ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

考え続けること

2024-02-29 08:36:27 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「分からないことの意味」2月21日
 『鷲田清一さんと「哲学カフェ」』という見出しの特集記事が掲載されました。小国綾子氏が元大阪大学長で哲学者鷲田清一氏と語り合った記事です。その中で鷲田氏は、『本を読んでも、議論しても簡単に答えの出ないことばかり。人はわからないままでいることに耐えられず、分かりやすい物語に飛びつき、わかりやすい論理に立てこもろうとする』と指摘し、『「わからなさ」に向き合うには、「わからないけどこれだけは大事。これは逸してはいけない」と判断し、わからないままでも正確に対処できることが大切』と語っていらっしゃいました。
 大切な指摘だと思いました。そして最近読んだ記事のことを連想しました。子供が自死し、保護者が学校でのいじめが原因だと訴え調査を求め、教委が調査し、その結果を公表したという記事です。
 教委はいじめがあったが、それが自死の直接の原因であったかは判断できないとし、保護者はその判断を不服に思い再調査を求めている、という内容でした。記事に書かれた事実関係を基にした私の「判断」は、いじめが原因だろう、です。この記事を読んだときにはそう思いました。でも、それもまた、「分かりやすい物語」に安易に飛びついた結果だと言えなくもないということに気がつきました。
 いじめが原因か否か、もしかしたら自死した本人にさえよく分からなかったかもしれません。大切なのは、子供が死んでしまったこと、学校で陰湿ないじめが繰り返されていたこと、子供に関わる複数の教員が気づけなかったこと、もしかしたら気配を感じていた教員がいたかもしれないが具体的な行動を起こさなかったこと、周囲の子供が傍観者的な態度に終始していたらしいこと、自死した子供が助けを求める声をあげることをためらうような雰囲気があったことなど、を認めその意味を受けとめること、そして教員も周囲の子供も自分はどうすべきだったか、今度また同じような状況に直面したときにどういう行動がとれるか真摯に考え続けることだと思います。鷲田氏が言う「わからないまま正しく対処」ということです。
 遺族である保護者の心情は理解できますが、教委や学校関係者は、いじめが自死の原因だから自分たちの責任が問われ、自死の原因とは特定できないから責任は免除というような捉え方ではなく、このまま因果関係が明らかになるか否かを問わず、ずっと正しい対処の仕方はどうあるべきだったかを考え続けることが大切なのではないでしょうか。
 分からない、を抱えて教員人生を送っていくのです。

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子供の疑問に答えている?

2024-02-28 08:19:10 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「小学生の感覚」2月21日
 『「君」から「議員」へ 品川区議会 小学生の意見で呼称「改定」』という見出しの記事が掲載されました。『品川区議会は20日開会した定例会から、議場での議員の呼称を「君」から「議員」に改めた。きっかけは議会を傍聴に訪れた小学生の意見だった』ことを報じる記事です。
 記事によると、傍聴後のアンケートで『「議長が議員を「君」と呼ぶのが不思議だった」「気になった」との意見が寄せられた』とのことです。そして、『男女共同参画やジェンダー平等の社会的状況も踏まえ』議員という呼称を使用することになったという経緯のようです。
 議員の呼称は難しい問題です。私が最初に教委の指導主事として勤務した区では、議員は「先生」でした。議会答弁では、「ただいまの○○先生のご指摘でございますが~」というように話していました。また、指導室長として勤務した市では、先生と呼んだところ議員から注意され、委員会では○○委員、本会議や予算・決算委員会では○○議員でいいんですよ、と言われたものです。
 それはさておき、子供の違和感を取り上げ改定を図ったことには何の問題もありませんが、子供が不思議と感じた、その感覚については興味があります。子供にとって「君」という呼称は、どのようなものと認識されているのか、ということです。
 議会側の受け取りは、ジェンダー平等や男女共同参画という視点から議論していることから、「君」は男性に対して使用するものなのに女性議員にも「君」を使っていたから不思議という反応があったということのようです。そうなのでしょうか。
 ここ20年ほどの間に、男女の呼称は大きく変わっています。女性が自分のことを「僕」と呼ぶことは珍しくなくなりましたし、「俺」と口にしている若い女性もいます。本当に、男女間の違いへの違和感だったのか気になります。
 企業や役所では、「君」は男女という視点よりも、上下の視点から考えた方が実態に即しています。部長が部下に対し、男女を問わず「君」と呼ぶ、部下が男性とは言え部長に対して「君」と呼ぶことはない、ということです。つまり、「君」は上から下へという場合の呼称であるという認識です。子供は、そこに違和感を感じたのではないのでしょうか。同じ議員なのに、と。
 また、「議員」と呼ぶことにしたことに対して、「君」への違和感を呈した子供はどう考えているのでしょうか。学校では、子供に対して男女を問わず「○○さん」と呼ぶことが望ましいとされています。教員から子供へ、子供同士、いずれも授業などの公式の場では「さん」を使おうと指導されるのです。そうした実態を踏まえれば、議長は議員を「○○さん」と呼ぶことになったはずです。でも、改定は議員という呼称の使用でした。自分たちの感覚が尊重されたと感じているのでしょうか。
 さらに、「議員」と呼ぶことを子供はどう感じるのかということも考えてしまいました。学校では、教員同士が子供の前では「○○先生」と呼ぶことが多いです。私は、両親や地域の大人同士は、「○○さん」なのに、教員同士は「○○先生」であることを子供はどう思っているのか、ということが以前から気になっていたのです。先生は子供にとっての先生であって、先生が同僚を先生と呼ぶのはおかしいと考えている子供もいるはずです。
 まあどうでもよいことなのかもしれません。しかし、子供が発した声を、大人が自分の価値観で勝手に意味付け判断し、子供の本意とは違っているにもかかわらず、子供の意見を尊重してと思い込んで自己満足してしまうという構図はよく目にします。今回もその一つなのではないか、と感じてしまったのです。

 

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教員のキャリア

2024-02-26 08:08:12 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「キャリア、とは」2月21日
 『学校でのキャリアを始めてみませんか』という見出しの記事が掲載されました。『学校に関わる人を増やし、人材確保の裾野を広げようとと教育委員会は3月、教員免許を持ちながら教職に就いていない「ペーパーティチャー」らを対象にしたオンライン説明会を開く』ことを報じる記事です。
 説明会は、『学校でのキャリアのはじめかた』だそうです。内容については、ここでは触れません。正直、目新しいものはありません。ただ、私がこの記事に注目したのは、「学校でのキャリア」という言葉に関心があったからです。
 弁護士事務所でキャリアを積むと言えば、弁護士業務を知らない人にもイメージは湧きます。民事に刑事、企業法務などさまざまな案件について、初めは先輩弁護士と組んで補助的な業務をこなしながら経験し、次第に自分の得意分野を絞り込んで、○○分野に強い弁護士として、評判を高めていくといったイメージです。
  これが正しいかどうかは関係ありません。とにかくイメージを描けるか否かが問題です。医師でも、税理士でもなんとなくイメージを描くことができます。それらはテレビドラマに影響された虚像かもしれませんが、それでもイメージが描けます。
 組織の属する場合も同じです。警察官でも、一般の公務員でも、様々な部署を経験し、その中で自分の適性のある部署でベテランとなり、「○○のことはAさんに聞け」と言われるほどその職務に通暁するというイメージです。中には、そこで身に付けた知識や技術をもとに独立したり、転職したりする人もいるかもしれません。
 しかし、教員のキャリアと言われて、イメージを描ける人がどれほどいるでしょうか。教員を主人公にしたドラマはたくさんあります。多くの人が目にしてきたはずですが、ドラマ上の虚構にしろ、教員がキャリアを積むとはこういうことか、とイメージできる人はほとんどいないのではないでしょうか。それどころか、現職の若い教員の中でさえ、自身が教員としてキャリアを積んでいくとはどういうことか語ることができる人は少ないのではないかと考えます。
 念のため言っておきますが、キャリア形成は、出世とは異なります。主幹になり、副校長になり、校長になる、というのは「出世」かもしれませんが、キャリア形成とは無関係です。キャリア形成は自らが目指し、成長を実感できるものであり、他者から評価され、尊敬され、一目置かれる存在になることです。
 ○○医師の心臓手術の技術は誰も真似できないという評価を目指し達成することは、地位や収入では他の医師の後塵を拝したとしても、本人にとって大きな誇りであるはずですし、自分の人生に満足感をもたらすものであると思われます。
 教員の場合、多くの人がそうしたイメージをもてないのです。私は、そのことこそが、教職の魅力のなさ、教員志望者の減少の原因の一つなのではないかと考えています。だからこそ、「学校でのキャリアのはじめかた」という言葉に引かれたのです。でも、記事には、キャリアに関する記述は皆無でした。
 都教委は、教職におけるキャリアとは、キャリア形成とはどのようなことであるか、明確に示すことができるのでしょうか。聞いてみたいものです。まさか単に経験を重ねること、それに伴って昇給し、主任から主幹へと肩書が変わること、などではないでしょうね。

 

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5年生になったら、比べるのは止めよう?

2024-02-25 08:47:25 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「10歳から」2月20日
 専門記者大治朋子氏が、『若い脳とSNS』という表題でコラムを書かれていました。その中で大治氏は、NY市が『SNSが特に若者の健康を損なう』として、『SNSを運営する企業に対策と損害賠償を求めて訴訟を起こした』ことを取り上げています。
 コラムの中に気になる記述がありました。『10歳頃から、仲間の承認などを求める社会性が強まる。ちょうどスマホを持つ時期でもある。その後、12歳ぐらいに掛けて脳内では幸福感ややる気をもたらす神経伝達物質、オキシトシンやドーパミンの受容体が急速に増え、仲間からの注目や称賛により敏感になっていく。嫉妬や自己嫌悪との戦いが本格化する。感情や衝動を制御する脳の前頭前野の成熟は20代後半ごろまでかかるとされる。つまりそれまでの若い脳は、特に他者の評価が気になるし、感情制御も難しい』というものです。
 SNSで同世代の他人の「充実した生活」を見せつけられることにより、『自己否定や劣等感』を植え付けられ、それがもたらす自己破壊的な衝動に影響されてしまうということです。大治氏は、『若い脳をSNSの「闇」から守る方法を真剣に考える時が来ている』という言葉でコラムを結ばれています。全く同感です。
 今学校では、学習にIT機器を活用しています。IT機器の活用はスマホの使用と親和性が高いと思われます。また、学校と子供との連絡にスマホが使われることは一般的になっています。つまり、学校の存在そのものがSNS依存を助長している側面は否定できないということです。
 もちろん、今さらスマホ禁止など非現実的です。スマホは使うがSNSは使わせないということも不可能です。スマホを使うことの利便性も無視できません。私が若手の教員だった頃のように、緊急連絡網を使って情報を伝えるなどという状況に戻れるわけがありません。
 それでも、学校はこの問題の傍観者でいることは許されません。10歳頃から12歳ということは、小学校の高学年の時期ということになります。この時期の対応がもっとも大切になるのです。そしてこの時期の子供は一日の多くを学校で、同じクラスの教室で過ごすのですし、人間関係も学級内の関係が大きな部分を占めているのです。学校が、教員が対応しないで誰が対応するのか、という話です。
 しかし、具体的にはどうすればよいのか、よく分かりません。多くの教員が同じ状態なのではないかと思います。それだけに、文科省や教委が早急に研究組織を立ち上げ、心理学や社会学の専門家の知見を活用しながら対策を講じる必要があります。教員もまた、現場の思いや気づきを届けることが自明だと自覚すべきです。時間はあまりありません。

 

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私も加害者?

2024-02-24 08:22:06 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「大丈夫?」2月20日
 『理科実験の石綿 労災認定 中皮腫死の元小学教諭』という見出しの記事が掲載されました。『理科の実験の準備が原因でアスベスト関連の中皮種を発症したとみられるとして、69歳で死亡した元小学校教諭の男性が、公務員の労災にあたる公務災害と認定された』ことを報じる記事です。
 記事によると、『和歌山市立小学校の教諭だった山東日出男さんは1977年から2013年にかけて、主に高学年の授業を担当(略)理科の授業の準備で、アルコールランプの石綿製の芯の上部をさばいて燃えやすいようにした。飛散して落ちた粉じんの掃除もした。当時は石綿の発がん性を知らず全く無防備だった(略)ビーカーを置く金網も、石綿で耐火被覆されたものを使っていた』ということです。
 山東氏と同世代の私もまったく同じ状況下にいました。高学年の担任を連続して10年ほど続けていましたし、石綿製の実験道具を使っていました。今のところ、中皮腫を発症してはいませんが、少し不安です。
 しかし、それ以上に気掛かりなのは、当時の児童・生徒に中皮種発症の危険性はないのでかということです。当時、小学校では、「理科実験クラブ」というようなクラブ活動があるケースは珍しくありませんでした。毎週1回、理科室に集まり授業では行わないような実験をするのが主な活動内容です。
 そこでは当然、石綿金網やアルコールランプに触れることになります。教科の授業とは異なり、特別活動の一環ですから、より子供の自主性が重んじられます。つまり、子供自身が、実験道具を準備したり、ランプの芯を調節したり、という機会が多かったのです。好きで実験クラブに入るような子供たちですから、そうした活動にも嫌がらず取り組みましたし、好きでもあったのです。
 理科の授業には観察や石綿製の道具を使わない実験も多く、子供が石綿製の道具に触れるのは年間10時間程度と思われます。しかし、実験クラブの子供は、30時間近くそうした道具に触れることもあり得ます。他の子供の4倍の時間になります。大丈夫なのでしょうか。
 私は10数年教委に勤務していましたが、中皮種関連の訴えや申し入れに対応した経験はありません。知り合いの指導主事仲間からも、そうした話を聴いたことはありません。子供の被害者は皆無なのか、表面化していないだけなのか、後者だとしたら自分が無自覚的な加害者だったもしれないことになります。調査は行われているのでしょうか。

 

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悪知恵

2024-02-23 07:35:33 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「悪知恵」2月19日
 『対米従属 保守でなく「保身」』という見出しの特集記事が掲載されました。『政治批判を重ねてきた作家、島田雅彦さん(62)』へのインタビュー記事です。島田氏の指摘はやや偏っているという気もしましたが、大筋は賛成できるものでした。ただ、私が着目したのは本筋とはあまり関係のないある記述でした。
 『スキャンダルの火消しには、問題が沈静化するのを待つ▽論点をずらす▽自分を被害者に見せる-といった「既定戦術」がある』という記述です。よく分かります。私自身、教委の幹部としてメディアに吊し上げられたり、保護者や市民に責任を追及されたりといった経験をしてきています。上述のような悪辣な手段は使ったことはありませんが、沈静化を待つ、という対応の仕方が有効であるのは、骨身にしみてわかります。食事を摂るまもないほど電話対応に追われる日々が続いても、そんな日々は半月とは続かないのです。秋っぽいメディアは他のニュースを追いかけていきますし、報道が減れば市民も忘れてしまうのです。
 ここから話は飛躍しますが、主権者教育について語ります。私は主権者教育の一つの柱に、権力をもつ側の「悪知恵」を見抜き適切に対処する能力の育成を掲げるべきだと考えています。
 権力性悪説に立ち、権力が行使するさまざまな悪知恵、その一つの例が上述のスキャンダル火消しの既定戦術です、について歴史的な事例を用いて学ばせるのです。スターリンの手口、毛沢東の手口、プーチンや習近平の手口も使えるかもしれませんが、そうした独裁政権のことを取り上げるのではなく、民主的、法治的と思われるシステムの中での「悪知恵」を教材に、民主主義を蝕む行動を見抜き、抵抗する術を考えさせるのです。
 幸か不幸か、近年の我が国にはそうした教材は事欠きません。新聞も使えますし、見逃し配信等を活用し、映像データを残しておくことも難しくありません。隠蔽、書き換え、論点ずらし、無視、ご飯問答、虚偽答弁、権力側の「悪知恵」に負けない強かな市民を育てる主権者教育こそ、求められているのではないでしょうか。

 

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唇にピアス、鼻にピアス、瞼にピアス

2024-02-22 08:49:00 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「ピアスもネイルも赤髪も」2月19日
 『爪のケアで心も明るく』という見出しの記事が掲載されました。『手入れが後回しになりがちな爪。年齢を重ねると割れやすくなったり、薄くなったりするが、ケアの仕方によっては気持ちまでプラスになる。高齢者施設などを訪問する「福祉ネイル」にも取り組む爪のプロに、ポイントを聞いた』記事です。
 実は私の教え子が、訪問介護の会社を経営しており、そこでもネイル等の取り組みをしているのです。そんなこともあり、記事を読み進めましたが、そのうちある考えが浮かんできました。
 記事では、『高齢の方にもネイルは楽しみや喜びになる』『実際にネイルをした爪を見て嬉しくて涙する人がいて、施設のスタッフも利用者の会話や笑顔が増えたと喜んでくれる』とありました。教え子からも同じような話を聴いたことがあることも思い出しました。
 こうした「効果」は、高齢女性に限ったことではないのではないか、と思い付いたのです。例えば、小中学生の女性にも同じような心理はあるように感じます。何か精神的に辛い状況に置かれているとき、きれいに整えられた爪を見て元気が出る、前向きな気持ちになる、あるいは少し自信を取り戻すということはあるでしょう。
 ネイルに限らず、ピアスや化粧、染めた髪などにおいても同様の「効果」が考えられます。子供を前向きにする、元気づけるものであれば、学校や教員はそれを認める、むしろ積極的にその「効果」を活用するという発想があってしかるべきなのではないか、と考えることもできそうです。
 でも、実際には、小学6年生の女児が、化粧をしピアスをし、さらにネイルもして登校してくれば、教員としては何らかの指導をするということになると思われます。そうした行動をすることで、自己肯定感を高め、人間関係に自信をもつという効果があるとしても、なかなか笑って、「今日、きれいだね」と声を掛けるという心境にはなりにくいものです。
 頭が古く固い私は、これを認めてしまえばどんどんとエスカレートしていったときに注意できなくなる、他の子供にも影響が及び派手な化粧合戦に陥ってしまう可能性がある、人間性や能力を高めるという本質的な努力よりも外面を飾ることに関心が向いてしまうと成長の原動力が失われてしまう、などという思惑が次々浮かび、とても「かっこいいね」などと笑顔を作ることはできそうもありません。
 今、各地で校則の見直しが進みつつあります。服装や髪形の規制が緩められるのは、服装や髪形が自己表現の一部であり、それを外的な力で規制されることは子供の自己肯定感情を傷つけることが理解されてきたからです。そうした流れからしても、ネイルもピアスも化粧も染髪も、自由にさせることが望ましいということになりそうです。
 でも……、と思ってしまうのは私だけでしょうか。

 

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その声はだれの声

2024-02-21 08:30:23 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「奪う行為」2月17日
 書評欄に、詩人渡邊十絲子氏の『「黙々 聞かれなかった声とともに歩く哲学」(コビョングォン著、影本剛訳 明石書店)』についての書評が掲載されました。その中で渡邊氏は、『自分のために声を上げることができない人たちが、この世にはいる。さまざまな理由で周縁に追いやられた人々である。その一方で、かれらの「声なき声」を代弁しようとする人たちもいる。しかしそれはたいへん危険なことだと著者はいう。声なき者たちの沈黙は、かれらが黙ったのではなく、われわれが声帯を奪ったのだということ。かれらを代弁するために声を発したつもりでも、それは自分たちの声をかれらの声に重ね書きしてしまうことであり、かれらを<二重の沈黙に閉じ込める>ことになる』と書かれています。
 私は以前このブログで、授業中に指名された子供が上手く話せないときに、教員が「○○さんが言いたいことは~ということなんですね」と要約したり、言い換えたりする行為について批判しました。言い換えられた子供は、自分が言いたかったことと少し違う、と感じても教員に遠慮したり、違和感自体をうまく表現できなかったりして頷いてしまうことが多い。そういうことが重なると、子供は自分で表現しようという意欲を減じさせ、教員が言い換えてくれるのを待つようにさえなってしまう、という批判でした。
 コ氏の指摘は、私の指摘に重なる部分があります。しかし、それ以上に重大な意味をもっています。近年、学校教育について、当事者である子供の意見や見解を反映させるべきであるという議論が盛んです。身近なところでは校則の見直しがあり、より広い意味での学校制度そのものについても、子供の意見表明権を尊重することが重視されています。
 子供の意見表明権を保障するシステムとして、子供の意見の代弁人の存在が重要視されてもいます。代弁人自体は、専門職としての能力と自覚が備わっている存在が想定されていますが、公的に認証された代弁人ではなく、教員が、保護者が、市民が代弁人的に行動するとき、そこに子供たちの「声帯を奪う」「二重の沈黙に閉じ込める」という恐れはないのか、ということが気になるのです。
 私が教委に勤務していたとき、卒業式における国旗掲揚・国歌斉唱が大きな問題となっていました。ある学校では、卒業式の当日、子供たちが式場である体育館に来ないという事態が生じました。来賓と保護者と教職員だけが待ち、しんしんと冷える中、時間だけが過ぎていきました。
 その間、教室では校長と教頭の説得が続いていましたが、6年生の担任たちが、「子供たちが日の丸のある会場には行きたくない。君が代で祝ってほしくないと言っている。子供たちの願いを踏みにじって連れ出すことはできない」と子供の声を代弁していたのです。それは本当に子供たちの声だったのでしょうか。本当に子供の中にそうした声を発する者がいたとしても、それは多数だったのでしょうか。私は、担任たちが「子供の声帯を奪った」のだと今でも確信しています。
 ある中学校の家庭科の教員が、実習を行わず、家庭科の学びから環境問題を考える、資本主義による食料支配を考えるというテーマに基づく学習を半年にわたって続けるということがありました。教委はたびたび学習指導要領に基づく授業を行うように指導しましたが、教員は従わなかったので、処分を行いました(免職等の重い処分ではない)。
 その処分に対する反対運動が起き、教員を支持する保護者と市民の団体が教委に押しかけ、処分撤回を求めました。そのとき彼らは、「生徒はA先生の授業を喜んでいる。自分で考え、話し合うことに充実感を覚えている」という趣旨の<代弁>をしました。校長からは、「生徒はちゃんとした家庭科の授業をしてほしいと言っている」という<代弁>を聞かされました。どちらかが「生徒の声帯を奪った」のです。
 教員は、子供の声を代弁する立場に立ちがちです。だからこそ、自分たちが、「声帯を奪った」「二重の沈黙を強いた」のではないかという危機意識をもつことが必要だと思います。

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ふつふつと湧き上がる

2024-02-20 08:27:09 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「教師とは」2月17日
 書評欄に、芸人ヒコロヒー氏による『「ツユクサナツコの一生」益田ミリ著(新潮社)』に対する書評が掲載されていました。同書は、『ドーナツ屋の店員として働きながら、夜になると父と住む家で「おはぎ屋で働く春子」を主人公とした漫画を描く暮らしをしている名もなき漫画家』ツユクサナツコを主人公にした小説です。
 ヒコロヒー氏は、『ナツコは自身が胸を張って漫画家だと言えるほどのマンガかではないことが見てとれるわけだが、彼女は毎晩必ず漫画を描く。連載を持ち締め切りがあるわけでもないのに、漫画を描く。傍から見ればナツコはドーナツ屋の店員だが、立派な漫画家である。なぜならその創作欲が彼女を支え、作品を描き、残しているからだ』と書かれています。
 考えさせられました。漫画家という言葉を教師という言葉に置き換えて考えてみました。ドーナツ屋の店員として昼間働きながら、夜に隣の家に住む小学校4年生のちーちゃんに勉強を教えている。毎日必ず教え、そのためにちーちゃん向きのドリルやプリントも自作し、その日の勉強についてコメントを残す、そんな人物を立派な教師であると言えるのか、という問いを設定してみたのです。
 私はこのブログで数十回以上、もしかしたら百回以上教員論を語ってきました。持論である、教職は専門職であるという立場から、必要な能力・資質、養成や研修の在り方、求められる使命や役割、ときには私が知る優れた教員についてなど、さまざまな視点から論じてきました。
 しかし私の中に、ヒコロヒー氏が指摘するような視点、そのものであり続けようとする欲求や意思というような視点はありませんでした。私自身、教職は専門職であるという自負と責任感に追い立てられるように自己研鑽に励むという発想はあっても、自分の中から湧き上がってくる○○であり続けたいという欲求に突き動かされて「教える」という活動を進める、そのためだけに自分を律するという発想はなかったのです。そこまでの情熱はなかった、むしろ義務感の方が強かったということです。
 私は、このブログで教員と教師という言葉を使い分けてきました。この文章の中でも使い分けています。全体の奉仕者としての公務員、教育公務員としての教員と、教師という概念は違うと考えるからです。私は、教員論を語っていても教師論にはあえて触れないできたという言い方もできるでしょう。
 今後は、教師論を視野に入れながら教員論を語る、そんなことに挑戦してみたいと思いました。心情的な要素が入る教師論は苦手なんですが。

 

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上手く説明できないけれど

2024-02-19 08:35:39 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「勘はダメ?」2月15日
 専門記者田原和宏氏が、『モヤモヤ残る記者会見』という表題でコラムを書かれていました。その中で田原氏は女子卓球パリ五輪団体戦の最後の一人に張本美和選手を選んだことについて開かれた記者会見について言及なさっています。
 田原氏は冒頭に、『違和感の残る記者会見だった』と記し、『張本選手か、経験、実績ともに十分な伊藤選手か。どちらを選んでも賛否は分かれる。選ぶ側は詳細な説明をするとばかり思っていた。ところが、選考理由として挙げられたのは「戦いぶり」「伸びしろ」といった抽象的な文言ばかり』とその理由を述べていらっしゃいました。
 そして、『選ぶ側は客観的なデータも交えて判断の根拠を示すべきではなかったか。透明性に欠ける選考は時代にそぐわない』と結んでいらっしゃるのです。
 私は、中高と卓球部に属し、今でも好きなスポーツは卓球とラグビーで、この中継はほとんどテレビで見ています。今回の代表選考でも、応援している平野選手が2位に滑り込めるか、ずっと気にしていました。ですから、伊藤選手と張本選手のどちらかに絞られた選考結果にも関心をもっていました。
 田原氏のおっしゃっていることはよく分かります。そうあるべきだと思っています。しかし、そう考える一方で、その分野で多くのことを経験し、言語化できない知見を有する専門家には、客観的な数値をあげては説明できない勘や閃きのような判断基準があるというケースはあり得るような気がしてならないのです。
 教員にも、そうした勘のようなものはあります。テストの成績が平均で何点というようなことでは説明できない「この子は何かをもっている」というような印象をもつことがあるのです。オリンピアンやメダリストというような常人離れした存在ではありませんが、私の場合も、そうした教え子はいます。
 高校受験にも大学受験にも失敗し志望校に進めなかったにもかかわらず、20代で起業し、若手起業家として表彰されたTさん、20代で海外に渡り、空手の普及に努めているMさん、成績が良く一流とされる大学に進学可能だったにもかかわらず自分の好きなデザインの道に進み大学で後進を育てているFさん、一流私大を卒業しながら鍼灸師の道に進み周囲を驚かせたものの転職、一流企業に再就職しながら退職し独立、著書が売れているNさん。
 ダメ教員であった私には、彼らのもっている長所や個性を見抜くことはできませんでしたが、「何か」があるように感じたのは事実です。そのとき何を感じたのか、それはどのような事実に基づいているのか、今でも説明できません。そういうことは実は誰しもが程度の差こそあれ、経験しているのではないでしょうか。まして、その道を究めた人であれば。
 今、説明責任は教員にも強く求められています。当然のことです。しかし、難びょく人という子供と接してきた専門家として、ある「評価や判断」をするということはいけないことなのか、正直分かりません。その評価や判断が子供に勇気を与えることもあると思うのですが。

 

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