ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

保守もリベラルも

2020-11-08 08:29:17 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「保革を問わず」11月4日
 専門編集委員与良正男氏が、『立憲は選択肢となるか』という表題でコラムを書かれていました。その中で与良氏は、立憲民主党党首枝野氏の国会での代表質問に触れ、『「ある時期までの私自身を含め、政治は競争と効率、そして民営化を掲げ、小さな政府を追い続けてきた。しかし、こうした新自由主義的な社会のあり方が本当に正しいのかが突き付けられている」公務員をたたけば人気が出ると安直に考えていたのだろう(略)私も大きな顔はできない。マスコミも役人は減らすほどよく、公的機関の民営化が万能であるかのように報じてきたのだ』と述べられています。
 漸くここまで来たか、という思いがします。自民党は元々保守政党ですから小さな政府を標榜しています。保守=小さな政府、リベラ=大きな政府というのが一般的な構図なのですが、我が国では、枝野氏や与良氏のようなリベラルまでもが、小さな政府派だったのです。
 そして小さな政府派は、公務員を目の敵にし、公より民が優れているという発想をします。公はぬるま湯の非効率体質、民は競争の中で無駄がないという考え方です。この考え方は、コストパフォーマンスを重視して、業務を見直す方向に進みます。蓮舫議員が一躍有名になった「仕分け」がその象徴です。
 こうした風潮を受け、公の中でも、コストパフォーマンスを重視した業務の見直しが進められてきました。そこで真っ先に槍玉に挙がったのが学校でした。学校の教員は、コスト感覚に乏しく、自らを行政組織の一員とする意識に欠け、視野が狭くて目の前の子供のことだけに夢中になり、一人一人の教員が自分勝手に行動するので、重複や無駄が多く、もっと一般行政、つまりお役所を見習うべき、という「改革」が進められてきたのです。
 私自身、教員を経て、お役所である教委に勤務するようになった身ですから、上記のような指摘について、思い当たることは多々あります。ですから、改革を否定するわけではありません。
 ただ、こうした発想が行き過ぎてしまうと、学校や教員がもつ文化や価値観、伝統や雰囲気の中の「良いもの」までもが失われてきてしまうのです。教員の過重労働は、一向に改善されませんが、我が国の学校教育を支えてきたのは、ほとんど無給で、サービス残業の形で、放課後や休日にまで、部活の指導や授業の準備、課題を抱える子供の個別指導や家庭訪問などを行ってきた教員の教育者としての奉仕や自己犠牲の文化であり、慣習であったのです。私は、このブログで再三再四指摘してきたように、教員の多忙化を解消する必要があるという立場ですが、一方で大部分の教員の奉仕精神がなければ、今の学校は一瞬たりとも立ちいかないという現実についても強調しておきたいと思っています。
 私自身は典型的な怠け者ですが、教員になり、いい意味でも悪い意味でもその世界に染まっていく中で、正当な権利である年次休暇も取らずに毎日学校に行って授業をするということが当たり前と感じる人間になっていきました。休めば子供に迷惑がかかるという「おかしな使命感」です。結果、20代後半から30代前半にかけて、8年間1時間も年休を取らずに勤め続け、そのことを当たり前と思う人間になっていきました。そんな私ですが、毎日、9時過ぎまで学校に残り、年末は大晦日まで出勤し、正月も2日からは出勤する同僚に「良心が咎めないの」と詰め寄られたことがあるくらいの「全ての時間を子供のために」という職場でした。
 問題のある職場です。でも、そんなおかしな人間がいるからこそ、世界で評価される初等教育が実現したのです。与良氏のコラムを読み、硬直的な公より民、コストや効率、競争が重視される社会が変わるとすれば、学校が、教員への評価も変わってくるのでは、という淡い期待を感じました。多忙化解消も進めつつ。

 

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