「羨むべき」1月28日
連載企画『僧侶・陽人のユーチューバー巡礼』は、『「現代の道具を使わず、自然にあるものだけでゼロから文明を築く」をコンセプトに活動している2人組ユーチューバーがいる。縄さん(32)と文さん(31)を名乗る「週末縄文人」』との対話でした。
その中にショックを受けた記述がありました。『火も最初はまったくつかず、土器もたくさん割れて。でも、困った時に助けてもらっている井戸尻考古館(長野県富士見町)の小松孝志館長から「うらやましい」と言われたんです。「僕はもう答えを知っているから、失敗できない。でも失敗の中にこそ気づきがあるし、成功の喜びもある。失敗できることが宝だ」』という文氏の言葉です。
私は今までこのブログの中で、様々な「良い教員」の条件について語ってきました。その中で繰り返してきたのが、「子供の発言や行動から学ぶことができる教員」ということでした。
どういうことかというと、子供は無知だ、未熟だ、大人よりも劣っていると考えている教員は、子供の問いを発しない。形式的に問いを発しても、教えたことを覚えているかの確認だけ。だから子供が自分の予定と違うことを言うと「そんなことを聞いているんじゃない」と否定するか、「ちゃんと覚えておけ」と無視するだけでコミュニケーションが成り立たない。そんな教員はダメ教員。
そうではなく、子供の発言がたとえ質問の意図と食い違っていても、「そういう見方もあるのか」と面白がり、肯定的に受け入れることができるのが「良い教員」という趣旨でした。
しかし私の考える「良い教員」は、まだ子供を下に見ている感覚が残っていることに気づいたのです。子供の発想や気づき、違った視点について面白いとは感じるものの、そうした子供を「羨ましい」などと評価する感性や価値観はなかったからです。
一方、小松氏が言う「羨ましい」は、子供を自分にはない能力をもつ存在、失敗できる能力、失敗から学んだり失敗を乗り越えることで喜びを感じることができる能力をもつ存在として位置付けているのです。
昔、老人力という言葉がはやったことがあります。高齢になりできないことが増えるという一般的なイメージとは逆に、嫌なことを忘れてしまうことが出来たり、急いでできなくてもそのことを気にしないでいることが出来る能力があると捉える見方です。似たようなものに鈍感力という言葉もありました。
私はこれらの言葉の解釈を言葉遊びのようなものとして否定的に見ていましたが、そうではなかったのです。そして、子供がもつ「失敗力」、その価値を本当に理解できること、それこそが優れた教員に必須の条件だったと考えるようになったのです。
日々、さまざまなルーティンの組み合わせの中で過ごす大人=教員にとって、子供の失敗力は羨むべき能力です。今やっとそのことを実感をもって言えるようになりました。