ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

エリートと苦しむ人

2018-05-31 08:01:01 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「過大評価もあるけれど」5月26日
 専門編集委員青野由利氏が、『未来を担う「不」登校』という表題でコラムを書かれていました。その中で青野氏は、『新時代を生き抜く人材が「学校に行かない」子どもの中から育つ』というサイエンス作家竹内薫氏の考えを紹介なさっています。竹内氏は、全日制フリースクールを開校なさっており、新時代を生き抜く力は『「足並みそろえた」学習では身につきにくい』という考えの下、『子どもが「やりたい」と思う課題に親子で取り組む』という実践を積み重ねている方だそうです。
 今後は、『指揮者、宇宙飛行士、脳科学者、カポエイラ競技者、マリンバ奏者』などを呼び、『ネットを使った探究型学習やIT学習も用意』されているということです。このように書いてきましたが、実は、私にはよく分からない部分が多いというのが本音です。ただ、規格外の人材が必要で、そのためには従来の「学校」とは異なる教育システムが必要だという考えに賛成だということです。
 ここで、「今までこのブログでお前が主張してきたことと違うじゃないか」と思われる方がいるかもしれません。そうではないのです。たしかに私は、現在の我が国の義務教育段階、つまり小中学校の在り方を大きく変えることには賛成できないという立場です。それは、義務教育とは、平均的なレベルの子供を平均的なレベルの国民に育てるための、画一的なものであるべきだという考え方に基づくものです。そして、そうした意味で我が国の小中学校教育は、大きな成功を収めてきたと評価しているからでもあります。これは、私の独断ではなく、PISAの学力比較や、「大人の学力調査」の結果についても義務教育の充実が大きく寄与しているとの分析がなされていることから、ある程度の客観性をもっていると言うことが可能だと考えています。こうした現状を踏まえ、義務教育を「個性化」することには慎重であるということなのです。
 いくら、新しい時代がくるとは言っても、現実には、今年生まれた子供が成人する20年後に、全ての仕事がAIに取って代わられているとは思えません。私は、我が国の国民性といわれる勤勉性や協調性を発揮し、責任感をもってコツコツと働くという職が大きな部分を占めているはずだと考えています。小中学校を「個性化」し過ぎ、今もっている「良さ」を崩してしまって、その後には中途半端な改革の残滓だけが残っているというのでは、我が国の未来も子供たち一人一人の人生も惨憺たるものになってしまいます。
 ですから大衆のための義務教育は現状を維持し、変化が激しく多様性が求められる時代を牽引する「才能あふれる者」のは、それに相応しいエリート教育を施す場を設ければよい、というのが、竹内氏の考えに賛成するわけなのです。ようするに、現在の小中学校はそのままに、ごく一部の子供を対象にした、別メニューの教育機関(それを学校と呼ぶかは?)を創設するということです。
 最後に、『新時代を生き抜く人材が「学校に行かない」子どもの中から育つ』という指摘が正しいとしても、学校に以下に子供全てが新時代を生き抜く力をもつようになれるということではないことだけははっきりと指摘しておきたいと思います。私は様々な不登校の子供を見てきました。その姿は多様です。ただ怠惰なだけの子供や明確に非行傾向を示している子供、精神を病み苦しんでいる子供など、革新的カリキュラムとは異なる支援が必要な子供や家庭がたくさん存在するのも事実なのです。「学校に行かない子供」の中も足並みが揃っているわけではないことを肝に銘ずべきです。過大評価は、子供と保護者を苦しめるだけです。

 

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多様な担い手

2018-05-30 07:46:30 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「自衛隊」5月26日
 『テロ、サイバー攻撃への備えができていない』という見出しの記事が掲載されました。ジャーナリスト森健氏と元陸上幕僚長冨沢暉氏との対談です。その中で冨沢氏は、『テロ、ゲリラ、サイバーへの備えを固めなければならない』と述べ、『「何でも自衛隊に」という声は多いんですよ。しかし自衛隊は「打ち出の小づち」ではありません。サイバーにしてもテロにしても、現状では極めて不十分。人の育成と情報の蓄積が必要です。訓練しないことはできません。本腰を入れるには、相当の人もお金もかかります。政治の責任です』と語っていらっしゃいます。
 防衛のことは分かりませんが、確かに自衛隊に「仕事」は拡大しているように思います。災害出動、外国でのPKO活動、東アジア情勢の緊迫化に伴うスクランブル、海上保安庁との連携等々、最近の記事を見るだけでも、感じることができます。「打ち出の小づち」視されているという指摘は間違いではないでしょう。
 こうした状況は、学校と似ています。戦後のカリキュラムの考え方と相容れない「総合的な学習の時間」創設、小学校英語の教科化、道徳教科化、租税教育・金融教育等の新しい教育課題の導入、プログラミング教育などの時代の変化に応じた新内容等々、学校の「仕事」も拡大する一方です。直接的な教育活動だけでなく、登下校中に子供が殺されるという事件が起きれば通学路の安全対策をと言われ、家庭における児童虐待も学校が気付き対応すべきと言われます。
 ではこれからの学校教育はどうなっていくべきかと言えば、冨沢氏の言葉を借りれば、人=教員の育成が必要で、教員の数と教育予算も増やさなければならないことになります。しかし、「打ち出の小づち」視という状況は似ていても、国防と教育には一つ大きな違いがあります。狭義の国防は自衛隊にしか担うことができません。それに対し教育は、学校だけでなく家庭や地域、NPO団体など多様な担い手を想定することができます。
 つまり、学校を肥大化させていくのか、他の教育機能を生かしていくのかという2つの選択肢があるということです。この点について議論を深め、方向性を定めることこそが、教育における「政治の責任」ということになるように考えます。多様性が時代のキーワードであるならば、後者こそ進むべき道なのだと思うのですが。

 

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私もそうでした

2018-05-29 07:43:54 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「俺は偉いんだ」5月24日
 『頭下げぬ「謝罪会見」』という見出しの記事が掲載されました。部下の女性に対するセクハラ問題で辞職する東京都狛江市の高橋市長の謝罪会見の様子を報じる記事です。記事によると、高橋氏は『セクハラをした認識はない』『私の認識ではセクハラと認識できるものはなかった』『私の認識とズレはあるが、受けた人がセクハラと言っている』などと話し、『頭を下げる場面が一度もない「謝罪会見」だった』ということです。
 高橋氏のこうした態度について、性暴力の根絶を目指すNPO法人の代表中野宏美氏は、『セクハラを認めると自分の非を認めることになるので、社会的地位の高い人ほど認めたがらない』と述べていらっしゃいます。その通りだと思います。
 「稔るほど頭を垂れる稲穂かな」という俚諺があります。わたしはこれには2通りの解釈が可能だと思っています。肩書きがある人が本当に稔った人=優れた人とは限らないという解釈と、実際には偉い人ほど頭を下げないのでこうあってほしいという理想を述べたものという解釈です。高橋氏は、都庁の幹部を務め市長としても2回当選した人物で、社会的基準で言えば、「偉い人」ですが、中身は三流だったということなのでしょう。
 話は変わりますが、教員は高橋氏を反面教師にしなければなりません。教員が社会的に「偉い人」かどうかは別にして、子供に対しては、大きな権力をもつ立場にあることは事実です。人間関係だけに注目してみるならば、学級や部活という集団の中で、教員は「偉い人」なのです。ですから、中野氏の指摘に従うならば、子供に対して頭を下げることが苦手という人が少なくありません。
 何か間違いをし子供から指摘されても、子供に謝ることはせず、無視したり、詭弁を弄じたり、権力を使って威圧したりという対応を取る教員は少なくありません。子供に頭を下げたりすれば、教員の権威が台無しになると考えてしまうのです。実際、「子供に謝罪なんかしていたら教員の威厳を保てなくなる。それは自分だけの問題ではなく、学校の教員全体に悪影響を与えるら、頭を下げたりはしない」と自分の行為を正当化する教員もいるのです。実は私もそんな教員の一人でした。
 しかし、高橋氏に対するメディアや市民の反応を見れば、こうした態度こそ、信頼を失い、反感を買うということは明らかです。教員と子供の関係においても同じです。ミスをしたら「間違えてしまいました。今度から気をつけるね」と気負いなく言えることが、良い教員への第一歩です。強がりやごまかしは、未熟さや自信のなさの表れであり、素直に頭を下げることができるのは、自信と余裕の表れなのですから。

 

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多様性と偏見

2018-05-28 07:58:53 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「多様性と偏見」5月23日
 放送作家たむらようこ氏が、『多様な表現生む多様な働き方』という表題でコラムを書かれていました。その中でたむら氏は、『驚いたのは在京テレビ局で働く人の男女比です。数だけ見ると女性は全体で21.5%いますが、報道、製作、情報部門の最高責任者は全局通じて0%!』とテレビ局の多様性のなさを指摘なさっています。
 そこまではよいのです。しかし、それに続く指摘には首を傾げてしまいました。『テレビマンは視聴者の多数を占める高齢女性の視聴率を重視する傾向にありますが、この男女比でターゲット層のかゆいところに手が届く番組を作れると考えているとしたら組織的な思い上がり』と書かれているのです。
 たむら氏は、女性でなければ女性視聴者のニーズに応えることは難しいとおっしゃっているのです。私はここで2つのことを考えました。まず、女性活躍ということの意味です。先日、政党に候補者の男女比を均等にするよう求める法律が成立しました。不十分ですが方向性は評価できます。しかしその趣旨は、女性の意見を代表し女性のために活動する政治家を増やすということではないはずです。国会議員は全国民の代表なのですから、男女関係なく国民(男性も女性も)のために活動してくれなくては困ります。ですからテレビ局も、女性視聴者獲得のために女性管理職を増やすのではなく、番組における多様性確保のために女性登用を進めるのでなければなりません。
 学校においても、女性管理職の少なさが長年の課題になってきました。私も教委勤務時代には、女性の適齢者に積極的に管理職試験の受験を勧めてきました。それは、女性教員んためでも女子児童生徒のためでもありません。学校という組織の多様性と活性化を通して、全ての児童生徒に充実した教育を提供するためでした。女性登用の本筋を見誤ってはいけないと思います。
 次に考えたのは、女性だから女性の~という考え方は間違っているのではないか、ということです。私には子供がいません。私も連れ合いも言われたことはないのですが、仲間の教員にはいました。「先生は子供がいないから、子供をもつ親の気持ちが分からないんですよ」と。こうした言葉は、教員と保護者の間で何らかのトラブルが発生したときに使われるケースがほとんどです。普段は、心の中で思っていても面と向かって言うのは失礼だという常識が働いて抑制されているものが、感情が激してくると口をついて出てしまうのです。ですから、多くの人の潜在意識になるのでしょう。
 しかしこうした考え方を推し進めていくと、子供がいない教員はダメ、小さい子しかいない高校教員はダメ、男の教員は女の子の指導に向かないし女の教員は男の子の気持ちが分からない、障害のない教員に障害のある子供の寄り添うことはできないし、日本人の教員には外国人の子供は任せられない、ということになってしまいます。教員の適格者はいなくなってしまいますね。
 もちろん、男性教員と女性教員を1000人ずつ無作為に抽出して、それぞれ子供に対する理解度を点数化(実際に正確な点数化は難しいが)するような調査をすれば、52vs48という程度の差は見られるかもしれませんが、性別は個々の教員の男児や女児の指導における適性を図る指標とはなり得ないでしょう。女だから女の~、男だから男の~というのは、有害な偏見に過ぎないのです。
 そした、教員自身に対しても、「私は女だから男の子の気持ちが分からなくても仕方がない」「僕は男だから女の子の指導は女性の先生に任せるよ」というような甘えを生み、子供理解という教員にとって重要な能力を磨く努力を怠ることに言い訳を与えてしまうのです。
 教員もテレビマンも、性別によって異なる仕事をするわけでも、異なる役割を期待されているのではないはずです。男女を問わず、その分野のプロフェッショナルとして、全ての受益者の利益を最大化するために、もてる力量を発揮することだけが期待されているはずです。

 

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「両立」が間違い

2018-05-27 08:18:38 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「両立という間違い」5月23日
 連載企画『高校野球新世紀 第6部 制限される現場』で、『生徒の意欲と両立悩み』という表題の記事が掲載されました。『教員の負担軽減を目的に練習時間を「平日2時間、土日曜日3時間程度」などと定めた「運動部活動の在り方に関する総合的なガイドライン」』の実施に悩む公立校の現状を報じる記事です。
 その中に、『私立校は独自に方針を決められるため、ガイドラインの基準通り運用する公立校は私立校との練習量や実力差をさらに広げられる可能性が高い。佐藤監督は「今までより練習量が減れば、強豪私立に太刀打ちできない」と懸念する。公立校の選手の意欲を失うことにもなりかねない』という記述がありました。これが見出しになっている「意欲と両立悩み」ということなのでしょう。
 ここでいう両立とは、部活への生徒の意欲と何との両立なのでしょうか。記事では、具体的な記述は皆無ですが、常識的に考えて授業の充実とか学力向上というようなことだと考えることができます。そうだとすれば、両立に悩むという発想自体が間違いだと思います。学校においては、多くの教育活動が行われています。その中で最も大切なことは何かと問われれば、授業であり、学習指導要領に定められている学力の保証でしょう。ですから、授業の充実と部活の意欲は両立を目指すものではなく、授業を充実させ学力を保証することが最優先で、その後何番目かは分かりませんが、部活への意欲に応えるという課題が存在するのです。
 学校週5日制が導入されたとき、公立校は5日制なのに私立校は土曜日も授業をする6日制だということが話題になりました。しかし、私立校に太刀打ちできないから公立校の土曜日に授業を、とはなりませんでした。そもそも私立校と公立校を同一線上で競い合うライバルと考えること自体が間違いなのです。それぞれに存在意義があり、独自の歴史と校風、経営方針がある私立校の場合、野球で甲子園に出場することを最優先する学校があってもよいのですが、公立校は期待される役割が違うのです。
 公立校における運動部活動は、全国大会出場を目指すのではなく、同好の生徒が集まり、運動の苦手な生徒も適度に体を動かしながら人間関係を深め、学校生活を豊かにするためのものです。その中で技術の向上という楽しみも味わうことができれば、なお良いというだけで、技術の向上や試合の勝利が第一目的ではありません。公立校は、そのことを入学前にきちんと周知すればよいのです。どうしても甲子園で野球をしたいという子供は、私立の野球名門校への進学を目指してください、と言えばよいだけのことです。
 運動部活動の顧問を務める教員は、それぞれ授業を受け持つ教員です。部活の指導による人体的・精神的・時間的負担による授業の質的低下の被害は、部活に所属しない全ての生徒に及ぶのですから、そうした面からも部活と授業は同価値で両立を目指すものではないのは明らかです。
 AもBも、という発想が、様々な教育課題を学校が背負い込み教員を疲弊させてきた元凶です。部活も授業もではなく、授業を残余の力で部活を、という発想で学校改革を進めるべきです。

 

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怖くて訊けない

2018-05-26 07:58:23 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「怖くて言えない」5月22日
 精神科医香山リカ氏が、『思ったことを正直に』という表題でコラムを書かれていました。その中で香山氏は、『学生たちと話していると、他人にとても気をつかっていることが分かる』と、最近の若者の気づかいややさしさを認めつつ、『学生たちは私の授業に対しても、いいたいことを言えずにいるのではないかと心配になる』と書かれていました。
 そして、香山氏は実際に、『もっと違う話を聴きたいですか』『難しすぎますか。それとも簡単すぎますか』『おかしいな、と思ったら何でも言ってね』など、学生に問いかけているそうです。概ね高評価だということですが、それでも香山氏は、『「せっかく先生が一生懸命、話してくれているのだから」と口に出せずにいるのではないだろうか』という疑いを捨てきれないでいるのだそうです。
 私は、教員という職にある者は、香山氏のように自分の授業について、常にこれでよいのかという疑念を持ち続けるべきだと考えます。自分の授業は高レベル、自分は授業が上手い、と思い込むようになってしまっては、仮にそれが事実であっても、そう思った時点から授業力は下降線を辿っていくことは必至だからです。
 今日の授業は上手くいくかな、という不安と戦いながら、不安解消のためにできる限りの準備をして臨む、というのが望ましい在り方です。もちろん、あくまでも心構えを言っているのであり、多くの授業がルーティンワーク化していくのが現実ですが、それでもときどきふっと不安になるという状態でなければ、傲りの芽が育ちつつあると言えるでしょう。
 そうした意味で、香山氏の心構えは教員の鑑です。ただ、教員が自分の授業を見つめ直す手段として、子供に訊くというのはよい方法ではありません。子供は(無邪気といわれる小学生でも)教員に気を遣うものだからです。かなりひどい授業をしても、不満は言いません。もし、面と向かって不満や苦情が出るようになれば、それは既にその教員の授業が重症で末期的な状態にあるということを示しています。それでは改善の手だてが手遅れになってしまう可能性があります。
 ですから、教員は授業の中に常に子供の思いや感じ方を吸い上げる仕組みを組み込んでおくことが必要なのです。それは直接的に授業の巧拙を問うものではなく、感想カード、自己評価票、相互評価票、新たな疑問カードなど、子供の思考や関心が表れるものが好ましいと思います。記述量が減ったり、毎回同じような記述が繰り返されたり、字が乱暴になったり、といった変化から授業への評価を読みとることができるのです。
 特に若い教員の皆さんは、こうしたフィードバックシステム構築に知恵を絞るべきです。ところで、私は怖くて「先生の授業面白い?」など訊けませんでした。はっきり否定されたときのショックから立ち直れそうもないからです。香山氏のような勇気のある教員はたくさんいるのでしょうか。信じられない思いですが。

 

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芸とICT

2018-05-25 08:08:52 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「これは違う」5月21日
 『特別学級指導 ICTで支援』という見出しの記事が掲載されました。その中に『授業の指導方法について遠隔サポートする実証実験』についての記述がありました。『360度撮影が可能な「全天球カメラ」やマイクを使用。坂井教授がパソコンに送られてきた動画を視聴し、自身の研究室と苗羽小を結んだテレビ電話会議システムで教員と対面しながら、子供への接し方の改善点などを伝える仕組み』だそうです。
 面白い試みです。『簡単に専門家の指導が受けられるのは、経験の浅い教員にとっては大きな力になる』『遠隔支援で教員の指導の可能性が広がる』『短期間で複数回見てもらうことができ、すぐに授業の改善につなげられた』など、学校側の評価も高いようです。
 しかし、その後に紹介されているアドバイスの例は、『片づけが苦手な児童のために教室内の机の間隔を広くした方がいい』でした。これが、授業の指導方法についてのアドバイス、子供への接し方の改善点なのでしょうか。何だかがっかりしてしまいました。もちろん、もっと違う助言もあったのかもしれませんが、限られたスペースの記事で取り上げたということは、これが最も代表的なアドバイスの例だと考えるのが自然です。
 なぜがっかりしたかというと、こんなことは何も「全天球カメラ」などの機器を用いなくても、1枚の写真で助言可能な内容だということが理由の一つです。音声付き(推測ですが)動画である必要性がないのです。つまり、ICTなどを最もらしく持ち出す必要はないということです。
 また、これは広義には子供への接し方に含まれるかもしれませんが、むしろ学習環境設定に属することで、子供との言葉や表情を含めたやり取りという本来の意味での接し方とは異なります。そして、この本来の意味での接し方こそが、教員の指導力の中核をなす重要な要素なのです。
 私は指導主事として何百という授業を見て、教員の評価・指導・助言にあたってきました。その経験から言えることは、授業を大空を舞う鳥の視点で見ることと地を這う虫の視点で見ることを、臨機応変に切り替えることができなければ、的確なアドバイスはできないということです。つまり、あるときは一人の子供に集中し、あるときは学級全体の雰囲気や様子を感じ取り、2つの観察結果を関連づけて解釈し、さらにそうした反応や雰囲気と教員の言動の因果関係を瞬時に判断するという職人芸が求められるのです。
 私は拙著「教師誕生」で、教員の仕事は職人芸と書きましたが、その職人である教員を指導する者には、より高度な職人芸が必要なのです。それには、「全天球カメラ」では不十分なのです。
 「全天球カメラ」などのICTを活用した遠隔支援が無効だと言っているのではありません。それなりの意味も効果もあると考えます。ただ、それだけでは限界があるということを理解すべきだと言いたいのです。若い教員にも遠隔支援を実施しているから、教員とその指導者がマンツーマンで指導する機会は不要ということになってはいけないということだけは忘れてほしくありません。

 

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非難される指導者、支持される指導者

2018-05-24 07:53:10 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「非難される指導者、支持される指導者」5月20日
 『パワハラで指導陣解任 アイスホッケー 北海道の女子クラブ』という見出しの記事が掲載されていました。記事によると、北海道の女子アイスホッケークラブで、『男性コーチによるパワーハラスメントがあったとして、このコーチと監督ら5人の指導者全員が解雇された』ということです。パワハラの内容は『指示通りに動けなかった高校生選手3人に対し「ユニホームを脱いで出て行け」などと厳しく叱責した』というものだそうです。
 よくある話です。ただ、今回の騒動で注目すべきなのは、解雇後の状況です。記事によると、『指導陣の解任後、選手22人のうち10人が退部した』『退部した選手の中には、解任に納得できず辞めた選手もいた』ということです。つまり、コーチや監督を支持し、解任という処分に納得できず、コーチらを処分したクラブ側への不信感をもち、それが原因で退部を選択する選手がいたということです。
 コーチの言動はパワハラです。しかし、パワハラをするような指導者であっても、その人柄や実績、指導力などを評価し、慕い支持する選手がいるというのが現実の社会なのです。学校でも同じです。体罰をする教員を支持する保護者や子供がいるというのは珍しいことではありません。「名門部活」であれば、PTA会長や地域の実力者、同窓会やOB会などが、パワハラ体罰教員を擁護することさえ珍しくないのです。
 それどころか、被害を訴えた子供や保護者に対して、「そんな些細なことで先生を訴えるなんて」「あんたのせいで伝統ある部活が潰れたらどう責任を取るんだ」「みんな顧問の先生を慕っている。あなたの子だけが変わっているんだ。あんたの子を辞めさせろ。転校してしまえ」というように、被害者側が集中攻撃され、居づらくなって転校していく、引っ越してしまうという例さえあるのです。
 どんな問題教員にも、支持者はいます。他者に対する評価は、好き嫌いの感情に左右されるもので、相性や価値観などによって評価が異なるのは自然なことです。教委など処分をする側にとって大切なのは、実績や能力があり、多くの保護者や子供によって支持されている教員であっても、処分に際しては、事実に基づき客観的かつ透明性のある基準によって行うことです。「世論」に迎合してはいけないのです。基準の中には、勤務実績や保護者等の意見に応じて情状酌量する旨の規定が含まれているのですから、それ以上の配慮は有害でしかありません。
 教員の処分は、厳しくても温情的でも非難をされます。非難を恐れず説明することが出来るだけの根拠をもつこと、それが処分権者に求められているのです。そして、その覚悟こそ、広い意味で教育行政が信頼される第一の条件なのです。

 

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クビも辞任も無責任

2018-05-23 07:59:13 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「日本式」5月20日
 『日大監督辞意 「これが区切りではない」』という見出しの記事が掲載されました。『アメリカンフットボールの名門、日本大フェニックスの内田正人監督(62)が19日に辞意を表明した』ことを報じる記事です。記事によると『悪質タックルを呼んだ指示の有無は明言していない』とのことです。
 こうした対応について、早稲田大教授友添秀則氏は、『何も説明せずに全て自分が悪かったというのは日本的な責任の取り方で残念だ』と述べていらっしゃいます。私は、教委勤務時代に教員の処分に関わる職務を担当していたことがあります。その経験からして、友添氏の指摘には共感できます。それと同時に、日大側の対応の拙さに驚かされます。
 教員が不祥事を起こしたとき、事実関係を明らかにしないまま、辞職するということはあり得ません。教委側がそれを認めないからです。教員の処分には、本人を罰するという意味以外に、再発防止に生かす、被害者やその保護者に対する説明責任を果たす、処分の透明性・公平性を明らかにし教育行政への信頼を確保する、などの意味があります。いずれも、事実を明らかにすることなしには成立しないのです。そして、事実を明らかにするには、きちんとした調査が必要であり、きちんとした調査を行うためには、「処分される者」に調査への協力を命ずる必要があります。警察など強制捜査権をもつ組織と違い(大学も同じ)教委には、自分の管轄外にある個人に協力を強制する力はありません。だからこそ、「処分される者」を辞職させず、管轄下に置き、調査を行うのです。
 もちろん、いくら取り調べをしても、当事者が何も語ろうとしないケースもあります。そのように、当事者にとって不利だと思われる疑問に対して何ら語らない場合は罪状を認めていると解釈し、その旨を告げ、それでもなおかつ話す意思がないことが確認できれば事実認定をするのです。
 今回の日大の対応について、被害を受けた関学の選手の関係者は納得していないようですし、アメフト界全体の体質を問われるという危機感も高まっているということです。それは前述した、再発防止、説明責任、信頼の維持いずれの視点から見ても当然なことです。
 教委在職時、体罰やわいせつ行為をした教員について聞き取り調査をしている最中に、「早くクビにしろ」「教員をかばっているのか」「隠蔽に時間をかけているんだろう」などという非難に曝されることがじばしばありました。そうではないのです。さっさとクビにするというのは、実は最も無責任な対応なのです。

 

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差別と紙一重

2018-05-22 07:57:57 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「別の危険性」5月17日
 ライター髙崎順子氏が『加害者側を見据えるセクハラ記事を』という表題でコラムを書かれていました。その中で髙崎氏は、『加害者に共通する社会的特性はあるのか、加害者が発生しやすい組織に特徴はあるのか。このような加害構造の検証がなされないので、加害の芽を早期に摘み取り、抑制する方策の議論もされない』と書かれていました。
 おっしゃっていることはよく分かります。少なくとも、露出が多い服装をしているとセクハラ被害に遭いやすい、というような被害者有責論に結びつきやすい「被害者分析」よりは有益だと思います。しかし、加害者に共通の社会的特性があるという考え方には、別の危険性を感じてしまうのです。それは、あの人ならばセクハラをしただろうという思い込みから冤罪を生んでしまう危険性、ただ該当する社会的特性を有するというだけで危険人物視される人権侵害を生む危険性です。社会的特性とはあくまでもある集団の構成員の多くに見られるというだけで、その集団内にも全く異なる性格をもつ者もいるにもかかわらず、にです。
 分かりやすくいえば、(男尊女卑の伝統があるとされる)九州の出身者だから、(性別役割意識が強いとされる)年配者だから、セクハラをしそうだというのが、社会的特性による分析なのです。鹿児島県出身58歳男性などは、要注意人物とされてしまうわけです。
 学校におけるいじめ問題についても、髙崎氏のような主張がありました。しかし、いじめ問題が社会的課題となって以来30年以上が経ちますが、そうした研究が深まることはありませんでした。もしかしたら、低所得家庭の子供が、学習遅進児が、単親家庭の子供が、外国籍児童生徒が、部活の非レギュラーが等々、子供を所属する集団に着目して分析すれば、ある種の傾向性が明らかになるかもしれません。しかし、教員の間には、そうしたアプローチは教育現場には相応しくないという思いが強く、研究が進まなかったのです。
 私はそれで良かったと考えています。ただし、髙崎氏が主張する「発生しやすい組織」という視点は、いじめ問題において研究していく必要性はあると考えます。いじめの主な舞台となる学級や部活をひとつの組織と見、いじめが起きやすい組織風土を明らかにしていくことは、人権侵害や冤罪の危険性が少なく、いじめ予防に役立つと考えるからです。
 また、社会的特性という視点について、いじめや体罰と教員の関係として見ていくことには反対しません。実際、体罰については、ある教科担当、ある校内分掌担当に多かったという実感があります。深く研究する価値はあるはずです。

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