ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

昔あった論争

2023-07-31 08:10:07 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「四半世紀も昔に」7月25日
 読者投稿欄に、足利市S氏による『順番』と題する投稿が掲載されました。塾の講師をするS氏はその中で小中学生の作文指導での出来事を綴られています。『最近、違和感を覚えることがある。家族をテーマにしたとき、9割ぐらいが「お母さん、お父さん」の順に書く』と。
 S氏はさらに、『教え子の高校生に次の質問をしてみた。「お父さんとお母さんと妹と公園に行ったよ。作文の書き出しはどうなるかな?」答えは「お母さん、お父さん、妹…」だった』と父母の順番にこだわっていきます。そして、『「どうしてお母さんが先?」」と聞くと「お母さんの方が偉いから」』というやり取りに至り、時代は変わった、と慨嘆するのです。
 私は30年近く前のことを思い出しました。当時は、男女平等教育に注目が集まり始めた時期でした。その象徴となったのが、「名簿」でした。当時多くの学校で使われていた名簿は、男子があいうえお順に1番から20番まで、女子があいうえお順に21番から40番まで、というような形になっていました。
 そのことについて、「なぜ男が先で女が後なのか、名簿は毎日使われるものであり、小さい問題のようだがこうしたことの繰り返し、積み重ねが、男が偉くて女はその下、という意識を植え付けていくのだ」という趣旨の批判がなされ、女子を先にするという取り組みをする教員が現れたり、男女関係なくあいうえお順という男女混合名簿という取り組みが広まったりしたのでした。
 名簿を作成する以上、そこに順番が生じます。作文を書く場合にも、二者を同時に並列に書くことはできず、順番が生じます。それは仕方のないことです。しかし、ではそのとき何を先にし何を後にするかというのは、その人なりその組織なりの価値観が反映されると言われれば、否定はできません。
 実際には、多くの人がそこまで考えて後先を決めているわけではないでしょう。ただ単に、なんとなく、そういうものだと思ってきたから、深く考えたことはない、というような感覚だと思われます。しかし、明確な理由がないのにそのことに疑問を抱かないという点にこそ、刷り込まれた価値観の根深さがある、という指摘はおそらく正しいと思われます。
 S氏は「昭和はよかった」と思ってしまうという言葉で投書を締めくくられていました。私とS氏は同世代。でも私には、『「父親が一番」だったのである。時代は変わった』とは思いません。混合名簿賛成派ですから。今の若い教員の皆さんは、混合名簿にまつわる過去の経緯など知っているのか、気になりました。

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楽をしてはダメ

2023-07-30 08:43:59 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「楽してはダメ」7月24日
 『「数値化」への過剰な信仰』という見出しの記事が掲載されました。新著『客観性の落とし穴』で、『「客観性と数値化に対する過剰な信仰」の背景や、それによって生まれる差別を描いた』大坂大大学院教授村上靖彦氏へのインタビュー記事です。
 記事では、『(大学の授業で)現場のインタビューを題材にすると、決まってこんな反応があるという。「先生の言うことに客観的な妥当性はあるのですか」』という現代大学生の実態が紹介され、行き過ぎた数値化至上主義について、『数値化されたエビデンスが価値をもつという信仰が強すぎるあまり、人間による「語り」の意味を疑い(略)客観性の陰で個人の経験が見えなくなっている』『数値に支配された社会とは、顔が見えなくなる社会。一人一人の経験は消去され~』など、その弊害を指摘する記述が続きます。
 行き過ぎた数値化には弊害があるという指摘には同感です。ただ、村上氏が述べる『数字が重要な価値を持つ社会は数字で人間を評価し、序列化する』という弊害よりも、人間が考えなくなるという弊害の方が大きいと感じます。
 おかしな例え話ですが、あなたが担任している学級で一番良い子は誰ですか、という質問をされたと想定してみます。答えは容易ではありません。思いやりのあるAさん。責任感が強いBさん。大勢の仲間を引っ張っていくことができるCさん。個性的な発想でアイデア豊富なDさん。迷ってしまいます。迷うということは考えることにつながります。しかし、テストの点数や忘れ物の数、子供同士の相互評価の合計点などの数字に基づいて評価するのであれば、1位から40位まで順位付けは容易です。
 こんな教員が、客観的で公正は教員などとされたのでは、子供は不幸です。こうしたやり方では、子供を理解しようとはせず、ただひたすら評価項目を細分化し、評価基準を数値化可能なものだけに絞っていくという作業をすることになります。究極的には、教室に監視カメラをセットし、予め設定された視点と規準でAIが自動的に各項目の点数が加減していく、それが正しい子供理解である、ということになっていってしまいます。
 人生は選択の連続です。生きる力とは、自分で選択する力と言い換えることができます。しかしその選択が、単に数字を比べるだけであれば、幼稚園の子供にもできます。数字では表せないものが世の中にはあり、その価値をどう考え評価していくのかということにこそ、その人なりの人生があり、生きる喜びがあるというのが私の考えです。
 過度の数字化は、考えようとする姿勢、考える能力を人から奪い、無個性なロボットを創り出すことになると思います。教員は特に注意が必要です。

 

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疑いつつ

2023-07-29 09:09:47 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「懐疑を抱きつつ」7月24日
 『生成AI「良い使い方」を学ぼう』という見出しの記事が掲載されました。『生成AIとの上手な付き合い方は?』ということで、慶応大大学院教授石戸奈々子氏にインタビューした記事です。
 その中で石戸氏は、『デジタル技術は子供の豊かな発想を刺激し、生きる力を育むもの』『(生成AIは)一人一人にあった学びを提供してくれる友達であり、家庭教師』『身近なことから使い始める中で、肌感覚でAIの特性がわかる』など、学校教育において、生成AIを積極的に活用すべきだと主張なさっていました。
 私は、守旧派です。自分自身AIには疎い方だと自覚してもいます。そうした点を考慮してもなお、石戸氏の生成AIに対する評価は楽観的に過ぎるように思いました。ご自身が開いている『全国小中学生プログラミング大会』における様々な企画を紹介して、AIが子どもの豊かな発想を刺激するというプラス評価をなさっていますが、この種の大会には、プラスに生かしている子供だけが参加するものです。これは、私がこのブログで再三指摘してきた、国立大付属学校など一部のハイレベルな学校を先進的実践校とし、そこで成果があったから全ての学校で成果が期待できるという詭弁に通じる論理展開ではないでしょうか。
 では私は、生成AIを学校教育で活用することに反対なのかと言えば、そうではありません。石戸氏が、『これからの時代、インターネットにつながった機器なしに生活する状況はあり得ません』という指摘に同意しているからです。そうである以上、『子供のうちに禁止してしまえば、突然荒波に放り込まれるようなことになります。大人が伴走できるうちに「この使い方はいい」「これは気をつけよう」などと会話しながらリテラシーを育むべきです』という石戸氏の考えを肯定しないわけにはいきません。
 ただ、生成AIを全面的に肯定するのではなく、その影響の負の部分を常に意識し、ある意味懐疑的になりながら、子供と生成AIの関りを注意深く見つめていく、そんな姿勢が大切だと考えるのです。小さなマイナスを見逃さず、学校関係者やAIの専門家の間で情報を共有し分析するような姿勢と仕組みを整えることが急務だと考えます。

 

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逆らえないだけです

2023-07-28 08:27:59 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「一緒にしないで」7月20日
 『教育を支配したがる権力』という見出しの記事が掲載されました。『大阪市内の小学校長だった久保敬さん(61)は2021年、市の教育行政を巡って松井一郎市長(当時)に提言したところ、市教委から処分を受けた』ことと『大学教授らが自民党の杉田水脈衆院議員に中傷されたとして損害賠償を求めた訴訟(略)大半の杉田氏の表現は「意見・論評の範囲」として許容された』ことを比較しながら、『意見や提言は、権力や立場によって自由度に差があるものなのか』という問題意識に基づいて行われた、久保氏へのインタビュー記事です。
 その中にとても気になる記述がありました。『行政や政治家はなぜ教育に介入するのでしょうか』という記者の問いに対して、久保氏は『教師が自由に物をいえないようコントロールすればどうなるか。それは戦前・戦中が証明していますよね。「お国のために戦場に行け」と教師が言えば子どもたちは従った。教員の評価に「指導力がある」がありますが、生徒を指導して間違った方向に持っていくこともできる怖さがあります。教育の力は非常に大きい。だからこそ、政治家や行政は教育を支配しようと考えるのでしょう』と答えている部分です。
 大筋はその通りだと思うのですが、どうしても看過できない点があります。それは、記者も久保氏も使っている「行政や政治家~」「政治家や行政~」という表現です。記事の見出し「~権力」という表現からすると、両氏とも、行政と政治家をともに「教育を支配したがる権力」と捉えていることが分かります。
 それは間違いです。言うまでもないことですが、戦前の反省に基づき、政治家教育に介入支配することがないようにするために、教育委員会制度が作られたのです。そしてその経緯や趣旨を理解した首長らは、戦後長らく教育行政は教育委員会に委ねるという姿勢を維持してきたのです。
 私が教委に勤務していたとき、議会で議員から教育に関する質問が出されても、どの首長も「その件は教育委員会に~」と答弁していたものでした。しかし、第一次安倍政権後、教委のいじめ対応が遅いことに対する批判を利用する形で、保守系首長を中心に、民意に近い首長が教育行政においてもリーダーシップを振るうべきという声が形成され、それが地教行法の改正に結びつき、行政機関の中で唯一の政治家である首長の意向に教委が逆らえないようになってきたのです。
 元々、教委の力は弱く小さいものでした。行政における力の根本は、予算と人事にあります。教育予算の編成は首長部局が行い、そこに教委が関与できる余地はほとんどありません。教委人事も首長部局と一体であり、指導主事と室長を除いた教委のほとんどの職員が、公務員人生の大半を首長部局で過ごし、昇進も昇給も異動もすべて首長の意向で左右されるのです。
 ですから元々、教育行政に対しても首長は絶大な権限をもっていたのですが、戦後改革における戦前の反省という精神が、首長に野放図な権力行使に対する自制を強いていたのです。その自制を解いてしまったのが、地教行法改悪だったのです。
 今も、指導主事や室長といった教委の専門家たちは、教育を支配しようとなどは考えていません。もちろん、指導や助言を通して影響力を行使しますが、それはあくまでも学習指導要領に基づく限定的なものです。教育行政に携わる者も公務員であり、法が首長の権限を認める以上、首長には逆らえませんが、喜んで権力を行使し学校を思う通りに動かそうとしているわけではないのです。その点を分かってほしいと切に思います。地教行法を元に戻せればいいのですが。

 

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悪いのは

2023-07-27 08:42:09 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「問題なのは」7月19日
 『「あなたのままで」背押す日』という見出しの記事が掲載されました。『兵庫県姫路市の県立高校の卒業式で、髪型を理由に署つ行政が座るべき席から隔離された』という事件の当事者だった『青年のための特別な卒業式が催された』ことを報じる記事です。
 学校の対応が人権侵害にあたるのでは、と当時も話題になった事件でした。しかし、当時もそうでしたが、記事を読んでも、何を問題だと考えているのか、それが判然としないのです。
 男性は、『日本人の母親、米国人で黒人の父親の間に生まれた』そうです。式当日、彼は、『横に広がりやすい髪を抑えるため、黒人文化では一般的な整え方のコーンローで登校したところ、教師から「校則違反だ」と指摘された。級友らと並んで座ることを許されず、式場の体育館2階にいるように命じられた。名前を呼ばれても「返事をしないように」とも言われた』というのが、事件の顛末です。
 学校の対応について、酷い、おかしい、というような感覚を抱く人が多いはずです。では、どこが問題なのでしょうか。黒人文化では一般的なコーンローという髪型を否定することは男性のルーツである文化の否定である、ということでしょうか。それならば、もし黒人文化にルーツをもたない他の生徒がコーンローをしてきたときに、参列させなかったとしてもそれは問題ないのでしょうか。あるいは、個人の自己表現の一つである髪型を高速で制限していること自体が問題なのでしょうか。もしそうであるならば、緑の染めたモヒカンでも、パーマをかけて膨らませた髪に100個のリボンをつけてきても、式に参加させるということでいいのでしょうか(私はいいと思いますが、反対はあるでしょうね)。
 また、2階の座らせたことはどうなのでしょうか。それ自体は問題ないのでしょうか、それとも返事をしてはいけないことの方が問題なのでしょうか。
 さらに、コーンローという髪型を問題視した教員が、髪型を直すように指導せずに排除の論理で2階に座らせたのか、指導したけれど男性が拒んだのか、その辺りの事情も分かりません。指導があったとして、どのようなやりとりがあったのかも不明です。
 記事では、男性の『(髪型は)父のルーツであり、黒人としての文化なのに』という言葉を紹介しています。これを読むと、男性は、髪型を否定されたことを問題視しているように思えます。一方で、『特別な卒業式』を企画した側のラターニャー・ウィティカ氏は、『名前はその人そのもの。返事をさせないことは、その人の存在を否定している』と返事をさせなかったことを重視しているのです。
 細かいことはどうでもいい、学校の対応が問題で人権侵害なんだ、という人がいるかもしれません。学校や教員を批判し、謝罪させればいいという考えの人もいるかもしれません。しかし、そうしたアバウトなとらえ方では、改善は進まないと思うのです。事象を精緻に分析し、問題点を一つ一つ指摘し、その改善策を提示するという作業を地道に行うことで、男性のような被害者を減らすことができるのだと思います。

 

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脱ナラティブ

2023-07-26 08:28:33 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「脱ナラティブ」7月20日
 『打開したい「いじめ物語」』という見出しの記事が掲載されました。『いじめ防止法が生まれるきっかけとなった大津市の中2自殺事件を徹底調査』した立教大名誉教授北澤毅氏へのインタビュー記事です。
  北澤氏が語られることは、私がこのブログでいじめ問題を取り上げ、再三主張してきたことと重なる部分が多いと感じました。まず、『精神的苦痛を感じればいじめであるという定義は、主観のみで事実を構成できると言っているに等しく、教育現場に混乱をもたらしている』という指摘です。
 この発言が、いじめ防止法の意義についての質問に答えたものであることに留意が必要です。私が教委勤務時に担当していじめについての教員向け冊子をつくったのは25年以上前になります。その冊子にも、子供がいじめられていると訴えてきたらいじめがあったと考えて対応するという趣旨のことが書かれています。「○○さんの気のせいだよ」「○○さんにも注意すべきところがあったんじゃないのかな」というような対応で子供を傷つけることを禁じ、いじめを訴えた子供の辛いという気持ちに寄り添って対応するという意味です。あくまでも、教員の教育的配慮を促す趣旨であり、法的に(裁判等でという意味)いじめの加害・被害の関係が確定するという意味ではなかったのです。
 私は今でも、当時の記述は正しいと思っています。北澤氏も、被害者に寄り添うという教育の論理を、法的な論理として位置づけてしまったことを問題視しているのです。私は、かねてからこの教育の論理を法の論理に拡大解釈したことは間違いだと言ってきました。
 考えてもみてください。優しい心の持ち主であるあなたのお子さんが、髪を切ってきた級友に対し、軽い気持ちで「お父さんの髪型みたい」と言ったとします。その子は「傷ついた。これはいじめだ」と感じ、そのことを教員に告げた途端、あなたのお子さんはいじめという犯罪行為を行った犯罪者とされてしまうとしたら、あなたは「いじめと感じたのなら、いじめがあったというきまりなのだから、うちの子が罰せられても仕方がない」と思えるでしょうか。理不尽だと怒るでしょう。
 いじめ問題について語るとき、ほとんどの人が被害者の立場で考え発言しています。しかし、いじめ防止法のいじめの定義は、被害者の一言で、あなたのお子さんが加害者であると認定され糾弾されるという可能性をもたらす危険なものなのです。そうした想像力を欠いた人たちが、自分や自分の子供が糾弾される立場に立つことなど金輪際ないと思い込んでいる能天気な人たちが、いじめ防止法を作ったのだと言えば言いすぎでしょうか。私はそうは思いません。
 また、北澤氏は、『いじめ調査はやり直しが相次いでいます。何が問題ですか』という問いに対し、『これまでの研究や調査委員会の経験から、事実を認定する難しさが十分に周知されていないと感じます(略)被害者の苦しみに誠実に向き合うことと事実を明らかにすることを冷静に分けて対処する必要があります』とも述べていらっしゃいます。
 重要な指摘です。しかし、メディアや世間はこのことを理解しようとしません。被害者に誠実に向き合う→加害者の罪が明らかになると考え、それを逆転させて、加害者の罪が明らかにされていない→被害者の苦しみに誠実に向き合っていない→不当な隠蔽調査であるという図式を描き、教委や第三者委員会を糾弾するのです。
 この問題の根底にも、被害者の思いに寄り添うという教育の論理を法的な論理に拡大解釈してしまった愚かさがあるのです。

 

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プラスもマイナスも

2023-07-25 08:28:17 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「下衆の勘繰り」7月19日
 『コロナ禍経験の5歳 発達遅れ 平均4カ月 交流減が影響か』という見出しの記事が掲載されました。『京都大などの研究チームが乳幼児887人を対象にした調査』の結果を報じる記事です。
 記事によると、『5歳時点の発達について、20年3月以降のコロナ禍を経験した子どもたちは、経験せずに5歳になった子どもたちに比べて、平均4.39カ月の発達の遅れが見られた』ということで、以下コミュニケーション、しつけ、発話能力などの項目別に数値が挙げられていました。
 私が気になったのは、この記事の見出しです。コロナ禍で悪い影響があった、という印象を与えますよね。しかし、記事の最後の段落では、『3歳時点での発達については、むしろコロナ禍を経験した子どもたちの方が、全身運動や「良い・悪い」といった抽象的な概念を理解する力があった』と書かれているのです。つまり、コロナ禍の経験には、年代によってプラスもあればマイナスもあったという結論になるのです。
 それなのにどうして、見出しにはそのことが触れられていないのでしょう。新聞を落ち着いて読む人が減っている現在、見出しだけをサッと目を通すという人は少なくないはずです。そうした人に謝った情報を伝えることになるのに。
 3歳児についての調査結果の後には、結果についての考察が書かれていました。『在宅勤務で両親と過ごす時間が増えたことがプラスになった可能性がある』というものです。ここからが下衆の勘繰りです。
 5歳児のマイナス結果の原因は、『両親以外の大人や友達と交流する機会が減った』ことだとされています。また、『質の高いケアを提供する保育園に通っていた子は、コロナ禍でも発達が良い傾向にあった』とも書かれています。つまり、保育園や幼稚園といった家庭以外の集団保育の場の大切さを強調する内容です。
 一方、3歳児のプラス結果の要因は、家庭で両親と過ごす時間が増えたこと、つまり、成長の場として家庭の役割を重視する内容です。5歳児のマイナスを大きく取り上げ、3歳児のプラスを小さくしか取り上げないということは、子供の成長における家庭の役割を小さく見せ、家庭以外の場の役割を大きく見せる、この記事はそんな効果をもたらしているのです。
 子育ては親だけが担うのではなく、社会全体で担っていくべきという最近の風潮があります。間違いではありません。ただ、それだからと言って、ある事実を報じるときに、主義主張に沿う結果を強調して伝える、というようなことがまかり通れば、それは世論を間違った方向に誘導することになってしまいます。まさかM紙がそんなことをするはずはないと思いたいのですが。

 

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差別はしていない、つもりだけれど

2023-07-24 08:04:48 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「それも差別だったのか」7月18日
 『毎日ユニバーサル委員会第14回座談会』の様子が掲載されました。当日体調不良で欠席した東京大特任教授福島智氏の寄稿も併せて掲載されていました。その中で福島氏は、『差別には本質的に異なる二つのタイプがある』とし、『能力に関する差別』という概念について述べていらっしゃるのです。
 恥ずかしい話ですが、不勉強な私は耳にしたことがありませんでした。福島氏は、能力に関する差別を論ずるにあたり、まず能力について、『ここでの能力とは、知的能力を中心とする現代社会で求められる諸能力』を指すと定義し、その上で、『個人の能力の多寡が、その人間としての存在価値の多寡に連動してしまう差別』を能力に関する差別であるとしています。そして、『能力の相違は認めつつも、それを人としての根本的な存在価値の評価と完全に切り離すことが必要です』ともおっしゃっています。
 すぐに想起されたのが、自民党の国会議員による「LGBTQの人は子供を産まないから生産性がない」という発言でした。とんでもない発言であり、こうした発想が差別である、生殖「力」という能力によって人を低く見る差別なのだということは誰でも分かります。
  さらに、私自身、教員時代も、そしてこのブログでも、子供の心の安定について次のように述べてきました。「勉強ができるからいい子、素直に言うことを聞くからいい子、という接し方は子供を不安に追いやる。子供は、もし、成績が落ちたらお母さんは僕のこと嫌いになってしまうのではないか、と考え、不安を感じ、常に好かれる良い子でいようと自分を歪め、長い年月そうしたことを続けていると、どこかで破綻が生じてしまう」と。
 無条件に君のことを大切に思っているというメッセージを伝えることの大切さを説いた言葉のつもりです。それは教員としての自戒の言葉でもあり、保護者や若い教員に対する警鐘を鳴らす言葉でもありました。勉強などの能力の多寡と個人の価値を切り離すという意味で、福島氏の指摘とも重なると考えます。
 ただ、勉強でも、スポーツでも、芸術でも、能力の差が評価の差につながり、それが損得に結びつくというのは、社会において一般的ですし、学校においても同様です。能力(努力することができるのも能力)に恵まれ、優れた結果を残した子供が、褒められ、注目され、何らかの利益、良い進学先、名誉ある表彰などを得るというのは当然あることです。
 それらは「人としての根本的な存在価値の評価」とは別物と言ってしまえばそれまでですが、実際には、こうした個々の出来事や場面における評価の積み重ねが、根本的な存在価値の評価の受け取り方に影響を及ぼす、というのが現実です。
 学級で、勉強はどの教科も下位グループ、運動音痴で逆上がりはできないし跳び箱も跳べない、絵が下手で犬か猫かも分からない絵しか描けない、人見知りの傾向が強く仲の良い友達もいない、家は貧しくたまに誘われても級友と一緒に遊びに行くこともできない、という様々な「能力」が少ない子供は、どうしても劣等感や疎外感を抱きやすいのです。
 そうした現実をそのまま放置することは、差別ではないのでしょうか。望ましくないまでも許容されることなのでしょうか。それとも、スポーツ大会で新記録を出して優勝した子供にみんなの前で表彰状を渡すようなことは、子供同士に優越感と劣等感をもたらし、差別に加担することとして慎むべきことなのでしょうか。もしそうであるならば、今までのような学校教育は成り立ちません。
 福島氏のおっしゃることは、理屈としてはよく分かりますし、賛成です。同じようなことを私も口にしてきました。しかし、能力への評価を根本的な存在価値の評価と切り離すことは本当に可能なのでしょうか。評価する側は切り離していると考えても、評価される側は、やっぱり自分は低い存在とみられている=差別されていると受け取ってしまうのではないでしょうか。
 保護者や教員は、「テストの点数や順位なんか関係ない。君は君のままで大切な存在なんだ」と言い続ければ、それで差別はしていないと胸を張ってよいのでしょうか。偽善者のようにも思えてしまうのですが。

 

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誘われてついて行くと

2023-07-23 09:10:28 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「小中高でも」7月17日
 『「信教の自由」に大学苦心 カルト宗教の勧誘潜在化』という見出しの記事が掲載されました。『カルト宗教による信者獲得の草刈り場となってきた大学が対応の強化に乗り出した』ことを報じる記事です。記事によると、大学当局の問題意識は高いものの、『「信教の自由」に配慮した繊細な対応が求められる』ということで悩む大学が多いとのことでした。
 私は、大学ほどではないのはもちろんですが、小中高においても、カルト宗教対策は必要になってきているのではないかと考えます。私には、50年以上前の中学生時代の忘れられない記憶があります。前後のいきさつは忘れてしまいましたが、同じクラスのS君と2人で遊んでいたときのことです。知っているというだけで、それまで一緒に遊んだこともなかった仲でしたが、どういうわけかそのときは2人だけで、だらだらとおしゃべりをしていました。
 突然、S君が「卓球しないか」と言い出したのです。私は卓球部に所属しており、やりたいと思いました。でも、卓球センターは値段が高く、気やすく行ける場所ではありませんでした。しかし、S君は、ただで卓球ができる場所を知っているというのです。うまい話です。私はS君について行くことにしました。20分ほど歩くと、あるビルにつきました。入り口から覗くと、確かに卓球台が置いてあります。後で分かったのですが、そこは朝鮮総連の事務所のビルでした。
 何事もなく時間を過ごし帰宅しました。当時の私は朝鮮総連という文字を読むことはできましたが、それがどういう団体なのかは全く知りませんでした。そして、帰宅して母に、「今日ただで卓球できる所見つけた」と話しました。母は「もう行っちゃだめだよ」と言い、帰宅した父からも同じことを言われました。なぜだか分からないまま、S君とはもともと親しいわけでもなかったので、私は両親の指示に従いました。
 今になってみると、両親は、朝鮮総連という組織に偏見をもっていたのでしょう。詳しい実態を知っていたわけではないがちょっと怖いところ、というような感覚だったと思われます。当時の一般市民としてはそれほど特異な例ではありません。
 しかし私は、そのとき感じた何となく「アブナイ場所」という感覚、そんなところに行ってしまって失敗したという思い、世の中には自分が知らないアブナイ場所があるのだという警戒感のようなもの、それらがごちゃ混ぜになった不思議な記憶がいつまでも残っていたのです。
 今改めてこのことを思い出したのは、もしそのビルが、なんらかのカルト宗教の関連施設だったら、ということです。私はそこで、優しい親切な大人にお菓子をもらったり、卓球の相手をしてもらったりしながら、「また遊びにおいで」と言われ、通ううちに洗脳されていってしまうという可能性を否定できないと思うのです。S君に悪意はなくても、信者である両親から、「お友達を呼んできなさい」と言われ、その通りにするということはありえます。考えてみれば怖い話です。
 全国の小中高を調査すれば、そんな事例が出てくるような気がするのですが。

 

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謝りたい、でも謝れと言われるのは嫌だ

2023-07-22 08:50:29 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「どうする」7月17日
 『英奴隷貿易 どうする王室』という見出しの記事が掲載されました。『英王室が過去に関与したとされる「奴隷貿易」の実態解明に向け、チャールズ国王が研究に協力する姿勢を示している』ことを報じ、そのことに関連して、『英国の旧植民地諸国からは謝罪を求める声が上がっていた』ことについても触れ、今後の対応の難しさを伝える記事です。
 記事の中に、気になる記述を発見しました。英国の政治コラムニストマイケル・ディーン氏の見解です。『自身が関与していない過去の犯罪について謝る必要はない』と述べ、『私たち(英国人)がイタリア料理店に行っても、誰もローマ人のブリテン島侵攻についてとがめたりしない』とコメントしているのです。
 私は、社会科を研究教科としてきた者として、近年の「歴史修正主義者」たちの言説に苛立ちを覚えています。それとは別に、過去の歴史上の蛮行について、いつまでも謝罪をし続けることの是非が気になっていました。
 秀吉の朝鮮出兵については、400年以上もたった今でも謝罪を続けるべきなのか、元寇について700年以上たった今も謝罪を求める権利があるのか、ということです。もし、さすがにそんな昔のことについては…、と言うのであれば、それでは何年たてば「時効」になるのかということが知りたくなってきます。
 また、記事によると、英国の与党内では、『仮に賠償金を払うなら、国や納税者ではなく王室が払ってほしい』との声も上がっているそうです。謝罪の主体は、国なのか、政府なのか、国民一人一人なのか、あるいは王室や戦犯のような一部の責任者なのか、それも議論になりそうです。
 さらに、日露戦争では、日本にもロシアにも大きな被害が生じました。一応の戦勝国は日本ということになっていますが、被害感情は両国にあります。政府同士が結んだ講和条約とは別に、「謝罪」を求めること、求められることは正当なのでしょうか。
 シベリア抑留について、執念深く謝罪を求め続ける権利は我が国にあるのでしょうか。関東大震災時の朝鮮人や中国人虐殺についてはどうなのでしょうか。政府の施策としてではなく、国民の自主的な加害行為ですが。
 小中高の社会科の授業、歴史の授業では、教員の「信条」によって、リベラル派は我が国の加害を重視し、保守派は我が国の加害を軽く扱う傾向があることはご存知の通りです。しかし、それでよいのでしょうか。過去の蛮行と国民としての謝罪の在り方について、歴史や人権、国際政治や法の専門家が一堂に会し、一定の見解を示すべきなのではないでしょうか。非常に紛糾するとは思いますが。

 

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