ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

訴えがあったら

2022-04-30 08:05:14 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「訴えがあったら」4月22日
 『香害 私だけ…じゃない』という見出しの記事が掲載されました。『柔軟剤などに含まれる化学物質由来の人工香料が原因で体調を崩す「香害」の対策が遅れている』ことを伝える記事です。
 記事では、『近隣住民の洗濯物の香りが気になり、頭痛や倦怠感に悩まされるようになった』38歳女性、『外出や買い物もままならない。「香害を訴えても『あなたが敏感なだけ』と言われる」』66歳女性、などの事例が紹介されていました。
 さらに、「香害をなくす連絡会」が国に規制を要望するも、『国は「現時点ではメカニズムに未解明な部分が多い」として規制には慎重』、企業も『製品配合成分については世界から広く安全性に関わる情報を収集し、安全性の確認を行っている』と自主規制等の動きはないことも報じられています。
 さて、もしあなたが教員で、教え子から「みんなの持ち物からする柔軟剤に臭いがきつくて、気分が悪い。頭痛や吐き気がするときもあって、学校に来るのが大変。何とかしてください」と言われたら、どのように対処しますか。この記事を読んで、私の頭の中に浮かんだのは、このような問いでした。
 記事の中には、『香りの強さの感じ方は個人差が大きい』『柔軟剤などの香りは好む人も多く、使用を控えるように頼んでも理解が得にくい』という状況も紹介されています。つまり、教員であるあなたが、「○○さんは、柔軟剤の臭いで体調を崩しているから、家出柔軟剤を使わないようにしてください」と言っても、反発を受ける可能性が高いのです。それどころか、「柔軟剤と健康被害の関係は科学的に証明されていないのに」と、根拠のない主張をしている、一方的に○○産の言い分を正しいとしている依怙贔屓だ、などとあなた自身が批判の対象にされてしまうかもしれないのです。
 さらに、事が大きくなれば、不当な営業妨害だとして、企業から訴えられたり、校長や教委からも、政府の見解が明らかになっていないことで独断で行動し学校への信頼を損なった、などと攻められる可能性も否定しきれないのです。
 だからと言って、○○さんの訴えを放置し、「気にするな」となだめてみたり、「マスクをしてきたらどうか」などと悪いのは過敏すぎる○○さんというような態度をとれば、絶望した○○さんは、不登校に陥ったり、学級内で「おかしな言いがかりをつける子」としていじめの対象にされたりするかもしれないのです。
 困りますね。正直、私にも「正解」は分かりません。ただ、いくつかできることとしては、まず自分自身が「香害」についてきちんと学び、保護者や子供に説明できるようにすること、校長や(校長を通して)教委に苦しんでいる子供がいる現状をきちんと伝えること、日本消費者連盟などの機関で「香害」問題に対応している担当者や被害者の会などの方を講師に呼び校内で研修会を開くよう動くことなどに取り組む、などが挙げられると思います。こうした行動をとることで、○○さんの孤立と疎外感を防ぎ、精神的な面での支援に繋がると思うからです。
 それにしても難しい問題です。

 

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仲間同士遠慮して言わないけれど

2022-04-29 09:08:06 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「それこそが問題」4月21日
 連載企画『部活クライシス』は、『「顧問に選択権」声なき声』というタイトルでした。ブラック部活についての議論を活発化させる契機をつくった教員ブロガー・「真由子」氏へのインタビュー記事です。
 その中で「真由子」氏が語られている言葉が気になりました。『顧問をしたくないという教員は一定数いるが、当然熱心な教員もおり、そちらの声の方が大きい。顧問をしたくない教員は後ろめたさがあり、声の大きさで負ける』というものです。
 私も教委に勤務しているとき、部活動の顧問としての仕事に情熱を燃やす教員を何人も見てきました。彼らに共通して感じたのは、教員としての最優先事項が部活の指導という価値観でした。例えば、H中学校のM教員です。彼が顧問をしている競技の都や全国レベルでの組織の役員として、自分が指導に当たるだけでなく、大会の運営やコーチ陣との連絡調整、生徒の保護者への広報、校長会への支援の働きかけ、地元の議員へのアピール、区内の顧問会の取りまとめ、教委への要望・陳情など、驚くほど精力的に動いていました。
 そしてとうとうH中を全国大会で男女ともに優勝という成果を上げたのでした。間違いなくある種のスーパー教員でした。しかしそんな彼は、校内では、責任ある仕事を引き受けないと白い目で見られる存在でもありました。当時、まだまだ男性社会であった中学校教員の世界では、40代前半の彼は、学年主任や生活指導主任、などとしての活躍が期待されていましたが、彼は一切断っていました。「部活で都が回りません。僕が顧問辞めてもいいんですか」というのが彼の切り札だと、校長からこぼされたことも再三でした。
  誰も彼には手が付けられません。H中の地元の区議は、教委に電話をかけてきて、「M先生はH中の宝だ。異動させちゃだめだぞ」と圧力をかけてきました。Mの後ろには議員がいる、そう考えれば、誰も彼に対してものが言えないのでした。
 そんな中、Mが区の中学校社会科研究会の研究授業をすることになりました。当時は、輪番制で研究授業をするシステムになっていたのです。私は社会科担当の指導主事として、Mの授業を参観しました。酷い授業でした。ただ教科書を読むように説明するだけの50分間でした。授業後の研究協議会では、流石に辛辣な意見が出されましたが、Mは全く堪えていないようでした。「俺は授業で勝負する教員じゃない」とでも言いたそうなMの表情が印象に残りました。確かに、Mのような部活一辺倒の状況では、授業準備や反省・評価に割く時間はなかったでしょう。
 また、Mは、生活指導にも不熱心でした。生徒が問題行動を起こしても、対応は生活指導主任に任せてしまうのです。H中の生活指導主任と最寄りも警察署で顔を合わせ、「ご苦労様です」と言いながら、「M先生は?」と訊くと、何も言わず首を振るだけでした。
 Mは私の教委勤務時に出会った「特別な教員」であり、一般化して語ることには慎重でなければなりません。しかし、Mほどではなくても、部活命という教員には、授業の改善や自身の授業力の向上への熱意が乏しいと感じたケースが非常に多かったのは事実です。部活に熱心な教員は、授業の質に目を向けることが少なく、自分の授業力を見つめ反省することも少なく、部活で成果を挙げ、保護者や生徒に喜ばれることで教員としての使命を果たしたという満足感に浸る、そうしたタイプが多かったのです。
 私は、このブログで再三言及してきたとおり、学校は勉強をするところ、教員は勉強を教える人であり授業のプロであり教えることに専門家である、という立場です。自身も社会科を中心に、授業力を高めるにはどうすればよいかを追究してきた教員人生でした。だからかもしれませんが、授業の質の向上に注ぐべき時間を部活に注ぎ、それで教員としての使命を果たしたと自己満足している教員には強烈な違和感を覚えてしまうのです。
 部活顧問というシステムが、教員の授業力に与える影響についても、議論されるべきだと思います。

 

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被害者の声封じ

2022-04-28 08:43:52 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「裏で何が?」4月20日
 『難病同僚の首に熱したくずきり 神戸市職員5人懲戒処分』という見出しの記事が掲載されました。神戸市の『40~50代の職員3人が、言葉が思うように話せず障害のある50代の同僚職員に対し、吃音の口まねや暴言、高温のくずきりを首筋に落としてやけどさせるなどの行為をしていたと発表(略)この職員3人と上司2人をそれぞれ停職3~15日の懲戒処分とした』ことを報じる記事です。
 暴言の内容は、『頭頂部を指して「はげ」「はげつる」』『仕事でミスをすると「死ね」「ぽんこつ」と罵倒』『どうせ病気で死ぬんやから、保険金俺に入るようにしとけよ』などで、第三者委員会が、『許されざる人権侵害行為』としたのも当然です。
 しかし、私が気になったのは、暴言の内容や処分の程度ではなく、別のところにあります。それは、『職員らは、一連の行為について「コミュニケーションの一環だった」と説明。被害職員も「いじめ行為ではない」とし、同僚の処分を求めない嘆願書を出していた』という記述です。
 上記の一連の行為は、『第三者委による別の人権侵害事案の調査過程で発覚』したものだそうです。つまり、被害者は訴えることをせず、発覚してもなお加害者をかばい続けているということなのです。おかしいと思います。記事によれば、確認できている人権侵害行為は20年6月から始まっています。約2年間、改善することなく暴言等が続いてきたのです。加害者や見て見ぬふりをしてきた上司に好感情をもつわけがありません。
 それなのに、「いじめではない」と加害者をかばうというのは、裏に何かあると考えるのが普通でしょう。加害者と上司から、「悪意はなくあくまでも通常のコミュニケーションの一部で、私は少しも不快に感じていない」という趣旨の供述をしろと強要されたと捉えるのが自然です。そして、「もし、俺たちの言うことを聞かないのなら、これからはばれないように、もっと陰湿に嫌がらせをして、務めていられないようにしてやるから覚悟しておけ。俺たちが処分されたとしても、クビになるわけじゃないんだからな。他の職場に異動したって、どこにでも俺たちの仲間はいるんだから逃れられないぞ」というような脅しをかけられた可能性が高いと思うのです。
 憶測で人を貶めてはいけないことは理解しています。私自身の卑しい心性が、こうした妄想をうんでいるのかもしれません。それでもこうしたことを書くのは、学校におけるいじめ事案でも、似たような強要恐喝が行われるのは珍しくないからです。いじめ被害者が、いじめがより過酷になることを恐れ、訴え出ることを躊躇う、ケースはたくさんあり、発覚してもなお今まで以上のいじめを恐れて加害者をかばうのです。
 さらには、加害者だけでなく、傍観者までもが。いじめのあるクラスなんて思われたくない、いじめがあったことになると、自分たちもいじめを傍観していた悪者にされてしまう、という思惑から無言の圧力をかけてくることもあったのです。
 また、こうした脅しが、教員から行われたこともありました。教委勤務時に、体罰をした教員が、絶対に言わないように脅し、生徒が「指導の一環だった、親しみを表す行為だった」などと言わされそうになった事案を担当したことがあったのです。
 内部の調和を重視する我が国の文化の下では、内部告発者が調和を乱す悪者にされてしまうことは珍しくないのです。教員は、みせかけの学級の和や教え子を犯人にしたくないと言った偏った思いやりで、被害者の声を封じる行為に加担してはいけません。
 

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役立つ、のは嬉しいが

2022-04-27 08:18:16 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「新鮮」4月19日
 連載企画『14歳の君へ わたしたちの授業』は、脚本家渡辺あや氏が、『好感度より知恵磨こう』という表題で書かれていました。教科は社会科でした。教員生活、教委で勤務している間、一貫して社会科を研究対象にしてきた私としては、興味津々で読み終えました。そして、こんな捉え方もあるのだ、と新鮮な驚きを覚えました。
 渡辺氏は、『社会科は苦手でした。歴史の授業はおじさんばかり出るし、覚えることが多くて面白くなかった』と述べた後、『(脚本を書くために)勉強し始めると、実はとても面白く、知恵や力を与えてくれると分かりました』と書かれています。
 さらに、『歴史はいろんなことを教えてくれます。(略)実は何百年も前から同じことの繰り返しで、人間は変わってないと分かる。自分の悩んでいることに、昔も同じように悩んでいた人がいたと知ると、少し気が楽になる』『世界を知っていくと、自分が閉じ込められている狭いおりから解放されていきます』『私たちがどう生きればいいかをいろんな方向から考え、答えを出すのが社会科です』『生きる上で知りたいことがあれば、今日からすぐ役立つ教科です。即効性があります』など、社会科礼賛が続くのです。
 愛する「社会科」を認めていただいて悪い気はしないのですが、同時に考えさせられもしました。「歴史は面白い」は全く同感です。しかし、渡辺氏は学生時代には面白くないと感じていたのです。そうした声はよく耳にします。つまり、面白い歴史をつまらなくしか教えることができない授業力不足の教員が多いということです。指導主事として、研究員や研究生の指導を通して多くの社会科教員を育ててきた自分としては、申し訳なさで顔を上げることもできません。要反省。
 また、歴史について、「昔も悩んでいる人がいたと思うときが楽になる」というような「効能」は、今まで一度も考えたことがありませんでした。もちろん、人間としての喜怒哀楽は共通するでしょう。子供が死ねば悲しいし、出世をすれば嬉しいでしょう。しかし、平安時代と現代では、仏や神に対する感覚は違いますし、戦国時代と比べても人の死の重さは異なるはずです。現代人の感覚で安易に昔のことを判断しないということを、歴史教育において重視する人も少なくないのですが。
 そして一番衝撃を受けたのが、社会科には即効性がある、という指摘でした。私は小学校の教員でしたから、国社算理図家体と音楽以外の教科を指導しました(音楽は専科にお任せ)。同僚も同じでした。同僚教員と話をすると、国語は全ての学習の土台で不可欠、算数は数学的思考力を身に付けさせるために必要だし、理科も科学的な思考力育成のために欠かせない。体育は健康な体作りに役立つし、図工や音楽は芸術的素養の基礎を培い人生を豊かにする、でも社会科は何に役立つのか分からない。社会科で学ぶことのほとんどは大人になれば自然に分かることばかり、と言われてしまうのが常でした。
 多くの教員が何の役に立つのか分からないと言っているものを、渡辺氏は、即効性がある、今日からすぐ役に立つと言っているのですから、そのギャップの大きさには考えさせられてしまいます。私は社会科での学びは、すぐに役立つというものではないけれど、自由で民主的な社会を維持するために、つまり幸せな社会を守り育てていくために不可欠な教科だと考えています。それは渡辺氏の指摘を目にした今も変わりません。
 社会科ってどんな教科なんでしょうか。

 

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毅然として訂正を求める

2022-04-26 08:33:39 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「逃げた?」4月19日
 『「若い娘を薬漬け」牛丼中毒に 吉野家常務が発言』という見出しの記事が掲載されました。牛丼チェーン大手の吉野家の常務が、早稲田大が主催した社会人向け講座に講師として参加し、問題発言をしたことを報じる記事です。
 発言内容は、『田舎から出てきたばかりの若い女の子を生娘なうちに牛丼中毒にする。男に高い飯をおごってもらうようになれば絶対に食べない』というもののようです。この発言は、わざわざ論評する価値もありません。私は、この発言にまつわる関係者の対応が気になりました。
 吉野家は講座の2日後、『多大な迷惑と不快な思いをさせたことに対し、深くおわび申し上げます』と謝罪し、『用いた言葉・表現の選択は不適切であり、人権・ジェンダー問題の観点からも到底許容できるものではありません』と厳正対処を表明しています。2日後というのが気になりますが、事実確認等も必要で仕方がないかもしれません。
 主宰者の早稲田大は、『社会人教育事業室の責任者が講座終了後に受講者にその場で謝罪した』とのことです。この対応はどうでしょうか。私は不十分だと考えます。その理由は、2つあります。まず、終了後の謝罪という点です。講座には、同大の関係者が複数いたはずです。その人たちは、発言を耳にして「これは問題だ」とは思わなかったのでしょうか。もし同大関係者全員が思わなかったとすれば、早稲田大自体の人権感覚が問われます。
 また、問題だと感じたにもかかわらず、放置していたとすれば、そこには厄介な問題には関係せず面倒に巻き込まれたくないという事なかれ体質が感じられます。私も教委勤務時に研修会等で呼んだ講師の問題発言の対応に苦慮したことがあります。講座の休憩時に、講師本人に問題点を指摘し、本人の口から問題となるわけを説明し謝罪し訂正してもらうのですが、多くの場合講師は「大物」で年上ですし、外部からお願いしてきていただいているわけですし、問題点を指摘するのには勇気が必要になります。
 プライドが高く、間違いを認めないという方もいます。無礼だと怒る方もいます。もう二度と(講師として)来ない、自分が属する組織として(教委には)協力しないと言う方もいます。それでも、謝罪と訂正をお願いしなければならないのです。そうしなければ、教委が差別や人権侵害を容認していると言われてしまうからです。正直に言って、この謝罪と訂正をお願いするというのが、指導主事として最も嫌な仕事でした。
 同大の関係者は、吉野家の常務に対して、こうした対応をとっていないように思われるのです。常務はその場では謝罪も訂正も説明もしていないのですから。
 こうした事例は学校でも起こり得ます。特に、地域の人や外部の社会人を講師に呼んで講話などを依頼するケースが増えてくると、こうした問題発言事例が起こりやすいのです。そのとき、その場には校長も副校長もおらず、教員が一人だけ立ち会っているということもあるはずです。その一人があなただった場合、あなたは毅然として講師に謝罪と訂正をお願いできるでしょうか。教員は、自分の胸に聞いてみる必要があります。
 なお、こちらの要請に講師が従わない場合、無理押しすることはありません。会の終了後に、問題点を指摘し修正と謝罪をし、講師にも訂正を求めたが拒否されたという事実を伝えればよいのです。

 

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決定過程を明らかに

2022-04-25 07:48:59 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「決定過程は?」4月19日
 『ハラミちゃんに笑顔 三鷹中等教育学校 サプライズ演奏会』という見出しの記事が掲載されました。同校で、ユーチューブを中心に活動するピアニストのハラミちゃんがサプライズで演奏を披露したことを報じる記事です。
 都教委プロジェクトの第一弾ということです。記事によると、『都教委の「子供を笑顔にするプロジェクト」は、修学旅行などの学校行事が中止となる中、児童生徒にスポーツ観戦や芸術鑑賞などの体験活動の機会を与えようと企画』されたものだそうです。
 『同校でも農業体験や海外研修が軒並み中止』になったということで、今回の演奏会実施に至ったということのようですが、どういう経緯でハラミちゃんの演奏会という計画が決定したのか知りたいと思います。
 特別活動に位置付けられる学校行事には、旅行宿泊的行事や保健体育的行事など、いくつかの行事があり、それぞれについてその教育上のねらいが明示されています。ですから、単純に考えれば、農業体験が中止になったのであれば、それにできるだけ近い教育上の効果が期待できる内容のものが企画されるべきです。
 修学旅行も農業体験も、それが必要と考えられているからこそ、教育課程に位置付けられていたのですから、全く異なる性格のイベントでは、教育課程編成時の狙いは実現できないことになってしまうのです。
 このようなことを書くと、コロナ禍で落ち込んでいる子供を笑顔にすることが狙いなのだから、煩いことを言うなという声が聞こえてきそうです。しかし学校は学びの場です。楽しいことで子供を笑顔にさせればよいという考え方自体が問題です。教委は、学校は、教員は、とことん頭を絞り、与えられた環境と時間と予算の中で、少しでも教育課程の趣旨に沿った行事を工夫すべきだと思います。教育課程は、単なるお飾りではなく、子供にとってベストだと思われるものを、校長のリーダーシップの下、全教員の叡智を結集して作ったものであるはずですから、少しでもその趣旨を生かすよう努力しなければならないはずなのです。
 様々な検討を重ね、その結果ベストと判断したものがハラミちゃんのサプライズ演奏会であったというのであればそれはそれで構いません。その決定に至る経緯や教育効果を高めるためのハラミちゃん側との交渉の内容ををきちんと周知することは、「学校は私たちのことを真剣に考えてくれている」という保護者や子供の信頼を勝ち取ることにつながるはずです。そしてその信頼は、今後の教育活動を円滑に進める力となるはずです。

 

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賛成→反対→これから?

2022-04-24 08:52:32 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「象徴するもの」4月18日
 連載企画『日の丸の向こうに 沖縄復帰50年』が始まりました。その中にとても考えさせられる記述がありました。長くなりますが、ところどころ省略して以下に紹介します。
 『沖縄教職員会が日の丸購入運動を始めたのはこの(サンフランシスコ講和条約発効)後だ。本土の業者から日の丸の旗を一括購入し、児童・生徒を介して希望する家庭に配った(略)教職員会は学校での掲揚も許可するよう求めたが、(米国に)かたくなに拒まれた(略)日米首脳会談で、ケネディ大統領は祝日や正月三が日に限って、学校を含む沖縄の公共の建物での日の丸掲揚を認めた(略)小学校では正月に国旗掲揚式があり、冬休みにもかかわらず教員や児童が集まって日の丸を掲げた』というものです。
 我が国では長い間、日教組や全教といった教職員団体を中心に、反日の丸闘争が繰り広げられました。国旗法が定められ、日の丸が法的にも国旗となってからも、卒業式に日の丸を掲揚するかしないかで、各学校で管理職と職員団体の厳しいせめぎ合いがあったのです。
 壇上正面への国旗掲揚を指示する校長、反対する教員、夜9時を超えても延々と続く職員会議、妥協策として壇上の脇に日の丸を置くことで決着。しかし、当日になると、校舎の屋上に日の丸が掲げられているのを発見した教員がそれを降ろそうとし、屋上の鍵を渡さない共闘に詰め寄る、指揮の開始時刻になっても押し問答が続き、卒業生は教室に、保護者と来賓は体育館で待たされたまま、などという状況が見られたものです。
 一部の教員が、日の丸の白は死んだ兵隊さんの骨の色、赤は流れた血の色などと教えて問題になったこともありました。卒業式が近づくと、「日の丸を隠しちゃえ」と言う教員さえいたのです。
 私が勤務していた教委では、卒業生の担任が、日の丸を完全に撤去しない限り子供を教室から出さないと言い張り、教育長まで担任に会い説得するということがあり、そのケースでは、結局日の丸は撤去されてしまいました。
 そんな時代に教員生活、教委の幹部としての生活を送ってきた私からすると、教員集団が日の丸を学校で掲揚したいと運動をするなどと言うことは信じられない思いだったのです。しかも、いわゆる革新系が強いとされる沖縄で、です。
 私はそうは考えていませんが、日の丸は軍国主義、帝国主義、侵略主義の象徴という捉え方をする教員に多く接してきました。その中で知らず知らずのうちに、日の丸が象徴するものは、と訊かれれば、条件反射的に「どうせ、軍国主義の象徴と言いたいんでしょ」と返すような思考回路になっていたのです。
 近年、反日の丸闘争は全国的に下火になっています。かつての闘士が定年を迎え退職してしまったことも影響しているかと思います。しかし、今でも卒業式に校長の職務命令に従わなかったという理由で処分を受けた教員の裁判闘争が続いています。
 学校教育における日の丸君が代(国旗国歌)問題、今のうちに一度きちんと整理・総括しておくことは意味があるのではないでしょうか。

 

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失敗と悪

2022-04-23 08:16:10 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「分析・考察・反省の視点」4月18日
 特別編集委員山田孝男氏が、『ウクライナ 別の視点』という表題でコラムを書かれていました。その中で山田氏は、『東京大学の入学式に招かれた映画監督、河瀨直美の祝辞』を取り上げています。『「ロシアという国を悪者にすることは簡単」という一節があり、「どっちもどっちはおかしい」』という批判を浴びせられた祝辞です。
 この件について山田氏は、『戦争の背景を考えることは自由だし、むしろ必要である』という立場を示されています。そして、『戦争の責任は米国とNATOにある』というフランスの歴史人口学者トッド氏の発言や『「ウクライナが戦争になっても米軍は介入しない」と告げて、軍事進攻に誘い込んだ』とバイデン大統領に責任を追及する中国研究者遠藤誉氏の発言を紹介なさっています。
 私は、河瀬氏の発言に対する『ロシアの蛮行に対する非難が弱い』という意見に賛成の立場です。悪いものは悪いのです。教員として今も教壇に立っていれば、そう表明したいと思っています。だからと言って、山田氏がおっしゃっているように戦争の背景を考えることも非常に重要だと考えています。
 私のこのブログを読んでいただいている人であれば、私が戦争の悲惨さばかりを強調する情緒的な平和教育を批判し、戦争が起きる筋道を知り戦争を未然に防ぐための行動について考える戦争防止教育こそ平和教育の根幹をなすべきであるという主張を覚えていてくださっていると思います。
 私は、トッド氏や遠藤氏の指摘は正しいと思います。ただ、だから悪いのはバイデンだ、NATOだという結論には異論があります。私はこんなたとえ話を考えてみました。
 ここに連続殺人事件を起こした容疑者Aがいます。警察が逮捕し、警察官BとCが手錠をはめて連行していきます。途中でAはトイレに行きたいと言い、BとCは相談のうえ、手錠を解き近くにあった公衆トイレの個室にAを入れます。ドアの外で待っているとやがて中から物音が聞こえなくなります。BとCが慌てて中を覗くと、Aは個室の小さな窓から抜け出し逃走した後でした。その後Aはまた複数の殺人事件を起こしました。
 BやCの対応にミスがあったのは明らかです。では、悪いのはBやCなのでしょうか。そうではなく、悪いのはA、殺人の実行犯であるAは悪であり、そのことは少しも揺るぎません。ただ、社会にとって、BやCの行動の問題点を明らかにし、二度と同じ過ちを犯さないようにすることは必要です。
 私は、このAに当たるのがロシアでありプーチン大統領で、BやCに当たるのがバイデン氏やNATOだと考えるのです。確かに、BやCの判断ミスがなければAの悪行もなかったかもしれませんが、それを「悪いのはAだけとは言えない」という結論に結びつ蹴るのは間違いだと思うのです。だから、河瀬氏には、「悪いのはロシアでありプーチン、ただ米国やNATOの側にもいくつかの判断ミスがあったのではないか、それが侵攻の誘因になったのではないかと考えてみてほしい」と言ってほしかったと感じるのです。
 教員は、教室でウクライナ侵攻が話題になったとき、ロシアの蛮行は許せないと言い切ってほしいと思います。その前提に立ち、戦争の背景について発達段階に応じて考えさせるのが望ましい対応ではないでしょうか。

 

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カネをケチってはうまくいかない

2022-04-22 08:23:21 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「順序が大事」4月17日
 『外国ルーツの子ども 日本語習得支える制度を』というタイトルの社説が掲載されました。現状分析から課題の抽出まで、当然ともいえる内容だと思いました。結論部分では、『外国ルーツの子どもが今後増えていくことを見据えた制度づくりが欠かせない』『教える技量とさまざまなルーツへの理解をもった教員の確保に向け、人材育成の仕組みを整えることが重要となる』とありました。
 これも真っ当な指摘です。ただ、その実現のためには、施策の順序を考える必要があると思います。「教える技量」とあっさりと書いていますが、このことはとてつもなく高い専門性が求められるということを確認しておく必要があります。例えばベトナム語、です。ベトナムという国の歴史や文化や国民性についての知識をもち、その上でベトナム語に堪能であり、さらに通常の学級の教員がもつ授業力もなければならないのです。
 ベトナム語について言えば、観光通訳レベルの語学力では、抽象的な概念を扱う授業で用いられる用語を発達段階に合わせてわかりやすく伝え、その理解度を確認するという、授業において必須の教員の役割を果たすことはできません。
 我が国の学校制度では、小学校教員と中学校教員では、教員免許の種類が違います。中高では、教科によって免許が異なります。つまり、ベトナムの文化・歴史・国民性に通暁し、抽象概念を正確に伝えることができるベトナム語力があり、その上で小学校段階の日本語教員には小学校教員免許保有者と同等の、中学校では理科や数学などの教科指導の教員と同レベルの専門知をもった者でなければ、「教える技量」をもった有資格者とはならないのです。
 これだけの能力をもった人材であれば、教員よりももっと待遇の良い職に就くことができるでしょう。また、日本語指導教員となる意欲をもつ人であっても、就職先が自分の希望とあまりにもかけ離れていれば、日本語指導教員となることを躊躇ってしまうでしょう。例えば、北海道や岩手県などの広い自治体で、日本語指導教室がある学校は自宅のある地域から片道3時間もかかる場所にあるというのでは、教職に就くことを断念してしまうのではないでしょうか。
 さらに、県内に、日本語指導教室が数カ所しかなく、将来的に異動や昇進などの道が閉ざされているというのでは、希望がもてなくなってしまいます。また、当該言語を母語とする子供が、卒業したり、保護者の都合で転居したりしていなくなってしまうと職場そのものがなくなってしまったり、遠隔地に異動を強要されたりするというのでは、安定した職とはみなされなくなってしまいます。これでは希望者は増えません。優秀な人材を集めることは難しくなります。
 以上のことから私は、人材育成の仕組みを整える前に、あるいは同時進行で、日本語指導教室担当教員としての安定的な雇用、給与・赴任地・昇進・キャリア形成などの面で魅力ある就業環境などを整えることが大切であると思います。それには、膨大な予算が必要となります。
 私見ですが、ベトナム語、スペイン語、ポルトガル語など需要の多い言語を10ほど選定し、地域の実情に合わせて言語を決め、児童・生徒数100人に1人の割合での日本語指導教室教員の配置を各自治体に義務付ける、というような制度設計が必要だと思います。私が居住する某区に当てはめると、小学校だけで180人となります。人件費は、年間約18億円です。中学校と併せれば27億円となります。しかし、それくらいの覚悟で始めなければ、優秀な人材を必要数、安定して集めることはできません。27億円を、日本の発展や日本社会の安定のための投資と考えて負担が必要と金をケチっては国民の共通理解を図ることこそ政治の役割です。

 

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望まない未来に手を貸す

2022-04-21 08:33:02 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「枝葉と幹」4月17日
 『急進左派の3位票 行方は』という見出しの記事が掲載されました。仏大統領選の決選投票において、『マクロン氏陣営は、第1回投票で3位につけた急進左派のメランション候補(70)への支持票がルペン氏支持に向かうことに警戒感を強めている』ことを報じる記事です。
 記事によると、『メランション氏の政治的立場は、「フランス至上主義」の極右ルペン氏と対極に位置』、『メランション氏は第1回投票が終了した10日夜、「ルペン氏には一票たりとも与えてはならない」と支持者に呼び掛け』なのだそうです。
 まあ、こうした記事を読むまでもなく、急進左派と極右では、共通する政治理念などないということは簡単に理解できるところです。しかし、現実には、メランション氏を支持していた人の中の相当数がルペン氏支持に回ると予想されているのです。
 なぜそんなことが起きるのか。反エリート、格差解消などの点で共通点があるというtことだそうですが、おかしな現象だと思います。急進左派の支持者は、自分たちが最も望まない政治理念の実現に力を貸そうとしているのですから。
 こうした混線状態は、我が国でも起きています。私はこうした現象が起きる要因の一つとして、主権者教育の在り方があると考えます。近年、我が国でもようやく主権者教育の必要性が広く認識されるようになってきました。その特徴は、自分にとって身近な問題を取っ掛かりにするということです。そして、実際の選挙に起きては、政党の公約について項目ごとに各党の対比表を見て自分の考えに一番近い内容をチャックし、もっとも多くチェックがついた政党に投票するという行動が一つのモデルとして示されています。
 そうすると、原油価格を下げるための減税、コロナ禍で経済的に苦しい学生への授業料免除、貧窮者への給付金配布、最低賃金のアップ、給付型奨学金の拡充などの問題が「身近な大切な問題」となり、そこで大幅な増額を打ち出した政党が自分の考えに合った政党ということになってしまうのです。
 これらが大切ではないとは言いません。しかし、専守防衛という「国是」の変更や国民の権利を抑制する非常事態条項創設に絡む改憲、国の未来を左右する原発再稼働、人権抑圧として非難され国際的な信用を失いかねない難民政策、国権の最高機関である国会軽視の政治運営、放漫財政の是正など、大きな、でも自分からは遠く感じてしまう課題については、一年間消費税中止で手取り10万円増という近い利益の前にかすんでしまうという状況が起きてしまうのです。仏大統領選で起きているのも同じです。自分の理想とは真逆の社会の実現に手を貸してしまう近視眼的な選択です。しかし、それは民意として公認され、後から気付いて「そんなつもりではなかった」と言ってみても、そのときにはもう遅いのです。
 このブログで繰り返し訴えてきましたが、主権者教育は、民主、自由、法治という理念を維持発展させるためには何が重要なのかという視点から主権者としてのあるべき行動を考えていくという「大きな問題」を中核に据えるべきなのです。

 

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