ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

よくある?

2020-11-07 08:21:11 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「あるある」11月4日
 川柳欄の2つの句を見て、教員あるあるだなと感じてしまいました。
 まず、座間市のぼうちゃん氏の『ケチつけて指導した気になった人』です。自分のことを言われているのかと思ってしまいました。子供に「指導」をする、ところが子供はまた同じようなことをする、教員は「言ったでしょう、聞いてなかったの」と子供を責める、学校では毎日のように見ることができる光景です。
 もちろん、きちんと指導したにもかかわらず、子供がどうしようもないというケースもあるかもしれませんが、実際には、教員の方は「指導」したつもりになっていても、子供からすると「何だかよく分からないけど、先生は顔赤くして大きな声で怒鳴っていたな」という認識しかもっていないことの方が多いものです。
 「~しなさい」「~してはいけません」と言って指導したことになるのであれば、教員ほど楽な商売はありません。指導というのはそんなに簡単なものではありません。したつもりではなく、本当に指導するためには、まず、なぜしてはいけないのか、なぜすべきなのか、その理由を子供が理解できるように伝えることが不可欠です。そして、子供が本当に理解したかどうか、確認する過程が欠かせません。さらに、人間が理性と感情の双方の作用によって行動するということを踏まえれば、「分かってはいるけど~」という場合の方が多いことは明らかです。単なる理解を共感にまで高めることが求められるのです。
 なんとかこの段階まで指導できたとしても、それだけでは子供の行動を変えることはできません。例えば、忘れ物をすることが自分にとってよくないことで、班行動をする友達にも迷惑をかけることだと思っても、ではどうしたら忘れ物をなくすことができるかが分からなければ、忘れ物をなくすことはできません。そこで具体的な手立て、きちんと記録する、記録は目立つ赤ペンでする、自宅の玄関に「忘れ物点検は終わったか」というポスターを貼る、当分の間就寝前に親に一声かけてもらう、などの具体策を教えることまでできて、指導したと言えるのです。本当は、子供の行動をよく見て、「今日はきちんとできていたね」と褒めるところまで含めて指導なのですが。
 次の句は、下関市の秀丸氏の『危なげな不慣れそのうち怖い慣れ』です。教員になった1年目、当時同じ学年を組み指導していただいた学年主任のI教員から、後日、「あの頃の○○さん(私のこと)は、危なっかしくて見ていられなかったな」と言われたことがあります。私自身、毎日が不安で、周囲の先輩教員を見て、何とか大きな破綻なく一日を終えることに汲々としていました。何とか無事に(?)一日が終わっても、表面化していないだけで何か大きなミスをしていて、それがいつか噴火してしまうような危機感をもっていました。おそらく、子供も、保護者も、そんな私を「大丈夫?」と思っていたはずです。
 しかし、最初に受け持った子供たちを卒業させた3年目頃から、私は悪い意味で、教員としての自分に自信をもち始めました。保護者からは「○○先生でよかった」とお世辞を言ってもらえるようになり、校務も要領よく片付けることができるようになっていました。教職員団体の活動に批判的だった私は校長や教頭から可愛がられていたこともあり、毎日が「快適」でした。
 そんなとき、初めて区の教育研究会で研究授業をすることになりました。結果は散々。特に尊敬していた社会科部の先輩から、「いつも偉そうなことを言っているが口ほどにもない。普段の授業や学級経営の拙さが出てしまっている」という趣旨のことを言われたことがショックでした。天狗の鼻を折られた、というところです。恥ずかしくて、次の日出勤するのが辛くてたまりませんでした。
 でも、出勤してみると、誰も昨日の授業のことなんか話題にもしません。若い教員が意気込んでたくさんの内容を盛り込み過ぎて上手く授業ができなかった、よくあることだったのです。自分だけが、「自分は優秀」と思い込んでいたが、周囲は私の実力などお見通しだったという訳です。
 慣れが天狗の鼻を高くする。教員の仕事は、若かろうがベテランだろうが、表面的には同じです。授業をし、学級経営をし、生活指導をする。それだけに、自分は若いのに20年選手と同じことができているという錯覚に陥りやすい側面があります。若い教員の皆さん、自戒を忘れずに。

 

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