏のように独裁や偶像化レベルにまで達してしまえば、自分たちはトップに言われたことだけをきちんとすればよい、自分たちは手足であって脳ではない、と考える教員が現れてしまう可能性があります。そんな教員が増えれば、学校は柔軟性を失い、校長が気付くことができない小さなほころびがあちらこちらにあるという状態になってしまいます。そしてその積み重ねの結果、大事故が起き、どうしてこんなことになるまで誰も何もしなかったんだ、ということになってしまうのです。
 また、幸い、大きな事故や事件が起きずにすんでも、こんな状態が続けば、次代を担う管理職は育ちません。教員時代から、学校全体を見て考えるという姿勢をもたない者が、管理職になって急に適切なリーダーシップを振るうことができるはずはないのですから。
 学校に独裁者は不要です。

 

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国語、算数、・・スポーツ科

2020-01-26 08:03:35 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「一周回って」1月21日
 スポーツ倫理学を専門とされる早大教授友添秀則氏が、『「人間形成」の要素融合を 「体育」の精神 世界へ』という表題でコラムを書かれていました。その中で友添氏は、『最近のスポーツは、勝利至上主義が過剰になり、ドーピング不正が相次ぐなど限界に来ているように感じます。東京五輪のレガシーとして、今後のスポーツは、日本の体育が重視してきた「人間形成」の要素を含むべきです。スポーツが刹那的でサーカスのような方向に進むのではなく、生き方の哲学を学ぶ一助になる。そうした認識が世界に広がるよう、日本スポーツ界は発信してほしい』と書かれています。
 面白いな、と感じました。我が国では、人が体を動かして行う行為を、『運動を教材にして行う教育』=体育と、『ルールの範囲内での身体操作そのもの』=スポーツという2つの言葉で表現してきました。近年、体育は堅苦しく強制的なイメージが嫌われ、かえって運動嫌いを生むなど否定的な捉え方がされ、自由に体を動かす心地よさを味わい楽しむスポーツが肯定的なイメージで捉えられるという傾向が強かったように思います。
 そうした風潮を象徴するかのように、友添氏も指摘している通り、『国体(国民体育大会)も23年から国民スポーツ大会』になるなど、『国内の大会や団体の名称も体育からスポーツへと変わってきて』いるのです。そんな中で、友添氏は、先祖返りともいうべき、体育の精神の再評価を訴えていらっしゃるのです。私は、「体育」と「スポーツ」の問題は、学校教育においても、きちんと考えておかなければならないと思います。
 運動部活動は、「人間形成」を目指す教育としての体育なのか、技術向上や勝利の喜びを楽しむスポーツなのか、その捉え方によって位置付けが変わってきます。前者とするならば、指導者は教員であるべきですし、全生徒が参加するべきですし、教育課程に正式に位置付けられるべきです。そして、教員の勤務時間外である休日や早朝などの活動はありえなくなります。後者とするならば、指導者はその競技の熟達者であるべきですし、教員が参加を実質的に強制することなどあってはなりませんし、学校外部に運営を委ねることが望ましい形になります。試合に勝つことを目的に他を犠牲にすることもあり得ることになるでしょう。
 また、新しいスポーツとして注目されつつあるeスポーツを、運動部活動として導入することの是非にも関わってきます。さらに、授業で行われている集団行動や持久走、遠泳など、苦しいけど頑張ってやり遂げる、別に面白くはないけれど決められた動作を繰り返すという活動についても、学校でも体育ではないスポーツをということになれば、忍耐や克己という「人間形成」を目指すこれらのものは、廃止か縮小されることになるはずです。
 そもそも学校でもスポーツというのであれば、サッカーをしたい子供はサッカーをすればよく、好きでもない鉄棒をする必要はないということになり、学校における運動、身体操作活動は、全く姿を変えてしまいます。
 個性を尊重し、個々の興味関心を生かすという教育改革の精神を当てはめれば、サッカーばかりして鉄棒はしない子供という存在はむしろ好ましいのかもしれませんし、嫌々鉄棒をするよりも意欲的にサッカーをする方が運動能力の向上や身体の健康な発達に良いかもしれません。あるいは、そうではなく、好きな運動ばかりしていたのでは、発達に偏りが生じてしまうのかもしれません。専門家の見解はどうなのでしょうか。
 そう言えば、図画工作の授業なども、私が子供のころは、人物デッサンや静物写生などの基礎的な技能習得に一定の時間が割かれましたが、今では技能よりも描きたいものを自由に描く、それどころか紙を破いたり布を引き裂いたり、絵の具をぶちまけたりするのも表現だとして認められるようになっています。ここでも、体育とスポーツと同じような問題が存在するように思えてなりません。
 体育科が、スポーツ科になる日は来るのでしょうか。

 

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あなたはここまでです

2020-01-25 08:30:47 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「この子はここまでです」1月21日
 『結果で差別 懸念も』という見出しの記事が掲載されました。遺伝情報を生かしたビジネスが拡大していることを報じる記事の小見出しです。記事によると、『08年、遺伝情報をもとに雇用や保険加入で差別をすることを法律が禁じる法律が米国で成立。ドイツやカナダなども法的に禁止項目がある。日本には遺伝子差別を禁止する法律はない』ということです。さらに、『婚約の破棄や離婚などにつながる恐れも指摘される』という専門家の見解も紹介されていました。
 私は悲観主義者なのでしょうか、あるいは人間性悪説に傾いているのでしょうか、遺伝情報に基づく差別は、必ず近い将来現実の問題になると考えます。人権上の問題があろうが、使える技術は使いたくなり、使う人が出てくるというのが人間の歴史だと思っているからです。原子力の研究が原爆を生みましたし、AIの研究は自動殺戮兵器を生むのです。
 ですから、遺伝情報が「教育」に「悪用」されるという想像が頭を離れません。塾や予備校では、遺伝情報で獲得可能な知的能力をランクわけし、Aランクの子供だけを対象にした施設が登場するでしょう。入塾時に、「お宅のお子さんの遺伝子から、○○高校への合格を保証します。△△高校の場合、大変難しいので合格した場合には150%の報奨金をいただきます。また、□□高校にも合格できなかった場合には授業料を全額返金します」というような契約を交わす塾も出てくるでしょう。
 公立校ではどうでしょうか。さすがに、遺伝情報による選別はしないでしょうが、個人面談の場などで、「お子さんの遺伝情報から見て、これ以上の成績を期待されても困ります」と言う教員が出てくる可能性はあるでしょう。また、「遺伝情報がこのレベルなのにこれだけの成果を上げているのは、A先生の指導力が優れているから」などと業績評価がまかり通るようになるかもしれません。
 いずれにしても、これまでの学校がもつ「良さ」は消滅してしまいそうです。私はこのブログで、「全ての子供に無限の可能性がある」というような現実から遊離した子供観を批判してきました。しかし、遺伝情報で可能性が提示されることに比べれば、まだしもましだったのかもしれないとまで思ってしまいました。こんな感傷も、10年後には「古い!」と言われてしまうのかもしれませんが。

 

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好意を抱く?

2020-01-24 08:17:57 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「とんでもなく間違った認識」1月20日
 『教員わいせつ再犯防げず』という見出しの記事が掲載されました。『2018年度に児童・生徒へのわいせつ行為などを理由に処分を受けた公立小中学校・高校などの教員は計282人で過去最多となった』ことを受けて書かれた記事です。その背景について、有識者が述べた見解に、強い違和感を抱きました。
 それは、京都教育大の榊原禎宏教授の見解です。『教育現場から性犯罪をなくすにはどうすればいいのか』という問いに対し、榊原氏は、『教員の業務の見直し』を訴え、『日本の教員は家庭訪問や子どもの悩みを聞くなど内面的な介入が求められている。精神的にも距離が近くなってしまう環境では好意を抱いたり、抱かれたりする可能性が高くなる』とおっしゃっているのです。
 違和感の理由は、わいせつ行為の加害者と被害者の間には、「好意」があるケースが多い、という認識を与えてしまうことです。こうした認識こそが、「被害者にも改めるべき点があった」という被害者有責論に結びついていくのです。私は、教委勤務時代に、所属校の7.8人の女子児童の体に触れたり、性行為を強要していた教員の事例に関わったことがありますが、そこには誰一人として「加害教員に対する好意」などは存在していませんでした。あったのは、恐怖であり、強圧であり、思考停止だけでした。
 もちろん、全国数百の事例を分析すれば、数件は「好意」が介在したケースが見つかるのかもしれませんが、痴漢の被害者に「男を挑発するような服装をするのが悪い」と責めているのと同じで、決して許されない発想です。
 もう一つの理由は、精神的な距離が近くなることを「悪」とする感覚です。実は私もこのブログにおいて、我が国の教員は本務である学習指導=授業以外の役割を求められすぎている、という主張を繰り返してきています。家庭の状況まで把握し夫婦間のいざこざにまで関わることが求められ、放課後や休日に地域で子供が起こした事件や事故にも対応することが当然視され、朝食を食べていない子供に自腹で菓子パンを与えたり、移動教室の費用を払えない子供に立て替えてあげたりすることが、教育者としてのあるべき姿とされたりする現状は問題であると考えています。つまり、そうした自己犠牲的な教員像を否定するという意味では、業務の見直しには賛成なのです。
 ただ、勤務時間内の業務である学級経営や教育相談、学校行事を含めた特別活動などの機会を通じ、子供理解を深め、信頼関係を築き、その信頼関係を保護者にまで拡大しておくことは、授業を円滑かつ効果的に進める上でも大切なことなのです。極言すれば、それこそAIティーチャーや遠隔授業では達成できない真に個を生かした授業の必須条件なのです。多くの教員は、この点について、努力し、自分なりの工夫を積み重ねているのです。そして、より良い授業のために真摯な努力を続けている教員であれば、「可愛い教え子」を自らの性的嗜好の餌食にするようなことはしないのです。

 

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雪だるまとeスポーツ

2020-01-23 08:40:20 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「職務専念義務違反?」1月19日
 『季語刻々』欄で、坪内稔典氏が、大島雄作氏の『交番にたたされてゐる雪だるま』という句を取り上げて、解説(?)なさっていました。『勤務中の警官が雪だるまを作って交番の前に立てたとする。その行為、仕事をサボったとしてとがめられるのだろうか(略)雪だるまを作るような遊び心は警官にも市民にもべきだろう』と。
 教員時代、雪が降ると、子供たちに校庭に出て雪遊びをすることを特別に許可したものでした。とは言っても、東京には大雪は降らず、子供たちも雪遊びに慣れていないので、単に雪に触る程度の子供が多く、雪だるまのような「大作」はなかなかできませんでした。
 そこで雪遊び経験の豊富な教員が外に出て、雪だるまの作り方を教え、一緒に雪だるまを作るのです。寒がりで、インドア派の私は、校庭を広く監視するという名目で見ているだけでしたが、この教員にいよる子供との雪だるまづくり、地域の人にはどう見えていたのでしょうか。
 もちろん、人により様々でしょうが、「いい歳をした大人が遊んでいる」「遊んで給料をもらえるんだからいい御身分だ」というような批判的な見方をする人もいたはずです。ところが、子供側から見ると、「先生と一緒に雪だるまを作った。手が濡れてかじかんじゃったけど楽しかった」などと、小学校生活最大の思い出だったりするのです。この共同制作によって、教員と子供の心理的な距離が一挙に縮まってしまうこともあり得るのです。そして、保護者からも、「先生と雪だるま作ったよ、ととても嬉しそうに報告してくれました」などという肯定的な評価をいただくこともあるのです。
 公立校の教員は地方公務員ですから、法によって職務専念義務が課せられています。私は教委勤務時代に、教員の処分に関わる仕事に従事していたことがありますから、この義務違反のケースにも携わったことがあります。公務員制度の根幹をなす規定でもあります。しかし、その職によっては、何が職務で、どのようなケースが義務違反かの判断が難しいことがあります。教員の仕事では特に線引きが難しい場合が多いのです。緩くすれば批判を受けるし、厳しくすれば学校の雰囲気がギスギスしてしまいます。
 昔は、坪内氏が言うところの「遊び心」が、学校文化としてありました。今はどうなのでしょうか。休み時間に教員と子供が一緒にスマホのゲームで遊ぶという光景、eスポーツの指導中なんてことになっていくのでしょうか。

 

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醜い日本人

2020-01-22 08:32:16 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「醜い日本人」1月19日
 書評欄『昨日読んだ文庫』で、青山学院女子短期大助教山本唯人氏が戦中の疎開について触れられていました。『青山・原宿界隈の空襲体験を掘り起こす活動に関わっている』山本氏は、『階層と生活空間のすみわけがはっきりしていた。下町で約10万人が亡くなった東京大空襲があっても、その2か月半後、山の手が空襲で焼かれるとは思っていなかったという話をよく耳にする』と書かれています。
 また、『(疎開先で)東京大空襲で下町が焼かれる炎を見ながら、「東京の人間は今までいい思いをしてきたのだからざまあみろだ」とささやく村人の声が、当時国民学校3年祭だった弘子さんの耳に、生涯を通して残っている』という体験も紹介なさっています。
 盲点を突かれた思いがしました。戦中の我が国については、見通しのない戦争を始めた軍部や政治家とそれに踊らされた庶民という枠組みで語られることが多かったように思います。しかし、山本氏は、その庶民の中に分断や憎悪の感情があったことを指摘しているのです。改めて振り返ってみると、私自身、実はそうした話を耳にしていたにもかかわらず、あまり意識してこなかったのです。
 亡母は、東京生まれの東京育ちでした。終戦時17歳だった母は、食糧を得るために着物などをもって田舎に行き、豆などに換えてもらう買い出しの話をしてくれたものでした。そこでは「田舎の人に意地悪をされた」「こんな着物いくらでもあるし、と買いたたかれた」「あのころは農家の人が威張っていた」など、当時の田舎と都会の間にある根深い確執が伝えられていたのです。でも、子供だった私は、ふーんという感じで聞き流してしまっていたのです。その背景を考えることなしに。
 山本氏によれば、こうした分断は、同じ東京の山の手と下町にもあったというのです。また、母の話になりますが、当時北区の十条に住んでいた母は、東京大空襲で京浜東北線の線路が熱によって曲がってしまったという話をしてくれたものでした。母の感じた恐怖はどれほどのものだったかと思う一方で、山の手の人間はよその国の出来事のように思っていたわけです。
 もちろん、山本氏が聞き取っていることは、あくまでも個人の体験や感覚に過ぎません。別の「事実」もあったことでしょう。しかし、戦争という悲惨な状況が、数値で表すことができる人的物的被害だけではなく、同じ国民の心も荒んだものにしてしまうということも、戦争を考えるうえで重要なことです。
 私はこのブログで、学校で行われてきた「平和教育」について、情緒的に過ぎると批判し、「平和教育」から「戦争防止教育」への転換を図るべきだと訴えてきました。それに加え、従来の軍部・政治家対庶民という図式を改め、庶民の心を蝕むという負の側面にも焦点を当てるべきだと考えます。国民の分断が進むと言われる今日、そのことの恐ろしさを考えさせるためにも。

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