ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

社会的財産でもある

2019-08-31 08:25:22 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「へそ曲がり」8月27日
 『夏休み明けの子供たち 小さな変化にも目配りを』という見出しの社説が掲載されました。『18歳以下の子供の自殺が累計で最も多かった日は9月1日だった』という事実を受け、『悩みに一緒に向き合うことが子供を守る。それにはまず、小さな変化にも目配りすることだ』と提言する内容です。
 何ら異論はありません。子供をもつ保護者はもちろん、子供に関わる全ての大人が心がけたいことです。ただ、私はへそ曲がりなので、『子供の変化に気付いたら(略)そして「学校に無理に行く必要はないんだよ」と伝えてほしい』という記述に引っかかりました。
 「無理に学校に行く必要はない」これは10数年にわたって言われ続けてきたフレーズです。もちろん、間違っていません。学校に行きことと子供の命と、比べるまでもないことです。ただ、学校に行かなければならないという「社会的圧力」については、一度きちんと考えておくべきだと考えるのです。
 我が国に「学校」というものが出来たとき、保護者の多くは「学校なんかいって何になる。そんな余裕はない。それより畑の手伝いの方が大事だ」と言い、あるいは「女が学問して何になる。生意気になって親の言うことを聞かなくなるだけだ」と口にし、子供を学校に通わせようとはしませんでした。また、子供自身にも、学校に行かなければならない、というような義務感、使命感はありませんでした。教育行政を担当する者は、まずこうした意識を改めさせることに苦闘したのです。
 発展途上国では、今もこうした状況が残っています。子供は10歳になる前から労働力として期待され、女児はローティーンのうちに親が決めた相手に嫁がされ、子供を生むのが普通という状況があるのです。学校に行かなければとか、学校に行かせなければというような感覚はないのです。
 かつての我が国や現在の発展途上国においては、学校にという「社会的圧力」は存在しません。当然、長期休業日が終わるからといって自殺するというような現象もありません。そして、そうした状況は望ましいものではありません。
 現時点では空想することさえ難しいですが、我が国において、学校へ行くという「社会的圧力」がなくなった状態を考えたとき、そこには新たな大きな問題が発生します。学校に行こうとしない子供、我が子を学校に行かせようとしない保護者が蔓延したとき、我が国は「バカの集まり」と化し、社会が崩壊していくでしょう。
 5年後、10年後にそうした状況が訪れるとは思いません。しかし、20年後、30年後を考えたとき、我が国においても、学校無用論が浸透している可能性は否定しきれないと思います。勉強は塾や予備校でさせるから学校では疲れないようにしてほしいという保護者、グローバル化が進みITが単純作業を肩代わりする社会で今のような学校教育は意味がなくなるという未来予想、真のエリートは海外の学校で学ぶべきという考え方、学歴無用論と学校無用論の混同、学校制度を否定する言説は巷に溢れています。さらに、規制緩和こそ善という思想が、義務教育制度を否定する動きにつながる可能性もあります。
 学校に行くべきという「社会的圧力」は、別の見方をすれば、貴重な社会的財産なのではないしょうか。
 
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ありのままの

2019-08-30 08:27:24 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「生命尊重」8月26日
 『「ジビエ」野生呼び覚ます』という見出しの記事が掲載されました。『駆除されたシカやイノシシを、ライオンやトラなどの餌として与える大牟田市動物園の取り組み』について報じる記事です。具体的な様子も紹介されています。『毛や骨が付いたままのヤクシカに興奮したのか、日ごろはおとなしいホワイティ(トラ)は餌をくわえ獣舎の中をぐるぐると回り始めた。約20分間、くわえたり、なめたりを繰り返した後、皮をはいで肉をかじり~』と。
 記事によると、『欧米の動物園では近年、家畜をほぼそのままの状態で与える「屠体給餌」という取り組みが広まりつつある』とのことで、『野生動物本来の行動を呼び覚ますことで、オリの中での生活でたまったストレスを軽減』する効果が期待できるということでした。
 当然予想されることですが、一部には「かわいそう」という声もあるようです。しかし、私はこの「屠体給餌」というやり方に賛成です。以前、動物園で幼児が猛獣のオリに手を出し、手をかみちぎられるという惨事が発生したことがあります。その子は、絵本やアニメでみるトラやライオン、ヒグマやシロクマの愛らしい姿を頭の中に思い浮かべ、頭をなでなでしてあげようと思った、という趣旨のことを話していました。
 つまり、子供は野生動物の本当の姿を知らないまま、過剰な感情移入をしてたということです。私もそんな子供のことを笑えません。実際の野生動物の生態を知ろうともせず、勝手に擬人化して野生動物を見ていることが多いのです。
 ライオン親子を主人公にしたドキュメンタリーでは、何日も餌を獲れずに空腹で歩き回るライオンに同情し、草食獣を取り上げた番組では、間一髪ライオンから逃れることができたシカを見てホッとするという具合です。同じ行為を映しているにもかかわらず、設定によって、善人と悪人が入れ替わってしまうようなものです。
 動物を擬人化し、過剰に感情移入して可愛がるという行為は、真に動物を、その命を大切にしていることにはならないのではないかと考えます。生きるために殺して食う方にも、生きるために必死で逃げる方にも、同じように命のための必死な営みがあるというリアルな認識をもつことが、生命尊重の基盤であると思うのです。
 学校では、小動物を飼育する活動が盛んです。しかしそこに、保護されるべき命、人間より一段下にある命、という感覚を感じてしまうことがしばしばです。かわいそう、かわいい、という幻想だけで接している子供もいます。それは、本当の意味で生命尊重教育に結びついているのか、疑問に感じることもありました。
 生きるためには他の動物を殺す、それは我々人間も同じです。そうまでして生きてきたからこそ、生命は尊いのだという考え方、これが学校でも求められているのだと思います。
 
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傍聴可?

2019-08-29 08:20:40 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「傍聴可」8月26日
 『「議論活性化のため」「時代に逆行」批判も JOCが理事会を非公開に』という見出しの記事が掲載されました。『日本オリンピック委員会が、1989年の発足以来、報道陣に原則公開してきた理事会を来月から全面非公開にすることを決めた』ことについて報じる記事です。
 見出しにあるように『諸課題に対応していくには「議論の活性化が不可欠」』という山下新会長の提案について、『スポーツ界は近年、不祥事が相次ぎ、透明性の確保が求められている』と批判する見解が出されていることを報じ、疑問を呈するトーンが強く感じられる内容となっています。
 私も山下新会長の方針には反対です。しかしここではその是非を論じようというわけではありません。学校における主要な会議である「職員会議」について、公開を求められたらどのように対応すべきか、考えてみたのです。具体的にいえば、希望者の傍聴を求めよ、という要求が出されたら、どのように対応すべきかということです。
 学校には様々な会議があります。その全てを公開とすることは、学校側の負担が大きく、校務に支障が生じます。公開は現実的ではありません。しかし、職員会議だけに限定すれば、負担はそれほど大きくないとも言えます。いうまでもなく、公立学校の教育活動は国民の税金で営まれる公的事業ですから、納税者が望むならば原則公開という考え方があっても不思議ではありません。
 物理的にも、会議の様子を映像機器で中継して別室で視るという形であれば、かなりの人数に公開可能です。ヤジ等で議事進行が邪魔されるということもありません。日常的に公開ということはともかく、何か大きな注目を集める問題が議題となるときに限定すれば、校務に支障という理由で断ることは難しいような気もします。
 教科書採択時に教委に提出する意見書の検討の様子、卒業式等における国旗掲揚国歌斉唱の取り扱い、など、学校の判断に(一部の人の)社会的な関心が集まることは今までにもありました。また、不幸にして大きなケガや死者が発生した際の事前の決定の様子、例えば運動会におけるタワーやピラミッド等の実施の是非や臨海学校における遠泳の実施体制の検討など、メディアも関心をもちそうです。
 現状では、傍聴の要求が出されたという話はほとんど聞きません。しかし、それはそんなことは出来るはずもないと、保護者や市民が思い込んでいるからという面もあります。コロンブスの卵ではありませんが、誰かが一度要求すれば、「そんな手があったか」と、各地で傍聴を求める動きが活性化する可能性もゼロではありません。教委や学校は、今から対応を想定しておくべきだと思います。
 私の考えはシンプルです。傍聴要求に応じる必要はない、というものです。なぜなら、職員会議は意思決定機関ではなく、校長が意思決定する際の諮問機関にすぎないからです。学校としての意思決定過程を知りたいというのであれば、校長の頭の中を覗いてみるしかありません。それは不可能です。
 かつて、日教組や全教などの職員団体は、職員会議が学校の最高意思決定機関であるという主張をしていました。もし、その主張がまかり通っていたら、傍聴に応じる必要があったかもしれません。もっともそうなったら、保護者の前で非常識な意見をはき続けることが出来なくなって困る教員が少なからずいたことでしょう。

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注意しないというメッセージ

2019-08-28 08:46:36 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「無の意味」8月24日
 上智大教授碓井広義氏が、『鎮魂と継承 林京子の意志』という表題でコラムを書かれていました。その中で碓井氏は、『8月4日~18日の2週間、民放テレビには鎮魂も継承も見当たらなかった。いわゆる戦争特番、終戦特番と呼ばれる放送がほぼなかった』と指摘し、『ジャーナリズムとしての役割放棄だ。いや、役割放棄ならまだいい。戦争というテーマを「取り上げないこと」自体が民放テレビの意思だとしたら、問題はもっと深刻だろう。マスメディアの影響力は、何かを「伝えること」だけにあるのではない。何かを「伝えないこと」による影響も大きいからだ』と憂慮なさっていました。
 その通りです。そして、つい忘れがちな指摘でもあると思います。教員は、子供に対して、言葉で、行動で、表情で、声音で、仕草で、様々なことを伝えています。それを「指導」と呼ぶことは、誰でも分かると思います。しかし、教員の「指導」はそれだけではありません。何もしないこと、無視すること、座視することも大きな影響力をもつ「指導」の形態なのです。
 学校生活は、様々な約束事で成り立っています。例えば、授業中は手を挙げて指名されてから発言するというルールがあるとします。教員は挙手している子供を見て、誰かを指名し発言を促します。そしてその発言の意味や価値を判断し、授業の中で生かしていきます。当たり前の行為ですが、これが指導の一部であることは理解できると思います。
 しかし、授業中、いわゆる「のってきた」状態になり、手を挙げずに数人の子供が勝手に思ったことや感じたことを発言し出すことがあります。そのとき、それがとても「良い発言」だということで、教員が取り上げ、「今、○○君が言ったことだけど~」と授業を継続していくとします。それは、「手を挙げて、指名されてから言うんだったね」という注意をしないということで、授業中の発言ルールなんか破ってもいいんだよと伝えていることになるのです。
 その後、別の機会に手を挙げずに発言した子供に注意をしても、「先生ひいきしてる。○○君のときは注意しなかったのに。なんで僕だけ~」ということになってしまいます。これでは、教員と子供の信頼関係も継続した指導の一貫性も傷ついてしまいます。~をするという指導と同じように、~をしないという行為も指導なのだということを忘れてはならないのです。
 未熟な教員は、このことを理解せずに、なんでうちのクラスはルールが徹底しないのだろうと考え込み、子供が悪いと短絡的に結論付けてしまうことが多いものです。
 また、伝えないということでは別の懸念もあります。近年、教員の指導責任が問われるケースが増えています。そこでは、教員がこんなことを言ったから、あんなことをしたから、と追及されることになります。そこで、責任を追及されないために何も言わない、何もしないという風潮が広がっているのではないかという危惧を覚えます。
 指導に自信のない教員が、いじめがあることをうすうす感じていたにもかかわらず、気付いていながら適切な指導をしなかったと責められることを避けるために、あえていじめの現場に居合わせることを避け、何もせず、後日、「気付きませんでした。気付いていればきちんと指導していました」と言い訳できるようにするのです。こうした教員の行為は、いじめ加害者や傍観者に、「先生はいじめてもよいと思っている」という情報を伝えていることになります。いじめを勧めているのです。加害者側に加わっているのです。注意しないことが別のメッセージを伝えているのです。
 教員の仕事の難しさは、本人に自覚がなくても、伝えないということで意図しないメッセージが伝わってしまうところにあります。そして、常に必要なことを伝える、何回でも繰り返し、しつこいといわれても伝えることには、とてつもない忍耐力が必要になります。つい、いつも言っていることだからもう分かっているだろう、と一度くらい手を抜きたくなってしまうのが人間の性です。でもそれでは、教員の仕事は成り立たないのです。継続する根気こそ、指導力のある教員への道なのです。

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駄々っ子だと言うだけで

2019-08-27 07:48:12 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「悪い結果の責任」8月23日
 『米「韓国破棄に失望」 軍事情報協定 日韓改善要求』という見出しの記事が掲載されました。『韓国が日韓軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の破棄を決めた』ことに対する日米の反応を報じる記事です。全体を読んでとても違和感を覚えました。
 記事には、『まず国と国との信頼関係を回復し、約束を守ってもらいたいという基本的な方針は今後も変わらない。彼らが国と国との約束を守るように求めていきたい』という首相談話と、『地域の安全保障環境を完全に見誤った対応だ。失望を禁じ得ず、極めて遺憾だ』という防衛相談話が紹介されていました。それだけです。
 私も韓国の日韓請求権協定違反には腹が立ちますし、文大統領は、北朝鮮に併合されることを内心望んでいるのでは、とさえ思います。しかし、韓国は非常識だ、文大統領には常識が通用しないと批判していれば済む話ではないと思います。
 話は飛躍しますが、教員をしていると、「どうしようもないわけの分からない子供」に出会うことがあります。理屈は一切通用せず、自分の感情を全てに優先させ、周りの子供や教員が仕方なしに一歩譲ると、そのことに感謝もせずさらに駄々をこねるという始末に負えない子供です。
 周りの子供も毎回のことで呆れています。私もそんな子供N君を担任したことがあります。当時4年生担任でしたが、他の子供から「Nは赤ちゃんなんだよ。しょうがないよ」「何言っても無駄。先生、こいつ放っておくしかないよ」「こんなのがいたんじゃ、先生も大変だよね」などと、私が同情されるほど、N君は駄々っ子でした。
 当時の私は教員としては未熟で、子供に対する好き嫌いも激しく、子供に対して感情的になってしまうこともありましたが、どういうわけかN君のことは嫌いではありませんでした。ウマが合うというのでしょうか、可愛い奴という感覚でした。そして突き放すこともなくダラダラと緩い関係を続けていくうち、N君は少しずつ私の言うことだけは聞き分けるようになってきたのです。
 私の成功談を自慢するつもりはありません。ただ、相手が駄々っ子だからといって、その非を指摘し、糾弾するだけでは事態は改善しません。駄々っ子だということをしっかりと認識した上で、なんらかの具体的な対応をしていかなければならないのです。それが教員の務めです。
 もちろん、外交と教員の仕事は違うものですが、非難して切り捨てるのは素人でもできることだという疑問は捨て切れませんでした。
 
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疑心暗鬼を誰も指摘しない

2019-08-26 07:52:36 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「誰も触れない」8月23日
 『論点』欄は、『学校のスマホ解禁論』というテーマで、3人の方が自説を展開されていました。どれももっともな指摘だと思いましたが、不思議なことに、3人ともある問題点には全く触れていらっしゃらないのです。
 大津市長の越直美氏は、『スマホ中毒による学力低下や、ネットでのいじめの深刻化』を課題に挙げていらっしゃいました。兵庫県立大准教授竹内和雄氏は、『スマホ依存』の問題と『校内での保管』の問題を提示なさっていました。相模女子大小学部副校長澄井俊哉氏は、『(通学途中の)電車内や友代の写真を勝手に撮るケース』を例示なさっていました。確かにこれらも、課題には違いありません。しかし、私は、もっと大きな課題があると考えます。
 それは、以前もこのブログで書いたことですが、録音や録画機能による学校生活の記録と保存という問題です。教員の発言を録音し、「教員がこんなことを口にした」とSNSで拡散したり、動画をネットにアップしたりする行為が、学校生活に及ぼす影響は無視できないと考えます。音声も動画も写真も、ある部分、ある瞬間を切り取って間違ったイメージを与えることが可能です。悪意で、或いは深く考えずにほんの悪戯心で、教員や級友を傷つけることができてしまうのです。
 私の知り合いの40代の女性教員は、「そんなことしていると先生がキスしちゃうぞ」と男児を叱る口癖がありました。もちろん冗談ですし、実際にキスしたことは一度もありません。子供もそのことを承知しています。母親のような女性教員にみんなの前でキスされるなんて、小学校高学年の男児にとっては叩かれるよりも恐ろしい罰です。言われた子は首をすくめてお喋りをやめ、教室は笑いに包まれ、また授業が再開される、そうした日常的な光景です。
 でも、このとき一人の子供がスマホの録音機能を使い、「キス~」を録音し、それを「中年エロ女教師」というタイトルで拡散させたらどうなるでしょうか。もちろん、この女性教員の口癖には問題ありです。私も指導主事としてやんわりと注意しました。しかし、これに類したことは、学校ではそれほど珍しいことではありません。
 学校では、一日7時間近く教員と子供がともに時を過ごします。人間関係がつくられていけばいくほど、その関係の中で存在する独特な言い回しや言葉遣いがあるのが現実です。しかし、そうした人間関係や雰囲気を理解しない第三者にとっては、「こんなことを言うなんて」と受け止められる可能性が高く、一度批判が拡散すれば、それは大問題となり、その学校を揺るがす騒動となるはずです。
 そうした事態を防ごうとすれば、教員は子供との接触を減らし、会話を減らし、学校がギスギスした雰囲気になってしまうというのは避けられません。どうして誰もその危険性を見ようとしないのでしょうか。
 
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私は違いますが

2019-08-25 08:09:35 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「一人残さず?」8月23日
 『進まぬ日本の同性婚論議』という表題の特集記事が掲載されました。その中に、記事を書かれた和田浩明記者の『これまで話を聞いてきた同性婚を求める当事者の人たちは、みな懸命に生き、愛する相手との家庭を保とうと奮闘していた』という述懐が述べられていました。
 以前目にしたことのある表現と似ている、と思いました。私は同性婚の法制化に賛成です。その理由も、和田氏と同じ『一生を共に過ごしたいと考える相手との安定した結びつきと、その社会的承認を求めるのは、人としてごく自然な感情だろう』という認識にあります。ですから、記事全体が訴えかけていることには大賛成なのですが、先の記述には違和感を覚えるのです。
 それはへそ曲がりな皮肉屋の感想なのかもしれませんが、同性婚を求める人たちの中にも、ちゃらんぽらんな生き方をしている人もいるはずだし、家庭を保とうとせずに別の相手との刺激的な恋愛を求める人もいるはずだと考えるからです。実際、同性パートナーとして「結婚式」を挙げながら、その後「離婚」するケースは珍しくはありません。100人の同性事実婚の中に、私のような浮気者やだらしない人が、2、3人いると考えるのが現実的です。
 同性婚を求める人たちは、今の社会では「弱者」かもしれません。弱者に寄り添い、応援したいと考える心優しき人たちの中に、「弱者」を聖者のように崇め奉り、こんな素晴らしい人たちが苦しんでいるのだから、と理解と支援を求めようとする傾向があるように感じています。そうしたアプローチは、「弱者」が何か望ましくない行為をしたときに、大きな反動をもたらし、かえって理解と支援を遠ざけてしまう危険性があると考えます。
 私は、教委勤務時代に、同和問題や障害者差別、外国人差別などを担当する人権教育を推進するポストにいたことがあります。そのときに、この差別を受けている人=「弱者」=清らかな心の持ち主という図式に酔う人たちを目にしたのです。しかし、実際には、障害のある子供の嘘をつきますし、いじわるもします。差別を受けている外国籍の子供の飛行も珍しくありません。誤解のないように言っておきますが、彼らに問題行動が多いと言っているのではありません。障害のない日本国籍の子供と変わらないと言っているのです。
 そして、嘘も非行も、障害の有無や国籍に関係なく、叱るときには叱らなければならないのです。いいにつけ悪いにつけ人間としてみな同じと特別視しない、それが本当に理解し尊重するということなのです。「弱者」を聖者に祀り上げた支援は、「そんなことをする子じゃないと信じていたのに裏切られた」という不幸な結果をもたらしかねないのです。 教員の中でも、若くて経験の乏しい者こそ、「弱者=聖者」的な見方に傾きがちです。自分は善意の人だと自覚している教員ほど、要注意です。
 
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広く浅くも狭く深くも

2019-08-24 08:12:37 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「どちらも必要だけど」8月18日
 書評欄で、甲南女子大人間科学部教授米澤泉氏が、ファッションをテーマに3冊を選び論じていらっしゃいました。その中で米澤氏は、『たった一人を魅了するか、一億人に届けるか。言葉にできないものを表現する服か、生活をよくするライフウェアか。同じ服でありながら、両者の間には深淵が横たわっているのだろうか。いや、そんなことはないはずだ』と書かれています。
 ファッションのことは何一つ分かりません。ファッションがテーマなのに服のことばかりで、靴や帽子、小物については触れなくていいのか、とは思いましたが、そんな感想自体が的外れなのかもしれません。
 それよりも、米澤氏の「問題提起」は、教育にも当てはまると思いました。このブログでも教員論として再三取り上げた、一人の子供にとって良い影響を及ぼした教員が、良い教員だと言ってよいのか、という問題に通じます。教委勤務中に担当した「指導力不足教員研修」で出会った中学校社会科のA教員、一方的に話すだけで授業が成立しない教員でしたが、3人しか部員がいない歴史クラブの顧問として、休日返上で生徒と神社仏閣、古跡を巡り、「私はこんなに生徒に好かれている」と生徒と並んでとった写真を見せてくれた彼は、良い教員とは言えないと私は結論付けたのでした。確かに3人の生徒は笑顔でしたが、その一方で、彼は百数十人の歴史嫌いを生んでいたのですから。
 A教員の例だけでなく、私は、公立学校の教員は、ある個性をもつ一人の子供のために存在するのではなく、広く薄く、ほとんどの子供にほんのわずかの望ましい影響を与える存在であるべきだという主張をしてきました。「たった一人を魅了するか、一億人に届けるか」で言えば、後者の立場だということです。
 しかし、米澤氏が「両者の間には深淵が横たわっているのだろうか。いや、そんなことはないはずだ」と、どちらも必要だという見解を示していらっしゃいます。実は私も、教育、あるいは指導者と指導を受ける者との間の関係としては、どちらも必要だと考えているのです。ただ、必要とされる場が違うと考えています。学校教育は、後者でなければなりません。しかし、家庭や特殊なケースでは異なります。家庭では、保護者はごく少数の我が子にとって良い指導者でありさえすればよいのです。また、芸術やスポーツの分野で一流となる者の場合、多くは強烈な印象を刻み込む指導者、その指導者との相性の良さが必要でしょう。一流同士が共鳴しあうような関係、それが不可欠なように思われます。
 大切なのは、そうした特殊なケースの指導者と指導を受ける者の関係を理想化し、それを学校教育における教員に求めてしまう言葉ないように留意することなのです。ヘレンケラーとサリバン女史のような関係を学校の場で期待してはいけないということです。そんな非現実的な要求は、押印を苦しめるだけで何の益もありません。
 

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ぴったり

2019-08-23 08:13:11 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「ぴったり」8月18日
 女優東ちづる氏が、『戦争起こさないための教育を』という表題でコラムを書かれていました。広島出身の東氏は、小さい頃から「平和教育」を受けてきたことに触れ、『大人になって、「平和教育を受けて育ってよかった」と心から感じている』と述べていらっしゃいます。
 その上で、ドイツの学生たちとの対話で受けたカルチャーショックを次のように語っています。『彼らは「戦争は悲惨だ、残虐だ」という私とは違い、戦争はなぜ起こったのか、ヒトラーはなぜ大きな過ちを犯したのか、原爆はなぜ阻止できなかったか、なぜ今も戦争行為が絶えないのか、今、そしてこれからの自分たちに何ができるのかを発言したのです。そのために、過去の戦争の歴史を時間をかけて深く学び、考え、自分の言葉での議論を重ねてきていると言いました(略)私は感情的に戦争を知ったつもりになる「平和教育」を受けたので、戦争について思考停止状態で空気のような平和に慣れ、現状の変化に鈍感になっていたのでしょう。猛省です』と。
 手前味噌になりますが、東氏がカルチャーショックを受けたドイツの教育は、私がこのブログでしつこいほど繰り返してきた、論理的分析的な「戦争阻止教育」そのものだと言ってよいと思います。そういえば、一昨日もノンフィクション作家保阪氏のコラムに関連してこのことを書いたばかりでした。
 拙著「断章取義」でも、5回にわたって我が国特有の情緒的平和教育の限界を指摘し、戦争が起きるメカニズムについて学び戦争への道を歩みだす第一歩を阻止するために何をすればよいかを学ぶ学習を構想することの大切さを主張してきました。今回の東氏の気付きとまさにぴったりと一致するものです。拙著の宣伝をするわけではありませんが、ぜひ一度読んでいただきたいと思います。
 蛇足ですが、ナチスと大日本帝国の戦争は、共に連合国によってニュルンベルク裁判、東京裁判で裁かれましたが、その実相は大きく異なるものだったと考えます。しかし、共通していたのは、国民も共に創り出していった「空気」が戦争への道を進む後押しをしたことです。遠くでかすかに聞こえた戦争の足音に気付きながら、「わざわざ自分が声をあげる必要はない」「まさかそんなことにはならないだろう」と傍観者的な態度で見ないふりをしていた結果が、戦争へと向かう激流に、大河になっていったということです。
 無責任な傍観者となり結果的に自分が加害者と被害者になるという悲劇を防ぐためということで考えれば、論理的分析的な戦争阻止教育は、民主、自由、人権を守り抜く主権者教育の中核をなすべきものでもあるのです。
 
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べしゃり好き

2019-08-22 07:50:13 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「私もその一人」8月17日
 川柳欄に、福岡市A氏の『お喋りが好きで会話のできぬ人』という句が掲載されました。会話が成り立たないというと、極端に無口な人が浮かびますが、実際には、話すことが大好きで、一度話し出すと止まらないというタイプの人ほど、会話が成り立たないという現実を表現した句です。
 実は私は、典型的なこのタイプです。教員になったとき、当時の校長が私につけたあだ名が「ムクチ」でした。無口ではなく、6つのくちがある、つまり人の6倍話す「六口」という訳です。職場結婚したつれあいも、いつでも職員室で私の声がしていた、と言っています。当時はうるさい人だなと思っていたとも。
 会話はやり取りです。話すと聞くのバランスが良くなければ成り立ちません。人は誰でも本質的には話したがりなので、会話の達人は、話すが3割聞くが7割くらいです。それでも、相手からすれば五分五分という受け止め方なのです。私は、話す9割聞く1割くらいでしたから、「六口」というあだ名も当然でした。
 そして、良い授業は、会話なのです。子供同士、子供と教員の間で会話が成り立っているのが良い授業なのです。私は授業の下手な教員でした。若いころは、自分が話していると、気分がよくなり、どんどん話が広がっていってしまい、授業時間が終わってしまうという感じでした。仲人を務めてくれた校長は、私のそうした部分に危惧を抱き、あだ名という形でやんわりといさめてくれていたのだと思います。
 授業記録をとるようになり、自分の欠点を自覚するようになった私ですが、20年後にかつての自分の分身のような教員に出会うことになりました。教委で「指導力不足教員研修」を担当したからです。受講者の多くが、「話し好き」でした。特に中学校の教員は、自分が歴史が好きだったので社会科の教員になった、というタイプの者が多く、話し出すと止まらない者が何人もいました。
 特に話し好きだった、A教員などは、まるで講釈師か何かのように、身振り手振りを交え、50分間、夏でもないのに汗をかきながら話し続けたものでした。その表情はとても楽しそうで、授業を終えたときの彼の顔は、まさに満足感で輝いていたものでした。生徒は、ノートにいたずら書きをしていたり、窓の外を眺めたりしていましたが、そんなことにも気がつかず、今日の授業は良かったと自画自賛する彼は、まさに「お喋りが好きで会話ができぬ人」でした。
 教員の話し好きは、間違いなく欠点です。授業が講義や演説になり、教育相談が説教と自慢話になってしまうのです。もし、話し好きを自認している若い教員がいれば、今すぐ自己改造に取り組まなければなりません。
 
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