ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

「教育」って幅が広すぎる

2016-10-31 07:52:01 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「授業力養成学部」10月24日
 客員編集委員牧太郎氏が、『「名前」を変えれば』という表題でコラムを書かれていました。その中で牧氏は、ボブ・ディラン氏のノーベル文学賞受賞を取り上げ、『大学の文学部も「文化学部」になり、ノーベル文学賞も「ノーベル文化賞」になるべき』と書かれています。
 時代が変われば名前も変わる、という牧氏の主張には全面的には賛成できませんが、大学の学部名が、本来目指すべき内容に相応しくないという思いは、私にもあります。その最たるものが「教育学部」です。
 教員、特に小学校の教員の多くは、教育大学や教育学部の出身者で占められています。しかし、教育学という学問分野は実に多彩です。教育史も、教育経済学も、教育心理学も、教科教育学も、教育学部の中に包摂されるものですし、教育制度、教育法規、諸外国の学校制度、教育行政制度、もその研究範囲でしょう。さらに言えば、家庭教育や社会教育も「教育」であり、そこまで裾野を広げれば、研究者や実践家の数は膨大になり、本当に一つの学部で網羅することができるのか不安になります。
 私も教育学部出身です。確かに教育制度や法規、心理学や教育史などの講義を受けた記憶があります。しかし、それらは教職に就いたとき、まったくと言ってよいほど役に立ちませんでした。
 一方で、教員になるために必要な教材研究法や評価法、学習指導案の立案や子供の発達段階に合わせた資料の作成、各種教育機器の活用法、授業記録の作成及び分析法、机間指導や板書の構成法などについては、ほとんど講義がありませんでした。
 こうした状況については、戦後の教員養成の考え方の変化が強く影響しています。昭和21年、米国の教育使節団が訪日し、様々な教育改革策を打ち出す中で、師範学校による閉鎖的な教員養成システムを大学での開放的な教員養成システムに変えるという提言をしたことが、現在のような教員養成の形に結びついているのです。
 こうした改革は、あくまでも戦前の我が国の初等教育が、国家主義的な内容によって占められていたという反省に基づくものです。本来、内容の問題であったにもかかわらず、教員養成の在り方の問題と拡大解釈されたのです。その結果、教員の「教えることの専門家」という側面が軽視され、民主的な思考判断のできる市民としてあることが教員の第一条件であり、そうした教員を育てることが新国家建設において最重要課題であるということになったのです。そして、教育学部を卒業した若者は教えるという専門性を身に着けることのないまま教壇に立ち、教員自身、自分が何の専門家であるかを自覚できないという状態が続いたのです。
 このことが、戦後の日教組の運動の過激化の下地にもなり、国民が教員の専門性を軽んじる傾向を生むことにもつながっているのです。
 教育史や教育経済、制度や法規などについて学び研究することは大切なことです。しかしそれらの教員にとっての優先度は決して高くはありません。こうした研究は、学者に委ね、教員志望者向けには、教えることに関わることを学びの中核に据えるべきだと思います。授業力養成学部が独立して設けられるべきだと思うのです。

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鼻先に人参を

2016-10-30 08:20:53 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「視野が広がる」10月24日
 『兼業容認企業広がるか』という見出しの記事が掲載されました。ロート製薬が兼業容認を打ち出したことを受けて、兼業容認の広がりや課題をまとめた記事です。記事によると、ロート製薬は兼業について、『社内では得られない経験をすることで成長し、自立した社員を育成する』という効果を期待しているそうです。他の企業や専門家の中にも、『視野や人脈の拡大、自己研さんにつながる』『働き手それぞれが自分のキャリアを意識しながらけっけんちを積み上げる必要があり、兼業容認は自然な流れ』という肯定的意見があるようです。
 私は大学を卒業して以来教員として、その延長として教委の幹部職員として社会人生活を送ってきました。他の世界を知りません。そのことに劣等感を感じているのも事実です。しかし、兼業兼職を禁じられてきた職にあり続けたこともあり、複数の職を持つ生活というものがイメージできないのです。
 ところで、公立学校の教員に兼業が認められるようになったら、学校は変わるのでしょうか。これは決して単なる空想ではありません。現に、外国では、長期休業中には教員に給与を支払わない代わりに、自由に他の職に就くことを認めている事例があります。こうした制度導入の理由は、教員の視野を広げるといった前向きなものではなく、財政上の理由から教員の人件費を節減することが狙いです。
 我が国の政府も自治体も財政難に悩んでいます。公立校の教員の人件費はどの自治体でもかなりの巨額になります。ですから、人件費をカットする代わりに兼業を認めるという施策が導入される可能性は、将来的にはかなり高いと思われるのです。
 また、今から50年程前には、勤務時間終了後家庭教師のアルバイトをしている教員は実際にいましたし、私立校の教員の中には、家庭教師代の方が教員としての給与よりも多いという強者もいたのです。ですから、教員と兼業というのは馴染みやすいという側面ももっているのです。
 教員が兼業として、塾の講師や家庭教師になる場合、採用に有利になる肩書きは、いわゆる「名門校」の教員であるということでしょう。小中学校の教員の場合でも、学力テストの結果が地域でトップというような学校の教員であれば、採用した塾にとってアピールポイントになります。実際には、学力テストの結果は教員の授業力よりも地域や家庭の経済力や保護者の学歴等に左右されるのですが、多くの保護者はそのようには考えていないので、教員のブランド化が進むはずです。
 このことは、学力テストの結果が教員の副収入に結びつくということで、議員や首長の中には、教員の鼻面にニンジンをぶら下げ、自己研さんを促す効果ももたらすと、都合よく考える人たちが現れそうです。つまり、公教育の質的向上策の一環としても、兼業解禁が進められる可能性があるのです。
 しかし、教員が塾の講師や家庭教師を兼業するというのでは、兼業のメリットとしてあげられていた「視野を広げる」「人脈を広げる」といった効果は余り期待できません。異業種の企業、企業と家業、企業とNPOというような異なった場での就業こそが、兼業推進の本来の意図を満たすものであるはずですが、それは難しそうです。
 一方で、教員への影響は様々考えられます。教員異動で特定の学校への希望集中、その反対に問題校への忌避。実技系の教員といわゆる主要教科の教員との溝の拡大。問題行動への対応等、時間外の生活指導への対応力欠如。年休消化率の極限までの上昇がもたらす校務への支障などです。これは、教員の指導力という資源を、公教育から塾や家庭教師に移す、別の言い方をすれば、塾に通わせ家庭教師を雇うことができる富裕層の子供向けに移すという新たな不公平、格差を生むことにつながるのです。
 我が国の行政の体質として、教員の兼業容認が持ち出されてくるとき、人件費抑制という本音は隠され、教員の視野を広げ、学校の常識は社会の非常識といわれる現状を是正するといった「綺麗事」が掲げられる可能性が高いはずです。そんな美辞麗句にだまされないためにも、教員の兼業の功罪について、一人一人が考えておく必要があります。

 

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観点は?基準は?共通理解は?

2016-10-29 07:49:55 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「通知表」10月23日
 山口県下関市の岡田小百合氏による、『「4」の意味』という表題の投稿が掲載されました。その中に次のような記述がありました。『学年一、運動オンチの私の通知表に中2の時、5段階評価の4がついた。明らかに先生の表記ミスだと思って私は先生に尋ねた。「どんなに苦手でも休まず、いつも誰よりも先に準備体操しているあなたに4をつけた」先生のその言葉に生かされ、今がある』というものです。。
 さらに、岡田氏は、『ことあるごとに、3人の子どもたちに話して聞かせた』『先生のお陰で真っすぐに生きることができた』『子どもたちにもスポーツの面白さを伝えることができた』など、恩師の言葉が自分の人生に与えた影響を繰り返し書かれ、恩師へのお礼の言葉で投稿を締めくくっていらっしゃいました。
 投稿の最後に書かれている岡田氏の年齢を拝見すると、私の最初の教え子とほぼ同じ年齢です。思わず、若い日の私と比較してしまいました。私は自分に甘い人間ですが、どう贔屓目に見ても、私の渡した通知表が、このような影響を与えたケースはありそうにありません。同じ教員として、岡田氏の恩師が羨ましいと嫉妬してしまいました。
 しかし一方で、35,6年前には通用した話が今でも通用するだろうかという疑問もわいてきました。岡田氏の恩師の説明は、体育という教科の評価の観点として、授業を欠席もしくは見学した回数、準備体操に取り組む早さ、を設定していたということです。そしてそれらの観点が総合評価に占める割合を極めて高く設定しているということも意味します。岡田氏の自己評価が正しければ、体育の技能は5段階の「1」レベルであるにもかかわらず、総合評価は「4」になっているのですから。技能と関心・意欲・態度?(休まない、誰よりも先に準備体操)が同じ比重を占めるのであれば、「1」と「5」であったとしても「3」にしかならないはずなのですから。
 もちろん、どのような評価の観点を設け、観点ごとにどのような配点にするかは、教員の裁量という考え方もあり得ます。通知表は、指導要録とは異なり、学校が独自に作成する文書なのですから。しかし、仮にこうした立場をとるにしても、そのことは校長の了承を得ていなくてはなりませんし、体育科教員の共通理解が図られている必要があります。さらに、こうした評価方針が生徒と保護者に周知されていることも必須条件になります。これらのどれか一つが欠けても、評価に対する苦情が寄せられ、他の保護者や生徒から不信感をもたれることになります。
 岡田氏の恩師の評価は、岡田氏が「先生のミス」と感じたことからすると、上記の3条件を満たしていなかった可能性が高いと思われます。つまり、今の中学校でこんなことをしたら、問題となる可能性が高いということです。心情的には残念ですが、もし私が指導室長をしていたときにこうした事例が明らかになったとしたら、岡田氏の恩師に対して何らかの処分を検討することになると思います。
 私の勝手な推測ですが、岡田氏の投稿を読まれた方の多くは、岡田氏と恩師の関係や恩師の心遣いに、温かい思いを抱かれると思います。でも、今の学校では処分される問題行動なのです。そして岡田氏の恩師のような言動を処分対象とする変化は、世間の皆さんが望んできた改革の結果でもあるのです。牧歌的な師弟関係をいい加減、公務員としての自覚に欠ける、不公平、依怙贔屓、説明責任無視などと批判してきたことによる成果なのです。これは、本当に皆さんが望まれたことなのでしょうか。そんな疑問が一瞬胸をよぎったのです。

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隠蔽的気休め

2016-10-28 08:11:27 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「長い目で見て」10月20日
 『ここに、いるよ 発達障害の子どもたち』という特集の第4回は、『専門医「低年齢開始で改善」』という表題で、療育の現状と課題についての特集でした。その中で小児科医平岩幹男氏の、『診察で「様子を見ましょう」「長い目で見ましょう」「温かい目で見守りましょう」という言い回しをする医師もいますが、具体的な対応策のない気休め的な慰め言葉かもしれません』という指摘が印象に残りました。
 この言葉、教委勤務中によく耳にしたのです。それは、障害児を通常学級に通わせる「運動」をしている旧社会党系の団体に属する教員たちが、保護者に対して発する言葉でした。彼らは、子供たち一人一人の状況を無視し、教育的判断ではなく、自分たちの運動の成果拡大という視点で、特別支援学級や特別支援学校への入学が相応しい子供にも、通常学級への入級を勧めます。
 施設設備が整わず、特別支援教育に対する教員の専門性も不十分で、学校としても組織的な指導計画をもたない通常の学校では、担任教員のそれなりに懸命な指導にもかかわらず、指導の成果は上がらず、障害のある子供の成長がストップしてしまいがちです。そこで、特別支援学級等に入級した同学年の子供が着実に成長している姿を見た保護者が、我が子との差を心配し、入級の際に話を持ち掛けてきた運動員教員に相談すると、上記のような答えが返ってくるのです。
 保護者からは特別支援教育の専門家のように映っている彼らは、実は全くの素人です。運動員としてのノウハウはもっていても、障害のある子供の指導についての専門的知見はもっていないのですから、具体的なことは何も答えられません。そこで、自信のある表情で、包容的な優しさを漂わせながら、力強く気休めを口にして、保護者を惑わせるのです。
 一方で、運動員ではなく、教員として特別支援教育の携わってきた者たちは、具体的に語ります。「今学期中に、○○ができるようにします」と。○○は、保護者の願いからすると、余りに小さなことで牛歩の歩みのように思われるのですが、小さな一歩を積み重ねていくことこそ、本当の成長なのです。
 もっとも、無責任な「長い目で」「様子を」「温かい目で」的な言い回しは、通常学級の担任も使うことがあります。もちろん、その教員も指導力不足を隠している可能性が高いのです。教員は、気休めを言うだけの存在であってはいけないのです。

 

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組織と世論

2016-10-27 08:07:00 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「改革派の弱点」10月20日
 特集ワイドに『「小池の兵法」に死角はないか』という表題の特集記事が組まれました。小池都知事の都政改革について論じる記事です。その中に元鳥取県知事片山善博氏のコメントが掲載されていました。片山氏は、『都庁組織への根強い不信感や、職員より外部有識者を重用する点などに「いささか民主党政権の出だしに似たところがある」』と指摘し、『外部チームは都の実務は担えない。どこかでモードチェンジして都庁の職員を引きつけ、能力を発揮できる組織集団に仕立てあげないと、いずれうまくいかなくなる』と懸念を示していらっしゃいました。
 片山氏はさらに、『その際、難しいのが「戦う知事」に期待する世論との兼ね合い』とも述べていらっしゃいます。自分の武器である「世論」を味方につけることを重視するあまり、組織を敵に回してしまう危険性の指摘です。ご自身も知事職を経験し、総務大臣としても組織の運営に当たってきた片山氏らしい指摘です。
 しかしこの指摘は、小池氏だけに当てはまるものではありません。すべてのトップ、特に規制の枠組みを批判してその地位に就いた「改革派」に共通する問題点なのです。我が国では、勧善懲悪のストーリーに人気が集まります。大岡越前、水戸黄門、遠山の金さん、暴れん坊将軍、みんな既得権をもち甘い汁をすする悪人を、強大な権力をもつヒーローが叩き潰す話です。それも、長く苦しい戦いの末に悪を滅ぼすというのではなく、あっという間に一刀両断、という形です。さらに、悪を滅ぼした後、家老や代官、藩や幕府の幹部を排除した後の組織改革の苦労が語られることはありません。悪を排除しさえすれば万々歳、何もかもがうまくいくことになっているのです。現実にはそうはいきません。
 近年、改革派と言われる首長に期待が集まっています。自治体においては圧倒的な権力をもつ首長に、その権力を使って「悪」を一刀両断することを期待しているのです。改革派首長の代名詞ともいうべき橋下徹前大阪市長は、その「悪」の一つに教員と学校、教委を選びました。それはなぜだかは本人にしか分からないことですが、悪役にぴったりの条件をもっていたからであるのは間違いないでしょう。天性の勝負師である橋下氏は、自分の力の源泉が世論にあること、世論の支持を維持するためには悪を成敗して見せることが有効であることを理解していました。そしてその悪役は、悪であることが分かりやすく、一見すると強力であり、しかし実際には弱小であること、つまり簡単にやっつけることができる存在であることを本能的に悟っていたのでしょう。それが、教委だったのです。
 いじめや低学力という問題が見えやすいこと=わかりやすい悪、数万人という教員を傘下に収める巨大組織に見えること=一見すると強力、しかし実際は予算と人事を首長に握られた弱小組織、先に挙げた条件をすべて満たすのです。また、様々な支障が出ても、それは自分の管轄ではないのですから、責任を負う必要がありません。こんな絶好な標的はありません。
 そして、改革派を名乗りたい首長たちは、橋下氏を手本に、教委攻撃をし、教委改革の名の下に、教委を首長直轄にしました。こうした手法の創始者である橋下氏は、さっさと政治家を辞めました。残された教委が、橋下氏の進めた民間人校長の相次ぐ不祥事に四苦八苦しているのを尻目に。さすがの先見性です。
 今後、教委を自分の管轄下においた首長たちは、悪役を倒したヒーロー役から、勧善懲悪ドラマでは描かれることのない、地道な組織立て直しを担わなければなりません。片山氏の懸念は、全ての自治体の教育行政への懸念でもあるのです。

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懺悔を込めて「影響なし」に?

2016-10-26 08:22:32 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「影響の有無」10月20日
 『2社からの歳暮の49人が採択関与 教科書問題』という見出しの記事が掲載されました。教科書会社が教員らに歳暮を贈っていたことに関する記事です。記事によると、『受け取った165人中49人が市町村教育長や教科書に関する資料を作成する調査員などとして、教科書採択に関与する立場』にあったが、『採択は公正で歳暮の影響はなかった』ということです。
 影響がなかったと判断したのは文部科学省ですが、その判断理由が記事には示されていませんでした。私自身、教員時代には、教科書会社に接待を受けたことがあります。教員用指導書を執筆し謝礼を受け取ったこともあります。教科書会社の系列会社が出版する教員用図書の執筆に加わったこともあります。もちろん、原稿料は受け取りました。
 私は教員時代には、その教科書会社に親近感を抱いていました。それは人間として当然の心理でしょう。教科書採択においては、その会社の教科書を推しました。私としては、情実ではなく、公平に比較した結果であったつもりです。なぜそう考えるかというと、教員用指導書の執筆等に携わったり、教員用図書の執筆をしたりする過程で、その教科書についての理解が深まるからです。表面的な理解ではなく、全ての学年を貫く基本的な理念、教材として取り上げた地域選定の際の配慮、掲載されている資料作成の工夫など、自分の頭の中に自然に染み込むように分かってくるのです。
 そうした深い理解に基づいて話す私の見解が、他の教員の意見よりも説得力をもつのは当然です。元々確固たる見解をもっていたわけではない他の教員は私の見解に同意していき、私の所属校は、学校としてはA社を支持するという意見を提出することになりました。
 今でも、当時の私の見解には自信をもっています。客観的に見て、他の教員見解よりも説得力のあるものだったと思っています。もし、市民や教育委員がそのまま読んだとしても、依怙贔屓ではなく、A社を推薦するには相応な理由があると考えたと思います。ちなみにA社は、採択数全国一でした。
 では、私のケースは、「影響なし」と判断されるべきなのか否かと問われれば、今の私であれば、影響ありと判断します。それは、そもそも教科書について提供される情報量に差があったという点で公正ではないと考えるからです。今回の調査は、歳暮という物品の贈与、経済的利益の供与という視点からアプローチしているようですが、歳暮を贈られるという関係は、当然その前に、様々な情報提供があったと考えるのが自然です。そうであれば、公正という判断は疑わしいと言わざるを得ません。実情はどうだったのでしょうか。

 

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無知からくる無責任な意見

2016-10-25 07:55:05 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「無知ということ」10月18日
 『退位特別法地ならし』という見出しの特集記事が掲載されました。今上陛下の生前退位に向けての動きを報じる記事です。その中に、政府高官の『世論調査では退位に賛成が多いが、同時に、退位とは両立しない摂政に賛成している人も多い。まだよく理解されていない』という言葉が紹介されていました。
 天皇陛下の生前退位については、我が国の在り方、民主主義や人権の視点、天皇制と欧州の王制の違い、天皇の地位を巡る歴史的事件と経緯など、考えるべき視点が複雑に絡み合っており、「陛下もご高齢だから」「今まで私たちのためによく頑張ってくださったんだし」というような感情論で済む問題ではありません。高官の述懐は、それにも関わらず、国民の大多数が、感情論レベルに留まっている現状に対する懸念を表したものでしょう。
 しかし、この問題に限らず、国民の声というものは、多くの場合、無知や無関心からくる無責任な意見に過ぎないのです。人間の遺伝子操作について、食品のトレーサビリティ制度について、消費増税の際の軽減税率の導入実務について、新薬使用による高額医療の問題について、的確に語れる国民は何%いるでしょうか。
 こうした社会の耳目を集めている問題ではなくても、学校教育についての「国民の声」も、その妥当性には疑問があるケースが少なくありません。というよりも、むしろ最も問題が多いと言ってもよい状況だと思います。それは、上述の問題が、社会の一部の人にとっての関心事でしかないのに比べ、学校教育についての諸問題は、より多くの国民の関心事であり、誰もが児童生徒として、あるいは子どもの保護者として、祖父母として、さらに言えば、毎日、地域や通勤電車の中で見かける小中高生の姿を通して、何らかの感慨や意見、思いをもっているものだからです。一億総評論家状態なのです。遺伝子操作や高額医療の問題については何の知識もないという人は少なくないはずですが、学校や教員については何も知らないという人はいないからです。
 だからこそ、学校教育についての議論の前提として、正しい知識、必要な情報、基本的な考え方の枠組みなどについて、周知する取り組みが必要になるのです。それを担うのは全国共通の事柄については文部科学省であり、地域の状況については教委であるはずですが、そうした取り組みが進んでいるとは思えませんし、今後進むとも思えません。そんな仕組みもなければ、必要性についての認識もないからです。
 単純な思い込みや感情論で政策の方向性が決まってからでは遅すぎるのですが。

 

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「その他」の問題

2016-10-24 07:19:17 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「こちらの情報は」10月17日
 『大阪市立中案内に進学実績』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、大阪市の24区のうち学校選択制を実施している23区で、『来年度の私立中学校案内に学校ごとの進学実績を掲載し、小6の子供がいる家庭に配布した。「学校案内」として卒業生が進学した高校や人数などの情報を紹介している』とのことです。
 当然のことながら、賛否両論があるようです。その理由も、誰もが予想できるように、賛成派=『より良い学校を選ぶのは親として当然』『中学入学時から目標を持って学習に取り組みことにつながる』、反対派=『まるで学習塾が生徒集めをしているようで違和感がある』『義務教育の趣旨にそぐわない』というものです。
 私は反対の立場ですが、賛否とは別に、進学実績情報が公開されるようになれば、学校や教員に与える影響はどのようなものか、ということを考えました。建前はともかく、多くの保護者は、いくつかの学校情報の中で進学実績を最重要視するようになるでしょう。そうした事態を受け、学校側は、進学実績に学校の教育資源を集中的に投入するようになります。つまり、いじめや不登校対応、非行対応、体罰等教員の不祥事防止などに対して注力することを避けるようになるということです。
 もちろん、実際にいじめが自殺レベルまで深刻化したり、教員の不祥事がメディアを賑わす事態になれば、それなりの対応が求められるでしょう。しかし、より「軽微な状況」、いじめで言えば、被害者が不登校に追い込まれたり、転校していくレベル、教員の不祥事も後遺症の残らない体罰などで収まっていれば、それらを無視して進学指導にまい進するということが一般的になるはずです。
 どんなに「軽微な状況」であっても批判する保護者はいますし、それが正常です。しかし、学校側には切り札があります。それは、「皆さんは、有名高校に入学できるという期待をもって我が校を選ばれたはずです。そして我が校は昨年度も○○高校に10人以上合格させていますし、今年度も模試の結果から10人以上合格することはほぼ確実です。もっとも、皆さんが、○○高校への合格者は5人以下でよいとおっしゃるのであれば、その分いじめ対策、落ちこぼれ対策に力を注いでまいりますが…」というセリフです。
 本来、学校教育はいじめか進学か、という二者択一で行われるものではないのですが、進学実績を最大の指標として示すようになれば、こうした開き直りは、むしろ多くの保護者から支持されるようになっていくはずです。いじめ被害者も、不登校生徒も、1割に満たない少数派であり、「いじめられるのはその子に原因がある」「不登校になるのは問題を抱えている子供」というのが、多くの保護者の本音であり、我が子には関係のないことと考えているのですから。
 それでも良いというのであれば、反対する理由はありません。ただ実際には、いじめ被害者も、長期不登校も、決して特別な子供の問題ではなく、全ての子供の問題なのですが。

 

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無視される否定的意見

2016-10-23 07:47:41 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「意識の差」10月14日
 『卵子凍結市民56%容認』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『健康な未婚女性が将来の妊娠に備える卵子凍結保存について、市民の56%が認めてよいと考え、3年前より肯定的意見が大幅に増えている』のだそうです。一方で、『全国の産科・婦人科がある医療機関を対象に昨年実施した調査では、肯定的な意見が2割と、4年前の6割から大幅に減少』し、『市民との意識差が広がっている』ということです。
 市民と専門家の意識の乖離というと、思い出すことがあります。私が教委の指導室長をしていたとき、小学校における英語学習の導入が議会で話題になりました。市民の要望が強かったのです。市民の代表である議員は、与野党の違いなく、早期の導入を求めていました。一方で、教委としては、管内の中学校の英語担当教員へのアンケートを実施していました。その結果は、ほとんど全てが、小学校での英語教育に否定的な意見だったのです。
 今から10年前、まだ小学校の英語教育は、一部で始まったばかりであり、英語教育の専門家といえば、校種こそ異なりますが、中学校の英語担当教員がその呼称に最も相応しいと言えたでしょう。ここでも、市民=素人と英語教員=専門家の意識の差があったのです。
 英語教員は否定的であった理由はいくつかありましたが、集約すれば、小学校でいい加減な学習を経験してきた子供たちは、英語を学ぶ上でおかしな癖を身に着けてしまっている可能性が高く、その矯正に時間がかかり、ゼロからのスタートではなくマイナスからのスタートになってしまう、ということに尽きました。英語への苦手意識をもって進学してくる、おかしな発音とヒアリング能力は容易に直せないなどの具体的な記述もあり、私には真っ当な指摘だと思えました。
 しかし、議員の多くは納得せず、中には、教委は英語教育の早期導入に反対するために意図的にアンケート結果を誘導したという疑いを口にする者さえいました。結局、市長の「高度な政治的判断」を受ける形で、英語教育導入に舵を切ることになりましたが、拙速な対応では、思ったような成果を上げることはできませんでした。
 市民の期待、それを煽る一部のメディア、そうしたつくられた世論に背中を押される政治家、という三者のスクラムは協力ですが、ときとしてデータに基づく議論、専門家の懸念を押しやってしまうことがあるのです。学校教育には、義務教育学校の設置、学校選択制の推進など、専門家の懸念を無視して進められ、今になって見直しの動きや不満が噴出している事例が少なくありません。それにしても、どうして現場の教員たちの経験は、簡単に無視されてしまうのでしょうか。教員不信の根強さの表れだとしたら悲しい限りです。

 

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行政官の発想

2016-10-22 07:54:10 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「改善案の課題」10月13日
 『重大いじめ 明確化へ』という見出しの記事が掲載されました。文部科学省の有識者会議の議論取りまとめ案の内容について報じる記事です。いくつかの改善策が示されていますが、その「副作用」についての考察が不足しているような印象を受けました。
 まず、『いじめに関わった生徒の記録を共有』という改善案についてです。大切なことだと思いますが、共有されている記録があるということは、その記録は公文書ですから、被害者家族から開示請求が出されるということを想定しておくべきです。いくら氏名は黒塗りにして公開するとしても、学校という狭い世界のことですから、読む人には誰を指しているかは容易に特定できるケースも多いはずです。
 そして、いじめ事件では、傍観者という名の加害者が多数存在するのが一般的ですから、きちんとした記録であればあるだけ当該学級のほぼ全員が関係者ということになるはずです。我が子が傍観者という形でいじめ自殺に追い込んだ加害者の一人であるという情報公開に反発を覚える保護者がいること、そのことを踏まえた対応を想定できているかという点にも留意が必要です。
 次に『いじめの情報共有はいじめ防止法に基づく義務であり「教職員が対応を怠ることは地方公務員法上の懲戒処分となり得ることを周知する」』という改善案についてです。共有とはどの範囲を指すのかが曖昧です。教職員とありますが、栄養士も県費負担事務職員も教職員です。また、小学校の場合、低学年でのいじめ発生事案について、担任や同学年の教員以外の教員が対応する機会は極めて限られているのが実情です。単に共有していればよいというのであれば、ペーパーを配布すればよいことになりますがそれでよいのでしょうか。
 実際の運用についても、「懲戒処分となり得る」ことは、「懲戒処分となる」とは異なることに留意が必要です。被害保護者は、この案文を基に懲戒処分を求めるでしょう。しかし、実際には、小学校低学年で発生したいじめについて、5年生の担任教員を対応できていなかったと処分することは不可能でしょう。裁判でも負けてしまうはずです。つまりこの案文は、教員への脅し効果はあるかもしれませんが、一方で保護者に厳罰への過剰な期待をもたせるという側面があり、結果的に処分が甘かったという不満を助長する結果だけが残ることになりかねません。
 最後に『「重大事態」の定義があいまいなため、複数の具体例を示して重大事態の範囲を明確化すべき』という改善案についてです。記事でも、『加療日数や被害金額で線引きすれば、逆に深刻な被害を見逃す恐れもある』という反対意見があったことが紹介されていますが、それ以前に、いじめ加害をする子供が、この規定を逆用するというケースを考えるべきです。10万円という基準を設けたとして、9万円で止めておくという悪知恵を働かすかもしれません。または、Aが9万円、Bがそれとは別に9万円という恐喝の仕方をするかもしれません。医者にかかるまでもない小さな暴行を間隔を置いて繰り返すという工夫も生み出されるでしょう。こうした基準作りは、ここまでならいじめても大したことにはなりません、という誤ったメッセージを子供に送ることになりかねないのです。
 さらに言えば、被害に苦しむ子供に、まだ8万円しか取られていないから訴えても重大事態とは受け止めてもらえないという絶望感をもたらし、かえって自殺に追い込む手助けをするという結果に陥るかもしれないのです。
 数値化された基準、厳罰主義というのは、行政官の発想です。果たして学校教育の場で有効に機能するのか、十分な聞き取り調査を行ってほしいものです。

 

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