ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

共通理解度を測る

2016-12-31 07:25:32 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「学校サイエンス」12月22日
 論説委員鴨志田公男氏が、『福島の実像を知るには』という表題でコラムを書かれていました。その中で鴨志田氏は、『いわき市出身の社会学者、開沼博・立命館大准教授と懇談する機会があり、福島県の現状についての認識不足を痛感した。開沼さんから「福島を知るための15の問」を出題され、回答に四苦八苦したからだ』と書かれています。
 15の問の内容は、2011年の福島の米の生産高は47都道府県中何位?、年間100万袋生産される福島県産米の中で放射線量の法定基準値を超えたのは何袋?2014年福島県の有効求人倍率は47都道府県中何位?などです。
 鴨志田氏は、6割程度の正解率だったようですが、福島を取材している新聞社の人間でも全問正解ではないことをもって、認識不足と反省しているのです。ちなみに私は4割でした。
 そしてコラムの後半では、『開沼さんが「福島」をを伝える上で重視しているのが、データと理論で物事を整理し、ローコンテクスト化するということだ。ローコンテクストとは、前提知識などがなくても理解できるということで、先ほどの「15問」もローコンテクスト化の一つである』と、ローコンテクスト化の意義を強調しているのです。
 学校教育においても、ローコンテクスト化は有効だと思います。もちろん、15問では足りないでしょうが、20問程度の初級版、50問の中級版、100問の上級版などを作成し、議論の前に関係者に回答させるようにするのです。
 私は以前、テレビ朝日の「朝まで生討論」に出演したことがあります。大変貴重な経験でしたが、参加者の基礎知識に大きな差や偏りがあり、議論が空回りしたり、本筋と関係のない確認や訂正に時間をとられたりして歯がゆい思いをしました。与野党の国会議員、日教組委員長、現職教員、社会評論家などそれなりの論客が揃っていたのですが、議論が深まらなかったのです。もし、このとき、事前に簡易版のローコンテクストによる認識深化が図られていれば、と今になって思います。
 では、学校境域における「100問」はどのような内容になるのでしょうか。私も考えてみたのですが、浮かびませんでした。私にとってこれは常識だろうと考えていることが他の人にとってはどうなのか、私が知らないことでも学者や政治家、官僚にとっては共通理解されていることもあるはずだ、と考えると前に進まないのです。
 本当に役に立つローコンテクストとなる「○○問」を作るためには、様々な立場の人間が集まり、お互いの常識を開示し合い、一つ一つ検討していく作業が必要だと考えます。どこかで行われているのでしょうか。できれば、小学校編、中学校編、高校編、大学編、教育委員会編などに分けて作成するのもよいと思うのですが。

 

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データを晒して

2016-12-30 07:20:27 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「透明化」12月22日
 横浜支局の宇多川はるか記者が、『健常児と同じ機会を 医療的ケア児と学校生活』という表題でコラムを書かれていました。その中で宇多川氏は、『医療的ケア児は看護師や家族のほか、研修を受けた教員などによる日常的な介助が欠かせず、地域の学校に通うには親が付き添ったり、看護師を配置したりする必要がある。だが、子の成長を願い、付き添いなしで入学させたいという声は各地で聞こえる』と問題提起をなさっています。
 そして、コラムは、『6歳の春に向け多くの自治体が親子の願いに向き合い、受け入れ態勢を整えてほしい』で結ばれていました。今までも同じような趣旨の記事やコラムを毎年目にしてきました。既にこのブログでも何回も取り上げてきました。私のような無名人のブログに何の影響力もないことは十分に理解していますが、それでもまた同じ主張を繰り返したいと思います。
 私は、宇多川氏と同じように、早期に受け入れ態勢を整えるべきであるという立場です。しかし、世間の大勢は異なる意見なのではないかと考えています。より正確に言えば、趣旨はいいけど実際には~とか、総論賛成各論反対的な人が多いと思っています。
 宇多川氏の記事に欠けているのは、具体的なシミュレーションの提示です。横浜市を事例地に取り上げるのであれば、来年度の小学校新入学児童数を明らかにし、その中で何%の医療的ケア児がいて、全てに看護師を配置した場合、親が付き添えるケースを除いて看護師を配置した場合、研修を受けた教員と看護師配置で対処する場合など、それぞれに必要となる看護師の数、その人件費、市内在住の勤務していない看護師資格保持者の数、研修が必要となる教員の数、医療的ケア児の対応する教員配置による新たに必要になる教員数、それを市の予算で確保する場合の人件費、教員に研修を行う費用、看護師資格はない支援員等による対応にした場合の人件費、それぞれのケースで対応可能な疾病と症状の対比表の作成、市教委が推進しようとしている教育課題の遂行に要する予算と上記医療的ケア児対応に要する経費の比較表の作成、などを全国紙の取材力を駆使して行い、読者に示すのです。
 その上で、賛否を問う議論を進めてこそ、実りのある話し合いとなり、実現が期待できる結論に到達できるのです。よほどのひねくれ者でない限り、医療的ケア児を健常児と共に、と言われて反対する人はいません。子供の付き添いのために、親が仕事を辞め自己実現を諦めたり、経済的な苦境に追いやられたりする具体例に触れれば、行政が何とかしてやればいいと思うのです。
 しかしそんな感傷的な賛成論は、特定の子供のためだけに何百万円も使うなんて、という感情論に負けてしまうのです。きちんと事実を明らかにした上で行われる透明化された議論の末の賛成論だけが、行政や政治の背中を押す力を生むことが出来るのです。
 M紙の力をもってすれば可能だと思うのですが。

 

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理解と納得

2016-12-29 07:26:08 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「科学的な真実ではあっても」12月21日
 日本家族計画協会クリニック所長北村邦夫氏が、『持ち物よりも持ち主』という表題でコラムを書かれていました。この判じ物のようなタイトルは、北村氏が10年前に小学5年生を対象に行った性教育での言葉からとったものです。そこで北村氏は、『持ち物よりも持ち主。男子にはペニスが小さいからと悲観するな。女子に向けてはおっぱいが小さいからって悩むな』と話したというのです。
 北村氏は、『他人のペニスは斜め横下に見るから大きめに、自分のモノは上から下に見るために小さく感じるわけで、結局は目線の角度の問題』『排尿、射精、性器結合というペニスの基本的な役割を考えたとき、勃起状態で約、4、5㌢あれば十分』『顔形、足の長さ、乳房の大きさ、まぶた、どれ一つをとっても他人と同じものはありません~(略)~それをもって個性というのではありませんか。ペニスも個性』などと、科学的合理的に悩み不要の理由を丁寧に説明なさっています。
 全く同感です。さらに言えば、目線問題も役割問題も知っていました。個性についての考察も十分理解しています。でも、私自身、正直なところ「大きさ問題」についてはスパッと割り切れてはいません。
 特別この問題に関心が高いわけではありませんが、以前読んだ欧米のジョーク集の中に「性」に関する特集があり、そこでは国を問わず、「大きさ問題」が取り上げられていたことを思い出しました。女性の乳房については、マリリンモンローとオードリヘップバーンの例を持ち出すまでもなく、時代や地域によって見方が変わるのですが、男性のペニスについては、地域も時代も宗教も関係なく、「大きいことは良いことだ」なのです。
 つまり、人類共通の長い歴史をもつとても根強い「迷信」が蔓延っているということです。こうした状況を考えたとき、北村氏が性教育の授業で教えたことは、子供たちに定着しているのでしょうか。正直なところ、そうは思えないのです。
 性教育でも、人権教育でも、福祉教育でも、国際理解教育でも、「正しい話」というものがあります。人は人種や性別にかかわらずみんな同じ権利を有するという「正しい話」をすることは難しくありませんが、それで差別感情が消えることはありません。様々な文化に優劣はないという「正しい話」をするのは簡単ですが、決して謝罪せず屁理屈をこね回す某国の人には怒りを禁じ得ません。
 教員の中には、自分はきちんと説明したのだから子供は理解しているはず、という考え方をする者がいます。彼らは、子供が自分の意と異なる言動をすると、「言ったはずだ」「聞いてなかったのか」と子供を非難しますが、言っておきさえすれば子供が理解し納得するのであれば教員ほど楽な仕事はなくなります。教員が言っていることについて、頭では理解できているのだけれどもストンと落ちるように納得は出来ない、「それはそうなんだけれど~」という理屈では割り切れない部分が残っているのが普通なのです。この「大きさ問題」のように。
 理解と納得の違いについて、常に心に刻み込んでおくようになれば、教員の若葉マークは卒業です。

 

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なりすまし

2016-12-28 07:43:07 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「一番ダメなのは」12月21日
 『本土の視点で裁かないで』という見出しの記事が掲載されました。オスプレイの飛行再開に関係した記事です。その中で、沖縄大英語講師親川志奈子氏がインタビューに答え、『学生約60人に英字版の記事を読ませて、事故について英語で感想を書かせた。意見は真っ二つに割れたが、一つの「法則」があった。オスプレイの飛行停止を求めた学生の多くは「Okinawan」という主語で語り、安全対策を条件に飛行再開を容認する学生は「Japanese」の立場で語っていた。「自分の立ち位置で基地問題の考え方が変わる」と実感した』と話していらっしゃいました。
 なるほど、と思いました。確かに立ち位置を変えると見方・考え方が変わるというのは本当です。教員時代に、社会科の授業の中でこの手法を多用していたことを思い出しました。慶安のお触書について、幕府と農民の立場で吹き出しを書く。奈良の大仏について、聖武天皇と駆り出された農民の立場で、長篠の合戦で武田方と織田方の兵士になって、など歴史の授業の場合が多かったですが、農業や水産業、工業の学習でも生産者と消費者という対比で用いたこともありました。
 そこから連想は広がり、現在の我が国の学校教育の在り方を議論する際にも、立ち位置を変えて考えてみる手法は大切なのではないかと考えてみました。当事者である子供の立場、保護者の立場、10年後保護者となる若者の立場、人材を求める企業家の立場、教員の立場、教育行政に携わる立場、教育を専門にする学者や研究者の立場、国家の繁栄維持を考える政治家の立場、など様々な立ち位置が考えられそうです。
 でもここまで考えてきて、ある問題に気が付きました。それは「なりすまし」の問題です。教育問題を考えるとき、実際には自分の立ち位置でものを言っているにもかかわらず、関係者の多くが、「子供の目線で考えると~」というような言い方をするケースが多いということです。「子供の利益を~」「子供にとって最善の~」「子供が幸せになるのは~」など、様々なバリエーションがありますが、誰もが自分こそ子供の味方、真に子供のことを考えている理解者であるというような立ち位置に立ちたがるのです。
 子供たちがどう感じているかはともかく親としては~、子供のことはわきに置いておいて教員としては~、というような発言は聞いたことがありません。例えば、教員の増員を求める文部科学省の担当者が「自分が担当のときに予算削減されたのでは私の評価に響く」などと言う事態は考えられません。もちろん、文部科学省の担当者は95%は本当に子供たちの学習環境の向上を願っているのでしょうが、ごくわずか「自分のため」があるはずだとも思います。私自身を振り返ってみても、教委勤務時代に職務に臨むにあたって、自分の業績や評価、上司の思惑、などについて頭をよぎらなかったことはほとんどありませんでした。
 学校教育について、子供の利益の代弁者という「なりすまし」を取り払って議論を進めたらどうなるのでしょうか。想像するだけで怖いような気もしますが。

 

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聴くだけでなく言えないと

2016-12-27 07:48:09 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「こんな国際人を」12月20日
 読者投稿欄に、群馬県の大学生S氏の『麺をすするのは行儀悪いか』という表題の投書が掲載されました。その中でS氏は、ヌードルハラスメント問題に触れ、『麺類を食べる際のすする音を一部の外国人は不快に感じるという。番組の出演者は「すするのは日本の文化」と言っていたが、その通りだと思う。国が違えば文化も違う。日本人にとっても、他国の文化で理解しがたいものがあるだろう。ただ、それらを「ハラスメント」として取り上げることはおかしいのではないか』と述べています。
 真っ当な意見だと思います。大げさかもしれませんが、私はS氏の投書を読んで、今の我が国の学校教育における「国際人育成」に欠けている部分について考えさせられました。現状では、英語教育や多文化への寛容などが、国際人として必要な資質として取り上げられることが多いようです。もちろんそれは間違ってはいませんが、十分でもありません。英語がいくら達者でも、話す中身が乏しければ、軽蔑されるだけです。我が国とは異なる諸外国の文化に対して、柔軟に受け入れることも重要ですが、受け入れるだけであれば、それは意味相手の言いなりになってご機嫌取りをしているだけのことです。
 相手の主張に耳を傾けながらも、自分の意見もきちんと述べることができる、我が国の伝統や歴史を理解した上で正確に伝え説明することができる、ということこそ、真の国際人の条件ではないかと思うのです。
 仮に英語の能力は十分だとして、我が国のすする文化について、きちんと説明できる人がどれだけいるでしょうか。不快だという指摘に対して、納得させるだけの説明ができる人がどれだけいるでしょうか。ほとんどいないのではないかと思います。
 では、捕鯨の問題はどうでしょうか。大相撲で女性は土俵に上がれない問題についてはどうでしょうか。女系天皇を認めない伝統についてはどうでしょうか。穢れと禊、「水に流す」という発想についてはどうでしょうか。おそらく多くの外国人からは不思議におもえるこうした事柄について、きちんと説明し、それについての自分の見解を述べることができる人は、今の国際人育成の教育から生まれてくるのでしょうか。とても無理であるように思えます。
 Sさんもまだそうしたレベルには達していないように思われますが、少なくとも自国の文化伝統についてきちんと説明することの大切さには気づいていらっしゃるようです。まず、全ての若者をそのレベルに到達させることから始めるべきだと思います。

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なぜ彼が抜擢されたか

2016-12-26 07:35:06 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「校長選抜の基準」12月19日
 『校長「問題を過小評価」』という見出しの記事が掲載されました。日大東北高校相撲部での顧問教員やコーチによる体罰事件の続報です。記事によると体罰の状況は、『1年生の部員に体罰を繰り返し、硬質ゴム製のハンマーで頭を叩いた』『稽古後の入浴で裸になったところをデッキブラシで暴行してけがをさせ、この部員は転校』『部員が練習で腕立て伏せをする際にノコギリで脅した』というものです。
 こうした状況に対し同校の松井弘之校長は、『問題を過小評価していた』『「行き過ぎた指導」と判断』『教員を処分しなかった理由について「前途ある教員だから」と釈明』という対応をしてきたというのです。体罰問題についてはこのブログで、今までに数十回も語ってきました。その中で取り上げた事例と比べても、同校の体罰は、特別悪質なものです。何ら弁解の余地も、善意の解釈も成り立つものではありません。ですから今回は、体罰の問題を直接取り上げることはしません。
 今回取り上げるのは、私立校の校長選抜の問題です。公立校にも、体罰の認識が甘い校長はいますし、教委の幹部の中にも、「どこまでが体罰なんだ?あまり厳しいことを言うと教員が萎縮してしまうだろう」というような発想の者がいるのも事実です。しかし、モノを使って叩いたら、即アウト、という程度の常識はあります。この場合の「モノ」とは、教室にあった教員用の定規とか、黒板消しなどをイメージすればよいと思います。もし、教室内に竹刀とかバットなどが置いてあり、それで叩いたら、処分は一段と重くなります。それは、教員が体罰による脅しを日常的に行っていたと判断されるからです。
 また、体罰問題では、処分基準として、子供のけがの具合が問題になります。病院の診断書が提出されれば、これもその程度により処分が重くなります。さらに、被害を受けた子供や保護者の心情も重要な要素になります。「僕もいけなかったんだ。だから叩かれたことは気にしない」というケースもあります。一方で、とてもこの教員の下では学校生活を送ることは出来ないとクラス替えや転校を選択することもありますが、この場合は、やはり重い処分になります。
 そして言うまでもないことですが、初めて体罰をしてしまった場合と再犯では、処分が異なります。公立校の場合、以上のようなことが基準として意識されています。もっとも、教員でなくても一般社会人の常識として当たり前のことですが。
 今回のケースは、上記の全てに当てはまります。ハンマーやのこぎりという通常指導の場にはないモノを使い、けがをさせ、生徒は転校を選択し、体罰は一度ではないのです。どんなに拡大解釈をしても、「上達を望む熱意のあまりの行き過ぎた指導」などと解釈する余地はないのです。それなのにこの校長は、体罰事案として対応していないのです。
 また、体罰と疑われる事案では、被害生徒、その保護者、その場にいた他の生徒、その場にいた他の職員それぞれに対して、聞き取り調査をし、相互の認識の違いはそのままに、時系列で並列に一覧表を作成し、総合的に校長の所見を記述した報告書を作成するのが基本です。私も体罰の訴えがあった場合、こうした報告書の作成を校長に命じました。公立校の校長であれば、誰でもこうした調査は副校長時代に経験しています。それなのに、この校長は、こうした手順で聞き取り調査をしていないまま、教員を野放しにしていたのです。
 失礼ですが、公立校の校長がこうした行動をした場合、何らかの疾患、若年性認知症等を疑わざるを得ないでしょう。それほど、理解不能なことなのです。どうしてこんな異常者、もしくは桁外れの無能者が校長になることが出来たのか、不思議でなりません。同校には数十人の教員がいたはずです。その全ての教員が、この校長よりも無能者だったなんて考えられません。だからこそ、私立校の校長や副校長は、どのような基準で、どのような選考過程を経て任命されるのか、大きな疑問だと感じるのです。
 さらに、こんな実態を目にしても、公立校よりも私立校の方が教員のレベルが高いというような世迷い言を繰り返す一部の識者にも、改めて同校の校長選考についての見解を聞いてみたいものです。

 

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暴言王はここにも

2016-12-25 08:17:43 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「こんな人が最高責任者」12月19日
 『「中高時代たばこ」 批判受け「女教師みたい」 西宮市長が発言』という見出しの記事が掲載されました。西宮市長の今村岳司氏が、『市内の中高生を対象にした市主催の催しで「中高時代、授業を抜け出して校内でたばこを吸っていた」などと発言した』ことにまつわる記事です。
 記事によると、今村氏の発言は、『中高生の頃に自分たちの居場所は「授業を抜け出してタバコが吸えて楽器が弾けるところだった」と説明。また、校内の部屋のカギを盗んで合鍵を作り「そこで私たちは自由にタバコが吸えて楽器が弾けました」』というもので、市議会からの批判に対しては、『「ピンクのダサいスーツに黒縁眼鏡で「お下品ザマス!」って言っている女教師みない」と揶揄』し、『キレイゴトは彼らを子供扱いしている。敬意を欠いている』と述べたということです。
 私はこのブログで、教員が子供との信頼関係を築く上で自己開示が大切であることを述べると共に、自己開示においては「失敗」は欠かせない要素だが、「悪事」は有害不要である旨を主張してきました。ですから、今村氏の言動には批判的な立場です。教員と政治家は立場が違うという意見があるかもしれませんが、そうではありません。教委改革が断行され、地方教育行政も首長が管轄下に治めるようになったのですから、首長は教育のトップとして、その言動に配慮する義務を負わなければなりません。
 即ち、個人としての見解だという言い訳は通用せず、西宮市の学校教育における公式見解として、中学生が、授業を抜け出すこと、部屋の鍵を盗み合鍵を作ること、喫煙をすることに肯定的な見方を示したということになるのです。西宮市の中学生が、同じような行動して発見されたとき、「市長さんは、学校のいろいろなことを決める人でしょう。その人と同じことをしたのに、いけないんですか」と屁理屈を言うチャンスを与えたのです。
 さらに、タバコ発言への非難に対し、キレイゴトと批判したことは、教員が、「授業はきちんと受けましょう」「たばこを吸ってはいけません」「ものを盗むのはいけないことです」という指導をする際、「先生、そんなキレイゴト言っちゃいけないんだよ」と揶揄する権利を認めたことになるのです。こうした行為が、現場での指導をどれだけ難しくするか、考えたことがあるのでしょうか。
 そもそも、未成年者の喫煙や窃盗、無断での合鍵作成はいじれも法に抵触する犯罪行為です。法治国家の我が国で、公教育の場で、犯罪行為をしないように指導することがキレイゴトだという発想が理解できません。子供扱い、という主張にも、あえて中学生は子供なのだと言いたいと思います。そして学校教育は、ある意味世間とは離れていても愚直に正論を叩き込むところに存在価値があるのです。学校でのキレイゴトと実社会での「汚れた現実」の間で悩み葛藤することで、子供は健全に成長していくのです。学校も世間もキレイゴトなしでは、まともな人間に育ちません。
 今村氏のように、教育行政を司るという自覚のない首長が多いのであれば、そして安易な気持ちで、その場の受け狙いのような感覚で失言を繰り返すのであれば、教委改革について、数年後には再評価することが必要になるのではないでしょうか。
 女教師云々については、今村氏も後日訂正したようなので、ここではふれません。

 

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私なりのチェックリスト

2016-12-24 07:04:59 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「自覚することの難しさ」12月19日
 『運転時認知症外に気づいて』という見出しの記事が掲載されました。高齢者による交通事故が続けざまに報じられる中、自分の運転技能を自覚することが大切であると訴える記事です。その中に、『交差点で右折しようとしていたら、追突されたことが2度もあるー。被害を受けた事例に思えるが、NPO法人高齢者安全運転支援研究会事務局長の平塚雅之さんは「認知機能が落ちてきた高齢運転者には、右折のタイミングが計りにくくなる人が目立つ」と指摘する。曲がりかけてから対向車や歩行者を見つけ、急停止するためだ。本人は「安全のため止まったのに」と考えていることが多い』という記述がありました。
 自分は悪くない、自分は正しい行動をしているのに、と考え、自分に原因があるとは考えようとしないという点が、「指導力不足教員」に似ていると感じました。この追突された高齢運転者に対して、「あなたの認知機能には問題がある」と指摘しても、「そんなことはない。自分はきちんと対向車を認識してブレーキを掛けている」と反論するのでしょう。私も教委勤務時代に担当していた「指導力不足教員」研修の受講者たちを相手に同じ経験をしてきました。
 「子供たちはあなたの説明を理解していませんでしたね」と指摘すれば、「私はきちんと説明しました。子供たちがきちんと聞いていなかったのです」と反論します。「あなたがプリントを配っても、子供たちはどうしていいか分からずボーッとしてました。事前に指示がなされていなかったからです」と言えば、「プリントには設問が書かれているのですから、それを読めば何をすべきか分かるはずです。読もうとしない子供がおかしいのです」と言い返してきます。
 「指導力不足教員」は、もちろん認知症という病気を患っているわけではありません。しかし、不都合な現実を目にしても、決してそれを自分の責任、自分に原因があるとは思わずに、相手、即ち子供が悪いと考える構造は同じなのです。そしてもう一つ共通点があります。それは、今までは上手くやってきたという主張です。
 高齢者運転者が若いころから事故を起こしてきたわけではないように、「指導力不足教員」も教員生活の全ての時期に問題を起こしてきたわけではありません。そのことをもって、私は指導力不足ではないというのですが、多くの場合、出来のよい子供に助けられていたり、特殊な条件、例えば健康学園での小規模学級、通常4~6人くらいの児童を相手にしていたのでボロが出にくかった、というような背景があるのです。
 記事には、『運転時認知症外早期発見チェックリスト』15項目が示され、3つ以上該当は要注意、と記されていました。マニュアル化することができない授業について、うまくいかないという指導力不足は、こんなチェックリストが作れるほど単純なものではありませんが、教員は自分なりの指導力チェックリストを作り日々点検を怠らない配慮が必要だと思います。

 

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○○派教員

2016-12-23 07:45:20 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「私は○○派」12月18日
 放送タレント松尾貴史氏が、『「演技派俳優」という肩書 「調理派料理人」とは言わないなあ』という表題でコラムを書かれていました。読んで字の如く、『(演技派俳優)の呼称にはどういう意味があるのだろうか。演技派でない役者は、「演技をしないほう」なのか。俳優の前に「演技派」とつけるのに、どのような意味があるのか知りたい。きっとなにかとの差別化を図っているのだろう』と、こうしたおかしな故障に疑問を呈し、描画派画家、医療派医師、撮影派カメラマン、行政派官僚、月給派サラリーマンなどの例を挙げ、おちょくっています。
 もちろん、演技派俳優のイメージを知った上での批判なのですが、もう少し突っ込んで考えてみると、こんなおかしな呼称にも、それなりの効能があるような気がしてきました。医療派医師に学内遊泳医師を対峙させれば、大学病院で出世ばかり考えている医療ドラマの中の医師が浮かびますし、行政派官僚に政治派官僚を対峙させれば、政策の正当性よりも議員の先生方の反応ばかり気にしている官僚像が浮かびます。
 つまり、「○○派~」という表現をとることにより、同じ職や立場にある者の中に存在する様々なタイプをあぶり出すことができるというわけです。では、教員の場合はどうでしょうか。
 真っ先に浮かぶのが「部活派教員」です。授業はおざなりでも、部活になると情熱的に指導に当たり、そこに教員としての自己の存在価値を見出しているようなイメージです。たくさんいます。全国大会出場というような華々しい成績を残すと、校長や教委もその実績の前に強いことが言えず、特例で同一校に10年以上も勤務して、影の実力者になったりすることもあります。
 次は、「研究派教員」です。午後は校外の研究会に出席するために不在なことが多く、研究団体の幹事等を務め、在校時にも研究団体の仕事をしていることが少なくありません。研究団体内では、熱心な先生、有能な先生という評価を得ている反面、校内では不在が多いために校務のしわ寄せを受けている同僚からよく思われていません。
 また、「団体派教員」もいます。職員団体に所属し、いわゆる「組合活動」に熱心な教員です。職員室の各教員の机にビラを置いたり、職員会議では支部からの指示通りに校長に反対意見を述べたり、職場会の前にはやけに張り切って声掛けをしたり、動員の割り振りをしたり、校長や教委との「交渉」で声を荒げたりしています。よほどのことがない限りネクタイやスーツは着用しないという特徴もあります。
 近年は減りつつありますが、「事故対応派教員」も生き残っています。深夜徘徊、喫煙や飲酒、万引きにシンナー、不純異性交遊や他校との抗争、暴力団や暴走族とのつながり、など様々な問題行動を起こす生徒がいると、勤務時間は関係なしに警察や児相、関係機関などを飛び回り、自腹を切って飯を食わせて説教するという、一番ドラマに向いている教員です。だいたいが生活指導主幹です。
 校種によっては、もっとたくさんいそうです。でも、本来ならば最も多数派でなければならない「授業派教員」となると、学校の実態を知らない方にうまく説明することができません。不思議なものです。

 

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「休み」が問題ではない

2016-12-22 08:25:53 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「休みの有無よりも」12月16日
 『部活休み「設定なし」2割 中学・全国調査 教員の負担減進まず』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『部活動の休養日を設けていない中学校が2割以上あり、原則としてすべての教員が部活動の顧問をしている中学が9割近くに達する』のだそうです。新聞は、記事の見出しだけを読んだり、見出しから内容を推測して興味のある記事だけ読む人もいることでしょう。見出しはそれだけ重要なのです。
 では、この記事の見出しを読んだ人は、どのような受け取り方をするでしょうか。おそらく、休養日未設定問題が印象付けられるはずです。しかし私は、休養日の問題よりも、全ての教員に顧問を義務付けている学校が9割という事実の方が問題だと考えています。
 まず、教員の負担という側面から考えてみます。人は好きなこと、得意なことをしているときにはストレスはあまり感じません。これを部活に当てはめれば、学生時代に経験がある種目を担当している教員は、ストレスを感じないでしょうし、負担感も少ないはずなのです。一方、全く経験のない種目を担当させられた教員の負担は、そうではない教員に比べて大きなものになるはずです。教員の負担感問題は、物理的な時間だけで考えてはなりません。
 また、物理的な時間面からみても、経験のある種目の指導であれば、短い時間で計画を立てることができますし、指導の準備に費やす時間も少なくて済みます。実際の指導もスムーズに進むことが多いでしょうから、そこでも時間を無駄にしないで済むことになります。つまり負担感は少なくなるはずです。経験のない教員はその逆です。
 今度は別の視点で見てみます。それは、教員と生徒の信頼関係という側面です。去年まではバスケットボールの経験がある教員の指導を受けていた生徒は、今年顧問になったバスケットボール経験のない教員に対して、物足りなさや不満をもつことが考えられます。それは、部活での不満にとどまらず、授業や生活指導、学級経営などあらゆる指導場面で、その教員に対する信頼や尊敬の欠如という形で顕れる可能性が高いですし、バスケットボール部以外の生徒に伝播していくこともあり得ます。そうなれば、学校の教育活動全体に悪影響が及ぶのです。
 教員と校長との関係からも考えてみる必要があります。経験のない種目の担当顧問を「押し付け」られた教員は校長の決定に不満をもちます。運動系ではない「楽な部活の顧問」、経験のある種目の部活の顧問をしている同僚教員に比べて、自分は不当な苦労を背負い込まされているという思いをもつのです。しかも実際には、こうした立場に立つ教員は、全体の中では少数派になります。それだけに運が悪い、という思いを捨てきれません。しかも運動系の部活は、県大会出場とか地区大会優勝というように「成果」が明確に表れます。本来であるならば部活の教育的価値は勝敗だけではなく、そこでの経験がどのように生徒の成長に寄与したかということで測られるべきなのですが、教員仲間も保護者も、そして生徒もそうは思ってくれません。「押し付け」られて貧乏くじを引いたのに、そしてそれなりに一生懸命やったのに、「去年は地区優勝したのに今年は1回戦負け」という冷たい視線に耐えなければならないのです。
 教員としての実績や能力に自信をもっていた教員ほど、自分をこんな目に追い込んだのは、あの校長だ、という思いを抱きやすいですし、それが学校という組織にとってよくない影響をもたらすことは確実です。
 部活は、『生徒の自主的、自発的な参加により行われる』と定められています。しかしそれは、生徒がやりたいと訴えてきた部活は必ず設置しなければならないということを意味するものではありません。あくまでも校長の判断なのです。我が国では、一時期、子供を顧客と見なし、その上で「お客様は神様です」的な顧客のニーズに答えることが最も大切というサービス業の論理が意識されるようになりました。今でも当時に意識を引きづっているからこそ、生徒が望む部活は何としても設置しなければ、という考えに陥りやすいのです。
 校長はもっと多面的に部活の設置と顧問の配置について考え、教委もそれを後押ししてほしいものです。

 

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