ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

勉強する人は偉い

2020-11-12 08:38:08 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「見えにくい危機」11月7日
 専門記者伊藤智永氏が、『三島事件50年の軍と大衆』という表題でコラムを書かれていました。その中で伊藤氏は、菅首相による日本学術会議人事への介入に関して、『気がかりは、学者に対する世論の冷淡さだ(略)学問の厳しさ、真理の険しさ、言葉の奥深さに対する敬意も萎えている』と書かれています。多くの人が触れてこなかった視点です。
 私は今回の人事介入については、菅首相に批判的な立場ですが、今はそのことには触れません。ただ伊藤氏が提示した点について考えてみたいと思います。私は、伊藤氏の指摘の共感します。学者、学問、いずれも「学」という文字でできている言葉です。そして伊藤氏の指摘は、つまり「学」ぶということに対して、社会に否定的感覚が蔓延しているということを表しているのではないか、と感じるのです。
 そうした感覚は、学校でも顕著に見ることができます。まじめに勉強する子供がからかいの対象になったり、勉強以外にもコツコツ努力することをカッコ悪いと見做す風潮があるように感じるのです。もちろん、私が子供のころにも、がり勉はカッコイイものではありませんでした。試験の前日に必死で勉強していても、当日は「昨日ついテレビ見ちゃって、全然勉強してないよ」と嘘をついたものでした。それでもお互いにそれが嘘であることは見抜いていて、「こいつはきちんと勉強してくる奴だ」ということは分かっていました。そして、その本当の姿、真面目に勉強してよい成績をとる奴は、「不良」からも、それなりに一目置かれていたものでした。
 今も、勉強ができ、麻布や開成に進むような子供は特別視されています。しかしそれは、う集団、小学校で言えば、クラスの上位グループで私立中学校への進学を目指しているような子供の中で「あいつにはかなわない」という評価を受けているだけで、学習が遅れている子供たちにとっては、自分とは別の人種のような感覚、興味のもてない無縁な人という感じになっているのです。
 この別の人種のような感覚が、中学校、高校と進むにつれ、無関心から蔑視や敵意のようなマイナスの評価に転じていくのです。そこでは、「勉強はよくできるけれどただそれだけ。そのほかのことは知らないし、役にも立たないつまらない奴」というようなレッテル貼りが行われ、そうすることで、「学校の勉強はできないけれど、いろいろなことを知っていて面白い自分」に高評価を与えて安心感を得るという構造です。
 そこには「他人をやっかむ」という日本人の特性が影響しているのかもしれません。平均的日本人を自負する凡人たる私にも似たような感覚はあります。しかし、やはり読書で触れる学者の見識には感心させられるのも事実なのです。そしてそれは学識への敬意につながり、専門家を尊重する姿勢へとつながっていきます。
 学校は学ぶところです。もっと、学ぶことの意義、知識を得ることの価値、真摯に考える姿勢の尊さといったことを子供に伝えていく必要があるように思います。しかし、近年の学校は、勉強こと以外にも大事なことはあるというメッセージを伝えることに重きを置いているように思えます。授業の充実よりも特色ある教育活動を学校のアピールポイントに据え、基礎基本を疎かにしたまま見栄えの良い活動の導入に頭を絞り、不易と流行の不易を忘れてしまっているように思えてならないのです。勉強再評価、です。

 

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