「撤回と修正」11月26日
放送タレント松尾貴史氏が、『馳知事の「機密費」発言撤回 誤認?何をどう?』という表題でコラムを書かれていました。石川県知事馳浩氏の『東京オリンピックの招致活動で、開催都市決定の投票権を持つ国際オリンピック委員会の委員たちに、それぞれ選手時代の協議で活躍する写真などを収めたアルバムを作って「贈った」』『一冊20万円もする』『当時首相だった安倍晋三氏から「馳、必ず勝ち取れ。金はいくらでも出す。官房機密費もあるから」と命ぜられた』という一連の発言を全面的に撤回したことについて書かれたものです。
松尾氏は、馳氏が、発言のどの部分が勘違いで事実と異なるのかを説明しようとしない馳氏に対して批判をしています。私も全く同感です。あまりにもお粗末です。しかし、そうした思いとは別に、私は教委勤務時のことを思い出していました。
様々な会合で、いわゆる「問題発言」が飛び出すことがあります。自分が主催者側であるとき、自分自身が撤回や修正を、あるいは講師等の発言であれば当事者に撤回や修正を促すことになります。そのとき、「ただいまの説明の中で不適切な表現がありましたので、おわびして訂正させていただきます」というような趣旨の発言をします。
本来であれば、「○○という表現があり、その表現は△△に方々に対する差別感情を助長するとともに、関係する方々に不快の念を与えるものであると考え、その表現を取り消し、◇◇という表現に訂正させていただきます」というように、何を撤回・修正するのか、それはなぜか、ということを明示すべきなのですが、そうしないことが多かったのです。
それは、○○という表現を再び口にすることで、さらに関係者を傷つけてしまうことへの配慮であり、「主宰者のお前もそんな差別語を口にするのか」、と糾弾されることを防ぐためでもありました。また、招聘した講師等の問題発言であった場合、曖昧な言い方の方が本人が謝罪訂正を了承しやすいということもありました。
私に、馳氏のことを責める資格はない、という気もしてしまったのです。飛躍するようですが、ダメな教員は、子供の前で謝ることが苦手です。自分と子供の人間関係に自信がもてないため、謝ることで権威が消失し、子供に舐められると思ってしまうのです。つまり、自分の職責、能力や実績、周囲の評価に自信や自覚のない者ほど謝罪・撤回・修正が苦手なのです。私もそうだったなあ、と思います。馳氏のケースは単なる誤魔化しだと思いますが。