ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

ごめんなさいの一言で

2021-02-28 08:42:56 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「関係を見直して」2月23日
 専門記者大治朋子氏が、『謝罪のコスト』という表題でコラムを書かれていました。その中で大治氏は、神戸大学大学院教授大坪庸介氏の論文を紹介しています。『相手との関係を続けることに価値を感じ▽このままでは許してもらえない-と考えると「コストをかけてでも謝罪しようとする傾向」が見られる』というのです。
 そしてそのことから、『何をやっても許してくれそうで、長期的な関係性に影響を及ぼしそうにないと感じると「言葉だけの謝罪で十分」と考えてしまいがちなのだろう』とし、昨今の政治情勢へと話が移っていきます。その分析には私も同感ですが、ここでは学校における謝罪について考えたいと思います。
 多くの子供が長時間共に過ごす場である学校は、日常的に大小様々な問題が起き続ける場でもあります。そして、多くのトラブルの解決には、真実の究明・責任の所在の確認・謝罪と許しという過程が必要になります。つまり学校は、謝罪と許しの場でもあるということであり、謝罪が正しく行われることが問題解決に必須の条件であるということです。
 子供同士のトラブルでは、謝罪も許しも子供が行います。一方で、直接的な被害者がいないケース、つまり学校のルールや約束事が破られたときの謝罪は、叱った教員に対して行われることが一般的です。授業中の私語、掃除当番のサボり、器物の破損、校舎内を走り回るなど、実際には他の子供の学校生活や学習権に悪影響を与える行為であり、被害者は他の子供たちなのですが、教員がそれらの被害者の代わりに謝罪を受け、許しを与えるという形です。
 その「謝罪」には、十分なコストが払われているでしょうか。言葉だけで、つまり上辺だけ、形式的な謝罪に陥ってしまっているケースが多いのではないでしょうか。「謝罪」する子供の心の中を文字化すれば、「はいはい、分かりました。謝ればいいんでしょ。頭も下げますよ。気が済んだ?はい儀式はお終い」というような感じでしょうか。特に反抗的な子供というわけでもない普通の子供の場合でも。
 こうした上辺だけの謝罪を重ねる経験は、子供に中に謝罪=言葉で形式的に行う儀式という認識を植え付けてしまいます。それは自分の責任や結果の重大性のへの認識を麻痺させ、むしろ自分は不当に、過剰に責められているという被害者意識を増長させることにつながり、現在の子供たちが主役となる将来社会の倫理観の欠如をもたらし、社会を荒廃させることになります。
 大治氏の考察に従えば、言葉だけ上辺だけの形式的謝罪が横行するのは、教員が形だけの謝罪を安易に受け入れて緩してしまうことに原因があることになります。許すのは簡単なことです。しつこい奴と子供に嫌われることもありませんし、寛大な心の大きな人という印象を与えることもできます。一方、本気で叱り、本当に心からの謝罪か否かを見極め、子供が納得するまで説くのは、子供理解力と根気がいることです。易きに流れるのは人間の性、教員は常に自戒しなければなりません。
 

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必修科目に

2021-02-27 08:36:42 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「絶対必要」2月20日
 書評欄に、社会学者橋爪大三郎氏による『新プロパガンダ論 辻田真佐憲、西田亮介著(ゲンロン)』についての書評が掲載されました。その中で橋爪氏は、辻田氏の『《今後出てくるであろう、高度に洗練された種々のプロパガンダに騙されにくくするため》にも《プロパガンダの歴史や事例について知らなければならない》』という言葉を紹介し、『傾聴すべき提起』であると評価していらっしゃいました。
 同感です。しかし、今までこうした取り組みは、学校教育では十分に行われてはいませんでした。私はこのブログで、学校教育に次々と新たな教育課題が持ち込まれ、それが学校と教員を疲弊させている原因の一つであると指摘してきました。ですから、きちんとした吟味されないまま、また、スクラップ&ビルドの発想で現在ある「無駄」を省くという手順を踏まずに野放図に導入される新課題については批判的な立場でした。
 しかし、この「対プロパガンダ教育」については、ぜひ導入すべきであると考えます。戦後教育の出発点である、民主的な社会の形成者を育てるという目的から考えて、とても重要な取り組みであり、その重要性は、ICTの発展に伴って誰もがプロパガンダに接しやすくなっている現在、大きくなる一方だからです。
 どのような教育内容、方法を取るべきかということが問題になりますが、そのヒントは先の辻田氏の言葉の中にあります。プロパガンダの「歴史」と「事例」に学ぶことです。最近で言えば、先日の福島宮城両県を中心に震度6強の地震が襲った際に、外国人についてのデマがネット上に掲載されました。発達段階に応じてこれについて取り上げることで、時事性のある学習が可能になるはずです。
 また、中高生であれば、他国の事例、米国のQアノンなどのフェイクニュースを取り上げることも効果的でしょう。さらに、現在の事例にこだわらず、過去の事例、例えば関東大震災の際の朝鮮人虐殺、戦時中の大本営発表などについても、従来の歴史学習における扱いを一歩深め、「対プロパガンダ教育」の側面に焦点を当てて内容を再構成することも有効だと考えます。
 事の性質からして、当初は社会科の教員が中心にならざるを得ませんが、将来的には総合的な学習の時間で一定割合を割くようにし、全教職員で取り組めるような体制を創り上げていくことが望ましいと思います。すぐにも取り組みを始めるべきです。

 

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「その人」はどこにいる?

2021-02-26 08:08:52 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「どこにいますか」2月19日
 人生相談欄で、コラムニストジェーン・スー氏が、『人に相談する勇気出ない』という17歳女性の相談に答えていました。誠実でまともな回答でした。その最後は『相談者さんの役に立ちたいと思う友人も、必ず一人はいるはずです』という言葉で締めくくられていました。私もそう思います。
 しかしそう思う一方で、そんなことは相談者の女性も分かっているのではないかと思いました。世界中に70億人、日本だけでも1億人以上の人がいます。「役に立ちたいと思ってくれる人」が10万人に一人いるとしても、日本だけで1000人以上いる計算になります。多いですね。十分すぎるくらいです。しかし、どうすればその「一人」に巡り合うことができるのか、巡り合ったとして、どのようにその人が捜し求めていた人だと判断すればいいのか、それが分からないのが一般の多くの人であり、相談者もその一人なのではないでしょうか。
 教員も、子供や保護者から様々な相談を受けます。「自分なんか~」と涙をこぼす子供に、「あなたの良さは先生が分かっている」と言うことはできます。でも、子供は子供を理解するのが仕事の教員という立場にある人に認められ承認されたいのではなく、自分と同じ子供の中に理解者・支持者が欲しいのです。
 そのことを理解している教員は、「あなたの良さを分かってくれる友達は必ずいるよ」と言います。私も同じような言葉を口にしたことがあります。良い子は先生を困らしてはいけないという良識を働かせ、また、話を聞いてくれたということに感謝もし、納得したような顔をして帰っていきますが、実際には何も問題は解決してはいないのです。その子供は、「先生、その友達は誰なの?どこにいるの?」と訊きたかったはずなのです。でも、教員がその問いに応えられないことを知っているから訊かないのです。
 若い日の私は、抽象的な綺麗ごとでその場をごまかしてしまいました。しかし、多くの経験を経た今、同じ状況に直面したとしたら、もっとうまい対応ができるかと言えば、できません。きっと、同じような対応をするはずです。それ以上できることといえば、手を握って見つめてあげるか、ハグして背中に手を置いて掌の温かさを伝えるくらいです。ただし、男の子の場合ですが。
 正解の対応ができるスーパー教員はいるのでしょうか。

 

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コペルニクス的転換だと思ったが

2021-02-25 08:39:55 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「コペルニクス的転換」2月19日
 論点欄は、『宗教のオンライン化』というテーマで3人の識者が自説を展開なさっていました。その中で、築地本願寺宗務長安永雄玄氏の言葉に驚かされました。安永氏は、『お寺は教義を伝える場ではなく、信者さんたちの要望に応える場だ。その人たちが今、オンライン化の中にいる。変化に対応しないお寺は忘れ去られていくだろう』と述べていらっしゃったのです。
 すごい、すごすぎる!というのが感想でした。寺という宗教施設、布教の最先端の場を、教義を伝える場ではないと言い切っているのです。それは、学校は知的な内容を教える場ではない、というのと同じくらい斬新で、衝撃的な発言だと思います。宗教のことは素人なので、ここでは学校のことに絞って考えてみます。
 もし、学校教育に深くかかわってきた「学校村」の人間から、学校は学ぶ場ではない、教える場ではないという趣旨の発言が全国紙で行われたとしたら、私はそのことに対してどのように反応するだろうか、と考えてみました。
 これまでの私は、そうした見解に反対の立場でした。このブログではむしろ「学校は学ぶ場」という原点に立ち返り、その視点から余分なぜい肉をそぎ落とすことを考えるべきだという提言を繰り返し行ってきました。社会情勢や政治の要請などにより次から次へと持ち込まれる新たな教育課題についても見直し精選が必要で、読み書き算盤という基本的な学びにより多くのエネルギーを費やすべきだとも言ってきました。
 また、学校サービス機関論、教職サービス業論にも反対してきました。商店や企業が顧客の要望に沿って商品や営業形態を変えるように、学校も子供や保護者の要求に応じて提供する教育サービスを柔軟に変えていくべきという発想を否定し、学校教育には時代が変わっても変わらずに残すべき根幹があるという考えだったのです。
 だからこそ、教員の本文は授業にあるとし、授業の専門家、教えるプロとしての誇りと自覚をもって、教員は専門職として授業力の向上に全力で取り組むべきだと主張し、授業力の向上は、実際の授業を通してしか望めないと、JOTこそ重要だという提言をしてきたのです。
 その延長線上で、学校に民間経験者を教員として積極的に迎え入れるべきという主張には、「確かに商社マンは貿易や経済の実際に詳しく知識も豊富だが、経験や知識の豊富さは子供に授業で教えることの巧みさとは比例しない」と指摘し、懐疑を示してきたのです。
  しかし、安永氏の「寺院論」ように、学校観を根底から覆されてしまったとしたら、しかも「変化に対応しない学校は忘れ去られてしまう」とまで言われたとしたら、正直なところ茫然自失となってしまいます。そんな「新時代」が現実のものになったとしたら、学校はどんな姿になっているのでしょうか。クラクラします。

追伸 翌日、小さな訂正記事が出されました。「お寺は教義を伝える場ではなく、信者さんたちの要望に応える場だ」ではなく、「お寺は教義を伝えるだけの場ではなく、信者さんたちの要望に応える場だ」だということでした。それなら私の書いた上の文章は何だったんだということになりますが、そのまま載せることにしました。

 

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対処は当然、予防まで

2021-02-24 07:53:40 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「偏見に働きかける」2月17日
 『不安が生むコロナ差別』という見出しの特集記事が掲載されました。社会心理学を専門となさっている近大准教授村山綾氏へのインタビューを中心に構成された記事です。その中に『「差別」と「偏見」は異なる概念だ(略)特定の社会的カテゴリーの人たちに抱くイメージ(ステレオタイプ)に、好き嫌いなどの感情が伴ったものが「偏見」と定義される。「差別」は、「偏見」や「ステレオタイプ」に基づいて、そのカテゴリーの人たちに対して、何らかの行動を起こすことを指す』という記述がありました。
 そして村山氏は、『私たちは誰でも偏見を持つ可能性はあり、偏見やステレオタイプは表に出ない限り社会問題ではない、と現状では割り切るしかない。偏見を差別という実際の行動につなげないよう、そこで止める方策を考えることです』と語られていました。
 村山氏は、差別に対応する条例や制度について論じられる中でこうした発言をなさっています。賛成です。もし、個人がひそかに抱いている「偏見」を暴き立て罰するような世の中になれば、それはどんなにか息苦しい管理社会となってしまうか、想像するだけで恐ろしくなります。
 法令や制度はそれでいいでしょう。しかし、学校教育は「差別」を阻止するだけでは十分ではありません。子供の心の中にある「偏見」や「ステレオタイプ」をなくしていくことを目指さなければなりません。しかしこのことはとても難しいことです。
 教員自身が「偏見」や「ステレオタイプ」にとらわれているからです。女子は~、男子は~という言い方をよく使ってはいませんか。男性は女性は、についてはどうでしょうか。お年寄りは~も、教員の頭の中にある「お年寄り像」に基づいて使われてはいませんか。
 「障害のある方は~」「アメリカ人はね~」「お医者さんは~」「お笑い芸人は~」、何気なく話すときにそこにステレオタイプな見方が隠れていることはありませんか。私はありました。今もあります。つれあいとの会話では、「ステレオタイプ」満載です。決して自己弁護でいうわけではありませんが、多くの人がそうだと思うのです。
 しかし、子供に物事の見方や捉え方、価値観を育む立場にある教員は、少なくとも子供の前に立っているときには、もっと注意深い存在でなければならないのです。子供が差別的な言動をしたときにすかさず注意し指導するのは、教員であれば誰しもがしていることであるはずですが、それは「対処」に過ぎません。それに加え「予防」的措置として、日頃の自らの言動を脱差別、脱ステレオタイプで律すること、それが教員の務めなのです。

 

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「強要」する教員

2021-02-23 08:15:24 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「強要」2月17日
 『黒染め強要訴訟 頭髪指導「妥当」 大阪地裁判決』という見出しの記事が掲載されました。先日も触れた『髪を黒く染めるよう教員に強要されて不登校になったとして、大阪府羽曳野市の府立懐風館高校に通っていた女性(21)が慰謝料など約220万円を求めた訴訟』の判決について報じる記事です。
 判決は指導の妥当性を認めるものでしたが、その是非についてはここでは触れません。気になったのは、「強要」という表現です。見出しには「黒染め強要」と書かれていますし、本文中でも、「教員に強要」「黒染めを強要」「黒染めの強要」と繰り返し使われています。
 「強要」という言葉のイメージは、一般的にはあまり良くありません。辞書的には「(嫌がっていることを本人の同意なく)無理矢理させようとすること」というような意味であり、今回の事例に当てはめれば、嫌がる女生徒を複数の教員が抑え付け、髪染め液を頭に擦り付けているような光景が連想されてしまいます。実際には、『教員から黒く染めるよう再三指導され』ていたということなのに、です。つまり、学校や教員を過剰に悪者に仕立てあげる表現のような気がしてならないのです。記事を書いた記者の「髪染め校則は悪」という価値観が強く反映された表現なのではないかと思えてならなかったのです。
 しかし、更に考えているとまったく逆の考えが浮かんできました。そもそも学校教育において「強要」は必要不可欠なものであり、強要であると言われても何ら恥ずべきことはないという考えです。
 先ほど述べたとおり、相手がしたくないことを無理矢理させるのが強要であるわけですから、「箒でチャンバラなんかしてないでちゃんと掃除しなさい」と注意することも強要ですし、「よそ見していないで黄色チョークで囲んだところをノートに写しなさい」と指示することも強要になるわけです。そう考えれば、教員の仕事の大部分は、子供に強要することだと言っても過言ではありません。
 このように書くと、それは管理教育的発想であり、本当の教育は、子供に丁寧に説明し、子供の意見も聞きながら話し合って心から納得させて行動改善を促すものであるべきだというような反論が返ってきそうです。そうした考え方に、私も同意できる部分はありますが、それではどうしても子供が度納得しないときにはどうするのかという問題が生じます。シャンバラを続けて掃除しない子供を黙ってみているだけというのでは教員失格といわれても仕方ありません。
 また、教育にはとにかくやらせてみて、実際に体験することで子供自身がそのことの価値に気付くという指導法があることも紛れもない事実です。常に説明と納得というのでは、指導法が狭まってしまうのです。
 強要の教育的効果や必要性を肯定しつつ、強要という言葉のもつ否定的なニュアンスのない表現はないものでしょうか。

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機械か、大衆か、それとも…

2021-02-22 07:55:13 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「機械判定」2月16日
 富澤一誠氏が、歌手おかゆさんが出した『おかゆウタ~カバーソングス~(ビクター)』についてコメントされていました。その中に、『スポーツには絶対的価値観がある。100㍍走でいうなら9秒9で走る人は10秒0で走る人に必ず勝つ。つまり数字が絶対というわけだ。しかし、音楽など芸術は数字が絶対ではない。カラオケで歌って100点を取ったからといって売れるという保証はない。逆に点数が低い方が大ヒット曲となることもある。だとしたら歌の価値基準はどこにあるのか?それは心の琴線に触れる“何か”というしかない』という記述がありました。
 富澤氏は、芸術の評価の難しさを指摘なさっているのです。私はこのブログで、主に図画工作・美術の評価問題について触れてきました。客観性や説明責任を果たす評価は可能か、可能だとすればどうあるべきかという問題意識です。ですから富澤氏のコメントに注目してしまったのです。富澤氏の主張を詳細に見ると、まず、機械による正確さの測定ではだめだと言っていることが分かります。例えば写生画を例に考えてみると、ある風景を描かせ、完成した絵と同じ時間に撮影した写真をAIに比較させ、一致点が多いほど良い写生画であるというような評価は適切ではないということです。客観性という点では優れているのかもしれませんが、まあ当たり前の感覚です。
 百歩譲って写生画のような場合はAIを活用するとしても、比べる「具体物」がない抽象画や何が何だか分からない立体作品などはどのように評価すればよいのでしょうか。富澤氏は「大ヒット」という言葉を使われています。つまり、大勢の支持ということです。図工の時間に当てはめるならば、子供の作品を匿名で陳列し、全校の子供や保護者、教員などに投票させるというような評価の方式が想定されます。この際、投票する人たちの美術的な感性や知識の多寡は関係ありません。ヒット曲は音楽の専門家が選ぶのではなく、私のような何の音楽的素養のない者が生み出すからです。この手法を毎回とることは困難ですが、理屈としては、客観性も説明責任も一応はクリアできそうです。
 しかしこれでは、そもそも評価者として、美術指導を専門に学んだ教員が存在する意味がありません。また、別の問題として、子供や保護者など「素人」の評価が、学習指導要領に定める指導内容に対応した評価になってはいないという問題が生じてしまいます。
 さらに、「大衆の支持」を基準にしてしまうと、「大衆」はその所属する文化の影響を強く受けますから、同じ作品がある地方や地域では好まれ、別のところでは不評を被るという違いが生じることも考えられます。そうなると、我が国の義務教育は全国統一基準で進められるという原則にも反します。
 結局、「数字」でも、「大衆の支持」でも芸術教科における評価問題は解決しないのです。多くの子供は保護者が芸術系教科の評価に疑問や関心を示さないことに救われていますが、この問題は芸術系教科に評価は必要か、評価できない者が学校教育ぬ必要かという「そもそも論」に発展すべき大問題だと思うのですが。

 

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子供のことは何でも私が知っているんです

2021-02-21 08:18:54 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「拒否できる?」2月16日
 精神科医香山リカ氏が、『相手を尊重するとは』という表題でコラムを書かれていました。その中で香山氏は、『「患者さんの家族に診察室に入ってもらうかどうか」の問題』について論じられています。
 『ここ数年、からだの診察の学びなおしのため、内科の外来でも診察させてもらっている』という香山氏は、『精神科では基本的に、患者さんはひとりで診察室に入ってもらい、面接を行う。中学生でも高齢者でも、付き添いの家族には「のちほどお話を聞きますね」と待合室で待ってもらう』のだそうです。しかし、『内科の診察も、長年のくせで「まずは患者さんおひとりで」と言うようにしていたが、なかなか理解されない(略)いまはいっしょに入ってもらうことが多い』ということで、本当はどうすべきなのか悩んでいるというのです。
 とはいえ、元々が精神科医の香山氏は、『「私は、まずあなた自身の話を聞きたいんですよ」という態度を医者が見せることで、その人は「私は尊重されている」と感じることだろう』と書かれており、「まずは一人で」派であることが窺えます。
 教員の場合はどうでしょうか。子供の場合、表現力が不十分なため自分が思っていることや感じていることを的確に表現できないケースがあります。また、いじめなどのトラブルの場合、我が子が不利にならないよう保護者が同席を強く求めてくることも増えています。ですから、子供への聞き取りよりも保護者からの話を聞くことを優先させたり、子供との話し合いの場に保護者を同席させたりする教員もいるはずです。もちろん、それが悪いことだと言っているわけではありません。
 しかし、子供にしてみれば、保護者がいるから話せないことがあったり、どうせお母さんが先回りして話してしまうんだから自分が何か言っても仕方がないと思ってしまったりすることもあるはずです。さらに、自分よりも保護者の話を信用し耳を傾けようとする教員に反感を抱くこともあるでしょう。香山氏が指摘している通り、自分は尊重されていないという感覚をもってしまうということです。
 教員も香山氏と同じように、子供の話を聞くとき、どのような環境が相応しいのか熟慮することが大切です。

 

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意地の悪い見方

2021-02-20 08:39:59 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「白が黒に」2月15日
 三木陽介記者が『告白』という表題でコラムを書かれていました。小5の息子さんからカンニングをしたと告白された話です。『怒るべきか否か。逡巡していると、「教室に書いてあった」と息子。どうやら、「じょうぎ」の漢字が分からず、顔を上げたら目に入ったらしい。掲示板の持ち物のところに「定規」の2文字が』という顛末です。
 この続きは『答えを見てしまった罪悪感から、わざと誤答を書いたらしい。「黙って書いときゃいいのに」と思わず本音が出てしまったが、すぐに言い直した。「勇気を持って言ったのは偉い」』となります。よく分かりません。何が偉いのか、がです。
  息子さんは、漢字テストの「じょうぎ」の欄に×がつき、減点されました。実際に分からなかったのですから×がついているのは息子さんの実力を正確に反映しています。もし、「告白」するのであれば、勉強不足でできなかった、今度はもっと頑張るという内容になるのが普通です。
 それなのに、訊かれてもいない掲示板のことを持ち出し、正解を書こうと思えば書けたけれど良心が咎めたので書かなかったという、「私は正直で良心的」というアピールをし、その結果勉強不足という叱責を免れ、勇気があるという称賛まで受けてしまうというのです。自分にとって不利益なことでもあえて言うのが「告白」だとすれば、これはあてはまりません。
 えっ、ずいぶん意地の悪い見方だって。その通りです。今回はわざと意地悪くひねくれた見方をしてみました。もし私が三木氏の立場なら同じようにその正直さと勇気を褒めたでしょう。それでいいのです。ただ、物事にはいろいろな見方があるということを言いたかっただけです。
 もしこの「告白」の相手が父親である三木氏ではなく、担任の教員だったとしたらどうでしょうか。未熟な教員であれば、掲示板に正解があることに気がつかなかった不注意を指摘されていると感じ、不快に思ったかもしれません。褒めるどころではなく、「普段から教室内の掲示物をきちんと見ているかを試すためにわざとやったんだよ」くらいのことを言い返したかもしれません。
 姑息な教員であれば、全員分の答案用紙を見直さなければならないこと、そのことが保護者にしれれば苦情を言われるかもしれないことに思いを致し、「そうだったんだ、それでは○ということにしておいてあげるから、他の人には言わないように」と口止めをするかもしれません。
 あるいは、「どうしてその場ですぐ言わなかったんだ。そうすれば~」などと自分の不注意を棚に上げて、息子さんを責めたかもしれません。
 ある出来事に直面したとき、そのことをどのように捉え、どのように対処すべきかを瞬時に判断し、良かったことを認めて褒め、問題点を指摘して取るべきだった行動を示唆することができるか、それが教員の指導力です。広くとらえれば、子供に接する大人全てに問われる資質とも言えます。
 言うまでもないことですが、「黙って書いておきゃいいのに」は最悪です。

 

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論点のずれ

2021-02-19 08:22:34 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「ずれてる」2月14日
 『頭髪校則 どう裁く』という見出しの記事が掲載されました。『生まれつき茶色の髪を黒く染めるよう学校から強要されたとして、大阪府羽曳野市の府立懐風館高校に通っていた女性(21)が、約220万円の慰謝料などを府に求めた訴訟の判決が16日、大阪地裁で言い渡される』ことに関連して、いわゆる「ブラック校則」について論じる記事です。
 記事では、『下着の色を白に指定』『ポニーテールの髪型やマフラーの使用を禁じた』『校則違反の下着は学校で脱がせる』などの「ブラック校則」を例示しています。そうした校則を『人権感覚とずれた校則』ともしていました。そこまでは異論ありません。ただ、その改善を目指す動きを、『校内の規律と生徒の自主性をどう両立させるか、教育現場では試行錯誤が続く』としていることには違和感を覚えました。
 自主性とは、自分たちのことは自分たちが決める、というニュアンスで使われているのだと思われます。そうだとすれば、生徒が話し合い等の結果、「女性とは可愛いミニスカート、男性とはかっこいいツートップの髪型で登校」と決めたとき、その校則は自主的なものであるから問題なしということになります。この校則は明らかに「人権侵害」だと思われますが、そこは不問に付されてしまうのです。
 生徒がそんな馬鹿な校則を作るはずがないという人がいるかもしれませんが、それこそ現実を知らない妄言です。かつて、悪いことをした人には学級の全員がしっぺをするという罰を与える、ということを学級会で決め、実際に赤くはれるまでしっぺをされて子供がいたという事例が報じられ、教員の無責任、放任主義が批判されたことがありました。子供とはそうしたある種の潔癖性や極端に走る傾向をもっているものなのです。ですから、子供に任せていさえすれば人権侵害のおかしな校則はできないというのは希望的観測に過ぎないのです。
 必要なのは規律と自主性の両立ではなく、規律と自由権のバランスなのであり、それを実現する上で、校則制定の経過に児童生徒がコミットする機会の保証と決定過程の透明化が重要であるという共通理解の在り方なのです。ずれた論点でいかに話し合っても、結論もずれていくだけです。

 

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