ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

全国に○○会を

2021-08-31 08:05:05 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「懐かしい昔」8月24日
 『免許更新 教員負担重く』という見出しの記事が掲載されました。教員免許更新制が廃止されることを受け、その背景や問題点、課題等を説明する記事です。その中の『「世界一多忙」改善必須』という小見出しの章の中に次のような記述がありました。
 『1949年に施行された同法(教育公務員特例法)は、教員を高度な専門職と位置づけ、授業に支障がない限り、勤務時間中であっても校外で自己研さんを積むことを認めた。ところが(略)旧文部省は職場を離れる際の要件を次第に厳しくしたため、上司の職務命令で受ける研修以外は休暇を取らなければいけなくなるなど、教員の裁量が狭められてきた』というものです。
 教育行政学を専門となさっている埼玉大准教授高橋哲氏は、こうした現状について、『教育や子供に関する常識は日進月歩であり、教員は普段から学び続ける必要がある。そのためには、職務の一環として教員同士の勉強会に参加したり、大学院の授業を受けたりする権利と時間が保障されるべきだ』と、今後進むべき方向性を示されています。
 全く同感です。私はこのブログでも何回も触れてきましたが、教員としての自分を形作ってくれたのは、社会科勉強会という自主的研修組織だったと考えています。リーダーであった目賀田八郎先生に惹かれて集まった若手教員が主体として始まった勉強会は、毎月の例会、不定期の都内地域巡検、夏季休業中の宿泊巡検、年数回の授業研究、年度末の研究成果発表会、研究紀要の発行などの活動を行ってきました。目賀田先生以外は教員経験10年未満の若手だけで始まった会は、30年以上も続き、多くの会員が、都の教育研究員、開発委員、教員研究生、大学院派遣などを経験し、校長や指導室長、教育長などに育ち、また後輩を指導するようになりました。私が最年少の大学4年生で入会したときには、10人程度だった会員は、最盛期には、学習院や成蹊、成城など市立小学校や国立大附属小の教育まで広がって40人を超す会員を抱えるまで発展しました。
 活動は授業研究以外は、勤務時間外、費用は全て会員の自弁で、これだけの研究実践の会が継続していたのです。出来の悪い会員であった私も、この会で学んだことを生かして指導主事になり、都の教育研究員を指導するようになりました。育てられた者が、今度は後輩を育てていく、そんな循環ができていたのです。
 今、文科省は、新しい学びの定着を目指しています。それは自ら問題を発見し自ら学んで解決する能力を身につけさせることです。この考え方は、人は外部から強制されて学ぶよりも、自らの意思に基づいて学ぼうとするときに、より深く学ぶことができるという、人間の本性への理解に基づいています。教員もまた人間です。専門職として認められ、自らの問題意識に基づいて、自らに合った学び方で学ぶことができるとき、多くを学び身につけることができるのです。
 教員免許更新制が廃止されても、教員が学ばなくてよいということではありません。教員のよりよい学びを実現し、そのことによって学校教育を充実させるために、全国各地に自主的な○○勉強会ができることを教育行政は支援すべきだと考えます。

 

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「響く言葉」の教育

2021-08-30 07:55:57 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「学校で教えるの?」8月22日
 日本総合研究所主席研究員藻谷浩介氏が、『コロナと東京五輪 響かない言葉 首相失格』という表題でコラムを書かれていました。その中で藻谷氏は、『原稿の棒読みを批判された首相は、正確を期すためだとしたが、必要なのは聞き手の腹に落とすことだ。愛の告白に、正確さを期して原稿を棒読みする者はいない』と書かれていました。
 全くその通りだと、藻谷氏の巧みな例えに感心しました。菅首相の伝える能力の低さはその通りですが、では自分はと考えてみると、それほど自信があるわけではありません。42年前のつれあいへの告白も、平凡な「2人で幸せになろう」でしたし。
 私レベルの人は案外多いように思います。そこまで考えて、我が国では、聞き手の腹に落とす話し方というものを教わる場はあるのかとの思いに至りました。学校に、そんな場はあるのかということでもあります。
 国語科では、話すという活動があり、様々に工夫された授業が行われています。しかしその多くが、話す前に構想を練る→音声原稿を作成し推敲する→原稿を基に話し方を練習するというようなステップを踏むという形で行われています。私もそうでした。話し言葉=言語表現として不正確で未完成という意識があり、きちんと文章として推敲されたものが表現として上というような感覚なのです。
 この延長線上にある「聞き手の腹に落とす」話し方とは、何回の推敲を重ね磨きがかけられた文章を暗記し、口調や声の抑揚、間の取り方、聴衆への視線の向け方や表情などのテクニックを駆使して訴える、そう舞台で名優が演じるかのような伝達法になっていってしまいます。しかし、藻谷氏は、菅首相に渡辺謙や大竹しのぶのようになれ、と言っているのではないはずです。
 私は菅首相の早期退陣を願う「反菅」に近い考えをもっていますが、この響かない言葉問題においては、菅首相一人の資質の問題というだけではなく、我が国の学校教育における「響く言葉の発し方」教育の不足という側面も無視できないように思います。結局は人間性の問題という安易な結論に逃げ込まず、「響く言葉、腹に落とす話」教育についての具体的な実践を深めていく必要があるように考えます。

 

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仏教徒は極楽へ

2021-08-29 08:23:29 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「死ねばそれまで」8月22日
 放送タレント松尾貴史氏が、『つかわない「ご冥福をお祈りします」』という表題でコラムを書かれていました。その中で松尾氏は、『そもそも私は死後の世界を信じていない(略)それを信念として持っているので、そのような私が「ご冥福を」という言葉で誰かを慰めようにも、うそ臭くなってしまう』と書かれていました。
 そんなことどうでもいいじゃないかという人がいるかもしれませんが、私にはよく分かります。亡くなった人に対し、「天国で安らかに~」とか「天国で○○さんたちと酒を酌み交わしていると思います」などという弔辞を耳にすると居心地が悪くなるのです。私の場合、仏式で葬儀をしているのに天国はないだろう(極楽だろう)、キリスト教徒じゃあるまいし、という違和感なのですが、とにかく、決まり文句のようにでてくる天国という言葉には馴染めません。
 あくまでも個人の感想です、ということでどうでもよい話なのかもしれませんが、教員の場合、そうも言っていられないケースがあります。教え子が亡くなったり、その保護者が亡くなったりしたとき、多くの場合当然のように死後の世界を前提にした慰めの言葉が述べられます。小学校低学年の子供が幼くして亡くなった級友に向けて「○○ちゃん、天国でも~」などといっているとき、違和感を表明することなど、人間として許されないと思う反面、でも信教の自由があるはずとも考えてしまうのです。
 こんなとき、教員は我慢しましょうと思います。では、子供同士や保護者に対してはどうなのでしょうか。「みんなで○○ちゃんが、天国でも好きな絵を描いて楽しく過ごせるようにお祈りしましょう」などと口にしてよいものなのでしょうか。それって、死後の世界には天国と地獄があり、良いことをした人は天国へ行くというある宗教の教えをなぞっていることにならないのでしょうか。
 小学校ではそんなことはないでしょうが、中高校生になって、生徒の一人から「私は死後の世界を認めていないので、天国云々ということは口にしたくありません」と言われたら、君だけは○○さんのご冥福を祈らなくてもいいですよ、と言うのが望ましいのでしょうか。今の日本では、そんな非情なことを口にする子供はいじめの対象にされそうですが、そのケアも欠かせません。でも、宗教について語ることが極端に少ない我が国の学校では、きちんと説明、説得できない教員が少なくないと思います。
  死者への敬意、遺族の悲しみへの共感を培うことは、人として必要な情操教育の一環でもあります。そのことと宗教の問題は、あまり学校現場で考えられてこなかったように思います。

 

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意趣返しのスキを与えた

2021-08-28 08:34:44 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「綸言汗のごとし」8月20日
 『大阪市長を批判校長処分』という見出しの記事が掲載されました。『大阪市立小中学校が4~5月の緊急事態宣言下に実施したオンライン学習を巡り、「学校現場が混乱した」と指摘した提言が地方公務員法が禁じる信用失墜行為に当たるとして、市教育委員会は20日、市立木川南小の久保敬校長を文書訓告にした』ことを報じる記事です。
 妥当な処分だと考えます。文書訓告は行政上の処分である戒告や減給よりも軽い処分で、久保校長は、実質的に何の不利益も被りません。学校現場では、文書訓告程度の処分は珍しいことでもありません。そんな処分がなぜ全国紙で大きな記事になっているのでしょうか。
 記事は、5月、松井市長が『方向性が合わないなら組織を去るべきだ』と批判していたことに触れています。当時、実際に混乱があり、学校の責任者である校長の異議申し立てについて、もっともだとする声が多く、異論を排除する松井市長の姿勢に、独裁的という趣旨の批判があったのです。ですから、今回の処分も、松井市長が当時のことを根にもって、何とか処分しようと地方公務員法を無理矢理拡大解釈して処分をしたのではないか、という意味合いで記事化されたと考えるべきでしょう。
 私も、校長の異議申し立てに組織を去れ=退職をちらつかせた松井市長のやり方は問題だと思います。しかし、校長も悪いのです。単に市長への異議申し立てではなく、SNSで異議申し立てを拡散させた行為は、組織人として、しかも管理職として非難されても仕方がない行為です。異議申し立てはまず組織内で行い、それが無視されたときに初めて外部に公開してその是非を問うという手順を踏むべきでした。
 もし、松井市長が「方向性が合わないなら組織を去るべきだ」などといった恫喝めいた言葉を口にせず、「異論があるならば、きちんと組織内の手順に従って提言してほしかった」とでも言っていれば、今回の処分も意趣返しではないかなどという疑いの目でみられることもなかったでしょう。これでまた一つ、市長が自分の感情に任せて教育行政を歪めているのではという疑念を深めてしまいました。責任者の言葉は重いのです。一度口にしたことは永遠に残ってしまうのですから。残念です。
  まあ、わざと自分に逆らった奴は、絶対に許さないぞという執念深さをアピールして、職員を震え上がらせるのが目的ならば、別ですが。

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拒否は当然

2021-08-27 08:14:01 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「それは当然、わるいことではない」8月20日
 『10自治体 就学拒否 11都県公立小中外国籍の子 弁護士会調査』という見出しの記事が掲載されました。『外国籍などの子どもの公立小中学校への就学を拒否したことがある自治体が少なくとも10カ所あったことが関東弁護士連合会のアンケート調査で判明した』ことを報じる記事です。
 調査自体は意義のあることだと思いますし、外国籍の子供にも学びの機会を保障することは大切だと思います。ただ、一つだけ気になる部分がありました。就学拒否をした10自治体にその理由を尋ねた結果を報じる部分です。『学齢を超過している=5件▽在留資格がない=4件▽卒業間近で就学期間があまりにも短い=2件▽海外の中学校を卒業している=2件-などだった』とあります。
 この記事を読んだ人はこの記述をどう理解したでしょうか。記事では何のコメントもなく、単に事実として数値を並べているだけですが、記事全体が『教育を受ける権利は外国籍の児童・生徒にも保障されている意味を自治体は理解する必要がある』と、就学拒否を悪いこととしている流れから、拒否の理由も不当なものという印象を与えているように思います。そうなのでしょうか。
 私が気になったのは、「海外の中学校を卒業している」という理由についてです。私が勤務していた区には、中学校夜間学級、いわゆる夜間中学がありました。当時、多くの外国人、主にアジア系の方が、夜間中学への入学を希望して教委にやってきました。彼らの就学目的は、日本語の習得でした。民間の日本語学校に行けば高額な授業料を払う必要があるのに対し、効率の夜間中学は無料だったからです。
 しかし、義務教育である中学校には、義務教育を終えたものは入学できません。大学を卒業した後また別の大学で学ぶことは可能ですが、中学校ではそうはいかないのです。これは外国人差別などではなく、日本国籍の者に対しても同じです。
 夜間中学への入学を希望する外国籍の人たちはそのことを知っており、母国では中学校を中退してきたと「嘘」をつくのです。教委の窓口では、中学校を卒業していないか、担当者と外国籍の人との「攻防」が始まるのです。何人かの外国籍の人は、やり取りの中でボロを出し、入学を断られ、捨て台詞を吐いて帰っていきました。
 私は、義務教育を終えた者が、もう一度小学校や中学校には入学できないというきまりがある以上、「海外の中学校を卒業している」者の中学校への入学を拒否するのは当然であると思います。
 外国籍の若者が日本語を学ぶ場は必要ですが、それが中学校である必然性はありません。新たにふさわしい学びの場をつくることが最も望ましいのです。記事ではこのことについての解説がほしかったように思います。

 

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理念崩壊

2021-08-26 08:10:41 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「今は昔」8月19日
 『パラ学校観戦 全員反対 都教育委員出席の4人 コロナ懸念』という見出しの記事が掲載されました。『都教育委員会が18日の臨時会で、小中高生らが東京パラリンピックの会場で競技を見る「学校連携観戦プログラム」の実施について報告したところ、出席した教育委員4人全員が新型コロナウイルスの感染状況悪化を懸念し、反対した』ことについて報じる記事です。
 記事によると、『(教育委員の)反対意見に対し、都教委の担当者は「観戦の機会を奪うのではなく、可能であれば実施できるよう支援していくのが我々の取るべき立場と考える」と話し、議論は平行線だった』とのことです。今回の都教委事務局の決定については、様々な意見があるようです。私にも意見がありますが、そうしたことには触れません。
 私が、注目したのは、事務局の強気な態度です。今回の問題については、報告事項であり、教育委員の了解を得る必要がないというのは、その通りです。しかし、私が教委に勤務していたときであれば、こんな事態は考えられません。教育委員会の最終決定は5人の教育委員の合議によるものであり、出席者全員が反対しているのに、そのまま原案を押し通すことなど、教育委員会制度を否定する行為であり、決して行われない蛮行であると言わざるを得なかったのです。
 教育委員の間で意見が割れそうな問題、紛糾しそうな議題については、教委の幹部が事前に丁寧に説明する「根回し」をしましたし、「根回し」の結果どうしても賛成が得られないとなれば議題に挙げるのを延期することもありました。また、事前に予期していないのに対立や紛糾が勃発した場合は、会議を中断し、翌日以降に新たに会議を設けるということもありました。
 「根回し」というとあまり良くない印象をもつ人がいるかもしれませんが、それだけ教育委員を尊重していたということの表れでもあったのです。それだけに今回の事態には言いようのない感慨を抱きました。
 今回のような状況が起きた原因は、地方教育行政の権限が首長に移されたことが大きく影響していると思われます。知事や市長といった首長が支持してさえいれば、教育委員の見解や思惑など、気にする必要はなくなったのです。今回、教委の担当者は口にしてはいないでしょうが、「知事のご意向です」という切り札を心の中に秘めていたからこそ、教育委員の反対を無視することができたのでしょう。
 このことは、教委事務局の意向に首長がお墨付きを与えさせすれば、お飾りに過ぎない教育委員などを気にすることなく、何でもできるということを意味します。さらに、首長は、教委事務局を通じ自分の思うとおりに学校を、教員を動かすことができるということでもあります。
 まさか、小池知事が、何としてもパラリンピックを盛り上げたいという自身の都合で学校観戦にゴーサインを出したのだとは思いたくありませんが。そんなことであれば、戦後教育が理念として掲げた、教育の政治からの自立が崩壊してしまいます。

 

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1000対20万超

2021-08-25 08:27:24 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「近未来には?」8月19日
 『子育て AIが手助け ベビーテック元年』という見出しの記事が掲載されました。『人工知能などの最新技術を駆使して、子育ての手助けをする「ベビーテック」が注目を集めている』ことを報じる記事です。記事には具体例として、『マイクで拾った赤ちゃんの泣き声を分析し、泣いている理由を周囲の大人に教えてくれる』『紙おむつに取り付ける「おむつセンサー」は、おむつのぬれ具合を感知し、交換のタイミングをスマホアプリに伝えてくれる』などが紹介されていました。
 ベビーテックについては、『任せられる部分を任せれば、心の余裕につながり、もっと手をかけたい部分に時間をさけるようになる』という評価があるそうです。考えさせられました。私の第一印象は、こうした技術が広がれば、子育てが少しは楽になるのではないか、という肯定的なものでしたが、これが学校教育にも応用されるようになったらどうだろう、と考えると、穏やかな気持ちではいられなくなってしまいました。
 つまり、教室に複数のカメラとマイクが設置され、子供の表情や声を拾って分析し、「質問したいことがあるが、遠慮して言えないでいる」「分かったと言っているが本当は理解していない」などを教員に教えてくれるようになるという状況が現実になるということです。
 あるいは、教育相談室では、「今反省していると言っていますが、嘘です」「知らないと言っていますが何か隠しています」などと知らせてくれるようになり、「先生の目はごまかせても、AIはお見通しだぞ」と子供に迫るようになるわけです。
 確かに便利かもしれません。しかしそうなれば、現在、教員にとって必須の能力とされる子供理解力など不要のものになってしまいます。個人面談や家庭訪問も、AIに任せた方が正確であるということになるかもしれません。その先にあるものは教員不要論、教員非専門職論です。
 私もそうでしたが、教員は経験を重ね、数多くの子供と接する中で子供理解力を磨いていきます。しかし数多くと言っても、ベテランと言われるようになっても1000人程度の子供と接するにすぎません。しかし、ベビーテックの開発では、『20万人を超える赤ちゃんの声を分析させ』ているのです。学校用の技術が開発されるとすれば、やはり数十万の子供のデータを分析ということになるでしょう。太刀打ちできるのか、正直分かりません。
 数年前に行われた技術の革新によって将来はなくなる職という調査では、子供との人間関係の構築が必要な小学校教員はなくならないという結果でしたが、それも過去の話になってしまうのでしょうか。

 

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よい未来のためには

2021-08-24 08:18:52 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「間違った使い方」8月19日
 『旭川中2死亡「娘に何が 真実知りたい」』という見出しの記事が掲載されました。『(生徒の母親が)亡くなったのはいじめが背景にあった可能性があるとして、「何が起きたのか。真相を知りたい」と訴えている』ことについて報じる記事です。
 事件の詳細は既に複数回報じられているので、ここでは触れません。ただ、一つだけとても気になる記述がありました。『いじめがあったとは認められず、「加害者にも未来があるんです」などと学校の教頭から言われた』という記述です。
 私は、教委勤務中に心掛けていたことがあります。それは、管下の学校の教職員を守るということです。何か不祥事が起き、そのことがマスコミなどで報じられ、議会等でも問題になることがあります。そのときの基本スタンスは、事実を詳細に調べ何事も隠さず明らかにすること、不当な非難中傷やデマ、フェイクニュースから教職員を守ることの2点でした。
 教職員を守るというと、不祥事を隠蔽するのか、悪いことをした教員をかばうのか、と言われがちですが、それは違います。事実を明らかにし、その事実と法規に則って該当教員や管理責任のある校長等を罰することは、今後の学校教育に必要な外部からの信頼を得るためと内部の規律を正すために必要ですし、教職員を不当な攻撃から守ることは教委と教員の間に信頼関係を築くために欠かせないのです。そしてこれらは、学校教育を充実させ、子供たちによりよい教育を提供する土台作りであり、教委の役目だと考えてきました。
 つまり、事実を明らかにすることと教職員を守ることは両立しますし、両立させなければならないことなのです。同じことは子供についても言えます。いじめが疑われるとき、徹底した真相究明と不当な中傷から子供を守ることは、学校管理職の務めなのです。
 こうした視点から先の教頭の発言を見ると、加害生徒にも未来があるのですから、不当な中傷や事実と異なる噂の流布で、生徒が傷つくことがあってはいけません。それを防ごうということであれば、教頭の言葉は正しいものです。しかし、その言葉は被害者生徒の母親にいじめの隠蔽と受け取られています。私もこの記事を読んで、教頭の意図は生徒を守るというよりも、いじめをなかったことにし、事件を小さく見せようとするものだと感じました。
 それは、もう一つの「事実を徹底的に明らかにする」が不十分だからです。被害者に寄り添い、徹底的に事実を明らかにして公表し、遺族に謝罪し、自らの責任を認めて処分を受け、そして加害生徒に対しては自分たちのしたこと意味、重大さについてきちんと指導し反省させ謝罪させる、そこまでをきちんとしてから、加害者にも未来があるという言葉を口にし、許しを請うのです。
 こうしたプロセスをきちんとふむことこそ、加害生徒が今後の人生において人の痛みの分かる真人間として生きていくことを可能にするのですから、加害生徒によりよい未来を与える行為、教員として望ましい行為だということを忘れていたように思えます。

 

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家族の会話はリモートで

2021-08-23 07:50:00 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「我が子にはどうなってほしい?」8月18日
 論点欄は、『リモート1年何見えた』というテーマでした。3人の識者が語られていましたが、その中で、精神科医斎藤環氏の話に考えさせられました。斎藤氏は冒頭、『人と人がリアルに出会う出合うことは、「暴力」をはらむ』と述べ、『リモート化で人がこういった「臨場性の暴力」にさらされる場面が減っている』と指摘なさっています。
 その上で、『学校は強制的に人と会う空間で、そこに毎日身を置くことで培われるものもある。逆に人に会わずに済む「楽さ」に慣れると「臨場性の暴力」へのストレス耐性が減っていく。コロナ禍をきっかけに今後、不登校やひきこもりは増えていく』と予想されているのです。
 政府は、コロナがおさまった後も、大きな方向性としてはリモート授業を拡充していくという方針を打ち出しています。それは、コロナ後にも予想される次の感染症対策という意味でもありますが、教育予算の削減という側面と、教員の授業力への無理解及び不信からきています。
 リモート授業が主流になれば、現在のように学級の子供の数が決められていて、30人なら一人、60人なら二人というように教員を配置しなければならない体制から、A小学校の5年生100人は全員が同じ一人教員の授業を受けるというようなことが可能になり、大幅に人件費を削ることができます。過疎地域の子供の数8人という学校にも教員を配置していたのが、いくつかの過疎地域の学校を、リモート上では一つの学校にして教員配置をするということも、人件費削減に大きく寄与します。
 また、教員の授業力への不信というのは、一度教員に採用されれば、不祥事を起こさない限り馘首されることはないというぬるま湯につかった授業力のない教員が相当数いるという見方のことです。そうであれば、授業力のある教員がリモートで授業をすることで均一で質の高い授業が保証される方が望ましいという考え方に至り、ダメ教員を切り捨て力のある少数の教員を好待遇で抱え込む方がよい、という結論になるのです。
 コロナ禍が沈静化した後、必ず平時のリモート授業推進が話題になると思われます。そのとき、斎藤氏の指摘をどう考えるかが重要になります。私は、安易なリモート授業拡充論には反対の立場ですが、別のことも考えています。
 それは、20年後、30年後、今の子供たちが社会の中核を担うようになったとき、そもそも人と人がリアルに会うことが必要とされる社会のままなのか、ということです。企業と企業、組織と組織、そして組織内の人と人が全てリモートでつながることが一般的になり、リアルに会う際の耐性や技術など無用の長物になり果てているのではないか、という懸念です。もしそうであるのならば、リモート授業こそ、正しい道となるのですが。同じ家の中で、親子や兄弟がラインで意思を伝え合う、そんな現実を見れば、あながちあり得ないとも言えない気がします。

 

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予防は諦めて、が正解?

2021-08-22 08:23:00 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「予防と対処」8月17日
 『そこが聞きたい コロナ「札幌の教訓」』という見出しの記事が掲載されました。DMAT事務局次長近藤久禎氏へのインタビュー記事です。その中で近藤氏は、『関西地方では入院待機中に亡くなるケースも発生し、「陽性告知」すらできない状況があったと聞きます。そうしたことを前提に、札幌で目的を転換しました。現実問題として「感染拡大の防止」を目指していては病床もスタッフも足りない。そこで「すべての患者を医療管理下に置く」ことを目的にしました』と語っていらっしゃいました。
 つまり、感染防止という目的を、感染を前提とした対処を目的とするやり方に変えたということです。とても印象に残りました。もちろん、コロナ対応の話なのですが、私の頭には、いじめ問題が浮かんでいたのです。
 いじめ問題にも、防止と対処という2つの対策があります。この両者を混同している人もいますが、全くの別物です。いじめ防止といえば、学校においていじめが発生しないように、環境整備に努めることが中心になります。ストレスレスな学校生活を目指すために、分かる授業の推進、寛容の心を育む教育活動の充実、対人関係技術の修得を目指すカリキュラムの創造など、過剰な同調圧力の排除、自立した人間関係の構築についての取り組みが考えられます。
 一方、起きてしまったいじめへの対処としては、いじめ通報システムの整備、教育相談体制の充実、教員の対処スキルアップ研修の実施などが考えられます。学校では、これらすべてについて取り組みを進めてきています。当然と言えば当然の話です。しかし、これは同時に、どちらも中途半端な取り組みになっているとも言えます。学校というシステムを考えたとき、投入できる時間も人的資源も限界があります。戦略的に考えれば、防止か対処か決めて、そこに時間と労力を集中することによって効果を上げるというやり方が検討されてもいいのではないか、それがこの記事を読んだときに、私の頭に浮かんだことなのです。
 近藤氏の行った「目的変更」は、多くの道民に指示されましたし、効果も上げました。では、学校や教委が、「いじめ防止には限界があり、今後はいじめは必ず起きるという前提にたち、その後の対処に全力を注ぐ方針とする」と宣言したとしたら、保護者や子供たちの支持を得ることはできるのでしょうか。それは、学校は授業や対人関係などでストレスを感じる場所であると容認することでもあります。教育者としての良心の放棄であると責められることはないのでしょうか。
 あるいは、実際にいじめに遭い、学校側の対処によって救われた子供や保護者は、感謝するでしょうか。そもそもいじめのない学校にしてほしかったと言うのではないでしょうか。
 私はこのブログで、文科省や教委が掲げるいじめ防止対策が、実際にはいじめ対処に偏っており、いじめ少ない学校をつくるという視点に欠けていると非難してきました。しかし、それは理想論に過ぎず、いじめはあるという前提で対処に注力する方が現実的であるという反論に遭ってきました。難しい問題です。

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