ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

結果が正しければ

2020-04-30 08:05:11 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「正しさとは別の価値」4月21日
 前回と同じ『仲人さんはAI』という見出しの特集記事についてです。同じ記事の違う部分を取り上げるのは異例ですが、どうしても気になりました。それは、『白河桃子特任教授は、自らのセミナーに出席した女子学生が「結婚相手はAIに決めてもらいたい」と話したのを覚えている(略)通販サイトでは常に「おすすめ」が表示される。白河さんは「若い世代は「答え」を出してもらうのに慣れていて、AIは総合的に判断してくれると信頼を感じている。結婚相手も決めてほしいと思っても何ら不思議はない」とみる』という記述です。
 そしてこの記述に続いて、東大名誉教授月尾嘉男氏の『全人類の知恵をかき集めたとしても、AIにかなわなくなる時代は必ず来る』という見解が示されているのです。つまり、結婚相手を自分の感情や思いによって決めるよりも、AIに決めてもらった方が幸せになる確率が高い時代が来るということです。そして、「あなたのことが好きだけど、AIによると結婚相手は○○さんのほうがよいということなので、プロポーズはお断りします」という事態が現実のものになるのです。
 あれ、違うか。男性も女性もAIを活用して伴侶を決めるのですから、食い違いは起こらないということになるのです。告白してフラれるなどということはなくなり、念のためAIの御託宣を確認するだけになるのです。
 まあ、味気ない話ですが、個人の恋愛に口を出す気はありません。私が懸念するのは、こうした「AI依存」が進行したとき、民主主義はどうなるのか、ということです。具体的に言えば、主権者が意思表示する機会である選挙のときに、AIが「人類の英知を超えた賢い判断」を示してくれるということになれば、国民はその指示に従って投票すれば、最も良い政治が実現するということになる理屈です。そうであるならば、未熟な人間があれこれ考えるのは無駄だということになります。当然、主権者教育など無用の長物となります。
 私は、公教育の役割は、少なくとも我が国においては、民主的で平和な社会の形成者を育てることにあると考えています。社会科はもちろん、科学的な推論・思考力を培う数学や理科も、あらゆる思考・判断の基盤となる言語力を培う国語も、多様な見方・考え方に触れることに役立つ外国語も、芸術的な直感や閃きに触れる美術や音楽も、全て最終的には、民主的で平和な社会の形成者としての個人を育てることに有益だから教育内容として設けられているのだと考えています。教科以外の「教育課題」と言われる、環境教育も福祉教育も異文化理解教育も、伝統文化理解教育も人権教育も平和教育も、すべて同じ線上にあります。
 でも、主権者としての思考・判断が無用となる社会では、教育そのものの意味や価値が変わってきてしまうと考えるのです。民主主義は、常に正しい結果をもたらすとは限りません。ヒトラーを支持したのも、大政翼賛会を認めたのも国民でした。現代でも、平気でうそをつく大統領を選んだのは民主主義の制度です。民主主義は間違うのです。
 また、民主主義は意思決定に時間がかかる制度です。我が国でも、コロナウイルス感染対策に時間がかかっていることを非難する声が大きくなっています。民主主義の欠点を指摘する声が、民主主義の否定につながり、従来であればそれでも独裁制は問題があるというブレーキが利いていたものを、独裁者ではなくAIに委ねるということになってしまうのではないか、という懸念が捨てきれないのです。
 もちろん、今すぐにということはないでしょう。しかし、若い世代が、AIを信頼するという傾向がさらに強まれば、というよりも強まっていくのは確実な情勢の中で、決定の速さや結果の正しさだけで、政治を評価するという考え方を改めなければならないのではないでしょうか。
 AI時代の主権者教育は、結果重視からプロセス重視という変換を遂げる必要があるように思います。「政治は結果責任」という言葉が好きな安倍首相には悪いですが。

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バケモノの時代から嫉妬の時代へ

2020-04-29 08:24:12 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「はしたない」4月22日
 『働き方改革議論 地域の人も』という見出しの記事が掲載されました。過重労働を告発する高校教師西村祐二氏へのインタビュー記事です。西村氏の指摘は的を射たもので、ぜひ多くの人に読んでいただきたいと思いました。それとは別に私は、記事を書かれた東海林智記者の文末の一言が気になりました。『「教員に労働時間はないんです」。ある教育長に教員の長時間労働を指摘すると平然とこう答えた。尊い仕事をしているとの自負の裏返しであろうが、強烈な違和感を覚えた』。
 この教育長のような感覚を抱き続けている年配者は少なくありません。日教組等の運動が盛んだった時代、こうした運動に反対する人たちの中には、感情的な反発がありました。それは教員が、「もっとカネをよこせ、もっと楽させろ」と要求することを、人を教え導き手本となるべき教員がそんな自分のことばかり要求するなんてはしたない、慎みがない、と眉を顰めるというものでした。
 実際、私が教員になった40年前、当時の学年主任は「子供と親に喜んでもらえるなら給料なんかなくても教員を続ける」と口にしていたものでした。仙人ではあるまいし、と心の中ではバカなことを言うと思っていた私ですが、それでも真っ向から否定はできず適当に頷きかえしていました。まだ、そんな考え方が色濃く残っていたのです。
 その学校では、休日も学校に来て子供のためのプリントを作り、子供を校庭に集めて一緒に遊ぶ、そんな教員がたくさんいました。そして、熱心な良い先生という評判を得ていました。こんな環境で教員としてのスタートを切った者の中から「優秀」な人は、管理職になったり、教委の幹部になったりしていきました。東京都の場合、区市の教育長というのは、教員経験者にとって登り詰めたポストとなります。1000人に1人いるかいないかのエリートなのです。
 そんな彼らは、民間企業で言えば昭和の猛烈サラリーマンで、年休も取らず毎日警備主事から「もう帰ってください」と言われるまで仕事をしても、体も壊さず、家族から不満を言われることもなかった「バケモノ」なのです。以前もこのブログに書いたことですが、指導力不足教員の業績評価をする会議の際に、こうした「バケモノ」の一人が、「40代の男なのに、11日も年休を取っているなんて、ダメだよ」という趣旨の発言をしたことがあります。40代ともなれば若い頃のような体力はありません。調子の悪いときは早めに休み体調を整える方が本人にも周囲にも良い選択だというような常識は通じないのです。男であれば、家のことは家族がやるのが当然で本人は仕事に邁進すべきという偏った感覚でもあります。そして、11日ということは20日以上も年休を残している、権利を放棄して職務を遂行しているのですが、そもそも年休を取得すること自体が悪という認識なのです。
 私が言う「バケモノ」は、現在、80代半ばから90代の方々です。もちろん、今の学校現場にいる現職の教員たちとは接点のない方々です。しかし、彼らが残した空気の様なものは長い間学校という空間に漂い、残り続けました。東海林記者が違和感を覚えた教育長は、そんな空気に「汚染」された一人だったのではないかと思います。
 当時のような空気はさすがになくなりましたが、現代は長引く低成長下、公立学校の教員の「恵まれた労働環境」が嫉視されるようになり、別の意味で真っ当な労働環境を要求することに風当たりが強くなっています。しかし、教職は、子供という生の人間と接する職です。教員が穏やかな精神状況を保てずにいることは、子供にとって劣悪な教育環境を作ってしまうことなのだという認識の下、教員が人らしく生きることができる環境整備が必要なのです。

 

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「傾向」があるのが当然

2020-04-28 08:06:08 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「多様な人材」4月21日
 『仲人さんはAI』という見出しの特集記事が掲載されました。AIが婚活支援をしたり、就活で面接を行ったりするようになっているという記事です。私には、AIにそんな人生の大事を…という感覚がありますが、そのことは置いておきます。今回気になったのは、『従来型の面接は、同じタイプの人が合格することが多かった。AIなら会社の将来像に合わせた人材を採用できる』という記述です。
 人間が行う面接では、どうしても面接官の好みや価値観、感覚といったものが影響を及ぼし、結果として同じタイプばかりになってしまい、組織の活性化にマイナスであるということでしょう。よく分かります。
 私は教委勤務中に、数多くの面接を経験してきました。新規採用教員の面接、主幹候補の合否面接、臨時講師の採用面接などです。また、大人ではなく生徒を対象としたエンカレッジスクールの入試面接や海外ホームステイの候補者面接を行ったこともあります。さらに、面接とは違いますが、教員研究生の論文試験の採点を行ったこともあります。もちろん、いずれの場合も文書化された基準というものがありましたし、客観性を意識して望みましたが、無意識のうちに私なりの偏りが生じていたことは間違いありません。
 そのことを反省しているのではありません。人間なのですから当然のことです。その限界を認識しながらそれでも客観性を実現するため努力した、それで仕方がないのです。私が引っかかるのは、「同じタイプ」を選ぶことはダメなのか、ということです。他の職でもそうだと思いますが、教職には教職の適性というものがあると考えます。
 人生は戦いであるとか、出世こそ自分の存在価値を証明するとかいった考え方をもつ者は相応しくないと考えています。金と名声こそ究極の目標だ、という人も考えものです。自分のしたいことをしたいときにしたいやり方でやるというような信条の人も困ります。かといって、上司が言えば法に違反していても忠実にやる遂げるべきというようなタイプも問題大です。何事もコストパフォーマンス優先というのも教育という営みには相応しくないように思います。
 つまり、教員に相応しいものを選ぶというとき、ある程度「同じタイプ」が集まるのは当然であり、自然なことなのではないか、という気がしてしまうのです。それは、主幹選考でも、管理職選考でも同じです。
 従来の常識にとらわれない、周囲の同調圧力に屈しない、自分と異なる意見を柔軟に取り入れるなどの特徴を備えた志願者が望ましいとするなら、そんな項目は既に普通のこととなっています。
 私も、自分と異なる意見を柔軟に取り入れるという点は自信がありませんが、従来の常識にとらわれず、同調圧力に屈しない変わり者と言われ続けて、教員採用面接も、教育研究員面接も、指導主事任用面接も、管理職昇任面接も、指導室長登用面接も切り抜けてきました。でも、根っからの行政系の幹部からは、「○○さんはやっぱり教員出身だね」と言われ続けてきました。何かが違うらしいのです。そしてもちろん私の方も、行政系の人たちには違うものを感じていました。
 山本周五郎氏の小説に、旗本が権現様(家康)の言葉をつぶやく場面が出てきます。「武士は武士臭くあるのがよい」という言葉です。教員は教員臭がするくらいの人がよいのだとすれば、採用時にもある一定の傾向があるのは当然という気がするのですが。

 

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見抜く目

2020-04-27 07:53:30 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「厳しくするには」4月19日
 『抜き打ち可能に設置許可取り消しも』という見出しの記事が掲載されました。『原発を検査するのに、新しい制度が始まった』ことを報じる記事です。具体的には、『規制庁は今まで、事前に検査の期間や項目を電力会社などに教えていた』のが、『検査官が、原発などの施設内にいつでも立ち入ることができ、保管されている書類も自由に閲覧できるようになりました。検査結果を5段階で評価し、結果次第では原発の設置許可を取り消せます』となったということです。
 私は、原発を廃止すべきという立場ですが、そうした意見とは関係なく、気になる記述がありました。より厳しくなったのかという疑問に対し、『必ずしもそうとは言えません。検査官は運転状況を常に確認できるようになりましたが、トラブルにつながりかねない状況に気付く必要があります。項目に頼らない分、検査官の知識や問題意識、感覚が試されるのです』と書かれていたのがそれです。
 ある組織の問題点や課題を明らかにするには、第三者の目が必要になります。しかし、中立的な第三者であればよいのかと言えば、そんな簡単なものではないのです。先の記述には、第三者が、検査や調査を受ける組織の仕組みや具体的な職務遂行の実態、働く人の意識や職場の文化風土、そうしたものに通暁していなければ、検査や調査は的外れなものに終わったり、表面的、形式的なものでしかなくなってしまうという、教訓が含まれているのです。
 私の指導室長時代、指導室訪問では、訪問した学校の校長室で、全教員の週案簿を点検することになっていました。週案簿とは、その1週間に当該教員が行う全ての授業についての単元名や狙い等が書かれたものです。基本的な形式は決められており、指導室訪問があるとあらかじめ分かっている(学校が希望を教委に提出する)のですから、ぼろがでないように書かれているのが普通です。ですから、何も知らない第三者が見れば、「ああ、きちんとしていますね」で終わってしまいます。
 しかし、私の目から見ると、一人一人の教員の力量や授業に臨む態度、授業観などはすぐに分かってしまいます。そこで「要注意教員候補」がインプットされます。そしてそのことを基に、校長や副校長と雑談っぽく教員の話題に触れます。その内容と話しっぷりで、先ほどの「要注意教員候補」から何人かが抜けていきます。そして、校内巡視です。
 校内巡視では、授業中の各教室を一教室1分間程度で回っていきます。これで、教員の授業力におおよその検討が付きます。小学校であれば、学級経営能力も推し量ることができます。もちろん、言葉にすればいくつかの観察の視点や基準があるのですが、その場の雰囲気、子供と教員が醸し出す空気感のようなものが重要な情報となります。指導主事、統括指導主事として、多くの指導力不足教員と接し、その授業を見てきた経験がもたらす「暗黙知」が働くのです。
 これが素人であれば、そうはいきません。実際、行政職から転じたばかりの校長が、「○○先生は子供に聞こえるように大きな声で話していた」と満足気に評価するのを目にしたことがあります。教員の授業中の声が大きいのはよいことではなく、子供が騒がしくそれを抑えることができないため、だんだんと声が大きくなってしまうというケースが多く、むしろ指導力不足が疑われる兆候なのですが、素人校長には分からなかったようです。
 学校教育にも、外部の中立的な第三者の目が必要だと言われています。その通りです。そうした存在が、学校の常識は世間の非常識、と言われる状況を正すのに役立つのですが、一方で正しい評価のためには、玄人の目が必要であることも忘れてはなりません。この2つを車の両輪のようにうまく使っていくことが大切なのです。

 

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怖くて言えないけれど

2020-04-26 08:29:01 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「最近は言われないけど」4月18日
 書評欄に、大竹文雄氏による、『「義理と人情の経済学」山村英司著(東洋経済新報社)』の書評が掲載されました。その中に、『男性や女性の価値観も育った環境に影響される。小学校1年生の時の担任が女性だった男性は、大人になってから企業の社会的投資を重視するようになる』という記述がありました。
 この記述が事実なのか、社会科学という学問におけるエビデンスのある説なのか、私には分かりません。ただ、この説の是非とは別に、こうした主張を耳にすることが絶えて久しいことに気付いたのです。
 性別や民族、国籍などで人を判断するのは差別につながるということは常識となっています。もちろん、それは「公」にはということであり、実際には、「女は~」「韓国人は~」というような見方をする人が少なくないことは知っています。しかし、少なくとも一定の知性があると見なされる人、あるいはそう見られたい人は、そんな露骨な本音を公的な場で口にすることは憚られるというのは、共通の認識でしょう。
 私も根強い差別感情を持て余している人間です。しかし、このブログを含め、「女は~」「韓国人は~」的な十把一絡げの発言は避けてきています。確かに、1000人単位で統計を取れば、男女で有意な差がみられることはありますが、それはあくまでも統計上に現れる違いであり、Aという女性とBという男性を比較して違いがあるはずだということではないことは踏まえているつもりです。実際、身長165cmの私よりも背の高い女性はたくさんいますし、運動会の徒競走で毎年ビリだった私よりも足の速い女性も相当数いるはずですから。
 だからこそ、女性の担任云々という記述に注目させられたのです。今、様々な教育改革が議論される中で、「~だから女性教員を増やそう」とか「~だから男女は別学にしよう」というような提言がなされることはありません。そんなことを口にする輩は、時代遅れの差別主義者という烙印を押されてしまいかねないからです。私もそうした烙印を押す側の人間です。
 しかし、純粋に科学的な知見、偏見を排した公正な統計などに基づいての提案であれば、従来タブーとされてきたような事柄であっても、まじめに検討するという姿勢は、改革論議に深みを与えるような気がします。例えば、………怖くて書けませんが。

 

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嫉妬深いが執念深くはない

2020-04-25 08:28:56 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「責任の有無」4月17日
 『コロナ感染=謝罪なの?』という見出しの記事が掲載されました。『新型コロナウイルスに感染した著名人や所属団体から相次ぐ「謝罪」の言葉。感染防止策を講じていた人も多い。それでも謝罪すべきことなのか』という問題意識に基づいて構成された記事です。
 記事の中で危機管理コンサルタント白井邦芳氏は、『クラスターの発生源となった集いに参加していたり、よほど対策をしていなかったりしたら謝罪すべきでしょうが、指定感染症に感染したことは罪ではなく、謝ることではありません』と述べていらっしゃいます。難しい問題です。白井氏の御意見もよく分かるのですが、私自身はそんなにすっきりとも割り切れないのが現状です。
 白井氏のお考えを私なりに解釈させていただくと、いくら注意していても感染症に感染してしまうことはあり得る→したがって、感染したことは本人の責任ではない→自分の責任ではないことについて謝罪する必要はない→ただし、通常大多数の人が採るであろうと思われる対策を怠る(クラスターの発生源となった集いに参加)などした場合は責任を果たしていないとされ、謝罪が必要になるという論理構成だと思われます。つまり、謝罪の必要性は責任の有無によるということになります。
 私はさまざまな謝罪をし、また他者の謝罪の現場に立ち会ってきました。いくつかを振り返ってみたいと思います。
 教員時代、新たに異動した学校で、担任していた男児が家出し行方不明になりました。まだ、4月の新年度が始まって1週間もたたない時期でした。当然、一人一人の子供のことなど理解できていません。前担任は異動で他校に移っていました。その男児は、家庭環境に恵まれず、問題行動を繰り返していたのでしたが、その実態は知りませんでした。幸い、数日で発見されましたが、職員会議で「皆さんに大変ご心配とご迷惑をおかけしました」と口にするとき、内心、「これって俺の責任?問題児を何も知らない自分に押し付けたんじゃないの」という気がしたのは事実でした。
  指導主事になって数年たったとき、ある中学校の男性教員が、他校の女子中学生にカネを払いホテルで淫行を重ねていたことが明らかになり、警察に逮捕されるという事件が起こりました。スポーツ紙には被害者の女子生徒の供述に基づく、一部始終が掲載され、「中学教師、ホテルで授業」というような見出しで注目を集めました。その教員は、私も研修会を通して知っていた教員でしたが、ごく普通の教員でした。校長は都教委に呼び出され謝罪しました。しかし、勤務時間内のことではなく、夜間や休日に所属の教員が何をしているか、校長が把握するのは現実問題として不可能です。私自身、その教員のそうした行動を予想だに出来なかったことを含め、正直、校長は運が悪かったな、と思いました。
 指導室長になってから、教員が行方不明になるという事案に直面しました。夏季休業中に有給休暇を取得し、校長に行き先を告げて出かけた外国の山で遭難してしまったのです。今までもたびたび登山に出掛け、何のトラブルもなく帰国していたのですが、初めてのトラブルで帰らぬ人となってしまいました。学校は新たな担任を決めるなどその対策に追われ、校長は臨時全校保護者会で謝罪しました。手続きに問題はなく、あくまでも事故です。私も校長も、その後始末に追われ、多忙な日々を過ごしました。このときも、校長は運が悪かったな、と感じたものでした。
 しかし、いずれの場合でも、謝罪しなければ、もっと自体は紛糾し、その事後処理にはより多くの時間と労力を要したでしょう。つまり、世間知として謝罪した面が大きいのです。
 かつて、欧米では、トラブルに直面したとき決して謝らない、謝ったら自分の責任を認めたことになり、何らかの賠償を求められてしまうからだ、という話がまことしやかに伝えられていました。近年では、必ずしもそうではないということが分かってきましたが、こうした話を耳にするにつけ、謝罪=誠意という価値観の我が国の文化との違いを意識させられたものでした。
 白井氏の考えを理解できても、諸手を挙げて賛成できない気分が残るのは、私がこうした文化にどっぷりと染まっているからなのでしょう。しかし、校長が謝罪し、校長が責められ、それで鬱憤ばらしをしガス抜きをして、解決したことにし、根本的な体質や制度の問題には手を付けずに幕引き、という悪習を考えると、謝罪はしないという対応の仕方を深く掘り下げて検討する価値はあるように思います。

 

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北風を強めても

2020-04-24 08:07:25 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「自然な考え方」4月16日
 『外国人収容者に刑事罰?』という見出しの記事が掲載されました。『入管の過酷な収容実態が国内外の非難を浴びている』ことを指摘し、それにもかかわらず法務省が、『さまざまな事情で送還を拒む外国人の人権回復の道を探るどころか、新たな罰則の創設に向けて議論を進める』姿勢でいることを非難する記事です。
 不勉強な私は初めて知りましたが、『過去10年ほどのデータを見ても、概算で95%以上が退去処分を受け入れて帰国しています』のだそうです。私は帰国を拒否する外国人はもっと多いのかと思っていました。お恥ずかしい限りです。
 この事実を踏まえて、記事の中に、『一般的に、ある政策が実施率9割を上回り、わずか数%の人だけがどうしても受け入れない場合、「制度的な強制力が足りないから達成できない」と考えるよりも、残りの人たちに例外的な事情があるのではと考える方がむしろ自然だ』という記述がありました。個々の外国人の事情に配慮せよということです。
 私は、入管制度の是非とは離れて、この考え方自体について、なるほどと思う反面、そうなのかなという気もしました。例えば、体罰の問題です。体罰は学校教育法第11条によって明確に禁止されています。しかし、毎年、多くの事例が報告されます。とはいえ、体罰をして処分を受ける教員は、全体の1%をはるかに下回ります。先ほど紹介した記事の考え方によれば、体罰をなくすためには規定の強制力を強める、つまり罰を重くするなどの対策を取るよりも、体罰をしてしまう個々の教員に何か特別な「条件」があるのではないかと考え対策を練る方が有効だということになります。
 このブログで何回も述べてきたことですが、私は教委勤務中に「服務事故再発防止研修」と「指導力不足教員研修」を担当していました。そこで多くの体罰で処分を受けた教員に接してきました。彼らの多くは、実は指導力不足でした。指導力がないため子供が言うことを聞かない、それでも言うことを聞かせようとして暴力に頼るという形で体罰をしてしまうという図式が見られました。
 指導力が低いまま、いくら体罰はいけないと言い聞かせ、次に体罰をしたらもっと重い処分になると脅して、現場に戻しても、授業中に私語する子供、指示を無視して勝手なことをする子供に言うことを聞かせる手段をもたないままであれば、いつかまた体罰に依存するようになってしまうのです。
 ですから、体罰をなくすためには、体罰をしていまった教員一人一人の実態に応じて、指導力を向上させることが、「急がば回れ」、遠回りのようでも実は最も有効な手段となるケースが多いのです。こう考えると、「9割を上回れば~」という考え方は正しいように思えます。
 では、いじめ問題はどうでしょうか。いじめは数多く発生していますが、不登校や自殺等に結びつく重篤ないじめに限れば、加害者となる子供も、有効な対策が打てずに事態を悪化させてしまう教員も、数%です。彼らを罰するという形でいじめ防止策とするのか、個々の加害者の心の問題に対応したり、適切に対応できない教員に個別に研修等を課し対応力を高めていくという、一見すると手緩いが「急がば回れ」策を採るのか。これも後者が正しいように思えます。実は学校教育には、この数%と9割超という対比の中で考えなければならない問題がたくさんあります。強い規制をかけるやり方は、世間的なウケはいいのですが、単なる打ち上げ花火的な効果しかないことが多いものです。このことを忘れないようにしたいものです。

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差別はしない方が得です

2020-04-23 08:15:40 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「差別の歴史」4月16日
 立教大学名誉教授渡辺憲司氏が、『休校中 今こそやさしさを』という表題でコラムを書かれていました。その中で渡辺氏は、『世界中でコロナ感染者に対する差別が拡散している。学校現場にも、心無い差別の波動は訪れるに違いない。それに教師はいかに立ち向かうべきか』と問題提起をなさっています。
 たしかに、渡辺氏の危惧は的を射たものです。そして渡辺氏は、『差別と偏見の歴史を直視すること』を重視する姿勢を示していらっしゃいます。同感です。差別を許さず、人権を擁護するということは、全教育活動を通して行わなければならないことですが、やはりその中心になるのは社会科ということになるでしょう。あるいは、社会科的な内容に重点を置いて行われる「総合的な学習の時間」でしょうか。
 私は、この休校中に、各教委や学校が、差別と人権をテーマにした特設単元の構想と準備を進めることに取り組むべきだと思います。今、教委も学校も家庭訪問や自習用学習資料の作成、ネット授業の実施などに追われています。それはそれで大切なことですが、目の前の課題を乗り越えるという受動的な対応であることも確かです。そこに留まることなく、今回のコロナ禍を契機に、ピンチをチャンスにとまでは言いませんが、今まで不十分であった感染症に基づく差別に対する授業を創り上げるという前向きな取り組みに挑むべきだということです。幸か不幸か、休校によりその時間はあるはずです。
 グローバル化と環境破壊が進み、人類が未知のウイルスに遭遇する確率は高まっていると言われています。感染症と差別の問題に取り組むことはそうした意味でも最先端の課題なのです。
 ハンセン病、エイズ、東京電力福島第一原発事故による放射能汚染など、我が国においても学ぶ対象とすべき事例は数多くあります。もちろん、現在進行形のコロナ禍も生きた教材となります。また、中高生であれば、ペスト禍におけるユダヤ人差別など、諸外国の事例に学ぶことも考えられます。その際留意しなければならないのが、同情やスローガン的な反差別といった情緒的な内容に陥ることなく、科学的な知見に基づく学習とすることです。ここで言う科学的知見とは、感染学や放射線病などの自然科学だけではなく、デマやフェイクニュース、情報操作などに着目した危機時の群集心理やその影響など、社会学、経済学などの知見も含んでいます。
 つまり、危機時の差別は、結局社会と自分にとって大きな不利益をもたらすということに気づかせる、好きな言い方ではありませんが、功利主義的にも差別は割に合わないということを理解させる学習とすべきです。日本人の好きな精神主義ではなく。
 私も考えてみたいと思います。

 

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だから言ってきた

2020-04-22 08:23:10 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「だから言ってきた」4月15日
 専門編集委員与良正男氏が、『民主主義と想像力』という表題でコラムを書かれていました。その中で与良氏は、平気で人混みに出掛ける人たちについて、『自分が感染し、軽い症状で済んだとしても、他人にうつして死に至らしめたら…。そんな想像力を持てない人がいる』と書かれていました。
 そして、『一人一人が自発的に他者を大切にする「新しい公共」や、子供の頃から判断力を育てる「主権者教育」の必要性を訴えてきた』と、ご自身のこれまでの主張を再提起なさっています。
 私はこのブログで、与良氏が訴える「主権者教育」について、疑問を呈し続けてきました。与良氏は、生徒に自分たちの身近な問題について考えさせることを「主権者教育」の基本形として構想されています。私は、身近な問題について考えることを否定はしませんが、それでは「大きな問題」については、自分には関係のないことだと無関心に陥る危険性があると指摘してきたのです。
 原発再稼働、地球温暖化、無制限に拡大する財政赤字、広がる自国優先主義と排他主義、民主主義を否定し独裁の効率を評価する風潮などの「大きな問題」について考えていくことを重視しない限り、「難しいことは分からない、誰か偉い人が考えてくれるでしょう」という姿勢につながってしまうのです。それは、与良氏が嘆く「想像力のない人」に重なるのです。
 私は社会科指導を研究し、指導主事になってからも社会科について研究会で発表したり、教員を指導したりしてきました。その経験から、子供たちの社会科的な知識は、決して十分ではないことを感じ取ってきました。
 我が国が戦争へと突入していった時代にどのようなことがあったか、どの国の首脳も戦争を望まないのになぜ第一次世界大戦は拡大していったのか、もっとも民主的と言われるワイマール憲法下のドイツでなぜヒトラーは数ヶ月で独裁者になることができたのか、そんな歴史を知らないまま、「身近な問題」に取り組んでも、自分の行動が社会にどのような影響を及ぼすのか、想像する能力は育たないと考えているのです。
 そんな考えから、私は「主権者教育」とは、民主主義が壊されていく過程について理解し主権者としてのあり方を考えることが入り口をなるべきだと述べてきたのです。緊急事態宣言下でも、「スポーツ飲料飲んでいるから大丈夫っす」と口にする若者を見て、よりそうした思いを強くしたのです。

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それは教育の問題

2020-04-21 07:59:59 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「教育の問題です」4月15日
 『生活しやすい学校に』と題された記事が掲載されました。八王子市・初代スクールロイヤー木村真実氏へのインタビュー記事です。その中で木村氏は、次のように語っていらっしゃいます。
 『弁護士の立場から見て、組織としての今の学校現場はどのように見えるのでしょうか-いじめに関しては、「いじめ防止対策推進法」が制定されています。だが、法律的な規定があるにもかかわらず、学校現場には「法律よりも教育の問題」との雰囲気がまだあります。そのため、いじめに対する「評価」が、保護者らとずれてしまう。ここに問題が発生してくると感じます』と。
 法律家である木村氏は、おそらく言葉を厳格に使われる習慣をおもちだと推察します。だとすると、木村氏は、「いじめ」についてどのように定義して語っていらっしゃるのか、とても疑問を感じました。
 法による「いじめ」の定義は、心理的、物理的な影響を与える行為で、影響を受けた子供が心身の苦痛を感じているものです。この規定は、条文作成上、このようにしか表現できなかったのでこうした表現になっています。しかし、この条文を機械的にあてはめることは危険です。例えば、テストが返却され、Aが「やった、100点だ」と叫んだとします。Aを勉強上のライバルだと考えているBは98点、「Aに負けた」と口惜しさと自分のふがいなさへの怒りで泣きたい気持ちになります。
 Aの「やった、100点だ」と叫んだ行為が心理的な影響を与え、Bを苦しめているのです。いじめでしょうか。まさか、イエスと言う人はいないでしょう。わざと極端な例を出しましたが、学校という集団生活の場では、常にある個人の行為が他の個人に影響を与え続けています。その中の多くは意図しないものであったり、別の意図で行われるものです。もし、自分が相手を傷つけたり貶めたりする意図がなくとった行動で、相手が傷ついたと訴えてきたら、私はいじめの加害者だ、と黙って裁きを受ける気になるでしょうか。それは理不尽だということになるでしょう。
 こうした無数に起きる子供同士のトラブルや感情のもつれに、その場その場で対応していくのが教員の仕事です。いちいち法的に対処していたら学校教育は成り立ちません。私が指導主事をしていた25年ほど前、当時勤務していた区教委では、都内で一番早く「いじめ防止対策指導資料」という冊子を作りました。そこでは、「いじめの問題は、いじめられた児童・生徒の受けとめ方や立場に立ってとらえる」と明記し、被害者がいじめられたと感じたらいじめがあったという前提で対応することがうたわれています。当然の姿勢です。
 しかし、それはいじめの認定をし、その後の対応は法の定めに委ねるという発想ではありません。被害者の思いをくみ、その人権の保護を常に念頭に置き、加害者への指導に当たるとともに、被害者へのケアに務めるです。その際、いじめは絶対に許さないという強い覚悟を示すとともに、加害者が抱える心の闇についても解きほぐしていくことが必要であり、いじめという行為は否定しても加害者の存在そのものを否定するのではないことを伝えることも忘れてはなりません。もちろん、被害者と加害者を同席させて話を聞いたり、形式的に握手させて仲直りを演出したりというような行為は厳に慎まなければなりません。
 そのような対応を重ね、必要に応じて学年主任や生活指導主幹、管理職、スクールカウンセラー等の力を結集して指導しても、どうしても解決に至らず、被害者加害者のどちらか、あるいは双方から法的な措置を求められたとき、はじめて法的な対応が出番となるのです。こうした意識を、「教育の問題」と考えるとして、批判されるとなると、学校や教員は、何をすればよいのか、と思わざるを得ません。
 法はいじめを解決しません。いじめを認定し、加害者を罰するか被害者に慰謝料等の形で償うかという形で「決着」をつけるだけです。教育の場である学校で、そんな決着法が一般的になることが望ましいことであるとは思えません。法の出番は、教育的対応の後にあるのです。

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