ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

曖昧な謝罪と訂正

2023-11-30 08:33:42 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「撤回と修正」11月26日
 放送タレント松尾貴史氏が、『馳知事の「機密費」発言撤回 誤認?何をどう?』という表題でコラムを書かれていました。石川県知事馳浩氏の『東京オリンピックの招致活動で、開催都市決定の投票権を持つ国際オリンピック委員会の委員たちに、それぞれ選手時代の協議で活躍する写真などを収めたアルバムを作って「贈った」』『一冊20万円もする』『当時首相だった安倍晋三氏から「馳、必ず勝ち取れ。金はいくらでも出す。官房機密費もあるから」と命ぜられた』という一連の発言を全面的に撤回したことについて書かれたものです。
 松尾氏は、馳氏が、発言のどの部分が勘違いで事実と異なるのかを説明しようとしない馳氏に対して批判をしています。私も全く同感です。あまりにもお粗末です。しかし、そうした思いとは別に、私は教委勤務時のことを思い出していました。
 様々な会合で、いわゆる「問題発言」が飛び出すことがあります。自分が主催者側であるとき、自分自身が撤回や修正を、あるいは講師等の発言であれば当事者に撤回や修正を促すことになります。そのとき、「ただいまの説明の中で不適切な表現がありましたので、おわびして訂正させていただきます」というような趣旨の発言をします。
 本来であれば、「○○という表現があり、その表現は△△に方々に対する差別感情を助長するとともに、関係する方々に不快の念を与えるものであると考え、その表現を取り消し、◇◇という表現に訂正させていただきます」というように、何を撤回・修正するのか、それはなぜか、ということを明示すべきなのですが、そうしないことが多かったのです。
 それは、○○という表現を再び口にすることで、さらに関係者を傷つけてしまうことへの配慮であり、「主宰者のお前もそんな差別語を口にするのか」、と糾弾されることを防ぐためでもありました。また、招聘した講師等の問題発言であった場合、曖昧な言い方の方が本人が謝罪訂正を了承しやすいということもありました。
 私に、馳氏のことを責める資格はない、という気もしてしまったのです。飛躍するようですが、ダメな教員は、子供の前で謝ることが苦手です。自分と子供の人間関係に自信がもてないため、謝ることで権威が消失し、子供に舐められると思ってしまうのです。つまり、自分の職責、能力や実績、周囲の評価に自信や自覚のない者ほど謝罪・撤回・修正が苦手なのです。私もそうだったなあ、と思います。馳氏のケースは単なる誤魔化しだと思いますが。

 

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大人が作る、はダメ

2023-11-29 08:10:39 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「作っておいてあげる?」11月26日
 心療内科医海原純子氏が、『子どもの居場所』という表題でコラムを書かれていました。その中で海原氏は、ご自身が中高生時代に周囲に適応しにくい生徒であったことを告げ、『最低限の適応をしていてもどこかに孤独感が残る。そんな時助かった場所が三つある』と書かれています。
 その三つとは、『学校に併設した聖堂』『家から少し歩くと小高い丘があり、木々の間から海が見えた(場所)』『お向かいの家で飼っていた大型犬』だそうです。そして、『学校以外の居場所が私を支え育ててくれたことは間違いない。またひとりで時を過ごすことにより見えてきたものや学んだことは大きい』と書かれ、フリースクールの存在に言及なさっているのです。
 子供の居場所についての海原氏の指摘には同感です。でも、それがフリースクールの話につながっていくことに違和感を覚えました。海原氏があげた三つの場所は、大人が、第三者が、子供の居場所に、ということで準備した場所ではありません。子供時代の海原氏自身が、発見した場所です。それは、海原氏だけにとっての居場所であり、他の子供にとっては興味も関心ももてない退屈な場所だったかもしれないのです。犬嫌いの私ならば、向いの家の大型犬は、恐怖と嫌悪の対象でしかなかったことでしょう。
 つまり、子供にとって孤独感をいやすことができ、自分を支え、成長させてくれるような場所は、他人が用意できるものではなく、一人一人の子供が自分で発見するしかないということです。大人にできることは、子供が見つけた「場所」を安易に否定したり禁止したりしないこと、子供がその「場所」に行くこと、浸ることのための時間を認めること、不要な言葉掛けや詮索、介入をしないことぐらいなのです。
 子供のため、を言い訳のタネにして、ああだこうだと口を出すことを愛情だとはき違えている現代の大人の多くにとって、これは案外難しいことなのかもしれません。特に集団を相手にし、共通の規範で子供の行動を規制することが避けられない学校、教員にとっては難しいことです。責任逃れをするつもりはありませんが、だからこそ家庭の出番です。保護者が、子供の居場所探しを温かく見守り、一見不可解な子供の行動を容認すること、それが大事です。
 

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良い子の下にもう一つの顔

2023-11-28 08:05:37 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「良い子<普通の子」11月25日
 書評欄に、『「人種差別の習慣 人種化された身体の現象学」ヘレン・ンゴ著、小手川正二郎・酒井麻依子・野々村伊純訳(青土社)』に対する東京工業大学教授伊藤亜紗氏による書評が掲載されました。
 その中に引用されたある事例が印象に残りました。『白人女性がひとりでエレベーターに乗っているとき、黒人男性が乗り込んでくると、もっていたバッグをすっと自分の体に引き寄せる、といったものだ。日常的にこうした仕草を向けられている黒人男性は、「暴力的で危害を与える者」というイメージを解除するために、ある種の演技を日々やらされている。(略)ある黒人男性はが夜道を歩くとき、自分が無害であることを示すために。白人杯カルチャーの象徴のようなヴィヴァルディの「四季」を口笛で吹きながら歩く(略)そうでもしなければ、彼は「恐怖をかき立てた」という理由だけで射殺されてしまうかもしれないのである』。
 日本では、「純ジャパ」の人間は、ここまで強烈に「人種」を意識することは稀ですが、「彼」の辛さは十分に想像ができます。そして私は、「彼」のような生きづらさを感じている子供がいるのではないかとも考えました。常に自分に対して向けられてきた「ある見方」に対する防御のために擬態を取り続けざるを得なくなっている子供たちが、です。
 「お兄ちゃんなんだから…」と常に言われ続け、我儘を言わずトラブルが起きればすべて弟や妹に譲ることを強制され、そうすると「いい子ね」と褒められるが、少しでも自分を主張すると叱られるという日常を過ごしてきた子供がいるとします。彼は常に、「僕は何でもいいです」「僕は後でいいです」「僕は○○でいいです」とにこやかな顔で他人の幸せを見守るという、生きるための戦略を実践しています。
 そんな彼を周囲の大人は、優しい子、思いやりのある子、人の気持ちが分かる子などを評価し、それ以上考えようとはしません。彼を理解したつもりになっているのです。そして、彼がときおり漏らす「もう限界!」というサインにも気付かず、彼を苦しめているという自覚ももてません。
 教員の中にもこんな人はいないでしょうか。今振り返ると、私は教員時代、こんな表面的な子供理解を堂々と通知表に書き、個人面談で伝えてきたような気がしてなりません。今頃反省しても遅いですが。

 

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多数決ではない

2023-11-27 08:35:20 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「考えてみよう」11月24日
 論点欄は、『インドとの向き合い方』というテーマで、2人の識者が論じていました。その中で防衛大教授伊藤融氏の指摘が印象に残りました。伊藤氏は、『インドとの関係性が語られる際に必ず登場するのが、民主主義という「基本的価値観」の共有だ。確かに、独立後一度も選挙結果が覆されたことはなく、暴力で政治体制が変更されたこともない(略)急速にヒンズーナショナリズム色を強めている(略)政権に批判的な地元ニュースサイト編集長が逮捕されている。現在のインドでは人権やメディアの自由は、必ずしも民主主義に不可欠な要素とは見られていない。インドの実情が頻繁に報じられている米国では、インドはもはや「価値観を共有する国」ではないと論じられ始めた』と述べていらっしゃいます。
 私が日頃から感じていることをきちんと指摘してくださったという思いです。インドは民主主義国家ではないと考えます。では、民主主義国家とはどのような条件を満たすことが求められているのでしょうか。そして、そもそも民主主義の要件とは何なのでしょうか。
 私は、我が国では、民主主義とは何かということについての学習が十分に行われていないと考えてきました。私が教員時代から教委勤務時を通じて研究してきた「社会科」の責任です。今、小学校を卒業した子供たちに「民主主義ってどういうこと?」と尋ねたとして、「王様とかじゃなくて国民が一番偉い」「国民の多数決で物事が決まる」「話し合って最後は多数決で決め、反対の人も一度決まったことには従わなければならない」といった程度の答えしか返ってこないことが多いのではないでしょうか。
 間違いではないですが、足りないところだらけです。上記のような考えでは、「○○は悪い奴だから縛り首だ」と多くの国民が考えれば、○○を死刑にしても構わない、ということになります。実際、30年ほど前のことになりますが、学級会で話し合い、クラスのきまりを守らない子供に罰として一人1回太腿を叩くという結論になり、教員は多数決で決まったことで民主主義だから教員でも覆すことはできないと容認し、30数人から叩かれた子供の太腿は赤くはれ、その子供は泣きだしてしまった、という事例がありました。
 こんな認識で社会人になってしまった子供は、選挙で選ばれた独裁者を平気で受け入れてしまうことでしょう。言論の弾圧も、不当な拘束も、マイノリティへの差別も、自分に直接関係してこない限り容認してしまい、自分の身に危機が迫って初めて「もっと早い段階で立ち上がっていれば」と後悔することになるのです。
 言うまでもないことですが、民主主義は、自由、平等、法治など多くの要件によってはじめて有効に機能する制度です。人権という概念で括ることも可能です。民主主義について、歴史や他国の例に学び、理解を深める、このことの重要性を学校や教員はもっと自覚すべきだと思います。
 

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大きな悪、小さな善

2023-11-26 08:25:22 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「評価する?」11月22日
 『北朝鮮が「衛星」発射』という見出しの記事が掲載されました。腹立たしいだけでなく、危機感を抱かせる蛮行です。ただし、そんな当たり前のことをここで論じようというのではありません。記事の中に気になる記述があったのです。
 『松野博一官房長官は22日未明の記者会見で、予告より前に発射したことは「航空機や船舶、付近の住民の安全確保の観点からも極めて問題のある行為だ」と非難した』という記述です。ちなみに、この発言は、『北朝鮮は21日、22日午前0時~12月1日午前0時の間に「人工衛星」を発射すると日本戦府に通告していた』ことを前提になされたものです。
 松野氏の発言には何の問題もありません。ただ、こんな解釈もできるのです。予告前発射は危険→予告通りの発射であれば危険性は減じられる→(もし予告通り発射していれば)発射は遺憾だが予告通りであったのはよかった。つまり、国連決議に違反する行為でありながら、北朝鮮の行為の一部については評価するということになってしまうのです。日本は北朝鮮に融和的である、という誤解すら生じかねません。
 それでは、予告通告も含めて、話にならない蛮行だと非難すればよいのでしょうか。もし、そうした対応を取れば、北朝鮮は「せっかく通告してやったのに、そんな対応をするのならば、今後は通告なしでいきなり発射する」という方針に変えようとするでしょう。それは、通告を評価しなかった日本の責任であるという論理で。事態はさらに悪化するわけです。
 なぜこんなことを書いているかというと、こうした悩ましい状況というのは、教員が問題行動が目立つ子供と対するときに直面する問題に似ているからです。Aという子供が、Bという子供を殴ったとします。もうこれで3回目です。Aは職員室に来て、「Bのこと殴っちゃった」と自首してきました。これまでは、教員に問い詰められても認めなかったのに、です。
 教員は、以前から注意していたにもかかわらずまた暴力を振るったAを叱り、指導しなければなりません。そのとき、今回は自分から名乗り出てきたことについて、僅かながらも進歩であり改善であると認め、そのことをAに告げるのか、そんなことは暴力を振るうという問題の本質には関係のないことだからと無視するのか、どちらが望ましいのでしょうか。
 教育の論理で言えば、僅かな改善や進歩であっても、それを認め評価し励まして更なる改善の力となるように導くことが正解です。したがって、「今日、自分から名乗り出てきたことについては、一歩前進だ」と認めてやることになります。
 しかし、この伝え方を間違えると、Aに対して「殴っても名乗り出ればいいんだ」という間違ったメッセージを伝えてしまうことになります。また、被害者であるBに対しても、「殴られたことは同じなのに、先生はAの味方をした」という間違ったメッセージとして伝わってしまう可能性もあります。
 かといって、Aの名乗り出たという行為を無視すれば、Aは「自分から正直に話したっていいことなんか何もない。証拠が出てばれるまで黙っていた方が得だ」という考えをもち、今後問題行動を起こしたときに、素直に話そうとはしなくなるでしょう。
 大きな悪行の中の小さな改善、これを正当に評価し、その評価を伝えることで事態を少しでも改善の方向に向ける、これは教員が日常的に直面していることなのです。この対応を誤ると、子供との信頼関係は崩れ、学級も荒れていくことになります。

 

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疑似家族化

2023-11-25 08:42:58 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「中間がない」11月21日
 読者投稿欄に、埼玉県M氏による『個人主義は自分勝手とは違う』と題する投稿が掲載されました。その中でM氏は、『世の中へ(街の中へ)出ていくという所業は、公的な空間に出ていくということであり、私的な思いを抑制して、世の中や世間の人々と調和していくことが求められる』と述べ、しかし現状は『私的な空間をそのまま身にまとい、引きずって歩いている人がなんと多いことか』だと嘆いています。
 具体例としては、『歩きスマホしかり、大声で興ずることしかり、電車内での飲食や化粧しかり』とご自身の経験を挙げていらっしゃいます。M氏と私はほぼ同世代。だからでしょうか、私も同じような思いを抱くことがないわけではありません。
 ただ私は、M氏が嘆くような現状を招いた原因についても考えてしまうのです。それは、公的な場での振る舞いを学ぶ経験が少ないことが原因の一つであるということです。家庭は私的な場です。では、学校はどうでしょうか。多くの人が公的な場だと答えると思われます。ところが、実際はそうではないケースが多い、というのが私の考えです。
 私は公的な場の典型として、乗り合いバスの中を想定します。そこでは、乗り合わせた人同士は、偶然そこにいる他人同士です。では、お互いにまったく無関心に知らんふりをしていればよいかと言えば、そうではありません。席に座るときには、隣の人に「すみません」と一声かけ、バスを降りるために席を立つときは、「すみません。降ります」と小さく頭を下げるのです。こうした少しの心遣いで、無用なトラブルを減らすのです。
 バスの車内での雨の日の傘のもち方、大きな荷物をもって通路に立つときの配慮、高齢者や障害のある方と乗り合わせたときに席を譲るマナー、幼児が泣きだしたとき母親を睨むのではなく「大丈夫ですよ」を目で知らせる優しさ、そう言ったもろもろの言動をマスターし、自然に振る舞うことが、公的な空間におけるあり方です。
 ところが、我が国の学校では、上記のような振る舞いが求められることはありません。みんな友達、同じクラスの仲間、というような考え方を強制してしまうのです。おかしいですね。大人の都合、学校と教員の指導上の都合で、望みもしないのに一つの教室に押し込められただけなのに。自分の希望で集まったわけではないのですから、当然のこととして、気が合わない、価値観が違う、虫が好かない人たちがいるのです。でも、仲良くしましょう友達なんだから、と言われて、ベタベタした関係を強いられるのです。そのことに対する無意識の異議申し立てが、いじめや不登校という歪となって表れてくるのです。バスでいじめも不乗車もおきませから。
 私は公的な場とは、お互いが過剰に干渉もしない代わりに、その場を快適に過ごすための配慮をし合う場だと考えます。しかし、本来公的な場であるはずの学校が、実際には私的な空間である家族のような疑似家族的な場となっていることで、公的な空間における行動規範が身に付かないまま、多くの子供が成長していってしまうことが、M氏のような嘆きにつながっていると考えます。
 たまたま同じバスに乗り合わせたことがきっかけで、友達になることもあるでしょう。それでいいのです。学校は無理に気の合わない人とまで仲良くする場ではなく、お互いが快適な学校生活を送れるようにマナーを守って行動し、その中で友達と呼べるような関係が出来ればそれはラッキーだ、という程度でよいのではないでしょうか。

 

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友活

2023-11-24 08:01:47 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「アプリで」11月21日
 『マッチングアプリで結婚 4人に1人』という見出しの記事が掲載されました。『1年以内に結婚した人のうちマッチングアプリでの出会いがきっかけだった人が4人に1人いることが16日、明治安田生命保険の調査で明らかになった』ことを報じる記事です。
 記事によると、『年代別の婚活の方法で、マッチングアプリは20代で1位(51.0%)、30代でも2位(45.6%)を記録(略)SNSの浸透により、インタネットでのコミュニケーションに抵抗が少ない若者ならではの傾向』とのことでした。
 私にとっては驚きの数字です。一緒に勉強したり、部活をしたり、仕事をしたり、共に過ごす中でその人に対する関心が高まり、好意が芽生えて~ということで異性との交際が始まるというイメージしかない私には、見ず知らずの人と電話したり、メールしたりするだけでも警戒してしまいます。会うなんてとんでもない話です。自分でも古いなあと思いますが、抵抗感は根深いものがあるからです。
 しかし、時代は変わってきています。それは否定できません。だとすれば、どう生かすかが問題になってきます。私は、近い将来、小中学生を対象にした、友達マッチングアプリのようなものができ、それで友達を作るということが珍しくなくなるのではないか、と想像してみました。
 子供にとって、進学や進級時、新しい環境で友達ができるかどうかは大きな関心事です。また、教員にとっても、受け持ちの学級や部活の子供に、新しい年度に良好な人間関係を築かせることは指導上の重要な課題の一つです。
 新しい学級での初日、一人一人自己紹介をする、学園ドラマでよくあるシーンですし、実際にも多くの教員がそうした場を設けています。しかし、短い時間でお互いを知るというまでには至らないというのが実態です。そこでマッチングアプリです。全員匿名でアプリに掲載され、気の合いそうな人とアプリでやりとりを重ね、互いが友達になりたいと思ったら、相互に実名を交換し合うというようなイメージです。
 あるいは、新年度の開始に、子供たちが匿名でマッチングアプリで友達になり、それを参考に学校が学級編成をするなどという活用法も考えられるかもしれません。子供たちはもちろん、親世代もSNSに馴染んだ若者ですから、抵抗なく受け入れられるのではないでしょうか。
 もし本当にそんなことになったら、少し怖いような気もしますが、それでいじめや不登校が減るのであれば、否定する理由はありません。

 

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子供にはきれいな夢を

2023-11-23 08:18:01 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「正義の数」11月20日
 医師・作家鎌田實氏が、『人として正しくあろう』という表題でコラムを書かれていました。その中で鎌田氏は、10年以上前にガザ地区を訪問したことがあると書き、その理由について、『パレスチナの少年が、イスラエル兵に撃たれて脳死となり、その心臓がイスラエルの少女に移植された。ぼくがもし少年の父親だったら、息子を殺した国の人に臓器を提供したくないと思う。なのに、なぜ、この父親は臓器提供を承諾したのか、理由を知りたいと思った』と書かれています。
 鎌田氏は、その父親と会い、『海で溺れている人がいたら、泳げる人間は飛び込んで助けようとする。溺れている人に、あなたの国はどこだ?あなたの宗教は何だ?などと聞いたりしない。人として正しいことをしただけだ』という言葉を聞き出しています。
 鎌田氏は、この父親を「人として正しい」と言っているのです。私も同感です。おそらく多くの人がそう考えると思います。心優しい私のつれあいは、こうした話に触れると感動で涙ぐんでしまいます。
 しかし、私は、「何を言っているんだ!イスラエルは敵だ。奴らを生かしておいてはならない」という考えこそ、「人として正しい」と考える人たちが数多く存在すると考えてしまいます。とても残念ですが、それが真実なのだと思うのです。
 目には目を歯には歯を、を信条としている人たちがいます。日本人は、原爆を落としたアメリカにいつ復讐するんだ、と尋ねる外国人がいます。彼らは、現在の日本人について、「アメリカに復讐する機会を掴むため、執念深く機会を待ち続けている。それまでは米国の味方のフリをしている」と考えているのです。それが彼らの人としての正しい生き方なのです。
 私は、いわゆる「純ジャパ」です。両親、兄弟、その配偶者と親戚、叔父叔母従兄弟全員が日本国籍の日本生まれ、日本語を母語とし、海外留学も海外赴任も経験していないという、「純ジャパ」です。そして生まれてから今まで、多くの80歳以下の人たちと同じように、平和に、自由に、飢えることもなく穏やかに生きてきました。もちろん、大切な誰かを殺されることもなく、です。戦後の日本に生まれ、ラッキーとしか言いようがありません。
 ですから、日本人に多い考え方や価値観に染まり切っています。その価値観や考え方に基づけば、恨みは水に流し、人類みな兄弟、全ての人に優しくあるという生き方を肯定することになります。外国人や異教徒に害を加えられたこともなければ、激しく利害対立したこともありません。米国が原爆を落としたことはもちろん知っていますが、いつまでの恨み続けることが良いことだとも思えません。あなたのしたことは忘れないが許す、という態度に「美」を感じてしまいます。
 でもそれは、日本人の多くにとっては身に染みついたことですが、世界の全ての人や地域、国や宗教の人にとっての常識、正義だとは言い切れないのではないでしょうか。学校教育に携わってきた者として、鎌田氏が言う「人としての正しさ」をすべての子供に理解し、共有してほしいと願う一方で、本当の国際理解とは復讐や抹殺を是とする人たちもいると知らせることなのではないか、という思いも捨てきれないのです。子供にはきれいな夢だけを見させておけばよいのでしょうか。

 

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権力者の自覚

2023-11-22 08:47:08 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「権力を自覚する」11月19日
 『Vパレード 疑惑噴出』という見出しの記事が掲載されました。『阪神とオリックスの優勝記念パレード(略)裏方で支える自治体職員のボランティアや寄付のあり方を巡って、疑念が噴出している』ことを報じる記事です。
 記事によると、『(大坂)府は府教委を通じて府立学校の校長と准校長に宛てた7日付の文書で、教職員へのCF(クラウドファンディング)周知に協力するよう依頼。文書には寄付額は3000円以上で、申し込みは勤務時間外に行うよう注意書きも添えられていた』ということです。
 これに対し、『大坂教職員組合などは14日、「CFは校務と一切関連がなく発出は不適切」「黙示の強制が働く恐れが排除できない」などとして府教委に抗議、撤回を求めた』そうです。当然です。一方吉村大阪府知事は、『周知であって、寄付を要求しているわけでは一切ない』と問題はないという立場です。
 維新は、松井氏が代表であったときから、学校教育に積極的に権力行使する姿勢を露わにしてきました。私は、戦後教育委員会制度ができたときの精神、つまり戦前の学校教育への政治の介入が悲惨な戦争の一因になったという反省の基づき教育行政への首長のかかわりを制限するという趣旨に賛成ですので、こうした姿勢に反対してきました。
 今回の文書についても、教委・学校・教員は首長の言うことを聞いていればよい、という発想が透けて見えます。吉村知事は、要求しているわけではない、と言っていますが、権力を握るものの言動が、権力下にある者にどのような影響を与えるかということへの認識が欠けています。
 学校の教員が個人面談で、「今度うちの子がピアノ発表会に出ることになって」と言い、発表会のパンフレットを見せたとしたらどうでしょうか。保護者の中に、「先生の子さんが出るそうだから、見に行ってあいさつくらいした方がいいのかしら」と考える人が出てくるかもしれません。もし、その時期が、小6の秋、私立受験の内申書作成の時期だったらどう感じるでしょうか。プレッシャーを感じる人はさらに増えるでしょう。いくら当該教員が、「世間話の一環で話題になっただけ」と言っても、保護者の心理は違います。
 当然、こうした行為は激しく糾弾されるはずです。では、府教委がCFへの周知への協力を依頼して出した文書は、この例とどこが違うのでしょうか。権力をもつ者は、権力の行使について抑制的で謙虚であるべきです。そう考える私は古いのでしょうか。もっている権力は遠慮せず行使すべき、安倍元首相以来、こうした考え方が強まる中で、首長の地方教育行政に対する介入を推奨する制度改革は危険だという思いをより強くしています。
 

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学芸会も音楽会も

2023-11-21 08:28:00 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「それは嬉しいが」11月19日
 心療内科医海原純子氏が、『運動会考』という表題でコラムを書かれていました。その中で海原氏は、後輩がお子さんの運動会を見に行ってきた際のエピソードに触れていました。『リレーはクラス全員が参加してタスキをつなぎ、競争(略)走るのが遅い子どもがいる。必死に走る子どももいるが、中にはあきらめたようになっている子どももいて、見ているのがつらくなってしまったそうだ。「みんなが見ている前で恥ずかしそうで」ということだった』というものです。
 このエピソードを基に、海原氏は、『競うことではなくて、ストレッチなどで軽く体を動かしたりできて運動能力や反射神経の優劣にかかわらず子どもが楽しく取り組める内容を加えてほしい』と、運動会の在り方について述べられています。
 海原氏は、単に感想を述べるだけでなく、学習指導要領の解説を調べ、運動会について、『~運動に親しむ態度の育成などに資するような活動を行うこと』という記述があることを踏まえて、こうした提言をなさっているのです。
 的を射た指摘です。私も小学校時代に、一回だけビリから2番担った以外は全部ビリという子供でしたから、鈍足の子供の辛い気持ちはよく分かります。海原氏は気付いていないのかもしれませんが、実は全員リレーというのは、足の遅い子どもに配慮した工夫なのです。徒競走と違い、個々の子供の走力の差が分かりづらくなっているのですから。それでもなお、やはり恥ずかしい、親には見られたくない、という気持ちは残ってしまうのですから、競争的なものは廃止した方が、傷つく子供が少なくて済みます。
 そう思う一方で、学校生活の中から、競い合う要素を全てなくしてしまうことが望ましいのかと考えると、それも問題があるという気がしてきます。学校は、社会の縮図であるという性質をもちます。そしてそれは、子どもに精神的な成長を促すために必要だとも言えるからです。
 幼い子供は、他者との比較という経験が乏しく、非現実的な全能感をもっています。しかし、学校という集団生活の場で、自分よりも優れた能力をもつ他人がたくさんいる、ということに気づいていくのです。勉強ができる、友達に好かれ人気がある、スポーツが上手い、容姿が可愛い等々、日々の生活を通して、そうしたつらい事実に気づき、ときに傷つき、落ち込み、不快に感じ、イライラし、自信を失い、何かに八つ当たりしたくなり、逃げ出したくなり、という感情を経験しながら、事実を受け入れ、自分は集団の中の平凡な一人に過ぎないことを自覚し、それでもなお自分には自分だけの存在価値があるし、多くの人たちから存在価値を認められているということを体感的につかんでいく、それが成長であり、家庭にはない学校という集団生活の場がもつ力なのです。
 「みんなの見ている前で」というところがポイントだと思います。競い合う要素をどの程度残していくか、運動会に限らず、主役とセリフのないその他大勢がいる学芸会でも、ピアノを独奏し注目される子供と隅でリオーダーを服真似をする子供がいる音楽会でも、考えていく必要があります。そうそう授業参観も、です。難しいですね。
 

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