ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

子供が羨ましい

2024-01-31 08:52:34 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「羨むべき」1月28日
 連載企画『僧侶・陽人のユーチューバー巡礼』は、『「現代の道具を使わず、自然にあるものだけでゼロから文明を築く」をコンセプトに活動している2人組ユーチューバーがいる。縄さん(32)と文さん(31)を名乗る「週末縄文人」』との対話でした。
 その中にショックを受けた記述がありました。『火も最初はまったくつかず、土器もたくさん割れて。でも、困った時に助けてもらっている井戸尻考古館(長野県富士見町)の小松孝志館長から「うらやましい」と言われたんです。「僕はもう答えを知っているから、失敗できない。でも失敗の中にこそ気づきがあるし、成功の喜びもある。失敗できることが宝だ」』という文氏の言葉です。
 私は今までこのブログの中で、様々な「良い教員」の条件について語ってきました。その中で繰り返してきたのが、「子供の発言や行動から学ぶことができる教員」ということでした。
 どういうことかというと、子供は無知だ、未熟だ、大人よりも劣っていると考えている教員は、子供の問いを発しない。形式的に問いを発しても、教えたことを覚えているかの確認だけ。だから子供が自分の予定と違うことを言うと「そんなことを聞いているんじゃない」と否定するか、「ちゃんと覚えておけ」と無視するだけでコミュニケーションが成り立たない。そんな教員はダメ教員。
 そうではなく、子供の発言がたとえ質問の意図と食い違っていても、「そういう見方もあるのか」と面白がり、肯定的に受け入れることができるのが「良い教員」という趣旨でした。
 しかし私の考える「良い教員」は、まだ子供を下に見ている感覚が残っていることに気づいたのです。子供の発想や気づき、違った視点について面白いとは感じるものの、そうした子供を「羨ましい」などと評価する感性や価値観はなかったからです。
 一方、小松氏が言う「羨ましい」は、子供を自分にはない能力をもつ存在、失敗できる能力、失敗から学んだり失敗を乗り越えることで喜びを感じることができる能力をもつ存在として位置付けているのです。
 昔、老人力という言葉がはやったことがあります。高齢になりできないことが増えるという一般的なイメージとは逆に、嫌なことを忘れてしまうことが出来たり、急いでできなくてもそのことを気にしないでいることが出来る能力があると捉える見方です。似たようなものに鈍感力という言葉もありました。
 私はこれらの言葉の解釈を言葉遊びのようなものとして否定的に見ていましたが、そうではなかったのです。そして、子供がもつ「失敗力」、その価値を本当に理解できること、それこそが優れた教員に必須の条件だったと考えるようになったのです。
 日々、さまざまなルーティンの組み合わせの中で過ごす大人=教員にとって、子供の失敗力は羨むべき能力です。今やっとそのことを実感をもって言えるようになりました。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

通説の矛盾

2024-01-30 08:28:38 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「通説の矛盾」1月26日
 人生相談欄に、40歳女性の『夫が息子に否定的声がけ』という内容の相談をしていました。具体的な例として、『「学校の勉強ぐらいできて当たり前」「子供が勉強できなければ親は大迷惑」』などがあげられていました。また、相談者は『義母も似た話し方をするので夫も同様に言われて育ったのかもしれません』とも書いています。
 これに対し回答者は、『以前、友人から「人は、自分が知っていることしかできない」と聞いた時には背筋が凍る思いでした。他者から誤った対応をされてきたら、よっぽど意識をしないと、自分も誰かに同じことをしてしまうということです』と述べた上で、解決策を提示していました。
 私が関心をもったのは、解決策ではなく、上記の記述でした。よく聞く話です。なるほどそんなものかもしれないな、とも思ってしまいます。でもこの話、よく考えると、私たちがよく耳にする教員についての説と矛盾するのです。
 学校生活に適応してきた優等生ではなく、不登校やいじめなどに悩み、学校生活に適応するのに苦労してきた人の方が、子供の気持ちが分かる良い教員になることができる、という説です。おそらく、多くの方が一度は聞いたことがあるはずです。
 しかし、先程の回答者の指摘が正しいとすれば、級友や教員に不適切な冷たい対応をされてきたことが原因で学校生活に適応できなかった人は、自分が教員になっても教え子に冷たい不適切な対応しかできない、ということになります。良い教員とは真逆です。
 一般的に言って、自分の子供時代に学校や教員に対してよい印象をもっている人が、教職に就こうという気持ちになるケースが多いと言われています。「自分が知っていること~」という考え方が正しいとすれば、こうした人が教員になる方が好ましい結果を生むという結論になるはずですが、実際には優等生ばかりが教員になると……、と否定的に語られることが多いのです。おかしいですよね。
 元不適応児→良い教員論の立場をとる人の見解を聞いてみたいものです。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

また教員に新たな仕事

2024-01-29 08:51:55 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「学校への影響は」1月25日
 『二重負担「家計不安」49%』という見出しの記事が掲載されました。『子育てと介護を同時に迫られる「ダブルケア」。その重い負担に直面した男女1000人を対象にしたソニー生命の実態調査』の結果について報じる記事です。
 記事によると、『現役の子育て世代約1万7000人にインターネットを通じ事前調査を実施。この調査に対し、全体の11%にあたる1773人がダブルケアに直面していると回答』なのだそうです。つまり、30人学級では、3人の子供の保護者がダブルケアに直面し悩み苦しんでいるということです。
 この問題に詳しい横浜国立大教授相馬直子氏は、『ダブルケアは100人いれば100通りの負担や悩みがある』『国や自治体は適切な政策を整備していく大きな責任がある』と述べていらっしゃいます。その通りでしょう。そして、自治体がこの問題に取り組むためには、実態把握と当事者への個別の働きかけが必要になります。
 では、自治体はどのように実態把握をするのかといえば、おそらく学校が「活用」されると思われます。子育て世代につながっているのは学校ですから。学校を通して調査票が配られ、学校を通して回収されることになると思われます。それだけでは終わりません。ダブルケアのうち子育ては学校に関わる部分ですから、子供の様子についての細かい報告が求められると同時に、学校としての支援についても具体的に求められることが予想されます。
 スクールソーシャルワーカーが配置され実質的に機能している場合はSSWがある程度の業務を担ってくれるでしょうが、そうでない場合は結局教員が職務の一環として取り組むことになります。不慣れな仕事に苦労することになるのです。教員の多忙化解消どころか新たな負担が生じるのです。
 ある程度は仕方がないでしょう。子供の教育にも関わることなのですから。しかし、今以上の多忙化は教員を疲弊させ、学校を崩壊させます。教委は首長部局と早期に協議を開始し、教員の負担が少しでも減るような体制づくりに乗り出さなければなりません。教員を守ることは教委の最大の仕事なのですから。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

知らないものは教えられぬ

2024-01-28 08:40:07 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「一つ抜けていた」1月24日
 論点欄は、『凶暴化する「世間」 変えるには』というテーマの下行われた、作家・演出家鴻上尚史氏へのインタビューでした。その中で鴻上氏は、『教室の同調圧力が高い』『学校で掲げる標語も「みんな仲良くしよう」でしょう?でも無理に「仲良く」しなくていい』『学校が教えるべきは、「仲良くしろ」ではなく、仲良くしない相手とも「協働」すること』などとおっしゃっています。
 このブログを読んでいただいている方はお分かりだと思いますが、これらは私が繰り返し、数十回以上繰り返して述べてきたことです。我が意を得たりという思いで嬉しくなりました。ただ、一つだけ、私が言及したことがない指摘がありました。それは、『日本の学校では同調圧力へのあらがい方も個人として声を上げる方法も教えません』という指摘です。
 その通りです。私も教えたことがありませんでした。また、このブログで具体的な方法について触れたこともありませんでした。理念だけを教えてそれで終わり、では子供たちは戸惑うだけです。具体的にこんな方法があるよ、その際の留意点はこうだよ、こんな失敗をしやすいから注意してね、と教え、実際に取り組ませてみる、そうした指導が必要だったのです。
 デモ行進はどのように行えばよいのか。プラカードや横断幕は、拡声器の使用は。署名集めの際の注意は。ビラ配りにおける違法行為は。小学生にはともかく、高校を卒業する時点では、こうしたことについても知ったり経験したりしておくことは無意味ではないと思います。
 でも、指導できる教員はいるのでしょうか。職員団体の専従となっている活動家の教員ならばともかく、現実には大部分の教員が、こうした「声を上げる」経験がほとんどないのではないでしょうか。
 だからといって、専従経験者の教員などが指導するというのでは、その思想性について多くの保護者が懸念を抱くと思われます。難しい課題です。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サイボーグ?アンドロイド?

2024-01-27 09:01:02 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「無限の可能性?」1月22日
 専修大教授武田徹氏が、『電子技術が生身の身体に』という表題でコラムを書かれていました。その中で武田氏は、『従来の音楽は演奏家の身体の制約を受けてきた。たとえば歌手が歌える音域や節回しの速さには限界があり、作編曲もその範囲内でなされていた。ボカロ音楽の新しさは、電子音声合成技術の化身である初音ミクが、こうした身体的な限界を超えて歌う点にあった。ところが、そんなボカロ曲を歌ってしまう生身の歌手が現れる(略)人間の表現力を突然変異的に高めたボカロは、技術と人間の共生を考えるモデルにもなろう』と書かれています。
 つまり、人間には歌えないと思われていた音域や節回しの速さの曲が、ボカロ曲として作られると、それに挑戦する歌い手が相次ぎ、自分の歌として歌えるようになるケースが珍しくなくなった、ということです。
 人間には心理的限界がある、と言われます。100mを9秒台で走るなんて日本人には無理、そんな思い込みが支配している間は9秒台をマークする日本人は現れなかったのに、桐生選手が9秒台を出すと、次々と9秒台で走る選手が出てきたのは、「あいつができるなら俺にも」と考えることで、心理的限界が外されたからだと言われています。
 同じことが、音楽の領域でも起きたというのです。ボカロ曲によって、人間には無理と思われていた音域、速さの曲が実際に作られ歌われると、それを歌いこなす歌い手が次々と現れるということです。
 今のところ、音楽とスポーツの分野の話ですが、今後はIT技術によって、おそらくあらゆる分野でこうしたブレークスルーが起きるはずです。IT音痴の私にはイメージすら浮かびませんが、国語社会算数理科といった学びにおいても、人間技ではないようなパフォーマンスを示す若者が現れてくるのでしょう。武田氏も『(AIが)人間の知的パフォーマンスを飛躍的に高めるパートナー』となると予想されています。
 そんな時代が来るとしたら、そのとき学校は、教員は、どのような役割を果たすことになるのでしょうか。そんなことを考えると、YOASOBIもAdoも、楽しんで聞くことができません。
 昨年の紅白では、若者と中高年の溝が露わになりました。今後は、社会のあらゆる場面で、AIによって高パフォーマンスを会得した若者と旧来のおじさんおばさんの溝が深まって、社会が分断されていくとしたら、学校はその接着剤の役割を果たさなければいけないのかもしれません。
 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

きっといいことがある

2024-01-26 08:36:02 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「人が動くとき」1月21日
 日本芸術文化振興会理事長長谷川眞理子氏が、『三日坊主にしない「新年の誓い」』という表題でコラムを書かれていました。その中で長谷川氏は、『誓ったのにできないということは、要するに、「○○をしよう」という誓いに本当の必要が伴っていないからなのだ』と喝破し、具体的に『なぜそうせねばならないのか、切迫した理由』『実際に役に立ったという記憶』の2点を、誓いが実行される条件を挙げています。
 頷ける指摘です。そしてこれは、人を動かす際のコツでもあります。教員は、子供を動かすことが仕事です。いくらお説教をしても、立派な道徳を語っても、子供が実際に何らかの行動を起こさないのでは、職務を果たしたことにはなりません。
 私の経験からいうと、切迫性を用いて子供を動かすのは難しいと思います。例えば、毎日新聞を読んで気になった記事を一つ選び400字程度の意見文を書く、という行動を促そうとする場合を考えてみます。
 私立中学受験を控え、志望校では時事問題をテーマにした小論文が課せられるという子供にとってみれば、上記の課題は何の働きかけがなくても既に切実な問題に直結しています。毎日意見文を提出することは、合格の可能性を高める絶好に機会だからです。
 一方、勉強は嫌い、国語の読み書きの能力は今一歩、スマホゲームと唯一の習い事であるスイミングだけが関心事という子供にとって、意見文提出に切迫性を感じさせるのはほぼ不可能です。みんなが提出しているから、学校の勉強の一環だから、教員の指示だから、母親もやりなさいと言っているから、提出しないと叱られるから、など小さな事柄を積み上げて何とか書かせようとしても、それこそ三日坊主に終わることは目に見えています。
 教員が活用すべきは、2番目の手立て、「役に立ったという記憶をもたせる」です。この場合、「役に立つ」を広くとらえる必要があります。自分にとって良い結果をもたらした、という程度に広げて解釈するのです。そうすれば、褒められた、笑顔で応えられた、みんなに注目されたといったことでも良いことになります。ぐっとハードルが下がります。
 ただし、子供にとって非常に困難な課題の場合、苦労してやったのに一言褒められた、というのでは苦労と報酬が釣り合いません。簡単な小さな課題を与え、それに対応した行動を取ったら褒める、頷く、笑顔を見せるといった小さな報酬を与えるということを繰り返していくのです。その過程では、仮に失敗しても罰ではなく、トライしたこと自体に「うまくできなかったけどちゃんとやろうとしたんだから」と小さな報酬を与えることを忘れてはなりません。
 こうした繰り返しは、子供の中に「先生から与えられる課題に取り組むと良いことがある」という考え方を根付かせます。それは何か大きなそして困難な課題に直面したときにも、一つ頑張ってみようという気持ちを起こさせる方向に作用するのです。
 何も特別なことをしているようには見えないのに、いつも学級経営や授業が上手くいっている教員というのは、こうした積み重ねを厭わない教員なのです。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

公教育と宗教

2024-01-25 08:38:03 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「公務員と宗教」1月21日
 『陸自 昨年も靖国計画書 集団参拝 今年と内容酷似』という見出しの記事が掲載されました。『陸上自衛隊で航空事故を調査する「航空事故調査委員会」の幹部たちが今月9日に東京・九段北の靖国神社を集団参拝していたことを巡り、昨年も今年と同様に参拝の流れや注意事項をまとめた実施計画が作成されていた』ことを報じる記事です。
 自衛隊・靖国神社という括りが、右派、復古主義、軍国主義などをイメージさせ、注目されているのでしょうが、問題の基本は、全体の奉仕者である公務員が特定の宗教にかかわりをもつよう組織として動いているのではないか、という疑惑です。キリスト教の教会やイスラム教のモスクならよいという問題ではありません。
 そう考えれば、私にも思い当たることがあります。教委勤務時、正月休み明けの初出勤の日、いつもは残業が当たり前となっていた指導主事たちが、定時で退勤し、室長を含めた全員で七福神巡りに行くのです。一番新任の指導主事が、「何時の電車で~、最初に○○神社に、△△寺で参拝を終えたら、□□亭で新年会」というように計画を立てて皆に知らせていたのです。陸自のように文書は作りませんでしたし、室長の決裁も受けてはいませんでしたが、共通理解の下集団で参拝していたのです。
 そんなことはよくあることだ、と言われるでしょう。私もそう思っていました。私が着任する前からの習慣のようで、先輩の指導主事も室長も、誰も違和感を抱いてはいないようでした。教委の他の課の職員も「いってらっしゃい」と恒例行事を笑顔で見送ってくれていました。私自身は、7つの寺社が、何宗の何派に属するのかもよく知らないままにお賽銭を投げ込むだけでしたし、他のメンバーもそうだったと思います。
 でももし、議会で「教育行政においては、信教の自由が守られることは極めて重要である。それにもかかわらず、学校や教員を指導する立場にあり、大きな影響力をもつ指導主事や室長が、特定宗教の施設である神社等に集団で参拝する、しかも事前に計画を立て全員に周知した上で参拝を実行していることは問題ではないのか」と質問されたとしたら、メディアが取り上げたとしたら、おそらく次年度からは中止となったでしょう。首長から注意もされたはずです。つまり、その程度には「危ない行動」だったわけです。
 そう言えば、教員時代の職員旅行でも、みんな揃って○○神社に参拝などということをしていました。学校や教委は、どの程度まで宗教との関りが許されるのでしょうか。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

究極の信頼される恩師

2024-01-24 08:28:13 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「終わりが近い」1月21日
 『オープンAI米大学と初提携』という見出しの記事が掲載されました。『オープンAIが18日、米アリゾナ州立大学と提携すると発表した。AIを使った前例のない学習方法を開発する』ことを報じる記事です。
 その中に気になる記述がありました。『学生一人一人の需要に合わせた「AI家庭教師」を作ったり~(略)AIは人間と同じくらい優れた家庭教師になれる』という記述です。私は、AI教員の誕生には懐疑的でした。授業は生き物であり、いくらAIであっても30人がそれぞれ予想外の反応を示し、その複合した状況に対応は難しいだろうという判断でした。それは今でも変わりません。
 しかし、現状は私の予想とは異なる方向で進化していたのです。一台のAIが30人学級の担任となるのではなく、子供一人一人に一台のAIが専任教員として付くのです。こうしたAIの開発には、多くの費用と労力がかかると思われます。特に、その子供の個性に応じたデータを入力し、その子供にとっての最良の専任教員を造り上げる工程は手間と時間がかかると考えるからです。
 しかし、どんなに費用が掛かろうが、教員の人件費に比べれば安いものです。しかも、仮に3歳のときにその子供に適したAIを作成し、その後ずっと専任教員として付き添わせれば、その間AIは自身の担当する子供について、保護者や本人さえも認知できていない特質や傾向についても把握し、さらに適性を高めていくことになるはずです。
 プログラミングされた通り、小中高大それぞれの段階で求められる知識や技能、倫理感などをマスターさせるとともに、16年間かけて子供について知り尽くしたそれぞれのAIが、その子供に合わせた示唆や助言を与え続けるのですから、他の誰とも違う個性的な人に育つはずです。基礎基本の習得と個性の伸長、学習指導要領が長年にわたって目指してきた理想的な姿が実現するのです。
 そうなれば完全に教員という職は無用になります。それは何年後になるかは分かりませんが、ほぼ確実な未来だと思われます。なんだか寂しいです。
 ところで、AI家庭教師が一般化した社会って、人間がAIに飼い殺しにされた社会ということにはならないのでしょうか。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラーニングマイノリティー

2024-01-23 08:27:48 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「勉強マイノリティー」1月19日
 論点欄は、『マイノリティーと日本』というテーマで、世界ゆるスポーツ協会代表理事澤田智洋氏へのインタビュー記事でした。その中に、面白い記述がありました。澤田氏は『極度の運動音痴の自身を「スポーツマイノリティー」と捉えています』というのです。
 そのことについて、『障害に比べたら、運動ができないなんて大したことないだろうと思うかもしれませんが、僕は自分がマイノリティーの当事者だと認識することが大事だと思っています』とも語っていらっしゃいます。
 この発想に基づけば、音痴は「音楽マイノリティー」、家庭科や図工で不器用なのは「手作業マイノリティー」、勉強ができないのは「勉強マイノリティー」ということになります。つまり、学校には、多数のマイノリティーがいる、わざわざインクルーシブだとか、ダイバーシティーなどと大上段に振りかぶらなくても、学校は、自然にマイノリティーが活躍できる場所になる、というわけです。
 実際、澤田氏は、「ゆるスポーツ」を120種類も開発しています。記事では、『500歩サッカー』が紹介されていました。『試合中500歩しか動けない(略)動いた分だけ歩数が減って0になったら退場』なのだそうです。健常者と心疾患の人が一緒に楽しむことができる設定になっているのです。
 「勉強マイノリティー」のために、どのような授業を構想すればよいのか考えることは、学校を変え、教員を鍛えることにつながります。学校は今まで、「勉強マイノリティー」に対しては、個別指導、補修指導で対応してきました。これは、マイノリティーを囲い込み、マジョリティーとは別の場所に隔離する発想です。
 私も長くこの方式でやってきました。そのせいで頭が固くなっているのでしょうか、国語社会算数理科の「勉強マイノリティー」が一緒に楽しめる授業がイメージできません。いくら同じ教室にいても、違う課題、簡単な課題に取り組ませているのでは、いけないのです。
 澤田氏の発想による「ゆる勉強」、実践している教員は、学校はあるのでしょうか。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

言葉遊び

2024-01-22 08:28:56 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「既視感」1月14日
 専門編集委員滝野隆浩氏が、『「支える」と「寄り添う」』という表題でコラムを書かれていました。その中で滝野氏は、ホスピス活動の先駆者、淀川キリスト教病院名誉ホスピス長柏木哲夫氏の講演での言葉を紹介なさっています。
 『「支える」はタテの関係。下から持ち上げていないと患者は落ちてしまうと心配する。「寄り添う」はヨコの関係。そばを歩けば患者は自分で進んでいけると信じている。「私は当初、患者さんのその人らしさを支えるのが、『ホスピスの心』だと表現していました。でも、寄り添うことこそが大切だと思い始めたのです」』。
 私はこの言葉から、30年前の教育界を思い出してしまいました。当時私は指導主事試験に合格したばかりでした。この時代は、新しい学力観、新しい授業像が盛んに提唱されていた時期でした。私も、「試験対策」で勉強したものでした。
 当時のキーワードは、「指導から支援へ」でした。指導は、教員が細かく丁寧に教えるというようなイメージです。一方支援は、子供が自発的に興味をもって学習に取り組むのを見守り、必要と思われるときに「何か困っているのかな?それとも迷っているの?」と声を掛け、求められればヒントを出したり、方向性を示唆したり、必要な情報源を知らせたりするというイメージです。
 また、支援に近い言葉として、「援助」も使われました。それまでの「学習指導案」という言葉が「学習支援案」に変わったりもしました。研究授業に際しては、学習支援計画書が配られたものでした。
 一部には、教えることは悪、教える教員は古いダメ教員というような雰囲気さえあったのです。生活科や総合的な学習の時間は、そうした流れの中で誕生したのです。しかし、ゆとり教育批判が起き、徐々に揺り戻しが来ました。そうした、「指導と支援」を巡る動きと、「支えると寄り添う」を巡る変遷が重なって見えたのです。
 言葉は概念を明確に示し、価値観や考え方の違いを端的に示す働きがあります。しかしその半面、実態を変えていくという本質から離れ、言葉遊びに陥ってしまう危険性もあります。ホスピスにおける「支える」と「寄り添う」は、言葉遊びに陥ることなく、ホスピスの進化に寄与しているようです。学校教育も空疎な言葉遊びを脱する必要があります。学校教育には言葉遊びがはびこりやすい体質があるのですから。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする