ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

教員養成課程の衰退

2015-10-31 08:22:49 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「世の中は変わった」10月20日
 『国立33大学 文系見直し 中期計画9大学教員養成廃止』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『組織の廃止や募集停止を打ち出した9大学は、対象がいずれも教員免許の取得を卒業条件にしない「新課程」(ゼロ免課程)。横浜国立大は17年度に新課程の「教育人間科学部人間文化課程」を廃止し、学校教育課程のみの教育学部(仮称)に組織改編する』とのことです。
 以前からの報道でこうした事態は予想されていたこともあり驚きはありませんが、いくつか気になることがあります。まず、なぜ、いわゆる「ゼロ免課程」が設けられたのかということについて考慮されているのか、ということです。教員批判や教員の多忙化により教員志望者が減り、そのままでは教育学部が成り立たないという状況を受け、教員以外の進路希望者も集めることができるようにして、教育学部を存続させるという意図の下に行われたのが「ゼロ免課程」でした。
 今回の改革によって、教員養成に特化した教育学部に志望者が集まらず、結果として、将来的に教育学部が廃止され、国立大学が教員養成に関わらないという状態が予想されるわけです。義務教育の教員養成を全面的に私大に委ねるということに問題はないのか、そこまで考えての改革であったのか、ということです。もちろん、教員の待遇改善を図り教員志望者を増やしていくという政策が行われ、教育学部の継続が見込まれているというのであればよいのですが。
 また、見出しの「教員養成廃止」も気になります。この見出しだけを目にした人は、教員養成系の学部はなくなってしまうと思うでしょう。しかし実態は、横浜国大のように、ゼロ免課程が廃止されるものが大部分です。このギャップも、教員志望者を減らす方向で作用するのではないでしょうか。
 さらに今回の改革では、教員養成に特化した教育学部は残ることになりましたが、この流れが計測していった場合、次の中期計画では、教育学部自体が存続を許されないという結論に至ることが危惧されます。実際にそうなるかは別問題として、そうした不安が有り続けること自体、教員志望者を減らすことに結びつくことは間違いありません。
 安倍政権は、教員のあるべき姿、臨まれる資質、その育成についてどのように考えているのか、知りたいものです。

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恋とはどういうもの

2015-10-30 07:33:19 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「デートの言葉」10月20日
 『女子生徒にキス 中学教諭懲戒免』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『都教委は19日、女子生徒にキスをしたとして、公立中学の男性教諭(29)を懲戒免職にした。「恋愛感情があった」と話している』とのことです。妥当な処分です。
 処分とは別に、不謹慎かもしれませんが、私はこの教員の「恋愛感情」という供述から、先日見た女優杏さん主演の「デート~恋とはどういうものかしら~」の中の会話を思い出してしまいました。恋愛不適格者の2人が結婚契約書を作成し、浮気についての契約事項を検討する過程での会話です。2人で食事は?手をつなぐのは?部屋を訪れるのは?と浮気の定義を吟味していくのですが、「好意を持ってしまう心の浮気は?」という問いに対し、杏さん演ずる主人公は、「もちろん該当しません。心は理性では制御できないものです」という趣旨の回答をするのです。この主張を支えている概念は、人は理性で制御可能な行動についてのみ責任を有するという考え方です。感情を罪悪視するのではなく、感情に基づいてとった行動の結果についてのみ断罪の対象とするということでもあります。
 全くその通りだと思います。20代の若い男性である教員が、10代の少女を好きになる、自然なことですし、ありふれたことです。私も大学生の時に家庭教師をした中学生の少女を「可愛い!」と思ったことがあります。もちろん、度胸もなくおかしなプライドだけは高かった私は、何ら行動に移すことはありませんでしたが、彼女から「先生のこと意外とタイプかも」などと言われたら、などという妄想にふけったことはありました。
 今回のケースについて、「教え子に恋愛感情を持つなんてけしからん」とか、「教え子を異性としてみるような人間は教員に採用すべきではない」という考え方は何の意味もありません。善悪といい基準で見れば「悪」 であることは一寸の疑いの余地もありません。一方で、倫理や法や罰では感情は制御できません。
 つまり、教員が教え子に恋愛感情を持つことを防ぐことはできないし、そんなことを目指しても無駄なのです。これからも教え子を好きになる教員は後を絶たないはずです。そうした現実認識に立った上で、対策を考えることが必要なのです。
 原則として教え子と教員が2人きりになることを認めないという共通認識の醸成、教育相談等で2人にある場合、必ず管理職に届け出を提出し簡易な報告書を作成するというシステムの構築、などについて功罪両面から検討し、具体策を講じることが教委や校長の責任なのです。安易な精神論で批判するだけでは何も解決しません。

 

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勧誘の言葉に含まれたウソ

2015-10-29 07:43:35 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「勧誘の嘘」10月19日
 『労働組合ってどんな組織?』という見出しの特集記事が掲載されました。ブラック企業での過酷且つ不当な労働の結果、退職や疾病、自殺などに追い込まれる若者が増えている現在、意味のある記事だと思います。
 一方で、私自身の苦い経験も蘇ってしまいました。記事では、労働組合の機能についてQ&A方式で次のように説明しています。「Q 労働組合が取り組むのは賃金のことだけ? A 労働条件全般が活動の対象です。例えば近年、職場のパワーハラスメントやセクシュアルハラスメントなどが問題になっていますが、そうした問題を解決するのも労組の課題です~(中略)~長時間労働の是正や労働環境の整備、不払い残業をなくすなど賃金以外にも課題は多いですね」
 教科書に載っているような模範回答です。しかし、私が新卒で赴任した学校で経験したことは全く異なりました。教員の労働組合=日教組というような認識の方が少なくないと思いますが、正確には日教組は労働組合法に定められた労働組合ではなく、職員団体と呼ばれていました。でも、加入している教員の多くは、労働組合と捉えていました。実態も労働組合に限りなく近いものでした。
 その日教組は、教員の賃金や休暇、労働時間などの課題にも取り組んでいました。それはよいのです。しかし、そうした課題よりも重視されていたのが、「政治闘争」でした。各種選挙で特定政党の候補者を応援する、国旗国歌に反対する運動を展開する、法の定めを形骸化し校長らの管理を「悪」とし職員会議での決定を最終決定とするよう要求する、学習指導要領を敵視しそれに従わない教育課程の編成・実施を求める、教科書採択では自分たちが推薦する教科書を採択すべきだと圧力をかける、というような「闘争」に情熱を燃やすという体質が濃厚でした。
 例えば、学習指導要領の趣旨を学ぶための研究発表会については、労働時間問題を前面に押し立て、発表会の準備で勤務時間を1秒でも過ぎると、「これ以上、校長は私たちに勤務を命ずることはできないはずだ。もし、続けて準備をしろというのであれば、勤務の振り替えを認める約束をしろ」などと言い、校長の命令などではなくよりよい発表会にしようという使命感に燃えて準備をしている教員にまで、「お前も労働者の権利侵害に力を貸すのか」などと攻撃するのです。労働者の権利擁護に名を借りた学習指導要領の周知への妨害活動です。
 もちろん、今はこうしたことは稀になりました。しかし、当時の私は、教科書的な建前だけで、教組の実態について知らせてくれなかった大学や関係者を恨んだものでした。今の若い教員志望者は、教組の体質を知っているのでしょうか。教組は、政治・思想団体という側面をもっていることを。

 

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勤務時間の中に組み込んで

2015-10-28 07:41:32 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「まず初めに」10月18日
 随筆家山本ふみこ氏が、ご自身の連載コラム欄に、『ふみ(こ)の日』という表題で書かれていました。その中で山本氏は、『はがきの時間がこぼれるようなのだ。便りがしたいのに…お返事を書きたいのに…』と多忙のため知人に便りをしたためる時間がとれない悩みを綴られています。そしてその解決策として、『ふと思いついて予定表に「ふみ」と記してみる。原稿の締め切りや会議の予定と同じように書く』に至ったことを述べられています。つまり、時間ができたら、余裕ができたらという発想ではなく、初めから「はがきで返事を書く」という「業務」を会議出席や原稿執筆と同じ扱いで予定表に組み込んでしまうことによって、半ば強引に時間を生み出すというやり方です。
 わたしは、山本氏のような発想の転換を、教員の研修においても採用してほしいと思います。今まで、教員の研修は、月例の校内研修や教委主催の研修会への参加を除いて、授業や諸会議、行事や校務処理などの隙間の時間に行われることがほとんどでした。もちろん、授業や行事をおろそかにした研修などは、本末転倒であり、あってはなりません。しかし、時間があったら、ではなくあらかじめ勤務時程のなかに研修を入れ込んでおくことにより、研修の量と質を確保するという試みには意味があると思います。
 そのとき参考になるのが、OJTの活用です。例えば、学年で遠足に行くとします。計画から準備、実施という一連の流れの中に、先輩が後輩に対して、候補地選定の考え方、準備のポイント、実施の際の危機管理などについて指導するという計画を立てます。そして実際にそれぞれの段階で、後輩に助言しサポートします。実施気は自己評価と次年度に向けた改善点をレポートにまとめて管理職に提出する、というような形です。この場合、指導される後輩教員だけでなく、指導する先輩教員にも自己評価を義務づけることが大切です。上記のような研修のための時間やレポート作成の時間を、学年会や実地踏査、保護者向け説明資料の作成、子供向け予定表作成、現地での指導などの中に事前に織り込んでおくのです。
 こうしたOJTを職務に織り込んでおけば、「保護者向けの説明会ではどんな資料を作ればよいか、どんな説明をすればよいか」などと悩むことがなくなり、校務処理能力が向上します。時間がないから先輩教員が全てやってしまい後輩教員はいつまで経っても独り立ちできないというようなことはなくなるのです。OJTを組み込んだ職務遂行計画は、学校のような組織にこそ効果的だと思います。

 

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大卒者でない人々

2015-10-27 07:31:14 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「もっと大きなレッテルが」10月18日
 日本医大特任教授海原純子氏が、『レッテルを外すエネルギー』という表題でコラムを書かれていました。その中で海原氏は、今年の日本人ノーベル賞受賞者のお二人を取り上げ、『まずお二人の出身大学がかつての国立1期校でないことに驚き』と述べ、『国立1期校を出ていないといいところに就職できない、国立1期校以外はダメというレッテルはまだまだ根強く残っている』と書かれていました。
 そして『地方大学を卒業した今回のお二人は、周囲のレッテルを実力で外していったのだと思う』と続け、『お金をかけて教育された人たちだけがいい大学に行く今の風潮を苦々しく感じているサラブレッドではない若者に、勇気を与えてくれた』と結んでいらっしゃいます。おっしゃりたいことは理解できます。でも、どうしようもない違和感が残りました。その原因は、旧国立1期校と地方大学を大志させるという発想にあります。
 世の中には、大学に進学できなかった、あるいはしなかった若者がたくさんいます。海原氏が、よくないレッテルを貼られている象徴としている、両氏が卒業された地方大学のような、高偏差値でその地域の若者にとってはステータスとなっているレベルの大学など「高嶺の花」だという若者もとても多いはずです。
 つまり、海原氏が、超一流と一流というエリート層内でだけしかものを見ていないのではないか、という違和感なのです。言い換えれば、大学は出ていなければ、大卒でなければ始まらない、というような高卒以下を切り捨てる発想なのではないか。という疑念です。もちろん、海原氏は、学術研究という分野に限って話をしていらっしゃるのであって、その場合、高卒で医学生理学や物理学を極めることは不可能でしょうから、当然のことを述べているとも言えるわけですが、著名な方だけに、その影響力の大きさを自覚してほしいと思ったわけです。
 わが国の良き特徴は国民一般のレベルの高さにあると思います。先年発表された「成人の学力調査」の結果が、諸外国に比べて高かったことがそれを証明しています。それは、大学に行かなくても、あるレベルの知識、克己心や勤勉性、向上心、責任感や公徳心、遵法意識といった市民としての必要な資質が保持されているということです。そして、こうした現状には義務教育の成果が大きく貢献していることも、先の調査で論じられています。
 わが国では、大学に進まなくても、社会を支える有為な人材はたくさんいます。常にそのことを心にとめて、社会や人生を論じてほしいと思います。そしてそこに果たしている義務教育の優秀さについても。

 

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教員力への理解

2015-10-26 14:30:32 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

*パソコンの故障のため1週間休みました。今日から以前通り毎日更新していきます。今まで通りよろしくお願いいたします。

 

「教員力への理解」10月16日
 『学校インターンシップ導入』という見出しの記事が掲載されました。教員制度改革の答申素案の内容について報じる記事です。一読して、ある懸念をもちました。それは、授業や授業力、教員の職務について十分な理解がなされていないまま、議論が進んでいるのではないか、ということです。
 まず、『長期間にわたって学校で教員の仕事を手伝う学校インターンシップを導入する』ということについてです。ポイントは「手伝う」にあります。学級便りを作ったり、保護者会用のレジュメを作成したり、テストの採点をしたり、といったことをいくら経験してみても、教員としての資質向上には結びつきません。教員の主務である授業をうまくできるようになるには、あくまでも自分で計画を立て自分で実行し自分で分析をし自分で計画を修正するということでなければなりません。TTという形で躓いている子供に個別指導をするというのでは、授業力は高まりません。
 また、『討論を主体とする「アクティブ・ラーニング」や「総合学習」の指導法を新たに必修にする』についても、誤解が見られます。こうした認識の基には、従来型授業の指導法とA・Lや総合学習用の指導法という2つの異なる指導法があるという捉え方があるように思います。そうではないのです。今、授業が上手い、授業力があると言われている教員は、どちらかの型の授業が上手いというのではなく、どちらの授業も巧みなのです。それは、現場の教員や校長、指導主事などに聞けば明らかになるはずです。なぜそうなるかといえば、どのような形にしろ授業力の中核をなす能力は、授業におけるルールを徹底し、知的内容だけでなく学び方の習得向上を意識した計画を立て、授業中の子供の言動の価値や意味を瞬時に評価し、次の学習展開の中に子供の言動を取り上げ生かしていく、という力なのです。そうした「基礎」の確立なくして、新しい授業力など存在しないのです。
 さらに大きな矛盾点もあります。『英語教育の強化など多様な教育課題に対応するため、外部の人材を教員として確保する方策として、既存の「特別免許状」の一層の活用を求めた』という提案がそれにあたります。教員としての資質向上策として、インターンシップ導入を採用するというのは、「経験」を重視することです。新たな指導法を必修化するというのも、特別に学ばせなければ授業力は身に付かないという発想です。しかし、外部人材活用というのは、教員としての経験も専門的能力としての授業力も重要視しないということですから、政策の方向性が真逆です。こうした一貫性のなさがどこから生まれたのか、不思議なほどです。
 なお、ここまで述べてきたことは、あくまでも考え方の問題であり、実現性については触れていません。今回の提案を実現するには、予算等の別の課題があることは言うまでもありません。

上します。時間がないから先輩教員が全てやってしまい後輩教員はいつまで経っても独り立ちできないというようなことはなくなるのです。OJTを組み込んだ職務遂行計画は、学校のような組織にこそ効果的だと思います。

 

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馳文部科学大臣の体罰告白を分析する

2015-10-19 07:39:27 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「体罰論からの評価」10月14日
 『竹刀で殴った 未熟だった』という見出しの記事が掲載されました。おそらく史上初の、現職の文部科学大臣自身による体罰告白記事です。記事によると、馳文部科学相が、『高校の教員だった約30年前に生徒に体罰をしていたことを明らかにし「私に竹刀で殴られた高校生たちに謝罪したい」と述べた』のだそうです。さらに、『体罰は絶対反対。私が未熟であったばかりに迷惑をかけた』と話し、『会見中に机をたたき「教壇で教員がこうやってたたくだけで、感情にまかせてやるだけで萎縮して、気持ちを先生に伝えようという気すらなくなってしまう」と体罰の問題点を説明』したのだそうです。
 この記者会見に、私が今まで体罰について述べてきたことが網羅されています。皮肉で言うのではないですが、馳氏が体罰を告白したことが第一の問題点です。文部行政のトップという立場であっても、「体罰告白」は重大な問題にはならない、と考えていることの証明だからです。もちろん、平議員時代に雑誌の対談で「告白」してしまっていたので否定できなかったという事情はあるでしょうが、当時から文教畑を中心に活動していく方針だったのですから、「告白」のもつ意味は変わりません。
 政治家は、金銭疑惑などでは、決定的と思われる証拠を突きつけられても、シラを切り、秘書のせいにして逃げる場合が多いのに、素直に求めたということは、明確に法律違反であるにもかかわらず「体罰」は、大して悪いことではない、という本音が窺えます。
 また、30年前の出来事であることも、こうした「告白」に共通しています。つまり、当時はそれが普通のことだった、という主張が隠されています。もちろん、当時も学校教育法第11条の規定は変わっていません。体罰は明確に禁じられていたのですが。ここに、法よりも慣習や雰囲気を重視する遵法意識の低さが表れているのです。
 そして、『殴られた高校生たちに謝罪したい』という言い方にも、体罰問題の矮小化が見て取れます。つまり、直接暴力をふるった生徒には申し訳ないことをしたが、他の生徒には謝罪する必要はないと言っているのです。この発言からは、後にプロレスラーになるほどの巨漢で力の強い教員が竹刀で叩くという行為を、目撃したり、耳にしたりして恐怖心や嫌悪感を抱いたであろう生徒や保護者が視野に入っていないのです。
 最後に、『感情にまかせて~』という言い方にも、本来の自分は暴力的な人間ではない、という自己弁護が隠れています。そうではなく、剣道部を指導しているわけでもないのに、竹刀を準備していたという点を考えれば、馳氏には、「叩いて根性を鍛え直す」「体の痛みで分からせる」というような暴力肯定的な考え方があったことは明白です。馳氏も、他の大人に対する暴力沙汰は報じられていませんから、あくまでも生徒に対してという限定付です。生徒は自分の言うとおりに動くべきものだと、生徒を下に見ているのです。そうした意味では、人権感覚が狂っているとも言えます。
 つまり、体罰が法で禁じられているのを知ってはいるが、どこにでもあることで大したことじゃないし、そもそも未熟な生徒は立派な大人である自分の言うとおりにすべきなのに逆らったのだから殴られるぐらい当然だ、ました殴ってもいない生徒の感情にまで配慮なんかしてられるか、というのが本音だということです。これは、私が体罰で処分、指導してきた教員の特徴そのままです。
 こうした点を厳しく自己認識してもらわなければ、馳氏の「体罰反対」はポーズに終わってしまうでしょう。

 

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時代遅れの…

2015-10-18 08:20:43 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「時代遅れ?」10月13日
 社会学者上野千鶴子氏が、連載コラム『読書日記』の中で加藤周一氏を取り上げ、加藤氏について、『西洋文化への理解のみならず日本文化への造詣が深く、詩と文芸に傾倒し、豊かな感情生活と美食や旅、自然を愛する偉大なディレッタント』と書かれていました。不勉強な私は、「加藤周一」という活字を見た記憶はありますが、どの分野の方で、どのような活躍をなさった方か知りませんでした。
 そんな私が上野氏の文章に目をとめたのは、加藤氏のような方は、今の時代に求められていないのか、もっと言えば、学校教育は加藤氏のような方を育てることを期待されていないのか、という思いからでした。加藤氏は、多くの業績を残された「思想家」なのだそうですが、上野氏が描かれた加藤氏像は、はっきり言って何の役に立つのか分からない人です。企業や研究所で即戦力として活躍できるという感じでもありません。
 要するに、今、安倍政権が進めている教育改革において、求められている人材とは対極にあると思うのです。日本文化、詩、文芸、いずれもいわゆる「文系」に属するもので、英語と理系以外は切り捨てようとする風潮からすると、無駄の極致とも言えるものです。
 つまり安倍政権が進めている教育改革では、今後、加藤氏のような方は生まれないということであり、上野氏流に言えば、偉大な思想家は生まれないということです。それを寂しいことと感じるか、思想で飯が食えるか、と考えるか、様々な立場があるでしょう。私は寂しいと感じます。
 このコラムと同じ日の見開きの紙面に「人工知能」に関する特集記事が掲載されていました。そこには、『無意識に収まる膨大な情報・記憶とつながり、うまく関連づけられて意識に上がってくるもの』を直感とし、直感こそが人間が人工知能に勝るものだと書かれていました。英語と理系の知識だけに特化した教育では、「無駄」や「遊び」がなくなり、「無意識に収まる情報や記憶」が枯渇し、人間が人工知能の前に跪く事態を招くような気がしてしまいます。
 私はこのブログで、数え切れないほど繰り返して「社会科」の重視を訴えてきましたが、それもこんな思いからでした。こんなことを言う私も「時代遅れ」であることは分かっているのですが、やはり安倍流改革には危惧を覚えます。

 

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底力を見せて

2015-10-17 07:37:36 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「割り切り」10月12日
 山田孝男氏が、ご自身の連載コラム『風知草』で、『「政治的教養」って?』という表題で、主権者教育について書かれていました。その中で山田氏は、『(総務省が公表した高校生用の)副教材が重視する「政治的教養」の中心は「選挙の知識」だ。そう割り切った方が混乱が少ない』と述べていらっしゃいます。
 なるほど、です。私は、このブログで、ディベートや模擬投票などばかり注目される主権者教育は、枝葉の問題ばかりを取り扱っており、真の意味で民主主義を学ぶものになっていないと主張してきました。しかし、山田氏は、そもそも主権者教育に「民主主義への深い理解」など期待してはいけない、とおっしゃっているのです。そう割り切ってしまえば、問題解決は簡単です。今注目の主権者教育は放っておいて、既存の歴史や倫理などの授業の中で、よりよく民主主義を学ばせるには、という問題の立て方をすればよいのですから。
 そして山田氏は、そのヒントもくれています。哲学者の故田中美知太郎氏の言葉を引いて。『権力者の抑制』と『「われわれに暴虐の行いを躊躇させる」何か』という言葉こそ、民主主義の理解の根本となり得ます。
 私は、このブログに、10月7日付の与良氏のコラムを題材として、「教えるべき民主主義とは」という記事を載せました。そこでは、フランス革命や第一次世界大戦、ナチズムを例に挙げ、民主主義自体に民衆という権力者の暴虐を生む魔性があることを述べました。それは、上述の「権力者の抑制」の権力者を独裁者だけではなく、民衆と解釈すれば、ピッタリと当てはまると思います。フランス革命の「人民の人民による人民の虐殺」がもたらす教訓も、「われわれに暴虐の行いを躊躇させる」何か、という指摘と写し絵のようです。
 ただ、山田氏が、こうした民主主義の理解深化=政治的教養について、『そういう資質は、政府の計画的指導とは無縁の、自由な学びから生まれるものだろう』とおっしゃっているのは残念です。もし、「自由な学び」が学校教育外というイメージであるとしたら、それは学校教育には期待しない、特に社会科系の教科にも教員にも期待しないということなのですから。社会科系の教員は、山田氏に「間違っていた」と言わせるべく、授業の専門家としての底力を見せて欲しいものです。

 

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問題が起きなかったのは単なる幸運に過ぎない

2015-10-16 07:12:30 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「結果論」10月12日
 『学校と私』欄に、大阪教育大学長栗林澄夫氏が取り上げられていました。その中で栗林氏は小学校時代の恩師について触れ、『同級生が授業を受けている間、母の財布からくすねたお金で好きな映画を見て、そばかラーメンをすすって家に帰る~(中略)~先生はこの悪行を知っていたはずです~(中略)~でも、何も言わなかった。僕はガミガミ言われるとすねてしまうタイプで、学校に行く気をなくしていたかもしれない。中学校に無事に進むことができたのは、先生の寛容さのお陰だと思っています』と語っていらっしゃいました。
 栗林氏は、どういうつもりでこのエピソードを選んだのでしょうか。ご自身の教育大の学長、それも小学校教員を多数輩出する学校の学長として。自分の恩師のような教員になれ、というメッセージなのでしょうか。まさかそんなことはないと信じたいのですが。
 この恩師は、とんでもない問題教員です。指導力不足であり、教員としての使命感、教育公務員としての責任感も著しく低いレベルにあります。教員として最も重い処分である分限免職になっても文句が言えない程のひどさです。
 小学生のうちから授業をサボる、母の財布から金を盗む、教員には「母に頼まれたから休む」と嘘をつく、サボることに罪悪感がなく友達に自慢する、こんな子供を放っておいてよいはずがありません。家庭の教育力に期待しようにも、母親自体が、再三金を盗まれても気づかないような状態なのですから、期待するだけ無理です。
 「運良く」栗林少年はすくすくと育ちましたが、盛り場で悪い仲間に目を付けられ、不良仲間に引きずり込まれる可能性は無視できないはずです。酒だ、タバコだ、シンナーだといったことを覚えて、不良への道を本格的に歩んだとしてもおかしくなかったはずです。それどころか、川崎市の中1男子のように、リンチの被害者として一生を終えてしまったかもしれません。
 もし、百歩譲って、栗林少年のすねる性格を見抜いていたから、ということだとしても、そうしたタイプの子供に対してどのように接しアドバイスすればよいのかというノウハウをもたなかったのですから指導力不足は否定できません。
 この「学校と私」欄は、栗林氏の『子どもたちと正面から向き合える先生を育てていきたいと思います』という決意で締めくくられています。悪い冗談としか思えません。同大で教員養成に携わっている方たちは、栗林氏をどのような思いで見つめているのでしょうか。

 

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