『夏休み明けの子供たち 小さな変化にも目配りを』という見出しの社説が掲載されました。『18歳以下の子供の自殺が累計で最も多かった日は9月1日だった』という事実を受け、『悩みに一緒に向き合うことが子供を守る。それにはまず、小さな変化にも目配りすることだ』と提言する内容です。
何ら異論はありません。子供をもつ保護者はもちろん、子供に関わる全ての大人が心がけたいことです。ただ、私はへそ曲がりなので、『子供の変化に気付いたら(略)そして「学校に無理に行く必要はないんだよ」と伝えてほしい』という記述に引っかかりました。
「無理に学校に行く必要はない」これは10数年にわたって言われ続けてきたフレーズです。もちろん、間違っていません。学校に行きことと子供の命と、比べるまでもないことです。ただ、学校に行かなければならないという「社会的圧力」については、一度きちんと考えておくべきだと考えるのです。
我が国に「学校」というものが出来たとき、保護者の多くは「学校なんかいって何になる。そんな余裕はない。それより畑の手伝いの方が大事だ」と言い、あるいは「女が学問して何になる。生意気になって親の言うことを聞かなくなるだけだ」と口にし、子供を学校に通わせようとはしませんでした。また、子供自身にも、学校に行かなければならない、というような義務感、使命感はありませんでした。教育行政を担当する者は、まずこうした意識を改めさせることに苦闘したのです。
発展途上国では、今もこうした状況が残っています。子供は10歳になる前から労働力として期待され、女児はローティーンのうちに親が決めた相手に嫁がされ、子供を生むのが普通という状況があるのです。学校に行かなければとか、学校に行かせなければというような感覚はないのです。
かつての我が国や現在の発展途上国においては、学校にという「社会的圧力」は存在しません。当然、長期休業日が終わるからといって自殺するというような現象もありません。そして、そうした状況は望ましいものではありません。
現時点では空想することさえ難しいですが、我が国において、学校へ行くという「社会的圧力」がなくなった状態を考えたとき、そこには新たな大きな問題が発生します。学校に行こうとしない子供、我が子を学校に行かせようとしない保護者が蔓延したとき、我が国は「バカの集まり」と化し、社会が崩壊していくでしょう。
5年後、10年後にそうした状況が訪れるとは思いません。しかし、20年後、30年後を考えたとき、我が国においても、学校無用論が浸透している可能性は否定しきれないと思います。勉強は塾や予備校でさせるから学校では疲れないようにしてほしいという保護者、グローバル化が進みITが単純作業を肩代わりする社会で今のような学校教育は意味がなくなるという未来予想、真のエリートは海外の学校で学ぶべきという考え方、学歴無用論と学校無用論の混同、学校制度を否定する言説は巷に溢れています。さらに、規制緩和こそ善という思想が、義務教育制度を否定する動きにつながる可能性もあります。
学校に行くべきという「社会的圧力」は、別の見方をすれば、貴重な社会的財産なのではないしょうか。